月が満ちる夜、君をおくる

月華殿に戻ってきてから七日目の夜、小夜は琴の前に座っていた。
朔夜が訪れると、彼女は少し困ったように笑った。
「久しぶりに、弾いてみようと思ったのです」
「琴を?」
「はい。もう、指が覚えているかどうかもわかりませんけれど」
小夜の前には、古い琴が置かれていた。
五年前、彼女が毎日のように弾いていたものだった。
朔夜は、その琴を覚えていた。
政務に疲れた夜、彼はよく月華殿へ足を運んだ。小夜は決まって琴を弾き、朔夜は彼女のそばで書物を読んだ。
時には、読みかけの書物を閉じて、ただ音色に耳を傾けた。
小夜の奏でる音は、どこか寂しく、それでいて不思議と心を落ち着かせるものだった。
「何を弾くつもりだ」
「朔夜さまがお好きだった曲を」
「私が好きだった?」
「覚えていらっしゃらないのですか?」
小夜は少しだけ頬を膨らませた。
「わたしが弾くと、いつも最後まで聞いてくださったではありませんか」
「……そうだったか」
「そうです」
小夜は琴に手を添えた。
「それでは、思い出していただきましょう」
細い指が、弦に触れる。
一音目が、静かな宮に響いた。
朔夜は息を止めた。
その旋律を、彼は知っていた。
何度も聞いた。
何度も、彼女の隣で聞いた。
それなのに、音が響くたび、記憶がひとつずつ胸の奥から蘇ってくる。
雨の降る午後。
小夜が琴を弾き、朔夜が隣で書物を読んでいた日。
彼が難しい顔で文字を追っていると、小夜はわざと間違った音を鳴らした。
朔夜が顔を上げる。
「今、間違えただろう」
「いいえ」
「間違えた」
「朔夜さまの聞き間違いです」
「私の耳を疑うのか」
「たまには、ご自分の耳を疑ってみてもよろしいのでは?」
そう言って笑う小夜に、朔夜は呆れたふりをした。
結局、彼は書物を閉じ、彼女の隣へ移った。
「もう一度、弾いてみろ」
「聞いてくださるのですか?」
「仕方がないからな」
その日の午後、彼は最後まで彼女の琴を聞いていた。
今、同じ旋律が、五年の時を越えて流れている。
けれど、あの頃とは違う。
朔夜はもう、書物を持っていなかった。
彼女の隣に座っても、彼女の手を取ることはできなかった。
それでも、音色だけは変わらなかった。
小夜が最後の一音を弾き終える。
静寂が戻った。
「……いかがでしたか?」
彼女が振り返った。
朔夜はしばらく何も言えなかった。
「昔と変わらない」
ようやく、そう答えた。
小夜は嬉しそうに笑った。
「よかった」
その笑顔を見て、朔夜は思った。
彼女が弾く琴の音を、もう一度聞けるとは思わなかった。
彼女の笑顔を、もう一度見られるとは思わなかった。
この夜が来ることを、五年前の自分に教えてやりたかった。
けれど、喜びのすぐ隣に、恐ろしい考えがあった。
この時間が終わったら、どうなるのだろう。
彼女はいつか、また消えてしまうのだろうか。
今度こそ、二度と戻ってこないのだろうか。
「朔夜さま?」
小夜の声で、朔夜は我に返った。
「どうなさいましたか?」
「いや……」
朔夜は首を振った。
「もう一度、弾いてくれないか」
小夜は目を丸くした。
「もう一度ですか?」
「ああ」
「何度でも?」
「……何度でも」
小夜は一瞬、何かを言いたそうな顔をした。
それから、柔らかく微笑んだ。
「では、夜が明けるまで」
彼女は再び琴に向き直った。
その夜、小夜は何度も同じ曲を弾いた。
朔夜は一度も、聞き飽きたとは言わなかった。
夜が深まるにつれ、月華殿には琴の音が満ちていった。
その音を、宮の外にいた老いた女官が聞いていた。
女官の名は、志乃といった。
小夜が妃として月華殿に入った頃から仕えていた、数少ない者のひとりである。
彼女は、閉ざされた宮の外で、長い間、月華殿の様子を気にかけていた。
今夜、聞こえてきた琴の音は、確かに小夜のものだった。
志乃は両手を胸の前で握りしめた。
「……お戻りになったのですね」
その目に、涙が浮かんだ。
けれど、喜びだけではなかった。
志乃は知っていた。
亡き妃が、夜の宮に戻ってくること。
それが、決して幸福な奇跡ではないことを。