戦死したはずの旦那様が、三日後に双子の妹と結婚するようです

「いつまで寝ているのよ!」

 頬に強烈な痛みが走り、強制的に意識が浮上する。
 い草の香りが鉄の匂いにかき消された。
 撫子はずきずきと熱を持つ頬を庇いながら起き上がり、声の主を見上げた。

「……百合」
「まさかお姉様がカフェーで働いていたなんてねぇ。華族としての誇りはないのかしら?」

 侮蔑を宿した目が撫子を睨む。
 だが撫子は目の前の百合よりも、連れてこられたこの場所を特定することに意識を向けた。
 見覚えのある小さな室内は芹沢家の座敷だ。
 家具も窓もないこの部屋は屋敷の一番奥にあり、目の前の廊下は常に女中や使用人が行き来している場所でもある。
 家出をした時は玄関の近くの物置が撫子の部屋だったお陰で見つからずに逃げ出すことができた。
 しかし、この座敷から誰にも見つからずに逃亡はできないだろう。

「華族としての誇りより、咲耶様の妻としての誇りの方が大事だったのよ」
「へぇ? でもその妻の座も、いまや私のものだけれどね?」

 にたにたと笑う百合に、撫子は口を噤んだ。
 着物の上から認識票を握ろうとして、首元にあるはずのそれがないことに気がつく。
 撫子がさぁっと顔を青褪めさせる。

(ない。咲耶様との、唯一の繋がりが……)

 ぎゅうっと着物の合わせを握りしめると、百合が顎を上に向けて笑った。
 どうやら百合は撫子が自身の言葉に絶望したと思っているようだ。

「うふふ、お姉様にはそういう顔がお似合いよ」

 百合が鼻でせせら笑う。
 しかし、撫子の耳には届いていなかった。

(百合に取り上げられた? いえ、そうだとしたら今、私に見せつけないのはおかしいわ)

 百合の性格上、撫子の物を取り上げれば得意げに見せつけてくる。今までもそうだったように。
 それが咲耶の認識票であればなおさらだ。

(なら落とすとしたら、カフェーか連れ去られる道中よね。もしカフェーで連れ去られた拍子に落としてしまったのなら……)

 ごくりと生唾を飲み込む。
 咲耶が中佐との話を終えて控え室に戻ってきたとき、撫子がいなければ捜索に出るだろう。

(そこに認識票が落ちていたら……?)

 拾われたかもしれないと想像した撫子の心臓が大きく脈を打つ。
 泡沫のように湧いたそれに、撫子は頭を振った。

(婚約者の妹と紹介された女が認識票を持っていたと知ったら咲耶様は……)

 浮かびかけた悪い想像に、撫子はそれ以上考えるのをやめて百合を見上げた。
 どうやら撫子の耳に入らなかっただけで好きなだけわめき散らしたらしく、百合の顔は真っ赤になっていた。

「いいこと? 私と咲耶様が結婚するまでここで大人しくしておいてよ」

 百合はふんっと身を翻して座敷から出て行った。
 廊下から百合の足音が聞こえなくなると、撫子はそっと立ち上がる。

(さて、ここからどう逃げ出そうかしら)

 このまま芹沢家に留まっていては、父が撫子にまた新たな婚姻を持ってくるだろう。
 その上、百合の名で嫁げと言うに違いない。

(あの頃は四十九日が過ぎ去れば別の誰かに嫁ぐことだって受け入れられると思っていたのに……)

 撫子は認識票があったはずの着物の合わせを握りしめる。

(駄目ね。やっぱり私は、咲耶様以外考えられないみたい)

 自嘲気味に笑みを浮かべた撫子は足音を立てぬよう忍び足で襖へと近寄った。
 静かに襖を小指の先ほど開ける。
 しばらく廊下を見ていると、女中や使用人たちが忙しなく通り過ぎていく頻度が段々と落ちてきた。
 襖の隙間から見える影の短さや日差しから、ちょうど昼時だろうと予測がつく。

(お父様や百合は居間で昼食を食べているでしょうから……逃げるなら今しかないわ)

 覚悟を決め、襖に添えた指先に力を入れたその時。
 廊下からどしどしと荒々しい足音が聞こえてきた。
 撫子は慌てて襖から離れ、遮る物すらない座敷の壁際へと戻る。
 座敷の前で足音が一瞬止まったかと思うと、襖がすぱんと開けられた。
 目尻を釣り上げた父がぎろりと撫子を睨む。

「ずいぶんと好き勝手してくれたな」
「お父様……」
「まったく。お前のせいで伯爵家へ嫁がせる計画がご破算だ」

 父の言葉に、撫子はため息交じりに答える。

「……勝手に逃げ出したことは、反省しております」
「ふん。殊勝なことだな。ようやく自分の立場を理解したか」

 ふんぞり返った父は鼻を鳴らしながら、撫子へと近づいてくる。

「伯爵家とは縁談を結べなかったが、代わりの嫁ぎ先はまだある。子爵か、侯爵、どちらでもいい。代わりはいくらでもある。ったく、縁談が決まるまでお前はここで大人しくしていろ。わかったな?」

 威圧するように胸を張る父の言葉尻と同じ言葉を最近聞いたなと、撫子は頭の隅で思い出した。
 記憶を失っても撫子の心に残り続ける男の顔を思い出し、くすりと笑う。

(本当、ずるい人だわ)

 彼の姿を思い浮かべるだけで勇気が湧いてくるのだから、恋は盲目とはよく言ったものだ。
 撫子は小さく息を吸って、言葉を舌に乗せる。

「お断りします。私の夫は生涯、咲耶様だけ。他の人の元へ嫁ぐことはいたしません」
「っ、撫子! 父親の言うことが聞けないのか!」

 父が手を振り上げた瞬間。

「そこまでだ」

 殺気を帯びた抑揚のない声が響き、父の影が突如としてひとりでに動き出し腕を捻り上げた。