僕と彼女の恋AI境界線

 三連休の最終日。
 僕は街から電車で一時間ほど離れた場所にある水族館に来ていた。
 館内へ向かう通路は、家族連れやカップルでにぎわっている。
 こんな人が多い場所に、自分が好き好んで来るとは思いもしなかった。

「どうしたの?」

 小宮さんが僕の顔をのぞき込む。
 サイズの大きい白いシャツに、いつもより少し短い黒のスカート。
 制服の時より大人びて見え、二十歳と言われても信じてしまいそうだ。
 僕は少し考えた後、答える。

「なんだか十七歳以上に見える」
「それ、褒めてる?」
「その可能性が高い」
「変な言い方」

 小宮さんが口に手を当て、クスクスと笑った。
 彼女の笑顔を見た瞬間、昨日ナギと一緒に準備した話題が吹き飛ぶ。
 ヤバい。
 なにか話さないと。

「……本当に、魚、見たかったの?」
「ん?」
「いや、ただ変換ミスったのかなって」
「あー」

 小宮さんが目を細めた。

「ミスってない」
「あやしい」
「あやしくないあやしくない」
「二回も言った」

 小宮さんが少し顔を上げながら笑った。
 僕はさっきカウンターでもらったパンフレットを広げる。

「じゃあ……誘ってよかったんだ」
「それはどうかな」
「えっ」
「佐伯くんと見たい、とまでは言ってない」
「はあ!?」

 僕は間の抜けた声を上げて固まった。
 小宮さんはいたずらっぽく笑うと、僕の手元のパンフレットをのぞき込んでくる。
 肩が触れそうになり、思わず姿勢を正す。

「けど、佐伯くんと見たくない、とも言ってない」
「なんだよ、それ」
「それでは、見に行くとしよう」

 小宮さんがわざとらしくキリッとした表情を浮かべたので、僕は思わず笑ってしまった。



 壁いっぱいの水槽を、銀色の魚たちが泳いでいる。
 一匹が向きを変えると、残りもほとんど同時に進路を変えた。
 小宮さんが水槽に両手を置く。

「なんか、体育祭みたい」
「マスゲーム?」
「そうそう」
「僕だったら、端の方を泳ぐ。スペース空いてるし」
「集団行動、苦手なんだ」
「好きじゃないだけ」
「ふうん」

 小宮さんは僕たちの前から離れていく魚の群れを目で追った。
 僕もその隣に立つ。

「佐伯くんと、どっちが速いかな」
「魚」
「あれ? 今回はデータ不足じゃないの?」
「あのな、向こうは住んでるんだぞ」

 小宮さんが吹き出した。
 少し大きな声だったので、慌てて口を押さえる。

「……たしかに」
「こっちは毎日、陸に帰ってる」
「じゃあ、水の中に住めば勝てる?」
「まず、呼吸の問題を解決しないと」
「前向きー」

 言いながら、小宮さんはまだ笑っていた。
 僕もつられて、口元が緩む。
 
 次の水槽では、小宮さんがしゃがみ込んだ。
 まだら模様の岩の隙間を、じっとのぞいている。

「いた」
「なにが?」
「ほら、ここ」

 彼女の指の先を見ると、まだら模様の魚が顔を出す。

「ウツボだ」
「かわいくない?」

 正直、愛嬌があるとは言い難い。

「……独特の感性だね」
「今、言葉選んだでしょ」
「別に」
「かわいくないと思ったんだ」
「そうは言ってない」

 小宮さんが眉をつり上げながら、僕を見る。
 水槽の光を受けた顔が、思っていたより近かった。

「なんか、なにも考えてなさそうなところがいいんだよね」
「決めつけ」
「……そうかも」
「そう」
「じゃあ、なに考えてると思う?」

 小宮さんとウツボはじっと見つめ合っている。

「――『こっち見んな』」
「ふむ。それはすまんかった」

 小宮さんはウツボに向かって小さく頭を下げた。
 僕は笑いながら、次の水槽を指差す。

「次、見に行くとしよう」

 大きな魚を見上げたり、隠れた魚を探したり。
 説明を読んで感心した次の瞬間には、どうでもいいことで笑ったり。
 会話が途切れても、次の話題を考えなくてよかった。
 少し歩けば、小宮さんが何かを見つける。
 僕が立ち止まれば、彼女も隣に戻ってくる。

「これ、見た?」
「まだ」
「じゃあ、見てから行こ」

 そんな短いやり取りだけで、次の場所が決まる。
 水族館は迷宮のようで、僕は今どこにいるのか分からなくなっていく。
 もしかしたら、僕たちはこのまま一生出られないかもしれない。

「……最後のクラゲ、かわいかったね」
「それには同意」

 けど、それはただの勘違いで、僕たちはちゃんとゴールに辿り着いた。
 


 水族館を出ると、空は夕暮れに染まっていた。
 駅へ続く道には、乾いた葉がいくつも転がっている。
 隣を歩く小宮さんの歩幅が、いつの間にか小さくなっていた。

「どうかした?」

 僕が足を止めると、小宮さんはバツが悪そうに笑った。

「あ、ごめん。ちょっと靴が」

 小宮さんは片足を浮かせ、靴のかかとに指を入れた。
 少しだけ眉を寄せる。

「靴ずれ?」
「たぶん。新しい靴だったから」
「いつから?」
「んー……途中から」

 魚と彼女の顔しか見てなかった今日の僕に、心の中で文句を言った。

「言ってくれれば、休んだのに」
「だって、まだ見てない水槽いっぱいあったし」

 小宮さんは笑って、地面に足をつけた。
 けど、次の一歩を踏み出すのが少し遅い。

「あそこ、座ろう」

 僕は通りから少し離れた所にあるベンチを指差した。
 小宮さんは今度こそ、素直にうなずいた。
 ベンチに腰を下ろすと、彼女は大きく息を吐いた。

「はー……生き返る」
「そんなに痛かったの?」
「座ると分かるね」
「何でそこまで我慢するんだよ」
「だってさ」

 小宮さんは自分の靴を見下ろした。
 つま先を少しだけ動かす。

「かわいくない?」

 僕は言葉に詰まった。

 靴そのもののことを言っているのか、今日わざわざ新しい靴を履いたことを言ってるのか――僕はそれが分からず、顔をそらす。

「……次は、歩きやすいやつにしなよ」
「次?」

 言ってから『しまった』と思った。

 次。

 そんなものがあるかなんて分からないのに、勝手に作ってしまった。
 僕が視線を戻すと、小宮さんがじっとこっちを見ている。
 数秒間――いや数億年ぐらいに感じた沈黙の後、彼女が口を開く。

「分かった。次はスニーカーにする」

 何でもないことのように言われ、僕はうなずく。

 僕たちの目の前を、たくさんの人が通り過ぎていく。
 遠くからは、車の走る音も聞こえた。

「今日さ」

 小宮さんがぽつりとつぶやいた。

「いっぱい笑ったね」
「うん」
「学校だとあんまり笑わないのに」
「小宮さんこそ」
「いや、私はいつも笑ってるし」
「そうかな?」

 自然と言葉が胸の奥から出てくる。

「いつもと笑い方、違うように見えた」
「えっ」

 小宮さんが初めて戸惑ったような顔をした。
 少しだけうつむきながら、目が魚のように泳ぐ。
 顔が赤く見えるのは、きっと夕暮れのせいだ。
 いや。
 きっと――それだけじゃない。

「小宮さん」
「佐伯くん」

 声が重なった。
 小宮さんが目を丸くし、僕も口を閉じる。

「……なに?」
「いや、小宮さんこそ」

 譲り合って、また黙る。
 小宮さんがスカートの上に置いた指を、もぞもぞと動かした。
 僕は叫ぶように言う。

「な、なんか、今スマホ震えて! ちょっと待って!」
「へ、へえー偶然! 私も!」

 僕は彼女に背を向け、ポケットからスマホを取り出す。
 そういえば水族館に入ってから、一度も触っていなかった。

『ナギ、今、小宮さんと二人でベンチに座ってる』
『デートはいかがでしたか?』
『そんな感想は後だ! なんかいい雰囲気なんだよ。告白していいと思う?』

 入力した文章を見て、僕は自分でも驚いた。

 告白。
 この僕が?

 ナギの画面に『考え中』と表示される。
 僕は、その文字を食い入るように見つめた。

『小宮さんの気持ちは私には分かりません』
『またデータ不足かよ』
『はい。ただ――』

 そこで少しだけナギの回答が止まる。

『湊が気持ちを伝えたいと思っているなら、今、伝えてみてもよいでしょう』

 僕は肺の中の空気を全部吐き出す。
 もし僕が小説の主人公なら、こんな時、気の利いたセリフを言うんだろう。
 けど、僕はありきたりの言葉しか思いつかない。

 よし、決めた。
 僕は勢いよく振り返った瞬間――同じように動いた彼女と、手の甲がぶつかった。

「あっ」
「ごめん!」

 僕のスマホが、ベンチの上に落ちた。
 AIとのチャットの画面がむき出しになり、僕は凍りつく。

 見られた。

「えっと……その……」

 僕はなんとか言葉を絞り出そうとするが、それは無駄な努力に終わる。
 その時、小宮さんが自分のスマホを僕に見せる。
 そこに映っていたのは、AIとのチャット。

「……佐伯くんも?」
「もしかして、小宮さん……も?」

 目が合った瞬間、僕たちは吹き出した。
 笑い声が、夕暮れの空を舞う。
 まったく、二人してなにをやっているのだろう。

 小宮さんが恥ずかしそうに頬に手を置く。

「まさか、お互いAIに恋愛相談してたなんてね」
「ほんと、今時の高校生は」
「当事者じゃん」

 小宮さんがまた一段と笑い声を大きくする。

「でも、佐伯くんでよかった。ミオが選んだのが」

 僕は固まる。

「選んだ……?」
「ん?」

 小宮さんはきょとんとした表情で、首をかしげる。

「私のAI――ミオが言ったの。最初に付き合うなら、『佐伯くんが良さそう』だって」

 さっきまで用意していた二文字の言葉が、砕けた。