恋人なら、一番がいい

 彼と出会ったのは、塾だった。
 最初に話しかけてきたのは、彼のほうだった。

「ねえ、前から思ってたんだけどさ」

 授業が終わったあと、帰り支度をしていた私に、彼が声をかけてきた。

「なに?」
「名前、なんていうの?」
「え、同じクラスなのに知らなかったの?」
「いや……ごめん、知ってる。話すきっかけがほしかっただけ」

 少し照れたようにうつむく彼を見て、胸の奥がくすぐったくなったのを、今でもよく覚えている。
 同じ教室で授業を受けていても、席が近いわけでもなければ、話す機会もない。
 顔と名前が一致する程度の、そんな関係だった。
 なのに、次の日も、その次の日も、彼は私に話しかけてきた。
 授業のこと。学校のこと。好きな音楽のこと。
 最初は何を話せばいいのかわからなかったけれど、何度も話しているうちに、自然と会話が続くようになった。
 彼はよく笑う人だった。
 私が何気なく話したことにも反応してくれるし、くだらない話でも楽しそうに聞いてくれた。
 気づけば、塾に行くのが少し楽しみになっていた。
 ある日、いつものように話していると、彼がふいに言った。

「俺、最初に見たときからかわいいと思ってたんだよね」
「……え?」
 
 あまりにもさらっと言うものだから、冗談かと思った。

「なにそれ。急にどうしたの?」
「いや、ほんとのことだし」

 彼は少しも照れた様子を見せずに笑った。
 私は何も言えなくなって、慌てて目をそらした。
 そういうことを言われた経験がなかったわけではない。
 でも、彼に言われると、なぜか落ち着かなかった。
 それから、彼のことを意識するようになった。
 塾に着くと、まず彼がいるかどうかを探す。
 目が合うと、少しだけ嬉しくなる。
 話しかけられると、家に帰ってからも会話を思い出してしまう。
 今までと同じ教室なのに、彼がいるだけで、少し違って見えた。
 彼は相変わらず、よく話しかけてきた。
 そのうち、塾の外でも連絡を取るようになった。
 最初は授業のことや宿題のことだったのに、いつの間にか、どうでもいい話ばかりになっていた。

『今日の授業、眠すぎた』
『わかる。途中から先生の声が子守唄だった』
『絶対怒られるやつじゃん笑』

 そんなやり取りが、夜まで続くこともあった。
 スマホに彼からの通知が届くと、つい画面を確認してしまう。
 返信が来ると嬉しくて、何を返そうか考える時間さえ楽しかった。
 彼と話すことが、いつの間にか毎日の一部になっていた。
 だから、彼から告白されたときも、驚きはしたけれど、嫌ではなかった。

「好きです。付き合ってください」

 まっすぐにそう言われて、私は少しだけ考えた。
 彼のことは好きだった。
 もっと話したいと思っていたし、もっと一緒にいたいとも思っていた。
 だから、答えは決まっていた。

「……うん。よろしくお願いします」

 彼は、ぱっと顔を明るくした。

「ほんと? やった」

 その反応がおかしくて、私は笑った。
 付き合うことになった。
 彼氏と彼女になった。
 それだけで、今までとは何かが変わる気がした。
 これからは、もっと一緒にいられる。
 今までよりも、もっとお互いのことを知っていける。
 そんな未来を、自然に想像していた。
 けれど私たちは、別々の学校に通っている。
 塾で会えるのは、授業がある日だけ。
 学校であったことを隣で話すことも、放課後に偶然会うこともない。
 会いたいと思ったら、約束をしなければ会えない。
 付き合う前と、何も変わらないはずだった。
 それなのに、私は少しずつ、物足りなさを感じるようになっていた。