雨の日に、三崎灯は仕事をサボることにした。東京で一人暮らしをして、今年で二十七歳になるのに、いまだに、自分の人生をどうしたいのか、よくわからない。別に、仕事が嫌いなわけではなかった。職場の人間関係に悩んでいるわけでもない。給料は毎月きちんと振り込まれるし、狭いながらも自分の部屋がある。休日には好きな映画を観て、気が向けば少し遠くまで出かける。
 それなりに恵まれている。たぶん、そうなのだと思う。それでも、朝、目を覚ました瞬間に、何もかもが嫌になる日があった。理由はわからない。ただ、目を開けているのも億劫で、布団の中から時間を確認する気にもなれなかった。
 今日が、まさにそんな日だった。
 毛布を頭から被ろうとして、枕元に置いたスマートフォンの音で手を止める。画面には、上司からのメッセージが表示されている。
『三崎さん、昨日の原稿、午前中に確認お願いできますか』
 灯は布団の中でそれを眺めた。
 昨日の原稿。午前中。確認。たったそれだけの言葉が、ひどく遠い世界の出来事のように思えた。
 やらなければならないことは、わかっている。起きて、顔を洗って、着替えて、電車に乗る。会社に着いたら原稿を確認して、いつもどおり仕事をする。それだけだ。難しいことなんて何ひとつない。けれど、今日はどうしても、その「それだけ」ができそうになかった。
 灯はしばらく画面を見つめていた。返信欄を開いて、閉じて、もう一度開く。そして、ようやく短い文章を打ち込んだ。
『すみません、体調が悪いので本日はお休みをいただきます』
 数秒後、灯はスマートフォンをベッドの上に放り投げた。投げようとした、というより、手放したかったのかもしれない。画面の向こうにある仕事も、今日という一日も、いったん全部、見えないところへ追いやってしまいたかった。
 すぐに、スマートフォンがまた震えた。
『了解です。お大事にしてください』
 添えられていたのは、ひとつのスタンプだった。灯はそれを見て、拍子抜けした。
 もっと何か言われると思っていたわけではない。休む理由を問い詰められるとも、思っていなかった。ただ、あまりにもあっさりと休みが受け入れられてしまったせいで、さっきまで自分を覆っていた重苦しさの行き場がなくなった。
 こんなに簡単に休めるのなら、どうして毎朝、あんなに必死になって起き上がっていたのだろう。
 そんなことを考えて、灯は小さく息を吐いた。
 細い雨粒がガラスを伝い、向かいのマンションの輪郭をぼやかしている。道路を走る車の音も、いつもより遠く聞こえた。
 こういう日は、何も考えずに眠ってしまうのがいちばんいい。
 そう思ったのに、目を閉じると、三年前のことが浮かんできた。
 瀬尾直人。
 大学時代から付き合っていた、元恋人。
 別れたのは三年前の六月だった。