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海風にさらされて目につく家が汚れて古びていった先に私が暮らす家がある。古びて寂れている家々が並ぶ中で私の家は比較的新しかった。築年数が周りと比べると浅いというだけで実際に新しいわけではない。クリームの色をしていたであろう外壁は剥がれたところから鉄骨が剥き出し、玄関につながる小階段は赤錆と海風で運ばれてくる潮が固まっていた。もう新しく家が建てられるような場所ではないようなところに家をぶっ建てたものだから周りと比べると綺麗に見える。まるでブックオフの中でも書店に近い価格で並んでいる新刊みたいだ。
慣れた手つきで鍵を開けて、リビングに敷かれているラグをひっぺがえしてフローリングにうつ伏せになる。頬をぺたっとつけるとフローリングの冷たさを直接感じられて気持ちが良かった。冬の冷気とは違って私を心地よい場所まで運んでくれるフローリングの冷たさが好きだった。使い古したラグのお線香みたいな臭いと、K太郎のおしっこの臭いが少しだけ鼻をつく。
ティーとの約束は夜21時からだからまだ時間はあった。京とのことがあって一瞬忘れていたが、ティーからのDMも胃が重くなるものだ。思い出すと横隔膜がひくつき腎臓が下がり心臓が圧迫される。ティーも京みたいに私の人生からいなくなってしまうのだろうか。言葉ひとつで暴力ひとつで誰も私の前からいなくなる。
「せっかく仲良くなったのになあ」
声に出してみると変な言い方に思えた。せっかくって何? 店のものを盗むという犯罪行為が万引きと名付けられるとなんだか軽犯罪に聞こえてくるような感じ。多様性とか、いじりとか、将来とかみたいな。言葉が便利な隠れ蓑にされて本当に考えなきゃいけないことが覆われる。私は多分考えなくちゃいけない。京のこともティーのことも。もしくは私が大事にしているものがなくなっていくこれからの世界のことを。凍てつくように17歳の世界はひどく脆い。
もしかしたら、私も何か簡単なことでこの世界からブラックアウトしてしまうのだろうか。それが怖いことだと思わない今の自分がほんの少しだけ怖かった。
玄関がガチャガチャと鳴る音で自分が微睡んでいたことを知った。寝る前に気持ちよかったフローリングも今では凍てつくように冷たかったが、母がリビングに入ってくるまでそのままの体勢でいた。母に少し怒られたかったのかもしれない。
「ただいま……あんたまたフローリングで寝て。夏じゃないんだから風邪引くわよ」
「だって気持ちよくって」
と、私は子供じみた声を出した。
母はミニチュアダックスフンドのK太郎を抱えていた。私が物心ついた頃から我が家に迎えられて、だからもう平均寿命くらいまで年老いている。左の後ろ足を引き摺る歩き方を始めたのがついこの間で今日は五回目の病院に母が行っていた。
「Kはどうだったの?」
はじめは小太郎という名前だったはずが、幼い私がKと呼び始めてから名前までK太郎に変わっていた。
「んーーーーって感じ」
「そっか」
「ただの怪我だったらよかったんだけど、色々生きるための機能にも障害出てきてるんだって」
「最近ご飯も食べれてなかったもんね」
「まあこの子も頑張って生きたから」
「この子っていう歳じゃないじゃん」
わざと明るい声を出す。頑張って生きたというK太郎のことを話すのに似つかわしくないトーンだと我ながら思った。でも、頑張って生きたこと、それはきっと褒められるべきなんだと思う。だからせめて明るく言った。
「そうね」
母は寂しそうに笑った。
夜ご飯にしよっか。今日は餃子ね。
やったー! 餃子大好き!
ちょっと子供過ぎかな、というくらい大袈裟に私は喜んだ。そうしないとK太郎が醸す空気がどこまでも私に侵食してきそうだった。
母が作る餃子はお店のものよりも少しサイズが小さくて、でもタネがぎっしり入っている。それでいて羽根が大きく広がるまでじっくり焼くから味がしっかりついている。それをたっぷりの醤油と辣油につけて一口で食べた。お腹がいっぱいになってからさらにもう一個口に入れた。K太郎にも好物をたくさん出したけれど二、三口食べたっきりだった。
ひどい一日だった。ティーから告白されて、京の退学が決まって、K太郎の残り少ない命を知った。そして最後にはティーとゲームをしていた。ゲームしている間、私の胡座の中でK太郎が丸くなって眠っていた。ショートパンツから剥き出しになった太ももを撫でるK太郎の毛がくすぐったい。
K太郎は眠っているのに、定期的にギュルーっと喉を鳴らしていた。懸命に生きているみたいな声だった。
一日が終わろうとして壁掛の時計がきれいに上を向こうとしていた。どこからか車のクラクションがパーっと大きな音を鳴らした。多分近くにいた人はその音の方を向いたはずだ。私はその音に気を取られたかのようにわざと鷹にやられようとした。盛大に操作ミスをやらかして、鷹がその蹄で引き裂けるように命を粗末にしようとした。
そしたらティーが私の持っていない武器を駆使して鷹を颯爽と追い払った。鷹狩りはティーにとって全く難しくないクエストみたいだった。実は私にとってもひとりでクリアできるようなもの。耳元で「何してん」って笑いながらティーが言った。今なら伝えられるだろうか。私の前からいなくならないでって。付き合えないけどって。
ティーが急に告白してきた理由。それは私たちが使用しているSNSのサービス終了の通達が届いたからだった。あと一ヶ月もしたらティーと連絡を取る手段がなくなる。企業の業績悪化なのか、M&Aなのか、経営層の一新なのか、そんな私なんかには知るよしもない大人の理由で私たちのつながりは消えてなくなる。じゃあティーと付き合えばいいの? ゲームもしないのに電話でどうでもいい一日を教え合って飛行機で二時間かけて定期的に会うような仲になって、本名を知って好きなものを知って嫌いものを知っていく。そんな関係に変われば良いのだろうか?
別にそれでも良い気もしていた。じゃあ付き合おうって伝えてみようか。じゃあって何?
ねえ、なんでこのまま生きていけないのだろう。
私は今のまま生きていきたい。ティーとゲームして、京と屋上でサボって、K太郎を撫でて。私の勝手知ったるものに包まれて生きていきたいだけなのに。今の私が何よりも特別なんだって、誰かに叫んで伝えたかった。私は不安なんだってはっきりわかった。
ありがとね。
鷹の蹄を獲得した後、私はティーにそう伝えた。そしたらティーも「ありがとう」って言ってきた。
そのありがとうが一緒にゲームしたことだけを意味したものであることを私は心の底から祈っていた。
海風にさらされて目につく家が汚れて古びていった先に私が暮らす家がある。古びて寂れている家々が並ぶ中で私の家は比較的新しかった。築年数が周りと比べると浅いというだけで実際に新しいわけではない。クリームの色をしていたであろう外壁は剥がれたところから鉄骨が剥き出し、玄関につながる小階段は赤錆と海風で運ばれてくる潮が固まっていた。もう新しく家が建てられるような場所ではないようなところに家をぶっ建てたものだから周りと比べると綺麗に見える。まるでブックオフの中でも書店に近い価格で並んでいる新刊みたいだ。
慣れた手つきで鍵を開けて、リビングに敷かれているラグをひっぺがえしてフローリングにうつ伏せになる。頬をぺたっとつけるとフローリングの冷たさを直接感じられて気持ちが良かった。冬の冷気とは違って私を心地よい場所まで運んでくれるフローリングの冷たさが好きだった。使い古したラグのお線香みたいな臭いと、K太郎のおしっこの臭いが少しだけ鼻をつく。
ティーとの約束は夜21時からだからまだ時間はあった。京とのことがあって一瞬忘れていたが、ティーからのDMも胃が重くなるものだ。思い出すと横隔膜がひくつき腎臓が下がり心臓が圧迫される。ティーも京みたいに私の人生からいなくなってしまうのだろうか。言葉ひとつで暴力ひとつで誰も私の前からいなくなる。
「せっかく仲良くなったのになあ」
声に出してみると変な言い方に思えた。せっかくって何? 店のものを盗むという犯罪行為が万引きと名付けられるとなんだか軽犯罪に聞こえてくるような感じ。多様性とか、いじりとか、将来とかみたいな。言葉が便利な隠れ蓑にされて本当に考えなきゃいけないことが覆われる。私は多分考えなくちゃいけない。京のこともティーのことも。もしくは私が大事にしているものがなくなっていくこれからの世界のことを。凍てつくように17歳の世界はひどく脆い。
もしかしたら、私も何か簡単なことでこの世界からブラックアウトしてしまうのだろうか。それが怖いことだと思わない今の自分がほんの少しだけ怖かった。
玄関がガチャガチャと鳴る音で自分が微睡んでいたことを知った。寝る前に気持ちよかったフローリングも今では凍てつくように冷たかったが、母がリビングに入ってくるまでそのままの体勢でいた。母に少し怒られたかったのかもしれない。
「ただいま……あんたまたフローリングで寝て。夏じゃないんだから風邪引くわよ」
「だって気持ちよくって」
と、私は子供じみた声を出した。
母はミニチュアダックスフンドのK太郎を抱えていた。私が物心ついた頃から我が家に迎えられて、だからもう平均寿命くらいまで年老いている。左の後ろ足を引き摺る歩き方を始めたのがついこの間で今日は五回目の病院に母が行っていた。
「Kはどうだったの?」
はじめは小太郎という名前だったはずが、幼い私がKと呼び始めてから名前までK太郎に変わっていた。
「んーーーーって感じ」
「そっか」
「ただの怪我だったらよかったんだけど、色々生きるための機能にも障害出てきてるんだって」
「最近ご飯も食べれてなかったもんね」
「まあこの子も頑張って生きたから」
「この子っていう歳じゃないじゃん」
わざと明るい声を出す。頑張って生きたというK太郎のことを話すのに似つかわしくないトーンだと我ながら思った。でも、頑張って生きたこと、それはきっと褒められるべきなんだと思う。だからせめて明るく言った。
「そうね」
母は寂しそうに笑った。
夜ご飯にしよっか。今日は餃子ね。
やったー! 餃子大好き!
ちょっと子供過ぎかな、というくらい大袈裟に私は喜んだ。そうしないとK太郎が醸す空気がどこまでも私に侵食してきそうだった。
母が作る餃子はお店のものよりも少しサイズが小さくて、でもタネがぎっしり入っている。それでいて羽根が大きく広がるまでじっくり焼くから味がしっかりついている。それをたっぷりの醤油と辣油につけて一口で食べた。お腹がいっぱいになってからさらにもう一個口に入れた。K太郎にも好物をたくさん出したけれど二、三口食べたっきりだった。
ひどい一日だった。ティーから告白されて、京の退学が決まって、K太郎の残り少ない命を知った。そして最後にはティーとゲームをしていた。ゲームしている間、私の胡座の中でK太郎が丸くなって眠っていた。ショートパンツから剥き出しになった太ももを撫でるK太郎の毛がくすぐったい。
K太郎は眠っているのに、定期的にギュルーっと喉を鳴らしていた。懸命に生きているみたいな声だった。
一日が終わろうとして壁掛の時計がきれいに上を向こうとしていた。どこからか車のクラクションがパーっと大きな音を鳴らした。多分近くにいた人はその音の方を向いたはずだ。私はその音に気を取られたかのようにわざと鷹にやられようとした。盛大に操作ミスをやらかして、鷹がその蹄で引き裂けるように命を粗末にしようとした。
そしたらティーが私の持っていない武器を駆使して鷹を颯爽と追い払った。鷹狩りはティーにとって全く難しくないクエストみたいだった。実は私にとってもひとりでクリアできるようなもの。耳元で「何してん」って笑いながらティーが言った。今なら伝えられるだろうか。私の前からいなくならないでって。付き合えないけどって。
ティーが急に告白してきた理由。それは私たちが使用しているSNSのサービス終了の通達が届いたからだった。あと一ヶ月もしたらティーと連絡を取る手段がなくなる。企業の業績悪化なのか、M&Aなのか、経営層の一新なのか、そんな私なんかには知るよしもない大人の理由で私たちのつながりは消えてなくなる。じゃあティーと付き合えばいいの? ゲームもしないのに電話でどうでもいい一日を教え合って飛行機で二時間かけて定期的に会うような仲になって、本名を知って好きなものを知って嫌いものを知っていく。そんな関係に変われば良いのだろうか?
別にそれでも良い気もしていた。じゃあ付き合おうって伝えてみようか。じゃあって何?
ねえ、なんでこのまま生きていけないのだろう。
私は今のまま生きていきたい。ティーとゲームして、京と屋上でサボって、K太郎を撫でて。私の勝手知ったるものに包まれて生きていきたいだけなのに。今の私が何よりも特別なんだって、誰かに叫んで伝えたかった。私は不安なんだってはっきりわかった。
ありがとね。
鷹の蹄を獲得した後、私はティーにそう伝えた。そしたらティーも「ありがとう」って言ってきた。
そのありがとうが一緒にゲームしたことだけを意味したものであることを私は心の底から祈っていた。


