17歳の息継ぎで、まだ完成しない声を信じている。

 六月の曇り空の下。野太い声が、野外ステージ前方に異様な熱気を生み出していた。

「わー! ゆっち!」
「あやみき、こっち向いて~!」

 この日、市内に大型商業施設がオープンした。僕らは先ほどステージでの演奏を終え、舞台袖へはけていた。今は三人組の女の子たちが、ヒラヒラ、フワフワとした衣装を着て、ファンに手を振っている。

「じゃあいくよ~! 『フリルなカウントダウン』」

 女の子の掛け声とともに、スピーカーから大音量の音楽が流れ出す。ステージ前方のファンたちは両手を高く上げ、すでに額に汗を浮かべている。僕らはステージの盛り上がりをよそに、男子部員と打楽器パートのメンバーで大型楽器をトラックに積み終えた。すると、後ろから聞き慣れた声がする。

「お疲れ! 演奏よかったよ!」
「わ! 先輩! 来てくれたんですね!」

 僕らはOBの福本先輩と、近くのベンチでお茶を飲んだ。ふとステージを見ると、先ほどの女の子たちがまだ踊っている。

「このグループ、売れると思うんだよな~! いや、売れてほしい!」

 音楽全般を愛してやまない先輩の守備範囲は、とにかく広い。スピーカーから流れるリズムに合わせ、どこからか取り出したペンライトを振っている。

◇◇◇

♪「息の震えまで」

 ソロで歌っているのは、左端の金髪の女の子だ。彼女の声だけが、なぜか雑踏から浮かび上がって聞こえる。歌詞のとおり、彼女の気持ちをそのまま表すかのように不安定で危うい。それでも、その危うさごと聞かせる何かがあった。

 曲は再びアップテンポに戻り、三人が踊り始める。さっきまでぼんやりとしか見ていなかった金髪の彼女は、指先まで丁寧に踊っていた。たしかに、アイドル色の強い他の二人と、金髪の彼女はダンスの姿勢から見ても違う気がする。でも、的確に表すなら……。

「うーん……いいんだけど……グループには合ってないんだよなぁ」

 先輩は曲の終わりとともに、僕が感じていた違和感を言葉にした。でも、僕の頭の中は、あの子の歌声で満たされている。手拍子や赤ちゃんの泣き声、風が葉を揺らす音。すべてが同じ空気の中にあったのに、彼女の声だけは、ひときわ高い場所から降り注いでくる。そんな感覚だった。

 女の子たちはステージで手を振り、舞台袖へはけていった。グループ名も、彼女の名前もまったくわからない。おそらく福本先輩に聞けば、すぐに調べて教えてくれるだろう。でも、なぜか気恥ずかしくて、言い出せなかった。彼女の歌声が、頭の中でずっと繰り返されているのに。

◇◇◇

 翌日の放課後。僕は音楽室の端で、クラリネットのコルクにグリスを塗り、手早くなじませた。ウォーミングアップを済ませると、手を叩いてみんなの注目を集めた。

「じゃあ全体基礎練始めます! パーカスはテンポ六〇で刻んで、ロングトーンから」

 音楽室いっぱいに楽器の音が広がった。規則正しいスネアドラムに、五〇人全員が息を合わせる。小学校の鼓笛隊では、自分さえうまく吹ければよかった。しかし去年の秋、先輩からクラリネットのパートリーダーとコンサートマスターを引き継いだことで、僕はより一層「正確さ」にとらわれるようになった。

 今日も誰かが音階を間違え、不協和音になっている。ちらっと目を向けると、後輩の矢部ちゃんがばつの悪そうな顔をしていた。これが森永先生の合奏中なら、一発アウト。怒鳴られるに違いない。それなのに、昨日聞いた彼女の歌声は、人に聞かせるには危うすぎるのに、なぜか聞き入ってしまった。「楽器」と「声」。形は違えど、同じ音楽のはずなのに。結局その後、家に帰っても風呂に入っても、あの不思議な感覚への答えは出なかった。

◇◇◇

「トランペット! そこは軽やかに!」

 今日は、全体合奏の一部を僕が受け持っていた。コンサートマスターの役割とはいえ、人に指摘するのは得意ではないし、気持ちのよいことでもない。僕が言葉を発するたびに、部員から何か言いたげな視線が鋭く突き刺さる。もう逃げ出したい。指摘をするたび、自分の中に泥が積もっていくような感覚に襲われた。それはいつか、僕の体を覆い尽くしてしまうようにも思えた。それなのに、与えられた役割に縛られている。こんな弱音を、地区大会を控えた今、誰にも吐き出せない。

「フルート! もっと歌って!」

 そう叫ぶと、ちょうど音楽室の扉が開く。職員会議を終えた森永先生に、僕は救われた。しかしこの後、会議の苛立ちをぶつけるかのように、先生は指揮棒代わりの菜箸を投げ飛ばし、とんでもない声量で怒鳴り続けた。部員全員の心が、荒野のように荒れ果てたに違いない。

 そんな僕が行き着いた先は、夜の河川敷だった。高架下なら、クラリネットの音は周囲の音に簡単に紛れ込む。家では練習できないし、カラオケボックスに毎回行けるほどのお金もない。先生の代わりに合奏の一部を見たり、各パートの練習に付き合ったりすることは、僕に与えられた役割だ。引き受けたときから、覚悟はしていた。個人練習の時間が欲しいなら、自分で生み出すしかない。誰にも邪魔されず、自由に音を出したい。完成度を高めたい。たった三〇分でも一時間でも、自分の音に集中したかった。

 楽器を組み立て、まずは大きく息を吹き込んだ。クラリネットがビリビリと震えている。肺の息をすべて絞り出すようにイメージして、さらにもう一度大きく……。

「はぁ……うるさいなー」

 振り返ると、フードを深くかぶった女性が階段の踊り場に座っていた。明らかにこちらをにらんでいる。彼女の剣幕に押され、僕は逃げるようにその場を立ち去った。

 しかしその後、何度か河川敷で彼女を見かけた。横目で見る限り、彼女はおそらく学生だ。体格は僕のほうが上だが、一応距離を取り、少し音量を下げて練習を続けた。自分のために使える時間は限られている。遠慮していたら元も子もない。彼女は毎回、スマホを見たり、大きめの鼻歌を歌ったりして自由に過ごしていた。

「また来たの?」

 ある日、少し面倒くさそうな様子で声をかけられた。

「僕の練習場所なんで」
「いやいや、河川敷は誰のものでもないでしょ」

 彼女から「うるさい」と言われたのは、最初の一度だけだった。ただ、このやり取り以降、彼女は川を眺めることが増えた。僕は彼女の名前も学校も、年齢も何も知らない。なのに、僕はクラリネットを吹き、彼女は川を眺めている。心地よいような、気まずいような、複雑な感覚がした。

◇◇◇

 コンクールの地区大会が迫ったある日の合奏は、過去最悪だった。後輩の矢部ちゃんは速い運指が苦手で、リードミスも重なり、森永先生の癇に障ってしまった。先ほどから全体合奏は中断され、先生は延々と怒鳴り続けている。こうなったら、しばらく放っておくしかない。すると、タイミングを見計らった後ろの同期が、そっと僕に付箋を渡してきた。

(サポートできてなくてごめん。矢部ちゃんと次までに練習しておくわ)

 僕は首を横に振った。今、彼が怒られているのは、自分のせいでもある。そもそも矢部ちゃんは、去年はサックスパートだった。しかし、先生の説得でクラリネットに転向してくれた。それもこれも、今年の春にクラリネットから退部者が出なければ、こんなことにはなっていなかっただろう。そして一年生の育成に追われた僕らは、矢部ちゃんが二年生であることや、運指が似ている楽器からの転向だったことに甘え、彼の練習を放置した。

 先生は一通り怒鳴り散らしたあと、ぱっと僕のほうを向いた。鼓動が耳の奥で暴れる。

「北川、自分のパートもちゃんと頼むよ」
「……はい、すみません」

 先生から小言があると予想はできていた。後輩のミスは先輩の責任。それはこの部の伝統で、そうやって叱られる先輩を何人も見てきた。仕方のないことだとわかっていても、合奏が終わると、僕は夢中で走り出した。

◇◇◇

 川は今日も凪いでいた。しかし、心は乱れている。こんな気持ちで出す音は最悪だとわかっていても、河川敷に着くと楽器を組み立ててしまった。でも、いつまでも息を吹き込む気にはなれない。

「吹かないの?」

 あの子だ。今日もフードをかぶり、階段の踊り場でスマホを眺めながら、目線だけをこちらに向けている。

「いつも練習してる曲、聞かせてよ。あたし結構好きなんだけど」

 何もかもが後ろ向きな今日。取り柄のない、楽器すら吹けない僕は、人として価値がない。こんな気持ちを誰にも見せてはいけない。

「今日は調子が悪いから……」
「でも練習に来たんでしょ? 楽器、組み立ててるじゃん?」

 彼女の言うとおりだ。でも、楽器を握りしめているのに吹く気が起きず、僕は棒立ちのままだ。

「ねえ、聞いてるー?」

 彼女が好きだと言った曲は、コンクールの自由曲だ。去年コンサートマスターを務めた先輩でさえ、なんとか吹けたというほどの、長く細かなフレーズがある。彼女は僕の葛藤など知らず、目を輝かせてこちらを見ていた。とりあえず場を収めようと、僕は楽器を構える。ろくに指慣らしもせず、そのままクラリネットを吹いた。当然、きれいな音色など出せないし、指ももつれる。それがまた嫌になり、何度も繰り返した。この場を収めるために空気を読むほうを選んだことを後悔した。こういうとき、言葉で「できない」と正直に伝えられる人が羨ましい。

「下手くそ」

 彼女の声で音を止めた。そんなことは自分でもわかっている。でも、リクエストしておいて、その言い草はないと思った。苛立ちが頂点に達したとき、僕の口から意外な言葉が出た。

「……うるさい」

 思わず言い返してしまったことに、僕自身が驚いた。苛立った気持ちは風船のようにしぼんでいく。そして彼女は猫のように目を丸くし、ふっと笑った。

「あのさ、なんでイライラしてるのか知らないけど、楽器は正確さが大事でしょ?」
「そうですね」

 いたたまれない気持ちになる。彼女は踊り場から立ち上がり、河川敷の柵にもたれかかった。月明かりが、フードからのぞく彼女の髪を金色に照らしている。

「歌は正確さがいらないの。音程も、その人のクセも、全部正解だとあたしは思ってる」

 歌。

 ふと、危うい歌声だった金髪のあの子を思い出した。

「ねえ、歌ってみれば?」
「ここで?」
「うん。今なら感情がこもりまくった歌を歌えそうじゃない?」

 かみ合わない会話。それに、あまりにも唐突だ。でも、見ず知らずの彼女に自分勝手な苛立ちをぶつけてしまったため、逆らえない気がした。

「あー……あたし、あの曲がいいな。『新灯島』」
「ラッコエディションの?」
「そうそう。古いけどね」

 曲名を聞いたとき、定期演奏会で母が楽しそうに手拍子をしてくれたことを思い出した。それが嬉しくて、音源を何度も聞いた。自然と歌詞が浮かび、僕は小さくつぶやく。

「いいね! もっと声張って!」

 僕は声を大きくし、続きを歌った。彼女の瞳はきらりと輝き、コーラスを入れて踊った。

◇◇◇

 最後まで歌い切ったあと、ふう、と息をついた。僕は音程を外し、歌詞も間違え、とても人に聞かせられる歌ではなかった。きっとラッコエディションのファンが聞いたら怒るだろう。それでも、彼女の声に導かれた僕は、胸の奥が少しだけ軽くなっていた。

「ね、正確じゃなくても楽しかったでしょ?」

 そう笑う彼女は、僕の下手な歌に拍手をしてくれた。いつもかぶっている黒いフードが落ち、金色の髪が露わになっている。ステージで見た金髪のあの子と、髪の長さは違えど、声は似ているような気がした。音を覚えることには自信があるつもりだけど……。

「ねぇ、君は普段から歌う人なの? ステージとか……」

 彼女は遮るように答え、颯爽と帰っていった。

「あはははは! あたしはただの歌好きだよ! じゃあ、お疲れ~!」

 違った。でも、「正確さ」がすべてでもないのだと思った。彼女が金髪のあの子であろうとなかろうと、今日の僕は彼女に救われたことに変わりない。僕の中で、何かが少しずつ変わり始める。そんな気がした。

◇◇◇

 僕は翌日の練習で、矢部ちゃんをはじめ、クラリネットパート全員に今まで放っておいたことを謝った。そして、コンクールで成果を残すためには、パートとしての団結が必要だと僕なりに話した。整理しきれない部分があっても、みんな静かに聞いている。すると矢部ちゃんが、最後にこう提案してくれた。

「俺……朝練したいんですけど……付き合ってくれませんか?」

 朝は苦手だったが、後輩からの提案を無下にはできない。僕は森永先生に許可を取り、早速翌日からクラリネットパートだけで練習を始めることにした。不思議なことに、数日続けていると、他のパートも朝練に参加するようになった。

「よし、矢部ちゃん! 今日は僕が隣で吹くから、一緒に音を出そう」

 一緒に練習する機会を増やして気づいたのは、矢部ちゃんが楽譜を正確に読めていないことだった。彼は合奏や音源から自分の音を聞き取り、耳コピで演奏していたのだ。であれば、隣で一緒に吹くことで改善できる。案の定、矢部ちゃんはめきめき上達していった。

 こうして迎えた中学最後の夏休みは、文字どおり朝から晩まで練習漬けになった。朝練に合奏、夜は河川敷でひたすら個人練習の日々。いつからか金髪の彼女の姿を見なくなっていたけれど、部活を引退したクラスメイトは塾で忙しそうだったし、彼女にも何か事情があるのだろうと勝手に思い込んでいた。

 僕らは地区大会から府大会へ順調に勝ち進み、いよいよ関西大会の日を迎えた。打楽器や大型楽器を積み込むため、僕は早朝に家を出る。

「いってらっしゃ~い!……頑張ってね~! ふぁぁぁぁ」

 母は朝からお弁当と特製のレモン漬けを用意してくれた。きっと僕がこのドアを閉めたら、二度寝するのだろう。
 気づけば新学期が目前に迫っている。いつの間にか、けたたましいセミの鳴き声も聞こえなくなった。夏が終わる。この長い夏が、ようやく終わる。

◇◇◇

 本番の記憶は、ところどころしか残っていない。楽器を支える指の痛みは強くなり、唇の裏側に歯が食い込んだ。首も背中の筋肉も、もうがちがちに凝り固まっている。

 指揮棒が上がった瞬間。
 自由曲のクラリネットソロでは、一瞬だけ指が痛み、替え指で対応した。
 部員全員のフェルマータは、ホールの天井まで広がっていく。

 初めてのコンクールは、こんなに緊張する世界があるのかと思った。去年は自分の演奏だけで精いっぱいだった。しかし今、僕はこの舞台でソロを吹き、部員全員の音を一身に受けている。

◇◇◇

 各校の演奏が終わり、ついに結果発表の瞬間が訪れた。学校名と賞が読み上げられるたび、会場中が歓声に包まれる。森永先生は、すでに目頭を押さえていた。

 市立岡花中学校、金賞。

 しかし、全国大会には進めない。いわゆる「ダメ金」だった。周りは皆、涙をこぼしている。悔しい気持ちはわかる。ただ、これまで府大会止まりだった学校が関西大会まで進めたこと自体、奇跡だと思う。僕の胸の中はやけに静かで、恐ろしいほど冷静だった。彼女の声に導かれ、歌い終えたときのように落ち着いている。

「悔しくて……あんなに練習を見てもらったのに……」

 泣き崩れる矢部ちゃんをなだめ、僕らは学校に戻った。夕方、楽器の片付けが終わると、部員は音楽室に集められた。それぞれ目の前の譜面台に、苦楽をともにした楽譜を置く。半円状に全員が着席し、先生は少し震えながら講評用紙を開いた。

「はぁ~……読むぞ……『全体的によくまとまっています。特に課題曲は、よく練習されていたと感じました。また、自由曲に関しては、貴校の色がよく出ていたものと思います。ただし、クラリネットソロは、彼の力量なら通常の運指でもよかったかもしれません』」

 音楽室になんとも言えない沈黙が流れた。僕はなんとなく先生から目を逸らした。

「えっと……『来年も楽しみなチームです。さらなる努力を期待します』だって。つまり……」

 それから森永先生は、細かな反省点を挙げていった。来年を見据えて。僕はそのほとんどを聞き流し、見慣れた音楽室を見渡した。やはり楽器は正確さがすべてであり、それが評価される世界なのだ。音を奏でるのは人なのに、その人の体や心の揺らぎ、練習の過程は評価に入らない。あらためて窮屈な世界だと思った。

◇◇◇

 下校しようと昇降口へ向かうと、先生に呼び止められた。

「北川、指に何かあったのか? どうしたんだ?」

 替え指を使うこと自体、何の問題もない。たしかに通常の運指のほうが音程は正確になる。でも、何と言うべきか迷った。

「えっと……疲れで指がもつれそうで……音が出ないよりはましだろうと……替え指を……」

 先生は深くため息をついた。

「そりゃあれだけ練習すれば、そうなるよな……」

 先生はポリポリと頭をかきながら、言葉を選んでいる。普段は沸騰した湯沸かし器のような先生も、こんな日は空気を読んでくれるのかもしれない。

「今まで、演奏だけじゃなく、部全体を引っ張ってくれて本当にありがとう。お疲れさん」

 森永先生は涙を浮かべ、握手を求めた。僕はその手を強く握り返す。温かさに目の奥は熱くなったが、心は冷え切っていた。僕は自分に求められた「役割」を全うし、自分なりの演奏を貫いた。でも、それは傍から見ている人には伝わらない、内々の話だ。演奏のよし悪しは、聞く側が判断する。僕がいつもどおりの運指にしていれば、結果は違っていたのかもしれない。

 思いつくのは「たられば」ばかり。家に帰り着くころには、頭も体も疲れ切っていた。急かす母に結果を報告し、自室に入る。もうこれで最後だと、クラリネットに残った指紋を拭き取り、楽譜と一緒にクローゼットの奥へしまい込んだ。

 もういい、やり切った。やり切ったから、もういい。

 そう思った夜のことを、僕はずっと忘れない。

◇◇◇

 翌々日、新学期が始まり、放課後に引退式が行われた。矢部ちゃんの目はずっと真っ赤だった。

「北川先輩、進学してもクラリネット、続けてください」
「……来年、頑張ってね」

 僕は彼が求める答えを言えないまま、今度は「受験生」になった。通い始めた塾は、あの河川敷の近くにある。でも、なんとなく毎回遠回りして帰った。

「最近、楽器吹いてる? 勉強ばっかりだと疲れるでしょ?」
「吹いてないかな……もう寒いしね。春になったら考える」

 母はそれ以上、何も言わなかった。一日練習を休めば、三日分下手になる。もう楽器ケースを開く勇気がない。

◇◇◇

 高校の入学式から数週間が過ぎた。中庭に積もった桜の花びらは、無造作に踏みつけられている。

「えっと……北川奏です。趣味はなし。俺は……帰宅部の予定です」

 各教科で行われる恒例の自己紹介が終わると、休み時間のたびにクラスの今井さんが話しかけてくる。彼女は別の中学で吹奏楽部に所属していた。担当はフルートで、高校でも楽器を続けると公言し、すでに入部届を出している。

「北川くん、吹部、本当に入らないの?」
「昨日も言ったけど、入らないって」
「あんないい演奏ができるんだから、辞めるなんてもったいない!」

 厄介なことに、今井さんは関西大会を見学に来ていた。もちろん講評の内容は知らないだろうけど、俺が替え指を使ったソロを見ていた。毎回のらりくらりと理由をつけてかわしているが、それもいつまで続くか……。

「だから、お世話になった先輩がいるから、入部するなら『音楽研究部』にするよ」
「そんなよくわかんない部活より、吹奏楽を続けなって! むしろ『全国大会へ行けなかった悔しさをバネに、次こそ!』とかないの?」

 大会の夜、「もういい」と思ったあの感情があふれた。俺は立ち上がっていた。

「そうやって……俺にまた『役割』を与えて、比べるんだろ……」

 彼女は「何を言っているかわからない」という顔になっている。教室が静まり返り、俺は周りの視線を感じて慌てた。

「ごめん」

 今井さんは黙り込んでいる。いたたまれなくなり、俺は教室を飛び出した。彼女の言うとおり、吹奏楽を辞めるのはもったいないことなのかもしれないし、「ダメ金」だったことを悔しいとも思う。でも、もうあの光り輝く舞台に立つ勇気は、俺にはなかった。

◇◇◇

 昼休み後の古典の時間は、寝てくれと言わんばかりに退屈だった。クラスメイトは睡魔をごまかすように、教科書やノートをパラパラとめくっている。井上先生はそんな雰囲気にも構わず、淡々と板書していく。

「『つれづれなるまゝに、日暮らし、硯にむかひて』は、今でいうなら、暇だからスマホを触っている、そういう状態」

 何人かが笑った。先生は続ける。

「『心に移りゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ』は、心に移っていくもの、つまり他愛のないことなんだけど、心が動いたこと……」

 ふと窓の外を見ると、ツバメが低く空を飛んでいた。

「要するに、思いついたことを自由に書くことかな。……北川くん、今『雨降りそうだな』って思ってるでしょ?」

 クラスの注目がこちらに向いた。先生はニコッと笑っているが、目は明らかに怒っている。

「じゃあ次の授業で、最近『心が動いたこと』を提出してもらおうかな! どうしても浮かばなかったら、『心が動いた歌』でもいいよ」

 先生がそう言い終えると、ちょうど授業終了を告げるチャイムが鳴った。ノートの端に宿題のメモを書き添えていると、ある疑問が湧いてきた。

(最後に聞いた歌……コンビニで聞いた流行の曲か? 最近、歌詞に注目した曲なんてあったかな……)

♪「息の震えまで」

 ペンを持つ手が止まった。俺は、ステージに立つ金髪のあの子の歌声を思い出した。

◇◇◇

 夏休みの最終日。俺は福本先輩と旧校舎にいた。

「頼れるのは北川くんだけなんだよぉ~! なんでも奢るから手伝ってよ~!」

 なんとも言えないスタンプとともに、俺は「音楽研究部」に助っ人として呼び出されていた。部室には古い紙の匂いが広がり、床には楽譜が落ちている。棚には教則本がびっしりと並べられ、合唱用の楽譜の原本が山積みになっている。
 先輩は高校入学後、「音楽全般を研究する」と掲げたこの研究部を立ち上げていた。しかし、結局何をする部か伝える機会もないまま、一年半が過ぎていた。そのおかげで、部員は先輩だけ。さらに、もともと前身の部室をそのまま使っており、残った古い備品を整理できず、顧問の井上先生と困っていたという。
 先輩はさっきから、びっしりと書き込まれた楽譜を愛でるように見つめている。そこに刻まれた練習の証に思いを馳せたい気持ちはわかるが、これでは片付けが終わるはずもない。

「先輩……これは……?」

 棚の隙間に板が挟まっている。先輩と一緒に引き出すと、それは「グリークラブ」と書かれた部の看板だった。先輩は一瞬眉をひそめたものの、どこか諦めたような表情を見せた。

「この看板は使うこともないだろうし……捨てるか……」

 虫食いだらけの教則本を箱に詰め、ゴミ捨て場と何度か往復する。毎回、中庭を経由しなければならず、骨が折れる。これで最後だと、先輩は最後の段ボール箱を抱え、俺はグリークラブの看板を抱えて歩いていた。ちょうど職員室の窓が開いており、井上先生の声がした。

「夏目さん、その髪色もいいわね」
「そーですか? 私はまだ慣れないです……変ですよね。自分の髪なのに」

 聞き覚えのある声。今日は上級生の補講日だった。でも、上級生の知り合いは福本先輩くらいだ。すると風が大きく舞い上がり、職員室のカーテンがめくれた。そこには、声の主らしい、ショートカットで黒髪の女の子がいた。

「わ……すごい風」

 先生と黒髪の女の子は、カーテンを整え、窓を閉めようと近づいた。

「金髪は校則違反ではないけど、印象が強烈すぎるもんね……よく似合ってたと思うけど」
「ありがとうございます。ちょっと真面目に見せようかなって思って……」

 俺は、黒髪にしたという女の子が、河川敷で一緒に歌った彼女だと思った。先生の言うとおり、金髪の印象が強烈だったから確信はない。でも、声はあの子だ。その場で立ち止まっていると、先輩はポンと肩を叩き、俺に笑いかけた。まるで頭の中をすべて読んで、肯定しているかのように。俺は職員室の窓から、ひょこっと顔を出した。彼女の顔を見れば、すべてがつながる気がした。

「あら、北川くん。片付け終わった?」
「はい……あ……えっと……」

 黒髪の女の子と目が合うと、やはり猫のように目を丸くし、ふっと笑った。

「今日、ずっと中庭を往復してたよね?」
「はい……あの、変な意味ではなくてですね……俺ら、会ったことありますよね?」
「……その看板いいね」

 どこかかみ合わない会話。彼女は、俺が担いでいる看板を指さしている。

「この学校、歌う部活があったんだ……そういえば、ラッコエディションは明日、三年ぶりに新曲を出すんだよね……」

 彼女は愛おしそうにグリークラブの文字を見つめている。核心には触れず、ただの思いつきのように話す彼女に、懐かしさを覚えた。

◇◇◇

 九月一日の始業式が終わると、教室に彼女がやってきた。誰か別の人に用があるのだと思って、いったん目を逸らすと、彼女は俺に向かって呼びかけた。

「あ、奏! ちょっといい?」

 上級生とは校舎の階が違うから、三年生の彼女がいるだけで目立つ。さらに親しげに名前で呼びかけられたことで、教室はざわついた。

「えっ! マジか!」
「夏目先輩と北川くん、付き合ってるの? いつから!?」
「あれ? 夏目先輩、黒髪じゃない?」

 クラスメイトは思い思いの言葉を口にしていく。俺は荷物をまとめて、そそくさと教室を出た。

「待って! 教室まで押しかけてゴメンって! 一年生のフロアで一教室ずつのぞいたら、奏が見えたから、つい声が大きくなって……」

 俺の足はピタリと止まった。

「なんで……名前知ってるんですか?」
「先生が昨日『北川くん』って呼んでたから……掲示物にフルネームも出てたし……」

 そういえば五月ごろだったか、井上先生に「課題の発表内容を学校の掲示板に貼り出すから、俺の名前を出してもいいか」と尋ねられた。新入生の「整理せずに書いた言葉」が、先生にとって新鮮だったようだ。

「『去年、ステージで聞いた三人組アイドルの一人の歌。ふらふらした音程で危ういのに、なぜかその声に聞き入った。北川奏』。見かけるたびに何度も読み返して、途中で『写真撮っとけばいいや!』って気づいた」

 俺は自分が書いた内容を思い出し、急に恥ずかしくなった。あんな人を評価するような書き方をして、しかもそれを人に読まれたのだと思うと、申し訳なく感じた。

「『危うい』っていうのが、あたしのことだったら……」
「あの……先輩の歌……俺、また聞きたいです。ステージ、整えますから!」

 何も考えずに出た言葉に、俺自身が驚いた。そもそも彼女が河川敷に現れなくなった理由を知らない。しかも、今も歌っているのかさえわからない。それでも、聞きたいと思った。あの声を、もう一度。そして彼女は少し困った顔をして、小さく笑った。

「知ってる? 九月九日って、めっちゃ縁起がいい日なんだよ。そんな日に好きな曲を歌えたら、もう何にでもなれそうだよね」

◇◇◇

 九月九日の放課後、俺は井上先生の元にいた。

「はいはい、マイクとスピーカーね? 準備しておいたよ」

 俺は夏目先輩に呼ばれたあの日から、段取りのメモを作り、日々、事細かに書き足していった。もちろん福本先輩にも確認して、事前にできることはすべて整えた。あわせて九月一日に発売されたラッコエディションの新曲も聞き込んだ。彼女が歌いたい曲は、おそらくこれだと思っている。三年ぶりのリリースにふさわしい、復活の曲だ。

「で、体操服に着替えているのは、クラスで文化祭の練習?」
「いや、設営に集中したくて……どうしても歌ってほしい人がいて……」

 説明しきれない思いを井上先生に話すと、長くなりそうな気がした。俺は機材を受け取り、急いで中庭へ向かう。場所は事前に中庭の一角を確保してあり、少しずつ人が集まっている。あとはマイクをセットすれば……。

「今日は声張っていいよね?」

 ようやく夏目先輩が現れた。もしかしたら来ないかも、という不安もあったから、まずは第一関門を突破したように感じた。

「準備ありがとう。あのね……あと一つだけお願いしてもいい?」

 そう言って、夏目先輩は俺に耳打ちした。

◇◇◇

 福本先輩のツテもあり、音楽好きの生徒が二〇人ほど中庭に集まった。中には意外なことに、今井さんもいた。賑やかになると、それにつられて一人、また一人と生徒が集まっていく。このままだときりがないので、夏目先輩本人がステージに上がると、一瞬ざわついた。彼女は今、俺の制服を着ている。制服の半袖とスラックスのサイズが少し合っていないのは、織り込み済みだ。

「歌うならスカートは嫌。奏の制服貸して」
「はぁ!? それマジで言ってます?」

 直前にこんなやり取りがあったとは思えないほど、ステージの彼女は落ち着いている。彼女が体操服で登場すればよかったのではないかと思うけれど、それは飲み込んだ。

「え~、みなさんお集まりいただき、ありがとうございます。知ってる人も知らない人も、いい曲なんで、あとでぜひ原曲も聞いてください」

 夏目先輩のその声で、イントロが始まった。ラッコエディションの新曲発表から、まだ一週間ほどしか経っていない。それなのに、彼女は相変わらず指先まで丁寧に踊り、入りの難しい最初の歌詞を歌い始めた。俺は少し離れたベンチで、全体の様子をうかがうことにした。

「はぁ……うるさいなー」

 暴言を吐く人は誰もいない。みんな夏目先輩の歌に聞き入っている。彼女の声だけが、なぜか雑踏から浮かび上がって聞こえる感覚は健在だった。何人かの生徒は、ライブをスマホで撮影している。また、校舎の二階、三階の窓から先輩を見ている人もいた。それぞれが先輩の歌声を楽しんでいるように見える。サビでは自然に手拍子が始まり、見る者だけでなく、先輩の笑顔も輝いている。俺が吹奏楽で見たことのない世界が、そこには広がっていた。

 俺はすっと息を吸い、自分の判断で歌った。正確な音程を追うのはもうやめだ。音源や夏目先輩と音がずれていようと、小声だろうと、とにかく自分の声を出したいと思った。一度出してしまえば、堰を切ったように、家に帰っても風呂に入っても、気づくと口ずさんでいる。次はもっと歌いたい。一緒に。これまで歌の練習をしてきた人と釣り合わないとわかっていても。

◇◇◇

「これ、マズイかもしれない」

 福本先輩のメッセージで目が覚めた。時刻は二三時を過ぎている。送られたURLをタップすると、スマホの画面に今日のライブ映像が再生された。先輩の歌声だけがばっちり収められていて、俺やステージ周りの声は雑音だった。投稿者は、プロフィールに何の記載もない名無しのアカウント。誰がどんな意図で動画を公開したのか、思い当たる節はない。悩んでいる間にも、再生数と「いいね」の数がくるくると増えていく。明らかにバズっている。

 翌日登校すると、俺はクラスメイトに囲まれた。

「昨日のライブ、北川が企画したんだろ?」
「次の連休でさらに伸びそうだよね」
「こんだけバズったんだから、今度はライブ配信やっちゃえば?」

 矢継ぎ早に質問が飛んでくる。しかし、すぐに校内放送で担任の先生に呼び出された。そして職員室で、見せしめのようにこっぴどく叱られた。どうやら校舎や中庭の背景から、高校が特定されてしまったらしい。俺はライブの経緯を説明し、自分のスマホで撮影した写真や動画がないことと、更新をしていないSNSを見せて、身の潔白を証明した。その後、先生と動画を耳と目を凝らして確認し、自分の声や名札など、個人を特定できるものは動画にないと結論づける。今書かれているコメントを見る限り夏目先輩は、結果的に男子生徒に見える服装だったことや、黒髪にしていたおかげで、現時点では特定されていないと思う。けれど、広まってしまった以上、自然に収まるのを待つしかない。これで二時間目が終わってしまった。

 しかし、その願いは叶わず、拡散は収まるどころか、形を変えて広がっていく。三日目あたりから、コメント欄の空気が変わった。

「この子、去年ショッピングモールで歌ってたの見た! 当時は金髪だったけど、声が一緒!」

 そう書き込んだ誰かが、別のファンが撮った一年前のステージ動画を貼り付けた。さらに二つの音声を聞き比べた人たちが、「同じだ」「間違いない」と盛り上がり始める。週明けには「#幻のアイドル」というタグができていて、一年前のステージ動画まで拡散されていた。学校でも話題の中身が変わっていった。

「夏目先輩、本当にアイドルだったんだ!?」
「復活しないのかな?」

 みんなが「幻」の続きを想像して楽しそうだった。夏目先輩が組んでいた三人組アイドルは、いつの間にか活動を止めていて、金髪の先輩だけがファンの間で語り草になっていたという。まさかその子が普通の女子高生に戻っていただけなのに、妙な物語が生まれていた。

◇◇◇

 数日後の昼休み、福本先輩が教室の入り口から手招きした。

「北川くん、夏目先輩のこと、ずっと聞きたそうな顔してたでしょ。去年から」

 去年のステージの日からずっと、と言われたようで、顔が熱くなった。先輩が声を潜めた。

「もう動画のコメント見てると思うけど、夏目先輩的には『幻』にされるのは、あんまり嬉しくないんじゃないかなと思う」

 俺もそう思っていた。あれから再生回数は、また増えている。コメントには「元アイドル」「復帰希望」「特定班まだ?」と、好き勝手に書かれていた。歌そのものについて書いている人は、いつの間にか少なくなっていた。校門の外に他校の制服姿が立つようになり、恐怖すら感じることもある。それはおそらく、夏目先輩も同じだろう。

 俺が聞きたかったのは、あの声だけだった。なのに、俺が整えたステージが、彼女を「探される側」へ押し出してしまったのかもしれない。体操服で走り回っていた自分が、急に間抜けに思えた。

◇◇◇

 九月最後の月曜、福本先輩から短いメッセージが届いた。

「放課後、部室に来てくれる? 夏目先輩も来るから」

 旧校舎の部室は、以前より床が見えるようになっていた。ゴミ捨て場に運ぶはずだった「グリークラブ」の看板は、部室の壁に戻されていた。先に来ていた夏目先輩はマスクをして、窓際のパイプ椅子に座っている。スカートの制服姿の先輩は、俺の制服を着ていたときより、ずっと小さく見えた。福本先輩が咳払いをして話し始める。

「十月最後の土曜に、文化祭の舞台発表があるのは知ってるよね? 有志ステージの枠が一つ空いてるらしい。それにね、夏目先輩が出たいって」

 俺は正直、それは火に油を注ぐ行為だと思った。学校まで特定され、当時と見た目は変わっていても、夏目先輩は顔まで知られている。俺は彼女の言葉を待った。先輩は少し間を置き、窓の外に目をやったまま話し始める。

「動画のこと、担任から聞いた。あんまり登校してないから、被害はないけど……」

 先輩はマスクのひもを指先でいじる。

「ライブで『また歌いたい』と思った。でも一人でステージに立つのは、無理。怖いとかじゃなくて……立ったら、あたしは『幻のアイドル』にされる。歌を聞いてもらう前に、肩書きが先に立つの。それはもういい」

 先輩の一言に、俺の知らない時間が詰まっている気がした。

「でも、歌わないで終わるのは、もっと嫌。だから、紛れたい。合唱でみんなの声に紛れて歌いたいの」
「で、そこが問題でさ」

 福本先輩が口を挟む。

「そう。あたしの声、浮くの。どれだけ音量を絞っても、合わせても、よく通っちゃうから……」

 雑踏から浮かび上がる声を思い出した。俺にとっては奇跡のようなあの声は、彼女にとって、ずっと悩みの種だったのかもしれない。今回の拡散だって、声で特定されたわけだし。どうしたものかと考えていると、夏目先輩がようやくこちらを向いた。

「だから、奏に隣で歌ってほしいの。全然合ってなくて、下手でいいから」
「……それ、頼んでます?」
「頼んでるし、なんなら褒めてる。下手でいいから、奏の声を聞かせてほしい」

 後ろのベンチで、小さな声で、誰にも聞かれない場所で一緒に歌うのは、観客の延長だ。夏目先輩が欲しかったのは、客でも裏方でもなく、同じ高さで声を重ねる誰かだった。ずれても、浮いても、下手でも、隣で鳴り続ける声。そんな声でもいいなら……。

「……下手下手って、うるさい」
「それ、前も言われた」

 彼女はふっと笑った。俺は息を吸った。

「やります。今度は歌う側で。夏目先輩の隣で」

 コンサートマスターも、パートリーダーも、気づけば周りから与えられたものだった。でも今回は違う。福本先輩の「手伝って」にも、夏目先輩の「お願い」にも、惑わされたわけではない。自分自身が、人前で歌おうと思った。

「OK! じゃあ早速だけど、申請お願いできる? クラスの文化祭実行委員を通してくれたらいいから! 俺は部の書類を……って、井上先生のところにちょっと行ってくるから、留守番頼むわ」

 慌ただしく福本先輩が部室から飛び出した。夏目先輩は窓の外を眺め、ぼんやりしている。

「あ……そういえば、奏の連絡先、知らないや」
「え、いります?」
「普通にいるでしょ。教えて」

 差し出されたスマホの画面には、QRコードが表示されている。渋々読み取ると、「みなみ」とだけ表示された。アイコンは、夕焼けの河川敷の写真だった。

「夏目先輩って、『みなみ』って名前なんですね……」
「言ってなかったっけ? 呼び捨てでいいよ」
「いや……夏目先輩でいいです」
「かたいなあ。そうそう、練習は河川敷でやろうか。あの高架下。あそこ、声も紛れるし」

 紛れる。クラリネットを持って逃げ込んだ場所に、今度は声を持って戻るのだ。俺は「みなみ」を「夏目先輩」と登録し直し、うなずいた。

◇◇◇

 翌日の昼休み、俺は今井さんに声をかけた。

「今井さん、ちょっといい? 文化祭の実行委員だって聞いたんだけど……」

 彼女はフルートの楽譜から目を上げた。

「文化祭で、有志の合唱をやることになって……枠が空いてるって聞いたから、申請したいんだ」
「大丈夫だよ。先輩に連絡入れておくね! あの……余計なことを聞いてるのはわかってるんだけど、夏目先輩と合唱するの?」

 あれだけ動画が拡散され、俺が関わっていると知られている以上、余計な嘘はつかないほうがいいと思った。

「あ……うん……」
「やっぱりそうなんだ! 北川くん、拡散されたあのライブのとき、ベンチの端で歌ってたでしょ。聞こえなかったけど、口は動いてた。コンクールのときより、楽しそうな顔をしてたね」

 見ている人は見ているんだなと思った。俺は今井さんに頭を下げた。

「ごめん。今さらだけど、四月のことをちゃんと謝らせて。俺、八つ当たりしたんだ。あれは今井さんの話じゃなくて、全部、自分の問題で……」

 今井さんは少しだけ目を丸くして、それから小さく息をついた。

「うーん……そうだね。びっくりはしたよ。吹部の練習がきつすぎて、音楽が嫌いになったのかなって思った。でも、楽しそうに歌ってたし……」

「関西大会のあと、自由曲のソロを『失敗した』って思ったんだ。そこから全部ダメになったって思い込んでた。今井さんは、もったいないって言ってくれたけど、あのときはきつかった」

 言葉にしてみると、思ったより短い話だった。今井さんは楽譜をそっとなで、ゆっくり言った。

「あの自由曲のソロ、うちの学校の子も苦戦して、選曲から外したの。でもコンクール当日、北川くんの音は止まらなかった。だから、きっとすごく練習したんだと思って……でも、たしかに『もったいない』って言い方は、勝手だったよね。ごめん」

 見ている人には伝わらないと思っていた。それでも、客席に一人、受け取った人がいた。胸の奥が、じんと熱くなる。

「ねえ今井さん、実行委員も吹部も忙しいとは思うんだけどさ、俺たちと歌わない?」

 今井さんは吹き出した。

「うーわ! 北川くん、結構唐突だね? うーん……いいよ。フルートで鍛えた肺活量、見せてあげる」

 俺はつられて笑ってしまった。

◇◇◇

 文化祭まで、一か月。
 福本先輩は、部室に山積みされた楽譜の中から合唱用の原本を何冊も引っ張り出し、『新灯島』を混声三部に編曲した。耳に残るイントロをあえて消し、歌詞から始まるようにアレンジされていた。相変わらず、音楽への情熱がすさまじい。振り付けはネットに上がっていた動画を参考にし、ライブスタイルで両手を動かすだけの簡単なものにした。

 合唱に参加する有志は一四人に絞られた。ライブを聴いていた生徒や、今井さんが連れてきた吹部の友達だ。平日は空き教室で全体練習をし、夏目先輩は人目を避けて、週に何度か俺と河川敷の高架下で個人練習をした。以前は、俺が音を出し、彼女が川を眺めていた。今は二人で川に向かって声を出している。

「全部合わせようとしないで。まず聞いて」
「え、聞くの?」
「外れてもいいから、止まらない。外れたまま、隣の声を聞く。そしたら不思議と、少しずつ寄っていくから、大丈夫!」

 正確さを積み上げる練習ばかりしてきた俺には、止まらないことのほうが、よほど難しかった。

◇◇◇

 文化祭当日は、秋晴れだった。

「合唱は、誰か一人が目立つ音楽じゃないからね」

 福本先輩の提案で、衣装は全員、白いTシャツに黒いズボンでそろえた。舞台袖に井上先生が「グリークラブ」の看板をそっと置く。部としては歌えないけれど、見守ってくれているような気がした。
 そして、いよいよ幕が上がる。隣の夏目先輩に小声で話しかけた。

「緊張してますか?」
「してるよ。奏は?」
「してます。たぶん音程ずれます」
「ずれていいよ」

 福本先輩の手がゆっくり上がり、一同は構えた。歌い出しの合図は吹奏楽と同じだ。福本先輩が腕を振る。

「ワン、ツー」

 最初の一節、夏目先輩の声は驚くほどなじんでいた。野外ステージで雑踏から浮かび上がってきたあの声は、今は一四人の波の中に身を沈めている。客席から見たら、誰がどの声かなんて、きっとわからない。

 一回目のサビで、俺の声が裏返った。高い音に届かず、半音ずれる。いつもなら、ここで口を閉じてしまっていた。不完全な音を人前に出してはいけないと、ずっと思ってきた。けれど今日は止めない。止めないまま、隣を聞いた。すると夏目先輩の声がほんの少し、こちらに寄ってきた。合わせるのではなく、半音の隙間にそっと重なる。正確な音程で俺の声を覆い隠すのではなく、ずれたままの声の輪郭を残し、寄り添っていた。

 ああ、そうか。「一緒に歌う」って、これのことだと思った。人の声色はバラバラだ。吹奏楽はまず音色をそろえ、音程を合わせる。でも、歌は違うまま進んでいく。だから音程がずれたとしても、その空気に紛れるように調整してもいいし、むしろ味だと割り切ってもいい。

 福本先輩が最後のサビで客席に手拍子を求めた。むしろ客も歌えと言わんばかりにあおる。最後のコーラスは、一四人とお客さんの声で体育館いっぱいに広がった。歌が終わるのが惜しいと思った。
 拍手のあと、客席のどこかから「いい曲だったね」という声がする。誰が歌っていたかを気にする人は、いなかった。夏目先輩は、ちゃんと紛れていた。

◇◇◇

 片付けは夕方までかかった。最後にステージの袖で、福本先輩がグリークラブの看板にそっと触れた。

「これは、春までしまっておこう。部の名称変更は新年度かららしいから、堂々と掲げるのはそれからだね」
「春まで、ですか」
「うん。次は有志じゃなくて、部として出よう」

 先輩と二人で看板を抱え、旧校舎へ向かう。中庭を通ると、ライブをしたときに俺が座ったベンチに、夏目先輩が座っていた。衣装の白いシャツに黒いパーカーを羽織っている。彼女はマスクを顎までずらし、夕焼けを見ていた。

「先に行ってるね」

 福本先輩は看板を一人で受け取り、軽く手を振って去っていった。
 手持ち無沙汰になった俺は、夏目先輩の隣に座る。しばらく、二人とも黙って空を見上げた。体育館のほうから、片付けの音と笑い声が聞こえる。

「紛れられました?」
「うん、ちゃんと。……意外とよかった」

 それから彼女は、少しだけこちらを向いた。

「途中から、奏の声だけ探して歌ってた」
「……ずれたの、気づいてくれましたね」
「ふふ……見つけやすかった」

 紛れて終わったと思っていた俺の声を、一人だけ道しるべにしてくれていた人がいた。それだけで、もう十分だと思った。

◇◇◇

 時は流れ、翌年の春を迎えた。あの中庭には、また桜の花びらが積もり、無造作に踏みつけられている。俺は高校二年になり、今日で一七歳だ。夏目先輩は、出席日数ぎりぎりでなんとか卒業した。
 三年生になった福本先輩は、部室の看板を「音楽研究部」から「グリークラブ」に掛け替えた。部員は福本先輩と俺の二人で、顧問は井上先生。次の文化祭では、有志を募らなくても成立するように、新入生の勧誘に乗り出した。

「グリークラブって、歌う部ですか?」

 懐かしい声に振り返ると、そこには矢部ちゃんがいた。まさか後輩が入学してくるとは、考えもしなかった。

「あの日、先生が菜箸を投げ飛ばして、凍りついたよなぁ……」
「先輩が卒業した後、もっとすごい事件が起きたんですよ。もう最悪でした!」

 その日、俺は矢部ちゃんを河川敷に誘い、昔話に花を咲かせた。吹奏楽部という特殊な環境は、時の変化によって見え方が変わってくる。あの菜箸事件だって、もうすっかり笑い話にできる。芝生に座り込み、ひとしきり話し終えたあと、矢部ちゃんが真剣な顔をした。何か聞きたいことがあるのだろうと思った。そして俺は、それに答える義務がある。引退式の日、彼が求める答えを言えなかったから。

「どうして辞めたんですか?」

 あの日、俺は矢部ちゃんに「クラリネットを続けてください」と言われた。でも引退式のあと、楽器に触れることはなかった。進学してすぐのころも今井さんに八つ当たりして、ずっと苛立っていた気がする。

「『一日練習を休めば三日分下手になる』っていうじゃん? 楽器から遠ざかれば遠ざかるほど、下手な自分が人前に出ていいのか、その勇気が持てなかった。怖かったんだ……」
「先輩でも、その勇気が出ないことってあるんですね……」
「今は……今はもう大丈夫だよ。クラリネットじゃないけど、歌えるようになった」

 俺はワンフレーズだけ歌った。静かな海を思わせる曲は、今の気持ちにそっと寄り添った。ふと見ると、矢部ちゃんの目はまた真っ赤になり、今にも涙がこぼれそうになっている。

「先輩……俺、楽譜が読めないままなんですけど、耳と声でグリークラブに入れますか? 一生懸命練習します! だから……」
「大丈夫だよ。一緒に歌おう」

 俺は大きく息を吸って歌い始める。曲の途中で息継ぎをする。完成しない声のまま、歌い続ける。

◇◇◇

「今日は中学のときの後輩が来てくれました。下手なままだけど、一緒に歌えたよ」

 夏目先輩にメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

「奏のファン一号は譲らない」

 その短い返事が、今日も俺に歌う勇気をくれる。