恋人なら、一番がいい

 塾の授業が終わり、帰り支度をしていると、隣から声がした。

「莉子、今日一緒に帰ろう」

 顔を上げると、彼——悠真が笑っていた。

「うん!」

 思っていたよりも大きな声が出て、少し恥ずかしくなる。
 久しぶりに、塾の帰りが一緒になった。
 たったそれだけのことなのに、嬉しかった。
 二人で教室を出て、並んで歩き始める。
 外はすっかり暗くなっていた。
 街灯の明かりが足元を照らし、少し冷たい風が頬を撫でる。

「今日の授業、最後の問題わかった?」
「え、全然。悠真は?」
「俺もわかんなかった。あれ絶対難しすぎるって」
「だよね! 私だけじゃなくてよかった」

 そんな何気ない会話で、二人して笑った。
 学校が違う私たちは、普段、お互いの一日を隣で過ごすことができない。
 だから、こうして一緒に帰れる時間は、私にとって特別だった。
 もう少し話していたい。
 もう少し、一緒に歩いていたい。
 そう思うくらい、楽しかった。
 けれど、楽しい時間が続くほど、心のどこかに引っかかっていたものが、少しずつ顔を出す。
 次に一緒に帰れるのは、いつだろう。
 次に会えるのは、いつだろう。
 せっかく今、隣にいるのに。
 そんなことばかり考えてしまう自分がいた。

「……そういえば、悠真って今度の日曜日、友達と遊ぶんだよね?」

 なるべく何気なく聞いたつもりだった。

「うん。中学のときの部活仲間と」
「へえ、どこで遊ぶの?」
「まだ決めてない。久しぶりにみんなで集まるから、楽しみなんだよね」
「そっか」

 私は気にしてないふりをしながら、笑って答えた。
 友達と遊ぶことは、別に悪いことじゃない。
 わかっている。
 私だって友達と遊びたいし、悠真に友達との時間をなくしてほしいわけじゃない。
 それなのに。

「……私とも、あんまり会えないのにね」

 口にしてから、しまった、と思った。

「え?」
「ううん。なんでもない」

 慌てて首を振ったけれど、悠真は聞き逃してはくれなかった。

「いや、何?」
「だから、なんでもないって」
「なんか今、嫌味っぽく聞こえたんだけど」

 その言葉に、胸の奥がちくりとした。

「別に、嫌味じゃないよ」
「じゃあ、どういう意味?」

 どういう意味。
 聞かれても、自分でもよくわからなかった。
 会いたいだけ。
 もっと一緒にいたいだけ。
 でも、そんなことを言うのは、彼を困らせる気がした。

「……別に。友達と遊ぶのはいいと思うよ」
「じゃあ、なんでそんな言い方するの?」

 彼の声が、少しだけ硬くなった。
 私は足元に目を落とした。
 楽しかったはずなのに。
 さっきまで、隣を歩いているだけで嬉しかったのに。

「だって、私とは全然会えないじゃん」

 今度は、さっきよりもはっきりと言葉が出た。
 彼は黙った。
 その沈黙が怖くて、私は続けた。

「私、今度の日曜日は会えるかなって思ってたし……」
「それ、先に言ってくれればよかったじゃん」
「……え?」
「会いたいなら、会いたいって言ってくれればいいのに。俺だって、予定がなかったら会うよ」

 会いたいなら、会いたいって言えばいい。
 そんな簡単なことが、どうしてかできなかった。

「そういうことじゃなくて……」
「じゃあ、どういうこと?」

 また聞かれた。
 答えられなかった。
 私だって、わからない。
 ただ、彼にとって私は、友達と同じくらいの存在なのだろうか。
 恋人になったのに。
 付き合う前と、何も変わらないのだろうか。
 そんな言葉が頭の中に浮かんだ。でも、口にすることはできなかった。

「……もういい」

 そう言うと、彼は困ったように息を吐いた。

「だから、何が?」
「もういいってば」

 自分でも、どうしてこんな言い方しかできないのかわからなかった。
 悠真が悪いわけじゃない。
 それはわかっている。
 なのに、わかっているだけでは、どうにもならなかった。
 悠真は、しばらく黙っていた。
 私も、それ以上何も言えなかった。
 言いたいことはあるはずなのに、言葉にしようとすると、何もかも違う気がした。
 会いたい。
 もっと一緒にいたい。
 私のことを、もっと特別に思ってほしい。
 でも、そんなことを全部口にしたら、悠真を困らせてしまう気がした。

「……もう帰ろう」

 先に口を開いたのは、悠真だった。

「うん」

 私は小さくうなずいた。
 いつもなら、駅までの道も、別れ際も、少しでも長く一緒にいたいと思う。
 でも、その日は違った。
 隣を歩いているのに、何を話せばいいのかわからない。
 駅に着くと、悠真は改札の前で足を止めた。

「……じゃあ、またね」
「……うん。またね」

 いつもと同じ言葉だった。
 それなのに、いつもみたいに笑えなかった。
 悠真も何か言いたそうにしていたけれど、結局、何も言わなかった。
 私は改札を通り、振り返らずにホームへ向かった。
 電車を待っている間、スマホを取り出した。
 悠真とのトーク画面を開く。
 最後のメッセージは、昨日の夜のものだった。
 いつもなら、今ごろ今日の話をしているはずだった。
 今日、一緒に帰れて嬉しかったこと。
 授業の問題が難しかったこと。
 帰り道で話した、くだらないこと。
 送りたいことはいくつもあった。
 でも、何も送れなかった。
 電車がホームに入ってくる。
 私はスマホを閉じて、乗り込んだ。