翌朝、小宮さんはいつものように笑っていた。
教室の前の席。
女子のグループに囲まれ、週末のテレビの話か何かに楽しそうにうなずいている。
僕は自分の席につき、鞄を机の横のフックにかけた。
ホームルームが始まり、前の席からプリントが回ってくる。
「はい」
「……ありがとう」
小宮さんは、僕と目を合わせることなく、すぐに前を向いた。
二秒間のやり取り。
もともと、教室では大して話していなかったのだ。
だから、別に何も変わっていない。
元に戻っただけだ。
僕は机の角でプリントの端を几帳面にそろえ、誰にも見えないように小さく息を吐いた。
木曜日の放課後。
夕日が差し込む図書室のカウンターには、いつものようにパイプ椅子が二つ並んでいた。
「返却処理、終わった」
「うん。そこ、置いといて」
小宮さんはカウンターに視線を落としたまま答えた。
僕は言われた場所に文庫本を積み上げ、自分の椅子に腰を下ろす。
隣で、静かにページをめくる乾いた音がした。
何を読んでいるのだろう。
気になったけれど、僕は鞄から自分の本を取り出して開くだけにとどめた。
聞こうと思えば、一秒で聞ける距離に彼女はいる。
けど、その隙間に、水族館の水槽みたいな分厚いガラスがあるように思えた。
しばらくして、ガラリとドアが開き、巡回中の先生が入ってきた。
僕たちは二人とも、顔を上げなかった。
途切れる会話は、最初からなかった。
夜になっても、小宮さんからのメッセージは来ない。
もちろん、僕からも送らなかった。
机の上のスマホが震えるたびに心臓が跳ね、通知がゲームのログインボーナスや公式アカウントだと分かると、裏返して伏せる。
そんな無駄なバッテリー消費を、何日も繰り返した。
ある夜、僕は逃げ込むようにナギのアプリを開いた。
『小宮さんと喧嘩した』
『どのような出来事があったのでしょうか?』
相変わらずの、感情を持たないフォント。
僕はあの日、水族館の帰りに起きたことを画面に打ち込んだ。
書いては消し、消しては書き直す。
どうしても、自分が感情任せにぶつけたみっともない言葉だけを、都合よく短くまとめたくなってしまう。
送信ボタンを押すと、画面に『考え中』の文字が点滅した。
やがて、ナギから返信が届く。
『状況は把握しました。湊は、小宮さんともう一度話したいと考えていますか?』
画面を前に、指が止まった。
僕はキーボードに『別に』と二文字だけ打ち込む。
でも、送信ボタンは押せなかった。
最初に『運命だ』と浮かれて、ナギに相談を始めたのは僕だった。
バックスペースで『別に』を消した後、どれだけ画面を見つめても、代わりの言葉は一文字も浮かんでこなかった。
ナギとのチャットを閉じ、小宮さんとのチャット履歴を開く。
指先で画面を少しさかのぼるだけで、あの文字が見つかった。
『お魚見たい笑』
あの時は、あんなに嬉しかったのに。
僕はそれ以上スクロールする勇気が持てず、画面を伏せてベッドに倒れ込んだ。
机の上には、読みかけの小説が積まれている。
小宮さんと出会うまでは、この活字の世界だけで僕の毎日は過不足なく満たされていたはずだった。
それなのに、手にとった文庫本は、まるで乾いたスポンジみたいに軽く、手ごたえがなかった。
十二月三日。
千防彼方の最新短編集、『世界で一番端の街』の発売日がやってきた。
放課後、僕は寄り道もせず、駅ビルの大型書店に向かった。
自動ドアをくぐると、入口のイーゼルに新刊案内の大きなポスターが立てかけられている。
青と白のグラデーションで描かれた美しい装丁。
ようやく出たんだと思った途端、無意識のうちに右手が制服のポケットへ伸びていた。
スマホを取り出す直前で、指を止める。
小宮さんに報告する必要なんてない。
僕は純粋に、好きな作家の新刊を買いに来ただけだ。
それ以外の理由なんて、一つも存在しない。
自分にそう言い聞かせながら、文芸書コーナーへと足を進めた。
千防先生の新刊は、通路に面したメインの平台に高く平積みされていた。
その隣には、僕たちの共通言語だった既刊が並んでいる。
『サヨナラの手前』。
『この恋は、電波が届かない所にある』。
それぞれの表紙を指先でなぞるように眺めてから、一番上に積まれた本に手を伸ばした。
その時。
右側から、スッと細い指が伸びてきた。
同じ本が、もう一冊、同時に持ち上がる。
視線を上げた。
隣にいたのは――小宮透花だった。
息が止まる。
小宮さんも僕に気づき、目を見開いたまま固まっている。
お互い、新刊を手に持ったまま、指一本動かせない。
二人の間に流れる秒針の音が耳に響くようだった。
あの日の図書室で、彼女が話しかけてくれた声が、鮮明に脳裏で再生された。
僕は息を大きく吸う。
「『かぶったね』」
そう言って、顔の前に本を掲げた。
その瞬間、小宮さんは泣きそうな、嬉しそうな顔をした。
彼女がつぶやく。
「……これって運命だと思う?」
「違う」
僕は首を大きく横に振る。
「ただの約束だよ」
同じ本を手にしたまま、僕たちは噴き出すように笑った。
教室の前の席。
女子のグループに囲まれ、週末のテレビの話か何かに楽しそうにうなずいている。
僕は自分の席につき、鞄を机の横のフックにかけた。
ホームルームが始まり、前の席からプリントが回ってくる。
「はい」
「……ありがとう」
小宮さんは、僕と目を合わせることなく、すぐに前を向いた。
二秒間のやり取り。
もともと、教室では大して話していなかったのだ。
だから、別に何も変わっていない。
元に戻っただけだ。
僕は机の角でプリントの端を几帳面にそろえ、誰にも見えないように小さく息を吐いた。
木曜日の放課後。
夕日が差し込む図書室のカウンターには、いつものようにパイプ椅子が二つ並んでいた。
「返却処理、終わった」
「うん。そこ、置いといて」
小宮さんはカウンターに視線を落としたまま答えた。
僕は言われた場所に文庫本を積み上げ、自分の椅子に腰を下ろす。
隣で、静かにページをめくる乾いた音がした。
何を読んでいるのだろう。
気になったけれど、僕は鞄から自分の本を取り出して開くだけにとどめた。
聞こうと思えば、一秒で聞ける距離に彼女はいる。
けど、その隙間に、水族館の水槽みたいな分厚いガラスがあるように思えた。
しばらくして、ガラリとドアが開き、巡回中の先生が入ってきた。
僕たちは二人とも、顔を上げなかった。
途切れる会話は、最初からなかった。
夜になっても、小宮さんからのメッセージは来ない。
もちろん、僕からも送らなかった。
机の上のスマホが震えるたびに心臓が跳ね、通知がゲームのログインボーナスや公式アカウントだと分かると、裏返して伏せる。
そんな無駄なバッテリー消費を、何日も繰り返した。
ある夜、僕は逃げ込むようにナギのアプリを開いた。
『小宮さんと喧嘩した』
『どのような出来事があったのでしょうか?』
相変わらずの、感情を持たないフォント。
僕はあの日、水族館の帰りに起きたことを画面に打ち込んだ。
書いては消し、消しては書き直す。
どうしても、自分が感情任せにぶつけたみっともない言葉だけを、都合よく短くまとめたくなってしまう。
送信ボタンを押すと、画面に『考え中』の文字が点滅した。
やがて、ナギから返信が届く。
『状況は把握しました。湊は、小宮さんともう一度話したいと考えていますか?』
画面を前に、指が止まった。
僕はキーボードに『別に』と二文字だけ打ち込む。
でも、送信ボタンは押せなかった。
最初に『運命だ』と浮かれて、ナギに相談を始めたのは僕だった。
バックスペースで『別に』を消した後、どれだけ画面を見つめても、代わりの言葉は一文字も浮かんでこなかった。
ナギとのチャットを閉じ、小宮さんとのチャット履歴を開く。
指先で画面を少しさかのぼるだけで、あの文字が見つかった。
『お魚見たい笑』
あの時は、あんなに嬉しかったのに。
僕はそれ以上スクロールする勇気が持てず、画面を伏せてベッドに倒れ込んだ。
机の上には、読みかけの小説が積まれている。
小宮さんと出会うまでは、この活字の世界だけで僕の毎日は過不足なく満たされていたはずだった。
それなのに、手にとった文庫本は、まるで乾いたスポンジみたいに軽く、手ごたえがなかった。
十二月三日。
千防彼方の最新短編集、『世界で一番端の街』の発売日がやってきた。
放課後、僕は寄り道もせず、駅ビルの大型書店に向かった。
自動ドアをくぐると、入口のイーゼルに新刊案内の大きなポスターが立てかけられている。
青と白のグラデーションで描かれた美しい装丁。
ようやく出たんだと思った途端、無意識のうちに右手が制服のポケットへ伸びていた。
スマホを取り出す直前で、指を止める。
小宮さんに報告する必要なんてない。
僕は純粋に、好きな作家の新刊を買いに来ただけだ。
それ以外の理由なんて、一つも存在しない。
自分にそう言い聞かせながら、文芸書コーナーへと足を進めた。
千防先生の新刊は、通路に面したメインの平台に高く平積みされていた。
その隣には、僕たちの共通言語だった既刊が並んでいる。
『サヨナラの手前』。
『この恋は、電波が届かない所にある』。
それぞれの表紙を指先でなぞるように眺めてから、一番上に積まれた本に手を伸ばした。
その時。
右側から、スッと細い指が伸びてきた。
同じ本が、もう一冊、同時に持ち上がる。
視線を上げた。
隣にいたのは――小宮透花だった。
息が止まる。
小宮さんも僕に気づき、目を見開いたまま固まっている。
お互い、新刊を手に持ったまま、指一本動かせない。
二人の間に流れる秒針の音が耳に響くようだった。
あの日の図書室で、彼女が話しかけてくれた声が、鮮明に脳裏で再生された。
僕は息を大きく吸う。
「『かぶったね』」
そう言って、顔の前に本を掲げた。
その瞬間、小宮さんは泣きそうな、嬉しそうな顔をした。
彼女がつぶやく。
「……これって運命だと思う?」
「違う」
僕は首を大きく横に振る。
「ただの約束だよ」
同じ本を手にしたまま、僕たちは噴き出すように笑った。


