どたどたと廊下を駆ける足音が聞こえてきた。腕時計に目を落とすと、いつの間にか七時を過ぎている。私はフライパンの中で焼き上がった卵焼きをまな板へ滑らせ、まだ湯気の立つそれを手早く四等分に切り分けると、弁当箱へ次々と詰めていった。
野菜が、少し足りないかもしれない。冷蔵庫の中にはまだブロッコリーがあっただろうか。そう思いながら冷蔵庫へ手を伸ばそうとした瞬間、膝の辺りに軽い衝撃が伝わってきた。わずかによろめいた私の足元で、弾んだ声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、おはようー」
「隼人ー。おはよう」
小さな腕を私の脚に絡ませた隼人の頬を両手で包み、ぐいっと持ち上げる。まだ眠たそうな顔を覗き込みながら、跳ねた髪を指先で撫でてやった。恥ずかしそうに顔をうずくめた隼人は、また私の脚にぎゅっとしがみつく。
「ほら、これじゃお弁当作れないでしょ。朝ごはん用意しておくから、先に顔洗って、着替えてきな」
「うん」
「ちゃんと着替えるんだよ」
「わかってるー」
返事だけは一人前だ。そう思っている間にも、隼人は私から離れてぱたぱたと洗面所へ向かっていく。その小さな背中を眺めながら、私は思わず笑った。
「走らないの」
「はーい」
遠くから返ってきた間の抜けた返事に、私はふっと息を吐く。
ランチクロスで弁当を包み、焼いたトーストを皿に乗せ、牛乳をコップに注ぐ。隼人の朝食をテーブルに並べてから、自室へ戻って制服に着替える。朱音さんから譲ってもらった制服は三年たってもまだ大きかった。袖は掌まで隠れ、指先だけがかろうじて覗いている。鏡の前に立ち、襟元を整える。おかしなところはないか、くるりと一回転して確かめた。
——なんて、のんびりしている場合じゃない。腕時計へ目を向けると、家を出る時間はもうすぐそこまで迫っていた。
扉を開けて居間へ行くと、パンくずを口の周りに付けた隼人が、夢中になってトーストを頬張っていた。
「隼人、口の周りすごいよ。白い髭までできてる」
ポケットから取り出した手鏡を隼人の顔の前に差し出すと、隼人はトーストを咥えたまま鏡を覗き込んだ。
「ほんとだー」
どこか嬉しそうに口元の白い髭を指でなぞる隼人に、呆れながらもティッシュを当ててやった。その母に似た笑窪に、私は一瞬、背筋がひやりとした。
自転車で隼人を幼稚園まで送り届けると、今度はいつもの集合場所へ向かう。ペダルを力いっぱい踏み込み、立ち漕ぎで坂道を駆け上がる。朝の冷たい風が頬を撫で、額にじんわりと汗が滲んだ。息を切らしながら、それでも、私は坂を上り続けた。
ようやく坂を上りきると、いつもの顔が目に入る。
「遅いぞー、美月」
声のしたほうへ寄ると、晴馬が自転車にもたれかかっていた。呆れたような笑みを浮かべながら、私が息を整えるのを待っている。
「ごめん!幼稚園で説明聞いてたら、遅れた」
「説明?なんの」
「来月の行事の説明。先生が長々と話すからさ」
話しながら、乱れた前髪を指先で整える。急いでいたせいで、髪はあちこち跳ねていた。指で撫でつけても、なかなか元に戻ってくれない。
「そんなに気になる?」
「だって、寝癖、酷いでしょ」
「別に。誰も美月の髪なんて見てないって」
「失礼だなあ」
頬を膨らませてじとりと睨みつけると、晴馬はとうとう堪えきれなくなったように吹き出した。
朝から失礼なやつだ。そう思いながらも、つられて口元が緩んでしまう。晴馬とは小さい頃からずっと一緒にいるせいか、こういうやり取りがすっかり当たり前になっていた。
「じゃ、行こ。そろそろ行かないと遅れるぞ」
「わかってるって」
ハンドルを握り直して、ペダルを踏み込む晴馬の後を追う。学校までの道は毎日通っているはずなのに、なぜか妙に長く感じた。信号を渡って、角を曲がって、坂を下る。どこに何があるかなんて、目を閉じていてもわかる。それなのにその日は、一つひとつの景色が、いつもよりゆっくりと流れているような気がした。
黒板に書かれた期末試験の範囲を写しながら、冷蔵庫に残っていた食材を思い浮かべていた。今晩の献立を考え、足りないものをいくつかノートの隅に書き出していく。買い物に使える金額と照らし合わせながら、何を買って、何を諦めるかを決めていった。
卵は弁当で使い果たしたから、買わないといけない。牛乳も、今朝最後の一杯を隼人が飲んでいた。野菜は一昨日の夕飯でほとんど使ってしまったし、冷蔵庫には特売品だった挽肉が消費期限を迎えようとしているはずだ。
夕飯は、それで何とかなるとして、問題は明日だ。ノートの隅に書いた買い物リストを眺めながら財布の中身を頭で計算する。野菜と冷凍食品、切れかけだったトイレットペーパー。それから、隼人の好きなウインナーも買ってやりたい。ふと、私の化粧水が切れかけだったことを思いだした。別になくても生活には困らないのだが、肌の乾燥が少し気になる。最近は朝起きると頬がつっぱることも増えてきた。ウインナーの文字を指先でそっとなぞる。化粧水くらい、なくてもどうにかなる。ハンドクリームだって残っているし、しばらくはそれで誤魔化せるだろう。
ーー大丈夫。
心の中でそう呟きながら、シャープペンシルを握り直した。
「次回に、この辺りの小テスト出すからな。進路や受験に集中したいのは分かるが、成績だって大切だからな」
不意に聞こえてきた先生の声に顔を上げる。勉強しなきゃ。そう思うのに、頭の片隅に浮かんでくるのは、進学先のことではなく、明日の隼人の弁当のことばかりだった。
隼人は好き嫌いが多い。ピーマンは絶対残すし、卵焼きは甘くないと文句を言う。前に一度、彩を気にしてミニトマトを入れたら「これ、食べなきゃ駄目?」と本気で嫌そうな顔をされた。朝早くから準備したおかずを残されたのは流石にショックだった。けれど、そんな些細なことで怒るわけにもいかない。まだ四歳なのだ。嫌いなものがあって当然だし、無理に食べさせたところで、隼人が喜ぶわけでもない。
卵焼きは少し甘めにして、ウインナーを入れて、野菜は細かく刻んで何かに混ぜる。そうすれば、たぶん食べてくれる。そうやって一つひとつ考えているうちに、授業の内容はいつの間にか頭から抜け落ちていた。
スーパーに着いた頃には、空はすっかり夕暮れに包まれていた。
自転車を停め、前かごに入れていた財布を取り出す。店内に入ると、惣菜の並ぶ棚から揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。
お腹が鳴りそうになるのを堪え、私は野菜売り場へ向かった。
キャベツ、玉ねぎ、にんじん。
値札を確かめながら、一つずつかごに入れていく。
卵は特売になっていた。牛乳も、いつもより少し安い。これなら、ウインナーも買えるかもしれない。
棚の前でしばらく迷ったあと、私はいつものものより少し安い袋を手に取った。
隼人は、味の違いなんてわからないだろう。
きっと。
そう自分に言い聞かせながら、かごの中へ入れる。
最後に、日用品の売り場へ向かった。
トイレットペーパーをかごに入れ、洗剤の残量を思い出しながら棚を見渡す。そこで、ふと足が止まった。
化粧水の棚だった。
いつも使っているものが、目の前に並んでいる。
手を伸ばしかけて、止めた。
値段を確認する。
買えないわけじゃない。
でも、これを買ったら、今週の食費が少し厳しくなる。
私はしばらく棚を見つめていた。
それから、何も買わずに踵を返した。
大丈夫。
まだ残っている。
あと数日は、何とかなる。
レジで会計を済ませ、袋を自転車のかごに押し込む。思ったより重くなったかごを確かめながら、私は時計を見上げた。
隼人を迎えに行かなくちゃ。
そう思って自転車に跨がろうとした、そのときだった。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、私は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし、朱音さん?」
『美月? 今、大丈夫?』
「うん。ちょうど買い物が終わったところ」
『そっか。あのね、ちょっと聞きたいことがあって』
朱音さんの声は、いつもと変わらなかった。
けれど、そのあとに続いた言葉に、私は思わず息を止めた。
『美月、進路の書類、もう出した?』
「……え?」
『三者面談の日程も、そろそろ決めなきゃいけないんでしょう? 学校から何か言われてない?』
進路。
その二文字が、ひどく遠いものに感じられた。
「あ……うん。まだ、ちょっと」
『まだ決まってないの?』
「……うん」
嘘ではなかった。
行きたい学校がないわけじゃない。
興味のある分野だってある。
けれど、そこへ進むために必要なお金も、通学にかかる時間も、卒業したあとの生活も。
考えなければならないことが多すぎて、何一つ決められずにいた。
『美月』
「……ごめんね、朱音さん。私、ちゃんと考えてるから」
『謝らなくていいのよ』
朱音さんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『ただね、あんたは昔から、自分のことを後回しにしすぎるから』
胸の奥が、きゅっと縮こまった。
『隼人のことを大切にするのはいいこと。でも、美月の人生まで隼人のためだけに決めなくていいんだからね』
「……」
『あんたは、まだ高校生なんだから』
わかっている。
そんなこと、言われなくてもわかっている。
私だって、本当は。
友達と遊びに行きたい日もある。
新しい服が欲しいと思うこともある。
行きたい学校に行って、好きな勉強をして、自分の将来について悩んでみたい。
誰かに甘えて、困ったときには助けてほしいと口にしてみたい。
けれど。
私がそれを望んでしまったら、隼人はどうなるのだろう。
「……うん」
喉の奥から、ようやく声を絞り出した。
「ありがとう、朱音さん。もう少し、考えてみるね」
『うん。何かあったら、いつでも連絡しておいで』
電話が切れた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
夕暮れの風が頬を撫でていく。
スーパーの自動ドアが開くたび、買い物を終えた人たちが笑いながら出てきた。母親に手を引かれた小さな子どもが、今日の夕飯について楽しそうに話している。
その姿を見て、私はスマートフォンを鞄にしまった。
考えなければならないことは、まだたくさんある。
でも、今は。
「……隼人、待ってるもんね」
小さく呟いて、自転車に跨がった。
ペダルを踏み込む。
家に帰って、ご飯を作ろう。
隼人の好きなハンバーグにしてあげよう。
そうすれば、きっと今日も笑ってくれる。
私は夕暮れの道を、幼稚園へ向かって走り出した。
野菜が、少し足りないかもしれない。冷蔵庫の中にはまだブロッコリーがあっただろうか。そう思いながら冷蔵庫へ手を伸ばそうとした瞬間、膝の辺りに軽い衝撃が伝わってきた。わずかによろめいた私の足元で、弾んだ声が聞こえてきた。
「お姉ちゃん、おはようー」
「隼人ー。おはよう」
小さな腕を私の脚に絡ませた隼人の頬を両手で包み、ぐいっと持ち上げる。まだ眠たそうな顔を覗き込みながら、跳ねた髪を指先で撫でてやった。恥ずかしそうに顔をうずくめた隼人は、また私の脚にぎゅっとしがみつく。
「ほら、これじゃお弁当作れないでしょ。朝ごはん用意しておくから、先に顔洗って、着替えてきな」
「うん」
「ちゃんと着替えるんだよ」
「わかってるー」
返事だけは一人前だ。そう思っている間にも、隼人は私から離れてぱたぱたと洗面所へ向かっていく。その小さな背中を眺めながら、私は思わず笑った。
「走らないの」
「はーい」
遠くから返ってきた間の抜けた返事に、私はふっと息を吐く。
ランチクロスで弁当を包み、焼いたトーストを皿に乗せ、牛乳をコップに注ぐ。隼人の朝食をテーブルに並べてから、自室へ戻って制服に着替える。朱音さんから譲ってもらった制服は三年たってもまだ大きかった。袖は掌まで隠れ、指先だけがかろうじて覗いている。鏡の前に立ち、襟元を整える。おかしなところはないか、くるりと一回転して確かめた。
——なんて、のんびりしている場合じゃない。腕時計へ目を向けると、家を出る時間はもうすぐそこまで迫っていた。
扉を開けて居間へ行くと、パンくずを口の周りに付けた隼人が、夢中になってトーストを頬張っていた。
「隼人、口の周りすごいよ。白い髭までできてる」
ポケットから取り出した手鏡を隼人の顔の前に差し出すと、隼人はトーストを咥えたまま鏡を覗き込んだ。
「ほんとだー」
どこか嬉しそうに口元の白い髭を指でなぞる隼人に、呆れながらもティッシュを当ててやった。その母に似た笑窪に、私は一瞬、背筋がひやりとした。
自転車で隼人を幼稚園まで送り届けると、今度はいつもの集合場所へ向かう。ペダルを力いっぱい踏み込み、立ち漕ぎで坂道を駆け上がる。朝の冷たい風が頬を撫で、額にじんわりと汗が滲んだ。息を切らしながら、それでも、私は坂を上り続けた。
ようやく坂を上りきると、いつもの顔が目に入る。
「遅いぞー、美月」
声のしたほうへ寄ると、晴馬が自転車にもたれかかっていた。呆れたような笑みを浮かべながら、私が息を整えるのを待っている。
「ごめん!幼稚園で説明聞いてたら、遅れた」
「説明?なんの」
「来月の行事の説明。先生が長々と話すからさ」
話しながら、乱れた前髪を指先で整える。急いでいたせいで、髪はあちこち跳ねていた。指で撫でつけても、なかなか元に戻ってくれない。
「そんなに気になる?」
「だって、寝癖、酷いでしょ」
「別に。誰も美月の髪なんて見てないって」
「失礼だなあ」
頬を膨らませてじとりと睨みつけると、晴馬はとうとう堪えきれなくなったように吹き出した。
朝から失礼なやつだ。そう思いながらも、つられて口元が緩んでしまう。晴馬とは小さい頃からずっと一緒にいるせいか、こういうやり取りがすっかり当たり前になっていた。
「じゃ、行こ。そろそろ行かないと遅れるぞ」
「わかってるって」
ハンドルを握り直して、ペダルを踏み込む晴馬の後を追う。学校までの道は毎日通っているはずなのに、なぜか妙に長く感じた。信号を渡って、角を曲がって、坂を下る。どこに何があるかなんて、目を閉じていてもわかる。それなのにその日は、一つひとつの景色が、いつもよりゆっくりと流れているような気がした。
黒板に書かれた期末試験の範囲を写しながら、冷蔵庫に残っていた食材を思い浮かべていた。今晩の献立を考え、足りないものをいくつかノートの隅に書き出していく。買い物に使える金額と照らし合わせながら、何を買って、何を諦めるかを決めていった。
卵は弁当で使い果たしたから、買わないといけない。牛乳も、今朝最後の一杯を隼人が飲んでいた。野菜は一昨日の夕飯でほとんど使ってしまったし、冷蔵庫には特売品だった挽肉が消費期限を迎えようとしているはずだ。
夕飯は、それで何とかなるとして、問題は明日だ。ノートの隅に書いた買い物リストを眺めながら財布の中身を頭で計算する。野菜と冷凍食品、切れかけだったトイレットペーパー。それから、隼人の好きなウインナーも買ってやりたい。ふと、私の化粧水が切れかけだったことを思いだした。別になくても生活には困らないのだが、肌の乾燥が少し気になる。最近は朝起きると頬がつっぱることも増えてきた。ウインナーの文字を指先でそっとなぞる。化粧水くらい、なくてもどうにかなる。ハンドクリームだって残っているし、しばらくはそれで誤魔化せるだろう。
ーー大丈夫。
心の中でそう呟きながら、シャープペンシルを握り直した。
「次回に、この辺りの小テスト出すからな。進路や受験に集中したいのは分かるが、成績だって大切だからな」
不意に聞こえてきた先生の声に顔を上げる。勉強しなきゃ。そう思うのに、頭の片隅に浮かんでくるのは、進学先のことではなく、明日の隼人の弁当のことばかりだった。
隼人は好き嫌いが多い。ピーマンは絶対残すし、卵焼きは甘くないと文句を言う。前に一度、彩を気にしてミニトマトを入れたら「これ、食べなきゃ駄目?」と本気で嫌そうな顔をされた。朝早くから準備したおかずを残されたのは流石にショックだった。けれど、そんな些細なことで怒るわけにもいかない。まだ四歳なのだ。嫌いなものがあって当然だし、無理に食べさせたところで、隼人が喜ぶわけでもない。
卵焼きは少し甘めにして、ウインナーを入れて、野菜は細かく刻んで何かに混ぜる。そうすれば、たぶん食べてくれる。そうやって一つひとつ考えているうちに、授業の内容はいつの間にか頭から抜け落ちていた。
スーパーに着いた頃には、空はすっかり夕暮れに包まれていた。
自転車を停め、前かごに入れていた財布を取り出す。店内に入ると、惣菜の並ぶ棚から揚げ物の香ばしい匂いが漂ってきた。
お腹が鳴りそうになるのを堪え、私は野菜売り場へ向かった。
キャベツ、玉ねぎ、にんじん。
値札を確かめながら、一つずつかごに入れていく。
卵は特売になっていた。牛乳も、いつもより少し安い。これなら、ウインナーも買えるかもしれない。
棚の前でしばらく迷ったあと、私はいつものものより少し安い袋を手に取った。
隼人は、味の違いなんてわからないだろう。
きっと。
そう自分に言い聞かせながら、かごの中へ入れる。
最後に、日用品の売り場へ向かった。
トイレットペーパーをかごに入れ、洗剤の残量を思い出しながら棚を見渡す。そこで、ふと足が止まった。
化粧水の棚だった。
いつも使っているものが、目の前に並んでいる。
手を伸ばしかけて、止めた。
値段を確認する。
買えないわけじゃない。
でも、これを買ったら、今週の食費が少し厳しくなる。
私はしばらく棚を見つめていた。
それから、何も買わずに踵を返した。
大丈夫。
まだ残っている。
あと数日は、何とかなる。
レジで会計を済ませ、袋を自転車のかごに押し込む。思ったより重くなったかごを確かめながら、私は時計を見上げた。
隼人を迎えに行かなくちゃ。
そう思って自転車に跨がろうとした、そのときだった。
鞄の中で、スマートフォンが震えた。
画面に表示された名前を見て、私は慌てて通話ボタンを押す。
「もしもし、朱音さん?」
『美月? 今、大丈夫?』
「うん。ちょうど買い物が終わったところ」
『そっか。あのね、ちょっと聞きたいことがあって』
朱音さんの声は、いつもと変わらなかった。
けれど、そのあとに続いた言葉に、私は思わず息を止めた。
『美月、進路の書類、もう出した?』
「……え?」
『三者面談の日程も、そろそろ決めなきゃいけないんでしょう? 学校から何か言われてない?』
進路。
その二文字が、ひどく遠いものに感じられた。
「あ……うん。まだ、ちょっと」
『まだ決まってないの?』
「……うん」
嘘ではなかった。
行きたい学校がないわけじゃない。
興味のある分野だってある。
けれど、そこへ進むために必要なお金も、通学にかかる時間も、卒業したあとの生活も。
考えなければならないことが多すぎて、何一つ決められずにいた。
『美月』
「……ごめんね、朱音さん。私、ちゃんと考えてるから」
『謝らなくていいのよ』
朱音さんの声が、少しだけ柔らかくなった。
『ただね、あんたは昔から、自分のことを後回しにしすぎるから』
胸の奥が、きゅっと縮こまった。
『隼人のことを大切にするのはいいこと。でも、美月の人生まで隼人のためだけに決めなくていいんだからね』
「……」
『あんたは、まだ高校生なんだから』
わかっている。
そんなこと、言われなくてもわかっている。
私だって、本当は。
友達と遊びに行きたい日もある。
新しい服が欲しいと思うこともある。
行きたい学校に行って、好きな勉強をして、自分の将来について悩んでみたい。
誰かに甘えて、困ったときには助けてほしいと口にしてみたい。
けれど。
私がそれを望んでしまったら、隼人はどうなるのだろう。
「……うん」
喉の奥から、ようやく声を絞り出した。
「ありがとう、朱音さん。もう少し、考えてみるね」
『うん。何かあったら、いつでも連絡しておいで』
電話が切れた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
夕暮れの風が頬を撫でていく。
スーパーの自動ドアが開くたび、買い物を終えた人たちが笑いながら出てきた。母親に手を引かれた小さな子どもが、今日の夕飯について楽しそうに話している。
その姿を見て、私はスマートフォンを鞄にしまった。
考えなければならないことは、まだたくさんある。
でも、今は。
「……隼人、待ってるもんね」
小さく呟いて、自転車に跨がった。
ペダルを踏み込む。
家に帰って、ご飯を作ろう。
隼人の好きなハンバーグにしてあげよう。
そうすれば、きっと今日も笑ってくれる。
私は夕暮れの道を、幼稚園へ向かって走り出した。



