僕と彼女の恋AI境界線

 新刊を一冊ずつ買った後、僕たちは駅前の公園のベンチに座った。
 腰を下ろした小宮さんの足元を見る。
 それは履き慣れた茶色のローファーだった。

「足、もう大丈夫なの?」
「もち。っていうか何日経ってると思ってんの」

 小宮さんはつま先を少し上げて、小さく笑った。
 僕は膝の上の紙袋を指先で握りしめる。
 言わなければいけないことがあった。

「……ごめん」
「何が?」
「水族館の時。楽しかったって言ってくれたのに、嘘つきみたいに決めつけて……ひどいこと言った」

 小宮さんは、紙袋の端を指でなぞりながら、静かに首を横に振った。

「ううん。私こそ、ごめん。あの時は、なんで佐伯くんがあんなに怒ったのか、本当はよく分かってなかった」

 ぽつりぽつりと落ちる彼女の告白。

「恋愛がしてみたいって焦って、佐伯くんの真剣な気持ちを全然考えてなかった。ほんと、勝手だったよ」

 責める気持ちは、いつの間にか消えていた。

「小宮さんはAIにさ」

 僕は小宮さんの横顔を見つめた。

「僕のこと、なんて話してたの?」

 小宮さんが真剣な表情を浮かべ、ぽつりと言う。

「……本の話になると、急に早口になる人」
「悪かったね」
「悪くないよ」

 小宮さんの口元が、ふわりと緩む。

「あと、私が愛想笑いしても、無理に話を合わせない人。……私、学校だとさ、嫌われないように誰にでも合わせちゃうから。似てると思ったの。周りと一線引いてるところが」
「……僕、そんなに分かりやすかった?」
「うん。だから、ミオが佐伯くんを提案してくれた時、ちょっと嬉しかったんだ」

 小宮さんは、恥ずかしそうに視線を落とした。

「教室で話しかけられなかったのはさ。友達に茶化されるのが怖かったのもあるけど……佐伯くんの前で見せてる素の自分が、普段の『いい子の私』と違いすぎて、混乱しちゃってたんだと思う。ずるいよね」
「……そう」
「うん。佐伯くんの気持ちも知らないで、分かった気になってた」
「それは僕も同じだ」

 息を吐き出す。
 運命のヒロインだと勝手に祭り上げ、生身の彼女を見ていなかったのは僕の方だ。

「佐伯くんは、AIになんて相談してたの?」
「……最初にチャット送る時、不審者扱いされない文章を考えてもらった。『千防先生の新刊が来月発売されるそうですね。もうご存じでしょうか?』って」
「あはは! 何それ、おじさんのメールじゃん!」

 小宮さんが吹き出した。
 公園の冷たい空気の中に、彼女の笑い声が弾む。

「でも、ナギがいなかったら、あの日メッセージすら送れなかった」
「私も。ミオがいなかったら、佐伯くんにもっと近づこうって思わなかったかも」
「じゃあ……半分くらいはあいつらのおかげか」
「いや、八割ぐらいかも」

 小宮さんは紙袋から新刊を取り出し、膝の上に置いた。
 そして、まっすぐに僕を見る。

「今日会えて嬉しかった。また……さ。佐伯くんと話したい」
「僕もだよ」

 僕は自分の膝の上に手を置いた。

「でも、今すぐ付き合うとかは、まだ考えられない」
「ここまで来てそんなことある?」
「データが圧倒的に不足している」
「また出た。なんかAIっぽい」

 小宮さんが眉を上げて笑う。
 僕は言い返した。

「今のは僕自身の言葉」
「本当に?」
「……おそらく」
「自信なさげー」

 言ってから、二人で同時に吹き出した。
 どこまでがナギで、どこまでが僕か――線なんか引けない。
 
「ちなみに、さっきの『かぶったね』は、私のセリフだからね。著作権の重要な侵害です」
「引用に、許可は不要でしょ」
「出典元明記必須」

 小宮さんはいたずらっぽく笑った。
 僕は彼女の目の前で、ポケットからスマホを取り出す。
 あの苦しかった夜から、ずっと心の奥で点滅していた未返信のメッセージ。

『湊は、小宮さんともう一度話したいと考えていますか?』

 僕は迷うことなく、指先を滑らせた。

『うん。今、隣で話してる』

 送信。
 画面を覗き込んできた小宮さんが、目を丸くして、それから柔らかく目を細めた。

「私も、ミオに報告しとこ」

 小宮さんもスマホを取り出し、画面に指を走らせる。

《ミオ、仲直りできたよ》
《それは良かったですね。じゃあ次は――》

 僕はそれを横目に買ったばかりの本を開く。
 それに気づいた小宮さんが顔を上げる。

「あっ、佐伯くん、ずるい!」
「お先ー」

 ページをめくる乾いた二つの音が重なる。
 それは冬の空をどこまでも高く、泳いでいった。