この国には、古くから伝わる言い伝えがあった。
帝に愛された妃は、帝より先に死んではならない。
もし、帝に深く愛された妃が先に命を落とせば、その魂は後宮に縛られ、百年のあいだ帝を待ち続ける亡霊になるという。
それが本当に神の定めた掟なのか、あるいは人々が死者を恐れるあまりに生み出した迷信なのか、知る者はいなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
百年を待たずして、この世に留まることを許されなくなった亡霊は、やがて自らの名も、顔も、愛した人の記憶も失っていく。
最後に残るのは、果たせなかった願いと、行き場をなくした想いだけ。
それらが怨念に変わる前に、亡霊をこの世から解き放たなければならない。
その役目を担うのは、亡霊が生前、心から愛した者。
たとえそれが、帝であったとしても、例外ではなかった。
*
後宮の最も奥まった場所に、月華殿と呼ばれる宮があった。
かつては帝が最も愛した妃の住まいとして、後宮のどの宮よりも美しく整えられていた場所である。池には季節ごとに花が咲き、回廊には異国から取り寄せられた香木が使われ、夜になれば庭に吊るされた幾つもの灯籠が、月の光を受けて水面に揺れていた。
しかし、今、その宮を訪れる者はいない。
庭の草は伸び、池には落ち葉が積もり、朱塗りの柱にはところどころ色褪せた跡が残っている。かつて人々の笑い声が響いていた広間には、今や冷たい風だけが通り抜けている。
五年前、月華殿の主であった小夜妃が亡くなった。
それ以来、月華殿は閉ざされている。
理由を知る者は少ない。
小夜妃は帝に寵愛されていた妃だった。
帝がまだ皇太子であった頃から、彼女は彼のそばにいた。
誰よりも美しいわけではなかったし、誰よりも賢かったわけでもない。それでも、彼女は帝にとって、何にも代えられない存在だった。
その小夜が、二十歳にも満たない若さでこの世を去った。
当然、若き帝はその死を受け入れなかった。
葬儀の後、彼は月華殿を閉ざし、誰ひとりとして立ち入ることを許さなかった。小夜の遺品はそのまま残され、彼女が愛用していた琴も、寝台のそばに置かれた書物も、衣桁に掛けられた白い衣も、五年前から時を止めたままだった。
そして、この秋。
月華殿に、ひとつの噂が流れ始めた。
夜になると、誰もいないはずの宮に灯りがともる。
風のない晩にも、庭の桜の枝が揺れる。
そして、月の明るい夜には、白い衣をまとった女が回廊を歩いているのだという。
女は、かつてこの宮に住んでいた小夜妃にそっくりなのだと。
その噂を聞いた者は、誰もが口を閉ざし、否定した。そんなことあるはずがないと。
亡き妃が戻ってきたのだと囁く者もいた。さらには帝が悲しみのあまり幻を見ているのだという者もいた。しかし、噂を流す者たちもまた、そんな事は微塵も信じていなかった。
ただ、帝だけは、その噂を否定しなかった。
噂が大きくなってきた頃には、毎日、月華殿の門まで訪れるようになっていた。
それでも、小夜妃の姿を見る日は未だに無かった。
あの日までは。
帝に愛された妃は、帝より先に死んではならない。
もし、帝に深く愛された妃が先に命を落とせば、その魂は後宮に縛られ、百年のあいだ帝を待ち続ける亡霊になるという。
それが本当に神の定めた掟なのか、あるいは人々が死者を恐れるあまりに生み出した迷信なのか、知る者はいなかった。
ただ、ひとつだけ確かなことがある。
百年を待たずして、この世に留まることを許されなくなった亡霊は、やがて自らの名も、顔も、愛した人の記憶も失っていく。
最後に残るのは、果たせなかった願いと、行き場をなくした想いだけ。
それらが怨念に変わる前に、亡霊をこの世から解き放たなければならない。
その役目を担うのは、亡霊が生前、心から愛した者。
たとえそれが、帝であったとしても、例外ではなかった。
*
後宮の最も奥まった場所に、月華殿と呼ばれる宮があった。
かつては帝が最も愛した妃の住まいとして、後宮のどの宮よりも美しく整えられていた場所である。池には季節ごとに花が咲き、回廊には異国から取り寄せられた香木が使われ、夜になれば庭に吊るされた幾つもの灯籠が、月の光を受けて水面に揺れていた。
しかし、今、その宮を訪れる者はいない。
庭の草は伸び、池には落ち葉が積もり、朱塗りの柱にはところどころ色褪せた跡が残っている。かつて人々の笑い声が響いていた広間には、今や冷たい風だけが通り抜けている。
五年前、月華殿の主であった小夜妃が亡くなった。
それ以来、月華殿は閉ざされている。
理由を知る者は少ない。
小夜妃は帝に寵愛されていた妃だった。
帝がまだ皇太子であった頃から、彼女は彼のそばにいた。
誰よりも美しいわけではなかったし、誰よりも賢かったわけでもない。それでも、彼女は帝にとって、何にも代えられない存在だった。
その小夜が、二十歳にも満たない若さでこの世を去った。
当然、若き帝はその死を受け入れなかった。
葬儀の後、彼は月華殿を閉ざし、誰ひとりとして立ち入ることを許さなかった。小夜の遺品はそのまま残され、彼女が愛用していた琴も、寝台のそばに置かれた書物も、衣桁に掛けられた白い衣も、五年前から時を止めたままだった。
そして、この秋。
月華殿に、ひとつの噂が流れ始めた。
夜になると、誰もいないはずの宮に灯りがともる。
風のない晩にも、庭の桜の枝が揺れる。
そして、月の明るい夜には、白い衣をまとった女が回廊を歩いているのだという。
女は、かつてこの宮に住んでいた小夜妃にそっくりなのだと。
その噂を聞いた者は、誰もが口を閉ざし、否定した。そんなことあるはずがないと。
亡き妃が戻ってきたのだと囁く者もいた。さらには帝が悲しみのあまり幻を見ているのだという者もいた。しかし、噂を流す者たちもまた、そんな事は微塵も信じていなかった。
ただ、帝だけは、その噂を否定しなかった。
噂が大きくなってきた頃には、毎日、月華殿の門まで訪れるようになっていた。
それでも、小夜妃の姿を見る日は未だに無かった。
あの日までは。



