「申し訳ありません、取り乱してしまって……」
カフェーの奥のこぢんまりとした控え室のソファーで、撫子は恥じるように縮こまる。
そして隣に座る咲耶に見えないよう視線を俯かせた。
「気にするな。よほど疲れていたんだろう」
優しい声色に、止まっていた涙がまた溢れそうになった。
手に握る手巾がくしゃりと歪む。
(どうしてこの人は放っておいてくれないの)
肩にかけられたままの軍服の端をぎゅっと掴む。
店長が淹れた珈琲に口をつけ、カップを丸卓に置く所作は上品で、昔と変わりない。
小さく息を吐いた咲耶は、気遣わしげに撫子へと顔を向ける。
「昨夜は色々あったからな。疲弊していてもおかしくはない」
「そう、ですね」
咲耶の言動に揺らいで泣いてしまったと口が裂けても言えず、撫子は曖昧に頷くしかない。
それに昨日の衝撃は確かに撫子の心を揺さぶっていたのだから。
「これまでもあのようにごろつきが家に?」
「いえ。昨夜が初めてです。家出して芹沢家の人に会うことはありませんでしたし、見つからないようにしていましたから」
「……俺が引き留めたせいだな」
「いえ。咲耶様のせいではありません!」
心底申し訳なさそうな声色に、撫子はがばりと顔を上げる。
金色の目がまん丸になり、少し目尻の赤くなった撫子を映した。
「いつかは見つかると思っていました。なので実家に帰らないといけない日が近づいただけです」
喪が明けぬまま政略結婚を推し進めようとしたことは、確かに撫子の神経を逆なでした。
だが、華族である撫子はいずれ咲耶ではない他の誰かと婚姻を結ばなければならなかったはずだ。
一度は華族であることを放棄したが、いつまでも芹沢家から目を背けてはいられないだろう。
百合に見つかったならなおさらだ。
「問題を先送りにして逃げていただけなんです、私。でももう意地を張るのは潮時かもしれません」
撫子が眉を下げて笑うと、咲耶が納得のいかない様子で腕を組んだ。
視線が絡んだままの金色がなんでも見透かしてしまいそうに細められる。
「それは本心か?」
「あ……」
「貴女のように芯の強い女性が逃げるほどの何かがあったんだろう?」
「っ」
反論しようとして言葉に詰まった。
それは図星だと自白しているようなものだ。
「俺でよければ力になろう。あなたを引き留め危険にさらしたお詫びだ」
「そんなことしても、私がどうして貴方様を知っているのか喋りませんよ」
「おっと残念」
少しふざけた口調で首を竦めた咲耶の仕草に、どちらからともなく吹き出した。
「ははっ! こうも俺の心を読まれてるとはな」
「それぐらい、誰だって分かります」
「いいや、俺の意図を正しくくみ取った女性は貴女が初めてだ」
屈託のない笑みを向けられ、撫子の心臓がどきりと跳ねる。
これまで見たことのない少年のような表情で、そわそわとどこか落ち着かない気持ちになってしまう。
(咲耶様ってこんな顔もするのね)
握ったままの手巾から手を放し、はしたないと思いつつも両手でもじもじと手遊びをする。
「褒めても何も出せないですよ」
「そうか」
くつくつと笑う咲耶の横顔に、撫子の頬に熱が籠もった。
(あぁもう、こんなんじゃ忘れられない)
再び湧き上がってしまった思慕に、ぎゅうっと胸が締め付けられる。
同時に、咲耶の帰還や百合の思惑を一年も知らなかった負い目が、心を蝕んだ。
もっと撫子がしっかりとしていれば、百合と対面したあの日に自分が撫子で妻だったのだと名乗り出ていれば、と後悔が浮かんでは消える。
彼の楽しそうな表情が眩しくて、撫子は思わず目を細めた。
「そうだ。みや嬢。今日も俺が家まで送っていこう」
「え?」
「昨日の今日だ。用心に越したことはない」
「それは……そうですけれど……」
「決まりだな」
「ちょ、と、待ってください。私今日は早番なのでもうすぐ上がってしまいます」
「そうか。なら中佐と話をつけてくる。ここで待っていてくれ」
「そうじゃなくてっ……!」
きょとんとする咲耶に、撫子は苦虫を噛んでしまったような気持ちで口を開く。
「あ、明後日、結婚を発表なさるのでは? そんな大切な時期に私にかまけていたら、駄目でしょう」
「世間的に見れば俺は酷い婚約者だろうな」
「分かっていらっしゃるなら、私のことは放っておいてください」
そして、百合と寄り添う咲耶を見る覚悟をさせてほしい。
妻であると証明できない撫子にできるのはそれだけなのだから。
「断る」
「……な、なぜですか?」
「昨日も言っただろう。貴女を手放してはいけない気がすると。それに……」
「それに?」
「放っておけと言われると、腹の底がざわついて仕方がない。だから俺の気がすむまで守らせてほしい」
「っ……!」
殺し文句のようなそれに耐えきれず、撫子はぼんっと耳の先まで真っ赤に染めた。
「少し中佐と話をしてくる。待っていてくれ」
「わ、分かりました……あの……」
「ん?」
喉元まででかかった「もし本当は私が元妻だと言ったら、どうしますか」という問いは、ついぞ出てはくれなかった。
撫子は着物の上から認識票を握り、そっと睫を伏せる。
「聞きたいことがあるなら、帰路で聞こう」
「……はい」
撫子は諦めて項垂れるしかなかった。
安心したように頷いた咲耶がソファーから立ち上がる。
腰を浮かした撫子だったが、彼に手で制止され大人しく座り直す。
ソファーから咲耶を見送り、撫子は憂いを吐いた。
(本当、ひどい人)
彼は何度撫子の心を奪っていくのだろう。
そして何度、撫子は枕を濡らせばいいのだろう。
「嫌われたくないなあ……」
いつから自分はこんなにも弱くなったのだろう。
妻であった事実を告げるだけだというのに、口が回らないなんて。
撫子が大きくため息をつくとかたりと窓が揺れた。
(あら? 窓、開いていたかしら……?)
疑問に思い振り返った直後、撫子の頭に激痛が走った。
◆
「みや嬢。待たせてすまない。少し遅くなったが、送っていこう」
控え室の扉を開けると珈琲の匂いが咲耶の鼻孔をくすぐった。
静まり返った部屋に違和を感じ、咲耶は息を潜める。
(あれだけ念押しをしたんだ。帰ったわけではないだろう。疲れて寝ているのか?)
暗闇に目を慣らし、辺りを観察する。
開け放たれた窓が目に入り、咲耶は勢いよく室内に飛び込んだ。
みやがいたはずのソファーへと駆け寄る。
が、そこにあるのは咲耶が彼女の肩にかけたはずの軍衣だけで、彼女の姿はなかった。
ソファーの下には手巾も落ちている。
真っ白だったはずのそれは踏みつけられ、足跡が残っていた。
「っ、くそ!」
咲耶は不甲斐なさを吐き出す。
守らせてほしいと告げたばかりだというのに、なんてざまだろうか。
咲耶の脳裏から、くすくすと笑っていたみやが離れない。
たった一日足らず傍にいただけの女性に抱く気持ちでないのは分かっている。
だが、思わずにはいられなかった。
「こんなことになってから、気がつくなんてな」
無事でいてほしい。そして、あの楽しげな顔をもう一度見せてほしい。
芯の強い瞳に、自分だけを映してほしい。
そう願う心に気がついてしまった。
「絶対に取り戻す」
ぐつぐつと煮えたぎる怒りのまま手巾を手に取ると、その下からちゃりっと金属音がした。
カフェーの奥のこぢんまりとした控え室のソファーで、撫子は恥じるように縮こまる。
そして隣に座る咲耶に見えないよう視線を俯かせた。
「気にするな。よほど疲れていたんだろう」
優しい声色に、止まっていた涙がまた溢れそうになった。
手に握る手巾がくしゃりと歪む。
(どうしてこの人は放っておいてくれないの)
肩にかけられたままの軍服の端をぎゅっと掴む。
店長が淹れた珈琲に口をつけ、カップを丸卓に置く所作は上品で、昔と変わりない。
小さく息を吐いた咲耶は、気遣わしげに撫子へと顔を向ける。
「昨夜は色々あったからな。疲弊していてもおかしくはない」
「そう、ですね」
咲耶の言動に揺らいで泣いてしまったと口が裂けても言えず、撫子は曖昧に頷くしかない。
それに昨日の衝撃は確かに撫子の心を揺さぶっていたのだから。
「これまでもあのようにごろつきが家に?」
「いえ。昨夜が初めてです。家出して芹沢家の人に会うことはありませんでしたし、見つからないようにしていましたから」
「……俺が引き留めたせいだな」
「いえ。咲耶様のせいではありません!」
心底申し訳なさそうな声色に、撫子はがばりと顔を上げる。
金色の目がまん丸になり、少し目尻の赤くなった撫子を映した。
「いつかは見つかると思っていました。なので実家に帰らないといけない日が近づいただけです」
喪が明けぬまま政略結婚を推し進めようとしたことは、確かに撫子の神経を逆なでした。
だが、華族である撫子はいずれ咲耶ではない他の誰かと婚姻を結ばなければならなかったはずだ。
一度は華族であることを放棄したが、いつまでも芹沢家から目を背けてはいられないだろう。
百合に見つかったならなおさらだ。
「問題を先送りにして逃げていただけなんです、私。でももう意地を張るのは潮時かもしれません」
撫子が眉を下げて笑うと、咲耶が納得のいかない様子で腕を組んだ。
視線が絡んだままの金色がなんでも見透かしてしまいそうに細められる。
「それは本心か?」
「あ……」
「貴女のように芯の強い女性が逃げるほどの何かがあったんだろう?」
「っ」
反論しようとして言葉に詰まった。
それは図星だと自白しているようなものだ。
「俺でよければ力になろう。あなたを引き留め危険にさらしたお詫びだ」
「そんなことしても、私がどうして貴方様を知っているのか喋りませんよ」
「おっと残念」
少しふざけた口調で首を竦めた咲耶の仕草に、どちらからともなく吹き出した。
「ははっ! こうも俺の心を読まれてるとはな」
「それぐらい、誰だって分かります」
「いいや、俺の意図を正しくくみ取った女性は貴女が初めてだ」
屈託のない笑みを向けられ、撫子の心臓がどきりと跳ねる。
これまで見たことのない少年のような表情で、そわそわとどこか落ち着かない気持ちになってしまう。
(咲耶様ってこんな顔もするのね)
握ったままの手巾から手を放し、はしたないと思いつつも両手でもじもじと手遊びをする。
「褒めても何も出せないですよ」
「そうか」
くつくつと笑う咲耶の横顔に、撫子の頬に熱が籠もった。
(あぁもう、こんなんじゃ忘れられない)
再び湧き上がってしまった思慕に、ぎゅうっと胸が締め付けられる。
同時に、咲耶の帰還や百合の思惑を一年も知らなかった負い目が、心を蝕んだ。
もっと撫子がしっかりとしていれば、百合と対面したあの日に自分が撫子で妻だったのだと名乗り出ていれば、と後悔が浮かんでは消える。
彼の楽しそうな表情が眩しくて、撫子は思わず目を細めた。
「そうだ。みや嬢。今日も俺が家まで送っていこう」
「え?」
「昨日の今日だ。用心に越したことはない」
「それは……そうですけれど……」
「決まりだな」
「ちょ、と、待ってください。私今日は早番なのでもうすぐ上がってしまいます」
「そうか。なら中佐と話をつけてくる。ここで待っていてくれ」
「そうじゃなくてっ……!」
きょとんとする咲耶に、撫子は苦虫を噛んでしまったような気持ちで口を開く。
「あ、明後日、結婚を発表なさるのでは? そんな大切な時期に私にかまけていたら、駄目でしょう」
「世間的に見れば俺は酷い婚約者だろうな」
「分かっていらっしゃるなら、私のことは放っておいてください」
そして、百合と寄り添う咲耶を見る覚悟をさせてほしい。
妻であると証明できない撫子にできるのはそれだけなのだから。
「断る」
「……な、なぜですか?」
「昨日も言っただろう。貴女を手放してはいけない気がすると。それに……」
「それに?」
「放っておけと言われると、腹の底がざわついて仕方がない。だから俺の気がすむまで守らせてほしい」
「っ……!」
殺し文句のようなそれに耐えきれず、撫子はぼんっと耳の先まで真っ赤に染めた。
「少し中佐と話をしてくる。待っていてくれ」
「わ、分かりました……あの……」
「ん?」
喉元まででかかった「もし本当は私が元妻だと言ったら、どうしますか」という問いは、ついぞ出てはくれなかった。
撫子は着物の上から認識票を握り、そっと睫を伏せる。
「聞きたいことがあるなら、帰路で聞こう」
「……はい」
撫子は諦めて項垂れるしかなかった。
安心したように頷いた咲耶がソファーから立ち上がる。
腰を浮かした撫子だったが、彼に手で制止され大人しく座り直す。
ソファーから咲耶を見送り、撫子は憂いを吐いた。
(本当、ひどい人)
彼は何度撫子の心を奪っていくのだろう。
そして何度、撫子は枕を濡らせばいいのだろう。
「嫌われたくないなあ……」
いつから自分はこんなにも弱くなったのだろう。
妻であった事実を告げるだけだというのに、口が回らないなんて。
撫子が大きくため息をつくとかたりと窓が揺れた。
(あら? 窓、開いていたかしら……?)
疑問に思い振り返った直後、撫子の頭に激痛が走った。
◆
「みや嬢。待たせてすまない。少し遅くなったが、送っていこう」
控え室の扉を開けると珈琲の匂いが咲耶の鼻孔をくすぐった。
静まり返った部屋に違和を感じ、咲耶は息を潜める。
(あれだけ念押しをしたんだ。帰ったわけではないだろう。疲れて寝ているのか?)
暗闇に目を慣らし、辺りを観察する。
開け放たれた窓が目に入り、咲耶は勢いよく室内に飛び込んだ。
みやがいたはずのソファーへと駆け寄る。
が、そこにあるのは咲耶が彼女の肩にかけたはずの軍衣だけで、彼女の姿はなかった。
ソファーの下には手巾も落ちている。
真っ白だったはずのそれは踏みつけられ、足跡が残っていた。
「っ、くそ!」
咲耶は不甲斐なさを吐き出す。
守らせてほしいと告げたばかりだというのに、なんてざまだろうか。
咲耶の脳裏から、くすくすと笑っていたみやが離れない。
たった一日足らず傍にいただけの女性に抱く気持ちでないのは分かっている。
だが、思わずにはいられなかった。
「こんなことになってから、気がつくなんてな」
無事でいてほしい。そして、あの楽しげな顔をもう一度見せてほしい。
芯の強い瞳に、自分だけを映してほしい。
そう願う心に気がついてしまった。
「絶対に取り戻す」
ぐつぐつと煮えたぎる怒りのまま手巾を手に取ると、その下からちゃりっと金属音がした。



