あとはどこまでも転がってくれ

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学校を休むに値する理由なんて人それぞれで、それが大学のオープンキャンパスに二年生から行くというものであれば将来のことを見据えていてむしろ褒められ、生理であればそれに値する制度が整っていないことを学校側が責められる。彼氏とのデートだとやっかみを受け、インフルエンザであれば体調の心配と治った後の公的にサボれる稀有な時間への羨望を向けられる。飼っている犬が死んだという理由は学校を休むに値する理由なのだろうか。
K太郎が死んだのに。
私は洗面所で顔を洗い、鏡を見て、昨日と同じ顔だった。目も鼻も口も何一つ変わっていない。私の世界は、昨日までと同じ形をしていた。
K太郎が死ぬというのはわかっていた。突然の知らせなんかではなく、これまでひとつずつ着実に積み重ねられて準備されてきた死だった。だから悲しいなんていう気持ちはなかった。本当に。涙も出なかった。ただ虚しかった。心臓の四箇所ある部屋のうちのひとつがすっぽり抜け落ちてしまったかのような喪失感だった。悲しいときは泣けばいい。じゃあ虚しいときは、右心室を失ったときはどうすればいいの? 誰か教えてほしい。私のこの気持ちの行き場を。
午後、K太郎を見送るために母が車を出した。膝の上には花を添えた箱があった。車の中で、母は私にぽつぽつと話しかけた。今日の分のお弁当は夕飯にしちゃおうねとか、二月の方が寒いってなんか変な感じだよねとか、そんなことだったと思う。私はうんとか、そうだねとか、そんなふうにしか返事しなかった。
赤信号で車が止まったとき窓の外を眺めていると、犬を連れて歩いている人がいた。リードの先に小さな犬が歩いていた。ダックスとは似ても似つかないような豆柴。ダックスよりも胴が短くてでもコロコロと頑張って足を動かして歩く様はなんとなく似ていた。道端の匂いを嗅いでいる。飼い主が声をかけたのか犬は顔をあげてまた歩き出した。
その行く末を私は目で追っていた。
羨ましい、と思ったのかもしれない。何が? 今日と同じ明日を過ごせることが。今日あるすべてのものが明日もあることが限りなく証明されていて、明日も同じ道を同じように歩ける人が羨ましかった。あの犬がどこに向かって行くのかも、飼い主がどんな人なのかも、私には関係がないのに。
窓の外の景色は、信号をひとつ越えるたびに変わっていった。車の窓から見える景色はサイコロみたいに真四角でランダムだった。途中から私は膝の上に置いた両手を見ていた。何かを握っているわけでもないのに、指先だけが少し強張っていた。

見送りの場所は隔絶されているみたいに静かで、慣れた手つきでつつがなく進行された。花が飾られ蝋燭の灯りが揺れる祭壇でK太郎が彩られていた。
「大切にされていたんですね」
係の人はK太郎の名前を確認すると頭を下げた。何度も下げられたであろうその頭はそれでも慇懃さを感じさせる丁寧なお辞儀だった。最後の時間をお過ごしくださいと言われた。最後の時間なんて言われても何をすれば良いかわからない。母はK太郎に近づき頭を撫でた。私も同じようにしたかったけれど、それに触れるのがなんだか怖かった。最後に触れておけばよかったって後悔するよ。母だったか、私の心の声だったかが聞こえた気がした。結局触れることはせずただ眺めていた。ただただその姿を目に焼き付けていたいと思っていた。
係の人に促されて部屋を出ると、なぜかそこに京がいた。係の人と同じように真っ黒なスーツを着てそのせいかいつもよりも姿勢が良い。最後に屋上で見た時よりも随分と顔色も良さそうだった。
「久しぶり」
言葉とは裏腹に丁寧に頭を下げた。私に向かってというよりも母親に向かって。そしてその足元にいたはずのK太郎に向けられたお辞儀のように思えた。
母親に断ってふたりで外に出る。いつの間にか二月になっていた風が私たちを包んだが、あまり寒いとは感じなかった。喫煙所が目の端に見えたので京を促したが、さすがに勤務中だからと京は断った。
「バイトここだったんだ」
「前の場所はクビになった。ここはつなぎの短期でお世話になってる」
「似合ってんじゃん」
「そうか」
照れたように京は首をかいた。そういえば襟足を刈り上げたようだ。前髪は相変わらず目の端に邪魔そうに垂れているが、後ろがスッキリしているから常識人に見えてくる。ダルダルのフリースに髪も雑にひとつにまとめただけの私のほうがよっぽど退学者みたいだ。
「犬飼ってたんだ」
「うん」
「名前は?」
「K太郎。小太郎って名前だったのに私がKって呼び続けてたらいつの間にか名前まで変わっちゃった」
「じゃあ名付け親ってことか」
「まあ実際に親みたいなもんだよ。毎日散歩に連れてって餌もやって一緒に寝てたんだから」
「大事にしてたんだな」
「そりゃもう何よりもね。いつまでも私より年下だったくせにいつの間にか私より弱ってるんだもん。親不孝者だよ。でももう十二年も生きてたから大往生って言ってあげたほうがいいのかな」
「長生きしたからって納得する理由にはならないよな」
京のほうを見るとタバコでも吸っているかのように遠くに視線をやっていた。私の泣き顔を見まいとする優しさだった。
「ねえ明日もここでバイト?」
「うん」
「明日もここ来ていいかな?」
「いいけど。K太郎は明日にはもうここいねえぞ」
「わかってる」
わかってはいる。K太郎は明日にはお墓に移されて、眠る場所が決まっている。K太郎に会いに来たいわけではなかった。かといって京に会いたいわけでもなかった。ただ。
「明日もここが同じだって証明が欲しいんだ」
明日も今日と同じ日が続いているって誰かに証明してほしい。私には学校があって、家があって、SNSの世界があって。それがずっと続くと思っていた。でもそうじゃなかった。私の手の届かないところで勝手に壊れていく。これまでを手放さなきゃいけない未来がもうすぐそこまで近づいている。それが怖い。未来に期待するのも怖い。今の私が一緒にいたい人と未来の私も一緒にいたい。そんなことを願うのは欲張りなのだろうか。
「俺さ、東京行くんだ」
まただ。私の周りに当たり前にあったものが壊れていく。
東京に旅行行くんだ、なんて口調ではなかった。私の前からいなくなるってことだと思った。
「ここ短期バイトって言ったけど実際には東京の店舗で雇ってもらえることが決まってる。葬儀場ってお花の運搬とか棺とか、結構力仕事でさ。俺ずっと土木やってたから欠員が出たところの補充って感じでセンター長が融通きかせてくれて。向こうで寮があるし、交通費も会社が出してくれるって言うし」
京の視線の先で煙が立ち上っている。またどこかであったはずの明日が燃やされているのかもしれない。
「俺にはさ、証明されてる明日なんてないんだ。学校もないし、家にはお金を待ってる妹しかいねえ。友達も別にいないしな。向こう行っても結局はバイトでいつ切られてもおかしくない。向こう行ったら即終了なんて未来があってもおかしくない。むしろその方が可能性は高いかも」
でもさ、って言って京は一言切った。
「いや、だからかな。進むしかないんだよ。進むっているより転がっているだけかもしれないけど、転がってても前に進んではいるんじゃねえかなって思ってさ」
そういって京はニカッて笑った。屋上では見たことのない顔だった。
東京まで飛行機で二時間。京が行くと言っただけでなんだかその場所が急に近くにある気がした。
「学校はどうするの?」
「それはもう退学しちゃったし」
「もう一回も来ないの?」
「いろいろ回収しに一回だけ」
「じゃあさ、依田さんに会ってあげてよ」
言ってから依田さんという名前じゃ伝わんないかもと思った。けれど京はすぐに思い当たったようで頷いた。
「わかった。ちゃんと謝るよ」
別にカッコよくなんてない。ずっと悪さやってたやつが更生して、実は名前覚えてたよなんて言って、最後の最後に直接謝ったとしても美談になんかならないよ。てかこいつ普通にタバコ吸ってるし。タバコやめろよ。そんなんでも、謝らないよりは全然いい。
「依田さんはけっこういいやつだよ」
「いいやつってなんだよ。上からだな」
「なんかもっとおとなしい人なのかなって勝手に思い込んじゃってた」
「俺もクラスの人ともっと喋っとけばよかったな」
「最終日にそうしなよ。私も今では依田さんとめっちゃ仲良くなってんだから」
バル太郎と撮ったプリクラを見せる。本当はバル太郎とのツーショットを見せたかったのだけど、そっちは右こめかみのガーゼが丸見えだったからなんか気後れした。四人のふざけたプリクラを見ると京はまたニカッと笑って、つながってんなーって言った。
京には東京に行ってもきっと辛いことがたくさんあるんだろう。東京という場所をあんまり知らないけれど、場所によらずなんの経験もない最終学歴中卒の人には風当たりの厳しい世の中だ。せめて、という気持ちで京にいい出会いがあることを願った。京の明日を願った。
「また明日」
そう言って京とは別れた。母の待つ車に乗り込む直前、振り向くとまだ京はこちらを向いていた。片手を高くあげて別れを告げる。
京が東京に行くまで何回か会ってやろう。
京のずっと後ろに空が高く広がっている。二月の空は煙と雲でいい天気とは全然言えなかったけれど、雲の切れ間から見える飛行機だけ私はじっと見るようにしていた。あれが東京に向かっているとして。何人乗れるかわかんないけど、飛行機で移動している人って思ったよりもいっぱいいるんだろうな。