月が満ちる夜、君をおくる

翌夜、俺は再び月華殿を訪れた。
その翌日も、そのまた翌日も。
朝廷の政務を終え、臣下との会議を済ませ、後宮で待つ妃たちとの形式的な面会を終えると、俺は決まって月華殿へ向かった。
誰にも告げなかった。月華殿に灯りがともる理由を尋ねられても、答えなかった。
ただ毎晩、繰り返し同じ時間に宮を訪れた。
小夜は、いつもそこにいた。
庭にいることもあれば、回廊に腰を下ろしていることもあった。時には、かつて自分が使っていた部屋の中で、何もせずに窓の外を眺めていることもあった。
彼女は夜の間だけ姿を保つことができた。
夜明けが近づくと、身体の輪郭が薄くなり、やがて月明かりに溶けるように消えてしまう。
俺は何度も、夜が明けるまで彼女のそばにいようとした。
しかし、朝日が差し込む頃には、小夜の姿は必ず消えていた。
それが、この再会に与えられた決まりなのかもしれない、とも思った。
「あら、朔夜様。ご機嫌麗しゅうございます。今夜も来てくださったのですね」
小夜は、俺の姿を見るたびにそう言った。
「来てはいけないのか」
「いいえ。ただ……お忙しいでしょうから」
「忙しいのは事実だ」
俺はどかっと隣に座った。
「だが、おまえに会う時間くらいは作れる」
「……昔も、そう言ってくださったことがありましたね」
小夜は小さく笑った。
「皇太子だった頃、政務の勉強をなさっている途中で、何度も抜け出していらしたでしょう」
「抜け出したのではない。休憩だ」
「一刻も休憩なさって、わたしと庭を歩いていたことも?」
「……あれは、庭の様子を確認していただけだ」
「では、わたしと一緒にお菓子を食べていたのも、庭の確認だったのですね」
「そういうことにしておけ」
小夜は声を立てて笑った。地味に耳が熱くなってしまった。
その笑い声を聞き、俺は思わず彼女を見た。
何度も夢に見た声だった。
五年前、彼女が亡くなったと聞いた夜から、俺は一度も、彼女の笑い声を忘れたことがなかった。
けれど、記憶の中の声と、目の前で聞く声は違った。
記憶の中の笑い声は、遠く、淡く、触れようとすれば消えてしまうものだった。
だが今の声は、確かにここにあった。
たとえ、触れられなくても、彼女の身体が透き通っていたとしても、俺には、彼女が生きていた頃と同じように思えた。
「……何ですか?」
小夜が首を傾げる。
「いや」
俺は視線を逸らして続けた。
「おまえは、よく笑うようになったと思っただけだ」
「そうでしょうか」
「昔は、もっと遠慮していた」
「朔夜さまの前では、遠慮する必要がありませんでしたから」
小夜はそう言って、少しだけ目を伏せた。
「今も、そう思ってくれているのか」
俺は尋ねたが、小夜はすぐには答えなかった。それから、静かに頷いた。
「はい」
その返事だけで、俺は胸が満たされるのを感じた。
五年間、何度も考えていた。
もし小夜が生きていたら、何を話しただろう。もし、あの日に戻れるのなら、何を伝えただろう。もし、もう一度会えるのなら、どんな言葉をかけただろう。
けれど、実際に彼女を目の前にすると、何ひとつ言葉にならなかった。
伝えたいことは多すぎた。
聞きたいことも、謝りたいことも、数え切れないほどあった。
それなのに、今はただ、こうして隣に座っているだけでよかった。
「朔夜さま」
「何だ」
「五年も経ったのですね」
唐突なその言葉に、表情がわずかに曇った。
「そうだな」
「わたしには……ほんの少ししか経っていないような気がします」
小夜は庭をおぼつかない目で見つめていた。
「目を閉じて、次に開けたら、ここにいたのです。何もかも、昔のままで」
「昔のままではない」
俺は静かに言った。
「おまえがいなくなってから、何もかも変わった」
小夜が彼を見た。
「……そうなのですか」
「ああ」
朔夜は頷いた。
「季節は巡った。庭の木も、何本か枯れた。宮の者も入れ替わり、皇太子だった私は帝になった」
そこで言葉を切る。
「だが、私は……」
続きが出てこなかった。小夜は、何も言わずに待ってくれていた。
「私は、おまえがいないことに慣れなかった」
ようやく出てきた言葉は、それだけだった。
小夜は目を伏せた。
「……ごめんなさい」
「だから、なぜ謝る」
「わたしが、いなくなってしまったから」
「おまえが望んで死んだわけではない」
「それでも」
小夜は両手を膝の上で重ねた。
「朔夜さまを、ひとりにしてしまいました」
彼女がいなくなってから、何度も自分を責めてきた。
守れなかった。気づけなかった。
もっと早く真実を知っていれば、彼女を止められたのではないか。あの日、彼女の手を離さなければ、違う未来があったのではないか。
けれど、小夜は今、自分が俺をひとりにしたことを謝っている。そのことが、俺にとっては何よりもつらかった。
「……謝らなくていい」
もう一度俺は言った。
「おまえは、もう十分に私のために苦しんだ」
小夜は顔を上げた。俺はまっすぐ彼女を見つめていた。
「今度は、私がおまえのそばにいる番だ」
その言葉を聞き、小夜は何かを言いかけた。けれど結局、何も言わず、ただ、泣きそうな顔で微笑んだ。
俺たちはその夜、夜明けまで話をした。
五年間の空白を埋めるように。
かつて好きだった菓子のこと。
庭に植えた花のこと。
皇太子だった頃の俺が、いかに勉強を嫌っていたかということ。
小夜が密かに飼っていた白い猫のこと。
そして、話の途中で何度も、俺は思った。
こんな時間が、いつまでも続けばいい。夜が明けなければいい。彼女が消えずに、ここにいてくれればいい、と。
願いは、日に日に強くなっていった。
けれど、俺はまだ知らなかった。
亡霊としてこの世に留まることが、小夜にどのような代償をもたらすのかを。
そして、彼女がこの世に戻ってきた理由が、再び俺と暮らすためだけではないことを。