私は井坂くんから受け取ったチラシを千隼の目の届く場所から隠したまま、その後も平穏な日々を過ごしていた。
仮にも婚約者(私は完全には同意してないが)なのにも関わらず、私と千隼の関係性は同居していても健全そのものだ。
……私が一方的にドキドキしてしまうことがたまにあるだけで。
一日三食のごはんの時間は出来るだけ一緒に食べるようにすると決めており、千隼も忙しい中、私との時間を作ってくれている。寝室は別だが、寝る前の時間を共に過ごすことは多かった。
そういった時間の中で、私は千隼の見せるふとした顔にたまに心臓を掴まれるような感覚に襲われることがあり、そのたびに落ち込んだ。
私は千隼と結婚すると決めた訳ではない。それでも、千隼と過ごす時間にどんどん甘えていってしまう。
千隼は私に恋していないのに、私のことを宝物のように扱い、全てを与えてくれた。
でもそれに寄りかかりすぎては駄目なことぐらい、分かっていたのに。
このまま流されてはいけないと思うたびに、思い出すのは井坂くんからもらったチラシである。
今の私は衣食住だけでなく、仕事まで千隼に斡旋してもらっている。せめて私がもう少し稼げる仕事につけば、千隼への生活の依存度を下げられるんじゃないだろうか。
そう思いつつも、私は中々一歩を踏み出せないでいた。
しかし、今日の千隼は少し様子が異なっていた。
妙にピリピリしているような、常に緊張を張りつめているような。
「千隼、はい緑茶。ここに置いておくね」
「ありがとうございます、夏鈴様」
そういって大輪の花が咲いたような笑みを私に対して向ける千隼はいつもの彼そのものだったけど、次の瞬間にはもうどこか遠い目をした千隼に戻ってしまっていた。
私はお盆の上にのせた緑茶を自分の手元にも置きつつ、千隼の横顔をちらりと見つめる。
どこか憂いのあるその顔にどういう言葉をかけていいのか分からないまま、私は温かい緑茶を一口飲んだ。
こんな時、本物の千隼の婚約者だったら、私はもっと千隼の役に立てたんだろうか。考えても意味がないことが頭の中に浮かんでは消えを繰り返し、私はため息をついた。
何も決められない、どこにも進めない私のままではいけないのだという、ここのところずっと考えていた気持ちがますます輪郭を帯びてくる。
昔の私は千隼を助けられていたと思うのに、今の私は千隼に甘やかされるがまま、頼りきってしまっている。
減衰も進んでしまった今の私に何が出来るかのかは分からないけど、私が千隼の力になれる自分でありたいのは事実だった。
私は隣に座る千隼の憔悴している姿をじっと見つめ、膝の上でぎゅっとこぶしを握りしめる。
「ちは……」
と、思わず声をかけようとした私に割り込むように家に備えつけられたチャイムがピンポーンと鳴る。
千隼はすぐに立ち上がり、玄関へと向かっていった。
千隼に伸ばそうとした私の手は宙に浮いたまま。
この屋敷にやってきたのは千隼の部下だという女性で、千隼によって応接間に通された。
どうやら今、呪術庁では大きな案件が動いているのらしく、それが通るか通らないかで今後の呪術庁の進退が変わるらしい。
……というのは、私がコーヒーを届けにいった時に千隼と千隼の部下の女性がしていた話で、私が直接聞いた訳ではない。完全なる盗み聞きだった。
千隼が責任ある立場にいることは知っていたけど、今回のことで更に実感する。
先ほどの少しでも千隼の助けになりたいと思っていた気持ちに自信がもてなくなっていった。
千隼が大変な時に部屋の外で待っていることしかできない、千隼が好きな豆のコーヒーを届けることしかできない私が、本当に千隼に対して出来ることなんてあるんだろうか?
「あなたが村谷様ですか?」
「え?」
私は廊下で突然声をかけられ、慌てて振り向く。
そこには千隼の部下の女性がいた。
黒髪のショートボブでくりくりとした瞳をしており、どことなく学級委員長のような雰囲気がある。
彼女は胸に手を当てて、ぺこりとお辞儀をした。
「私は曽根初美と申します。先ほどお話しした通り、藤森様の部下をしております。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
私も曽根さんの動作に合わせてお辞儀すると、彼女は真っすぐな目線で私をじっと見つめていた。
「実は私はあなたのことは藤森様を支える同志だと思っています」
「は、はぁ……?」
私が思わず首をかしげていると、曽根さんは生真面目な表情でうんうんと頷いた。
「私とあともう二人の、藤森様のお側で第一採用課の課長としての、呪術庁の若き実力派としてのあのお方を支える側近たちは、藤森様を実務の面で出来うる限りの力をもってお支えします。なので、あなたは藤森様のお心をお支えし、あの方を癒してくだされば、それで十分なのです」
「…………」
「あなたはご自身を藤森様をお支えするのには足りていないと思っていらっしゃるのかもしれませんが、藤森様のお心の助けになれるのはあなただけです。それをお伝えできればと思い、トイレ休憩と嘘をついて、ここまで来てしまいました」
なぜ曽根さんは私が悩んでいたことについて、まるで内面を見透かすように言い当てるのだろうだとか。なぜ曽根さんは私と千隼の関係性について色々詳しそうなのだろうだとか、気になることはたくさんあった。
でも、今はそんなことよりも、私の心を占めるものがあった。
「それは、嫌なの」
「え?」
曽根さんが目を丸くする。
「例え千隼にとって今の私が、家にいてくれるだけで十分だと思えるような存在なんだとしても、私は千隼にとって「それだけ」の存在でいたくないの。千隼にとって、呪術師としても一人の人間としても、少しでも頼りになると思ってもらえる存在でいたいの」
私は千隼には、千隼にだけは、私を「村谷夏鈴はすごいんだ」と思い続けていてほしいのだと、やっと自覚した。そう、四年前の私が千隼にとってそうだったみたいに。
私は自分がここまで強欲であると初めて知った。
これではまるで、私が千隼にとって、いつまでも尊敬される存在でいたいのだと言っているのと一緒じゃないか。
「そうですか。その気概、同じ女性としては応援したく存じます。ガッツがあって素晴らしいです」
曽根さんはそういってグーサインをしたあと、すっと無表情になってポツリと告げた。
「しかし、あなたのその覚悟が藤森様の作られた鳥籠を破壊しようとするものなら、もしかするとあの方は……」
「曽根さん?」
「私が優先するのはあくまで藤森様が呪術庁をより良く導かれることです。もしあなたの行いが藤森様の心をかき乱すものなら、私はあなたのその気持ちを砕く手伝いをしてしまうかもしれません」
曽根さんは軽く敬礼すると、「でもあなたのその気持ちは尊いと思いました」と言ってトイレへと向かっていってしまった。
ひとり取り残された私は廊下で突っ立ったまま、今自分の中に生まれた感情をぐるぐると整理していた。
だからこそ、すぐ側にその葛藤の発生源たる人間が近づいてることにすぐには気づけなかった。
「夏鈴様」
「千隼!? なんでこんなところに……っ!?」
「曽根の精神感応でこちらにとある交信が来ましてね」
精神感応? それって呪術師がごく稀に目覚める、テレパシーと呼ばれている、人の心を読んだり、心の声で離れた場所の人にメッセージを送る能力では?
曽根さんに色々と見透かされるようなことを言われたのはそういうことだったのか、と私は納得すると同時に、かなり気恥ずかしくなった。これがモロバレというやつか。
「夏鈴様は僕から離れないでくださいね」
「千隼?」
「あなたはもう頑張らなくてもいいんです。あなたにはあなたらしく生きてほしい。大丈夫です、あなたの可能性も未来も、あなたの全てを僕は信じていますから……例えあなたがこの先、なにを成し遂げることがなかったとしても」
そういって千隼は「僕に全てを委ねてくれれば、それでいいんですよ」と私を抱きしめ、背中をゆっくりと撫でた。
私はその言葉を聞いて、今の千隼はきっと私に昔のような期待をしてくれていないのだろうということに改めて気づいた。
それが嫌だという自分の本心にも気づいてしまったのだから。
私のこれからすることは決まっている。
私は井坂くんの誘いに乗り、怪しいと思いつつも減衰罹患者に向けたあの求人の説明会に参加することを心に決めた。
例えそれが空振りでもいい。私に出来ることを、一つずつやっていくんだ。
また、千隼に頼りにしてもらえる自分になるために。
仮にも婚約者(私は完全には同意してないが)なのにも関わらず、私と千隼の関係性は同居していても健全そのものだ。
……私が一方的にドキドキしてしまうことがたまにあるだけで。
一日三食のごはんの時間は出来るだけ一緒に食べるようにすると決めており、千隼も忙しい中、私との時間を作ってくれている。寝室は別だが、寝る前の時間を共に過ごすことは多かった。
そういった時間の中で、私は千隼の見せるふとした顔にたまに心臓を掴まれるような感覚に襲われることがあり、そのたびに落ち込んだ。
私は千隼と結婚すると決めた訳ではない。それでも、千隼と過ごす時間にどんどん甘えていってしまう。
千隼は私に恋していないのに、私のことを宝物のように扱い、全てを与えてくれた。
でもそれに寄りかかりすぎては駄目なことぐらい、分かっていたのに。
このまま流されてはいけないと思うたびに、思い出すのは井坂くんからもらったチラシである。
今の私は衣食住だけでなく、仕事まで千隼に斡旋してもらっている。せめて私がもう少し稼げる仕事につけば、千隼への生活の依存度を下げられるんじゃないだろうか。
そう思いつつも、私は中々一歩を踏み出せないでいた。
しかし、今日の千隼は少し様子が異なっていた。
妙にピリピリしているような、常に緊張を張りつめているような。
「千隼、はい緑茶。ここに置いておくね」
「ありがとうございます、夏鈴様」
そういって大輪の花が咲いたような笑みを私に対して向ける千隼はいつもの彼そのものだったけど、次の瞬間にはもうどこか遠い目をした千隼に戻ってしまっていた。
私はお盆の上にのせた緑茶を自分の手元にも置きつつ、千隼の横顔をちらりと見つめる。
どこか憂いのあるその顔にどういう言葉をかけていいのか分からないまま、私は温かい緑茶を一口飲んだ。
こんな時、本物の千隼の婚約者だったら、私はもっと千隼の役に立てたんだろうか。考えても意味がないことが頭の中に浮かんでは消えを繰り返し、私はため息をついた。
何も決められない、どこにも進めない私のままではいけないのだという、ここのところずっと考えていた気持ちがますます輪郭を帯びてくる。
昔の私は千隼を助けられていたと思うのに、今の私は千隼に甘やかされるがまま、頼りきってしまっている。
減衰も進んでしまった今の私に何が出来るかのかは分からないけど、私が千隼の力になれる自分でありたいのは事実だった。
私は隣に座る千隼の憔悴している姿をじっと見つめ、膝の上でぎゅっとこぶしを握りしめる。
「ちは……」
と、思わず声をかけようとした私に割り込むように家に備えつけられたチャイムがピンポーンと鳴る。
千隼はすぐに立ち上がり、玄関へと向かっていった。
千隼に伸ばそうとした私の手は宙に浮いたまま。
この屋敷にやってきたのは千隼の部下だという女性で、千隼によって応接間に通された。
どうやら今、呪術庁では大きな案件が動いているのらしく、それが通るか通らないかで今後の呪術庁の進退が変わるらしい。
……というのは、私がコーヒーを届けにいった時に千隼と千隼の部下の女性がしていた話で、私が直接聞いた訳ではない。完全なる盗み聞きだった。
千隼が責任ある立場にいることは知っていたけど、今回のことで更に実感する。
先ほどの少しでも千隼の助けになりたいと思っていた気持ちに自信がもてなくなっていった。
千隼が大変な時に部屋の外で待っていることしかできない、千隼が好きな豆のコーヒーを届けることしかできない私が、本当に千隼に対して出来ることなんてあるんだろうか?
「あなたが村谷様ですか?」
「え?」
私は廊下で突然声をかけられ、慌てて振り向く。
そこには千隼の部下の女性がいた。
黒髪のショートボブでくりくりとした瞳をしており、どことなく学級委員長のような雰囲気がある。
彼女は胸に手を当てて、ぺこりとお辞儀をした。
「私は曽根初美と申します。先ほどお話しした通り、藤森様の部下をしております。よろしくお願いいたします」
「よ、よろしくお願いいたします」
私も曽根さんの動作に合わせてお辞儀すると、彼女は真っすぐな目線で私をじっと見つめていた。
「実は私はあなたのことは藤森様を支える同志だと思っています」
「は、はぁ……?」
私が思わず首をかしげていると、曽根さんは生真面目な表情でうんうんと頷いた。
「私とあともう二人の、藤森様のお側で第一採用課の課長としての、呪術庁の若き実力派としてのあのお方を支える側近たちは、藤森様を実務の面で出来うる限りの力をもってお支えします。なので、あなたは藤森様のお心をお支えし、あの方を癒してくだされば、それで十分なのです」
「…………」
「あなたはご自身を藤森様をお支えするのには足りていないと思っていらっしゃるのかもしれませんが、藤森様のお心の助けになれるのはあなただけです。それをお伝えできればと思い、トイレ休憩と嘘をついて、ここまで来てしまいました」
なぜ曽根さんは私が悩んでいたことについて、まるで内面を見透かすように言い当てるのだろうだとか。なぜ曽根さんは私と千隼の関係性について色々詳しそうなのだろうだとか、気になることはたくさんあった。
でも、今はそんなことよりも、私の心を占めるものがあった。
「それは、嫌なの」
「え?」
曽根さんが目を丸くする。
「例え千隼にとって今の私が、家にいてくれるだけで十分だと思えるような存在なんだとしても、私は千隼にとって「それだけ」の存在でいたくないの。千隼にとって、呪術師としても一人の人間としても、少しでも頼りになると思ってもらえる存在でいたいの」
私は千隼には、千隼にだけは、私を「村谷夏鈴はすごいんだ」と思い続けていてほしいのだと、やっと自覚した。そう、四年前の私が千隼にとってそうだったみたいに。
私は自分がここまで強欲であると初めて知った。
これではまるで、私が千隼にとって、いつまでも尊敬される存在でいたいのだと言っているのと一緒じゃないか。
「そうですか。その気概、同じ女性としては応援したく存じます。ガッツがあって素晴らしいです」
曽根さんはそういってグーサインをしたあと、すっと無表情になってポツリと告げた。
「しかし、あなたのその覚悟が藤森様の作られた鳥籠を破壊しようとするものなら、もしかするとあの方は……」
「曽根さん?」
「私が優先するのはあくまで藤森様が呪術庁をより良く導かれることです。もしあなたの行いが藤森様の心をかき乱すものなら、私はあなたのその気持ちを砕く手伝いをしてしまうかもしれません」
曽根さんは軽く敬礼すると、「でもあなたのその気持ちは尊いと思いました」と言ってトイレへと向かっていってしまった。
ひとり取り残された私は廊下で突っ立ったまま、今自分の中に生まれた感情をぐるぐると整理していた。
だからこそ、すぐ側にその葛藤の発生源たる人間が近づいてることにすぐには気づけなかった。
「夏鈴様」
「千隼!? なんでこんなところに……っ!?」
「曽根の精神感応でこちらにとある交信が来ましてね」
精神感応? それって呪術師がごく稀に目覚める、テレパシーと呼ばれている、人の心を読んだり、心の声で離れた場所の人にメッセージを送る能力では?
曽根さんに色々と見透かされるようなことを言われたのはそういうことだったのか、と私は納得すると同時に、かなり気恥ずかしくなった。これがモロバレというやつか。
「夏鈴様は僕から離れないでくださいね」
「千隼?」
「あなたはもう頑張らなくてもいいんです。あなたにはあなたらしく生きてほしい。大丈夫です、あなたの可能性も未来も、あなたの全てを僕は信じていますから……例えあなたがこの先、なにを成し遂げることがなかったとしても」
そういって千隼は「僕に全てを委ねてくれれば、それでいいんですよ」と私を抱きしめ、背中をゆっくりと撫でた。
私はその言葉を聞いて、今の千隼はきっと私に昔のような期待をしてくれていないのだろうということに改めて気づいた。
それが嫌だという自分の本心にも気づいてしまったのだから。
私のこれからすることは決まっている。
私は井坂くんの誘いに乗り、怪しいと思いつつも減衰罹患者に向けたあの求人の説明会に参加することを心に決めた。
例えそれが空振りでもいい。私に出来ることを、一つずつやっていくんだ。
また、千隼に頼りにしてもらえる自分になるために。

