春も終わりに近づいてきた季節。月明かりが薄雲に隠れ、庭の桜が最後の花びらを散らしていた。
その夜も、俺はひとりで月華殿へ向かっていた。
帝の印である小葵紋の衣の裾が、石畳の上を静かに滑る。
その手には、五年前から肌身離さず持ち歩いている小さな簪があった。銀細工の枝に、小さな白い花がひとつ咲いたような意匠。小夜が最後に身につけていたものと対になる、彼女へ贈った簪だった。
チャンチャンチャ〜…
ふと、誰も近づかぬようにと命じていたはずの宮から、かすかな琴の音が聞こえたのだ。
聞き覚えのある旋律だった。確か、想夫恋だろうか。懐かしささえも感じる。
直感的に、幼いころ、母に教わった曲だと、俺は思った。
しかし、違う。
もっと近く、もっと大切な誰かが、その歌を弾いていた。
記憶の底に沈めたはずの声が、夜の静けさの中から浮かび上がってくる。
気がついたときには、俺は足を止めていた。
宮の扉は半分だけ開いていた。
「誰かいるのか」
恐る恐る声に出し、ごくり、と固唾を呑む。けれども、いくら待っても返事はない。
その場から去ろうとしたが、体はいう事を聞いてはくれなかった。
俺は懐に忍ばせていた小さな灯籠を掲げ、ゆっくりと中へ入っていった。
月華殿の門をくぐり、俺は宮の中に足を運んだ。
いつもは入り口前で佇むだけだったので、門をくぐるのは久しぶりのことだった。
そこには、かつて妃が暮らしていたころの面影が残っていた。
壁際に置かれた文机。使われなくなった琴。几帳の向こうに見える寝台。
すべて、あの日のままだった。
まるで、住人がほんの少し外へ出ているだけのように。
俺は、文机の上に一輪の蓮が置かれていることに気づいた。
色鮮やかで生き生きしているが、どう見ても季節外れの花だった。
手を伸ばそうとした、そのとき。
「それには、触れないほうがよろしいかと」
背後から、女の声がした。
俺は冷や汗をかきそうになりながら振り返った。
そして、その直後、息をすることさえ忘れた。
白い小袖に、長い黒髪。月明かりを受けて透き通っているような白い肌。
声の主は、縁側に立っていた女だった。
五年前と何ひとつ変わらない姿で。
その姿を見た瞬間、俺の胸の奥で、五年間閉じ込めてきたものが音を立てて崩れた。
俺は、彼女の名を呼ぼうとした。何度も声に出そうともがいた。けれど、喉が震えて、決して声にはならなかった。
それを見て、女は静かに微笑んだ。
「お久しゅうございます、朔夜さま」
その声を、俺は知っていた。この5年間、忘れたことなど、一度もなかった。
「……小夜?」
「はい」
その顔は、記憶の中と何ひとつ変わっていなかった。
柔らかな目元も、少し困ったときに眉を寄せる癖も、笑うとわずかに細くなる目も。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、彼女の姿が月の光を透かしていることだけだった。
小夜。
俺がまだ皇太子だったころ、誰よりも愛した妃。
帝位に就く前から、俺の隣にいることを約束していた人。
そして、五年前、二十歳にも満たない若さで命を落とした人。
もう二度と会えないと思っていた。
声を聞くことも、笑顔を見ることも、名前を呼ぶことさえ、許されないのだと思っていた。
それなのに。
「どうして……」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「どうして、おまえがここにいる」
小夜は、困ったように目を伏せた。
「わたくしにも、よくわかりません。ただ、目を開けたら、ここにおりました」
「いつからだ」
「今夜、でしょうか。いえ……もっと前からだったような気もいたします」
とても曖昧な答えだった。
小夜は自分の手を見つめていた。白い指先は、やはり月明かりの中で淡く透けていた。
「どうやら、わたくしは死んでいるようでございますね」
まるで、他人事のような口調だった。
その様子を見ていると、俺は何も言えなくなった。
小夜は、自分の死を覚えていないのだろうか。
なぜ、五年も経った今になって現れたのだろうか。
問いかけたいことは山ほどあった。けれど、彼女を前にすると、どの言葉も形を失ってしまった。
「本当に……おまえなのか」
目の前の光景が半信半疑で思わず尋ねてみたが、小夜は答えなかった。
ただ、懐かしいものを見るような目で、俺を見つめていた。
俺は一歩、彼女へ近づいた。
伸ばした手が、彼女の頬に触れようとする。
けれど、指先は何にも触れなかった。
冷たい夜気だけが、手のひらを通り抜けた。
俺が息を呑んだからか、小夜は悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい」
「…なぜ謝る」
「だって、わたし……もう、朔夜さまに触れられないのです」
その言葉を聞いても、俺は手を引かなかった。
触れられないのなら、触れられるようになるまで待てばいい。
声が届くのなら、何度でも呼びかければいい。
死者が戻ってきたというのなら、もう一度生きている者と同じ時間を過ごせばいい。
五年間、何ひとつ変えられなかった男は、その夜、初めて未来を願った。
「構わない。おまえがそこにいるのなら、それでいい」
俺がそう強く言うと、小夜の瞳が、わずかに揺れた。
「……本当に?」
「ああ」
「わたしが、こんな姿でも?」
「おまえが小夜であることに、何の変わりがある」
小夜が俯いたので、少し間をおいて言った。
「帰ってきてくれたのだろう」
その問いに、彼女は答えられなかった。
彼女自身、なぜここにいるのか、よくわかっていなかったからだ。
ただ、目を開けたとき、そこには月華殿があった。
懐かしい庭があり、見慣れた回廊があり、五年前と同じ月が空に浮かんでいた。
そして、胸の奥には、誰かに会わなければならないという思いだけが残っていた。
その誰かが、目の前にいる男なのだと知ったとき、彼女は泣きそうになったのだ。
「朔夜さま」
「何だ」
「……お久しぶりでございます」
たったそれだけの言葉だった。
五年という歳月を越えて再会した二人が交わした、最初の言葉。
俺はその言葉を噛み締めるようにして目を閉じた。
それと同時に、手を握りしめた。力を込めても、指先の震えはなかなか止まってくれない。
あの日、彼女の冷たくなった手を握ったときの感触が、突然よみがえったから…。
五年前の葬儀。白い花に囲まれた寝台。どれだけ名前を呼んでも、二度と目を開けなかった彼女。
忘れようとしたことなど、一度もない。
忘れられるはずもなかった。
俺は、最愛の人、彼女が再び目の前から消えてしまうことが、もう一度、失ってしまうことが、どれほど恐ろしいことかを一度経験している。
「そうだな」
声が震えないように、ゆっくりと息を吐く。
「……本当に、久しぶりだ」
その夜、月華殿には五年ぶりに灯りがともった。
その夜も、俺はひとりで月華殿へ向かっていた。
帝の印である小葵紋の衣の裾が、石畳の上を静かに滑る。
その手には、五年前から肌身離さず持ち歩いている小さな簪があった。銀細工の枝に、小さな白い花がひとつ咲いたような意匠。小夜が最後に身につけていたものと対になる、彼女へ贈った簪だった。
チャンチャンチャ〜…
ふと、誰も近づかぬようにと命じていたはずの宮から、かすかな琴の音が聞こえたのだ。
聞き覚えのある旋律だった。確か、想夫恋だろうか。懐かしささえも感じる。
直感的に、幼いころ、母に教わった曲だと、俺は思った。
しかし、違う。
もっと近く、もっと大切な誰かが、その歌を弾いていた。
記憶の底に沈めたはずの声が、夜の静けさの中から浮かび上がってくる。
気がついたときには、俺は足を止めていた。
宮の扉は半分だけ開いていた。
「誰かいるのか」
恐る恐る声に出し、ごくり、と固唾を呑む。けれども、いくら待っても返事はない。
その場から去ろうとしたが、体はいう事を聞いてはくれなかった。
俺は懐に忍ばせていた小さな灯籠を掲げ、ゆっくりと中へ入っていった。
月華殿の門をくぐり、俺は宮の中に足を運んだ。
いつもは入り口前で佇むだけだったので、門をくぐるのは久しぶりのことだった。
そこには、かつて妃が暮らしていたころの面影が残っていた。
壁際に置かれた文机。使われなくなった琴。几帳の向こうに見える寝台。
すべて、あの日のままだった。
まるで、住人がほんの少し外へ出ているだけのように。
俺は、文机の上に一輪の蓮が置かれていることに気づいた。
色鮮やかで生き生きしているが、どう見ても季節外れの花だった。
手を伸ばそうとした、そのとき。
「それには、触れないほうがよろしいかと」
背後から、女の声がした。
俺は冷や汗をかきそうになりながら振り返った。
そして、その直後、息をすることさえ忘れた。
白い小袖に、長い黒髪。月明かりを受けて透き通っているような白い肌。
声の主は、縁側に立っていた女だった。
五年前と何ひとつ変わらない姿で。
その姿を見た瞬間、俺の胸の奥で、五年間閉じ込めてきたものが音を立てて崩れた。
俺は、彼女の名を呼ぼうとした。何度も声に出そうともがいた。けれど、喉が震えて、決して声にはならなかった。
それを見て、女は静かに微笑んだ。
「お久しゅうございます、朔夜さま」
その声を、俺は知っていた。この5年間、忘れたことなど、一度もなかった。
「……小夜?」
「はい」
その顔は、記憶の中と何ひとつ変わっていなかった。
柔らかな目元も、少し困ったときに眉を寄せる癖も、笑うとわずかに細くなる目も。
何も変わっていない。
変わってしまったのは、彼女の姿が月の光を透かしていることだけだった。
小夜。
俺がまだ皇太子だったころ、誰よりも愛した妃。
帝位に就く前から、俺の隣にいることを約束していた人。
そして、五年前、二十歳にも満たない若さで命を落とした人。
もう二度と会えないと思っていた。
声を聞くことも、笑顔を見ることも、名前を呼ぶことさえ、許されないのだと思っていた。
それなのに。
「どうして……」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
「どうして、おまえがここにいる」
小夜は、困ったように目を伏せた。
「わたくしにも、よくわかりません。ただ、目を開けたら、ここにおりました」
「いつからだ」
「今夜、でしょうか。いえ……もっと前からだったような気もいたします」
とても曖昧な答えだった。
小夜は自分の手を見つめていた。白い指先は、やはり月明かりの中で淡く透けていた。
「どうやら、わたくしは死んでいるようでございますね」
まるで、他人事のような口調だった。
その様子を見ていると、俺は何も言えなくなった。
小夜は、自分の死を覚えていないのだろうか。
なぜ、五年も経った今になって現れたのだろうか。
問いかけたいことは山ほどあった。けれど、彼女を前にすると、どの言葉も形を失ってしまった。
「本当に……おまえなのか」
目の前の光景が半信半疑で思わず尋ねてみたが、小夜は答えなかった。
ただ、懐かしいものを見るような目で、俺を見つめていた。
俺は一歩、彼女へ近づいた。
伸ばした手が、彼女の頬に触れようとする。
けれど、指先は何にも触れなかった。
冷たい夜気だけが、手のひらを通り抜けた。
俺が息を呑んだからか、小夜は悲しそうに微笑んだ。
「ごめんなさい」
「…なぜ謝る」
「だって、わたし……もう、朔夜さまに触れられないのです」
その言葉を聞いても、俺は手を引かなかった。
触れられないのなら、触れられるようになるまで待てばいい。
声が届くのなら、何度でも呼びかければいい。
死者が戻ってきたというのなら、もう一度生きている者と同じ時間を過ごせばいい。
五年間、何ひとつ変えられなかった男は、その夜、初めて未来を願った。
「構わない。おまえがそこにいるのなら、それでいい」
俺がそう強く言うと、小夜の瞳が、わずかに揺れた。
「……本当に?」
「ああ」
「わたしが、こんな姿でも?」
「おまえが小夜であることに、何の変わりがある」
小夜が俯いたので、少し間をおいて言った。
「帰ってきてくれたのだろう」
その問いに、彼女は答えられなかった。
彼女自身、なぜここにいるのか、よくわかっていなかったからだ。
ただ、目を開けたとき、そこには月華殿があった。
懐かしい庭があり、見慣れた回廊があり、五年前と同じ月が空に浮かんでいた。
そして、胸の奥には、誰かに会わなければならないという思いだけが残っていた。
その誰かが、目の前にいる男なのだと知ったとき、彼女は泣きそうになったのだ。
「朔夜さま」
「何だ」
「……お久しぶりでございます」
たったそれだけの言葉だった。
五年という歳月を越えて再会した二人が交わした、最初の言葉。
俺はその言葉を噛み締めるようにして目を閉じた。
それと同時に、手を握りしめた。力を込めても、指先の震えはなかなか止まってくれない。
あの日、彼女の冷たくなった手を握ったときの感触が、突然よみがえったから…。
五年前の葬儀。白い花に囲まれた寝台。どれだけ名前を呼んでも、二度と目を開けなかった彼女。
忘れようとしたことなど、一度もない。
忘れられるはずもなかった。
俺は、最愛の人、彼女が再び目の前から消えてしまうことが、もう一度、失ってしまうことが、どれほど恐ろしいことかを一度経験している。
「そうだな」
声が震えないように、ゆっくりと息を吐く。
「……本当に、久しぶりだ」
その夜、月華殿には五年ぶりに灯りがともった。



