「悠加ー!」
呼ぶ声を聞いて、びくっとしてしまった。芽衣だった。一緒に体育久しぶりだね、と笑っている。
体育の授業は、男女分かれて隣のクラスの女子とする。学校行事の兼ね合いで、ずいぶん久しぶりの授業だった。3年生になってからの体育は、半分遊びみたいなものが多い。
「今日はなんだっけ。バドミントンかな」
芽衣の声が、私の左肩の下から聞こえる。小さな芽衣。
芽衣がバレー部に入ってきたのは、私たちの入部時期から少し遅れた、1年生のゴールデンウィーク明けだった。同じクラスの実咲が連れてきたのだ。
「可愛い子、連れてきました。マネージャー希望なんです」
実咲がいたずらっぽく言うと、先輩たちがわっと取り囲んだ。
「バレーは未経験で――スポーツも全然ダメなんですけど。マネージャーとして、一生懸命勉強します……」
芽衣は、蚊のなくような声で最初の挨拶をした。先輩たちは
「可愛いー!」
「一緒に頑張ろうねー」
といっそう歓迎し、芽衣の手を取った。
初心者でも、やる気さえあれば大歓迎。このバレー部のいいところだった。
小さくて声も細くてスポーツなんか縁がなさそうな芽衣は、同じクラスにいても私とは仲良くならないようなタイプだった。最初はバレーのことを何も知らなかったから、バレーのことに関しては、私や実咲はもちろん他の部員にも、余計なことは何も言わなかった。
その代わり芽衣は、練習終わりの更衣室とか授業の移動で一緒になったときに、よく私に話しかけてきた。
「悠加って、推しとかいる?」
「悠加、化粧水って何使ってる?」
ほとんどがそんな、たわいのないこと。
私が「推し? いないなぁ」とか「化粧水は、ドラッグストアで買った500円のやつー」なんて短く答えると「そうなんだ」と言って、にわかに自分の推しのボーイズグループや、お気に入りのコスメについて語り出す。自分の話をする前にまず私のことを聞くあたりは、いかにも気配り上手の芽衣らしかったけど。
今までそんな「いかにも女子」な話をする友達がいなかった私も、芽衣が熱心にするそんな話を聞くのは、不思議と面白かった。新しい世界が広がるような気がした。
私はほっておくと、ずっとバレーのことばかりむずかしく、ぐるぐると考えてしまう。芽衣はそんな私を和ませて、いつも頭をやわらかくしてくれた。
練習のとき私が体育館に入ると、いつも芽衣がいた。下級生とネットを張りながら、ドリンクを用意しながらこちらに気づいて、いつも「悠加ー!」と手を振ってくれる。とびきりの笑顔で。
雑用は、誰よりも進んでこなした。いつの間にかスコアつけやテーピングまで独学で学んで、石川先生にも驚かれていた。誰にでも好かれていた芽衣。
――芽衣と洸平、つきあってるんだよね。
実咲の言葉が頭の奥によみがえる。
芽衣のことが私は一度だけ、嫌になったことがある。
2年生の頃、練習試合で遠征したときのことだった。
1年生で、マオという子がいた。ちょっとメンタルが弱くて、ちょっと注意するとすぐにへこんで、練習中でもいつでもすぐ無気力になる。同じ1年生でも相性の悪い子が何人かいて、そういう子と一緒にいるとすぐにいじけてしまう。実咲も私も、何度か1年生の子たちから相談を受けていた。
遠征は、珍しくバスだった。それまでは電車で行けるところがほとんどだったから、私たちが2年生になってから、バスで遠征したのははじめてだったかもしれない。
前の日、練習の休憩時間に芽衣はせっせと紙に何か書いては消していた。何してるの? と私が聞くと芽衣は小声で答えた。
「明日のバスの座席表作ってるの」
「えっ? バスの席なんて自由でいいじゃない」
大きな声で答えた私に芽衣は「しっ」とあわてて人差し指を立てた。
「席を自由にしたら……マオ、苦手な子の隣になっちゃうかもしれないじゃない」
芽衣は相変わらず小声で言った。こちらの会話に気づかずひとりでマイペースにストレッチをしているマオを見て、私はいまいましい気持ちになった。
「そうやって、いつまで気をつかってやらないといけないのかな」
芽衣は悲しそうに眉をひそめた。黒目がちの瞳が、かすかに揺れている。
「でも……」
その先はうまく言えずにいたみたいだった。私は投げやりに「いいよ」と言い放った。
「別にいいよ。芽衣にまかせるけど――そうやってわがままにつきあってばかりいても、あの子のためにならないと思う」
私はそう言い残して、コートに戻った。芽衣は困ったように私の方を見ていたけど、そっと目をこすって、また座席表づくりに戻ったようだった。
練習試合のバスは結局芽衣の決めた座席で行って、平和に終わった。だけどマオはそれから1、2か月後に、結局部活を辞めてしまった。
最後に短く挨拶したマオに、私は何も声をかけなかった。他のみんなも、冷ややかだった。
練習が終わった後、体育館の廊下で泣くマオを、芽衣がなだめているのを見かけた。
何日かたって、マオがSNSにこんな言葉をあげていると騒ぎになった。
「みんな大嫌いだった。いくらバレーがうまくたって、人間的に終わってたら意味ない。私の味方は、一人だけだった。Mさん、大好き。ありがとう」
人間的に終わってるだなんて。誰のことだろうか。まさか、私のことじゃないだろうか。
私は、マオと大きなかかわりを持ったわけじゃない。でもそんな考えが浮かぶと、そうとしか思えなくなってしまう。
不安な気持ちは、芽衣へと矛先が変わった。
芽衣はずるい。
優しくするだけでうまくいくなら、それが一番簡単じゃない。
あのときはっきり、そう思った。
なんで今、このことを思い出すんだろう。
左肩の下で芽衣が、体育が終わったらどうとか、話をしている。なぜか、声がどんどん遠くなる。
ふいに、目の前が暗くなった。立っていられなくなる。
――悠加、悠加! 大丈夫?
芽衣につかまりたくなくて、ふらふらと右の壁に歩みよって手をつき、しゃがみ込んだ。
いつもの貧血だ。
芽衣に介抱なんて、されたくない。私は肩に置かれた芽衣の手を振り払った。そしてふらふらと立ち上がって、一人で保健室へ歩く。
――無理しないで。危ないから、保健室一緒に行こう?
「ついて来ないで!」
力を振りしぼって叫んだ。びくっと体をこわばらせる芽衣が、ぼんやりと見えた。
保健室で、養護教諭の先生はあわてて私をすぐ寝かせてくれた。「お家の人にすぐ連絡するから」という言葉に安心して、私はすぐに眠り込んでしまった。
夢の中で私は、洸平と歩いていた。
――甘いって言われるかも、しれないけど……
洸平が悔しそうな、苦しそうな顔で言う。
次の瞬間、場面はバレーのコートに変わった。短い助走で洸平は、クイックを決める。ベンチでは芽衣が両手をあげ、飛びあがっている。
芽衣はずるい。
可愛くて優しくて、後輩に、みんなに好かれて。
私は、ぱちっと目を開けた。パンチ穴のあいた、保健室の白い天井が見える。
仕切りカーテンがゆれていて、そのすきまから、丸い椅子に座った芽衣の制服のスカートと、きちっと膝におかれた白い手が見えた。
「……生理だと思うんです」
芽衣の声が聞こえる。
「悠加、いつも無理しちゃうから……部活やってた頃からそれで、具合悪くなることもあって」
保健室の先生の、相づちを打つ声が聞こえた。
なんで、芽衣がいるの。
私を、よく知ってるみたいな顔をして。
本当は私と考えもやることも、全部正反対のくせに。本当は私の考えなんて間違ってて、自分が正しいって思っているくせに。マオのことだって。洸平のことだって。
本当は、私が嫌いなくせに。
先生が何か言って、席を外す。私はベッドの前にある仕切りのカーテンを開けた。
「あっ」
芽衣が気まずそうにこちらを見た。
「目、覚めた? ごめんね。心配で、様子を見に来たの」
「帰っていいよ」
何か言おうとする芽衣を、私はさえぎった。
「――ずるいよ。芽衣は」
そうやって、誰にでも好かれる。自分の意見をゆずれない私みたいなやつは、結局嫌われる。だけど芽衣は、そんな私すらも許して包み込むみたいにして、誰にでも優しくする。
それでみんな、芽衣を好きになっちゃうんだ。
洸平だって。
ずるい? 芽衣はふるえるような小さな声で聞き返した。
きっと私は、すごい目で芽衣を見ていたと思う。
ずるい。ずるい。
ずるいずるいずるいずるい。
声にはならなかった。
保健室の先生がドアを開け、戻って来た。私の表情を見て、あわてて芽衣の方へ歩みよる。
「……そろそろ、悠加さんのお母さん迎えに来るから。帰りなさい」
先生に追い出されるようにして、芽衣は保健室を出た。まるい瞳が、今にも泣き出しそうだった。私はいったい、どんな怖い顔をしていたんだろう。
呼ぶ声を聞いて、びくっとしてしまった。芽衣だった。一緒に体育久しぶりだね、と笑っている。
体育の授業は、男女分かれて隣のクラスの女子とする。学校行事の兼ね合いで、ずいぶん久しぶりの授業だった。3年生になってからの体育は、半分遊びみたいなものが多い。
「今日はなんだっけ。バドミントンかな」
芽衣の声が、私の左肩の下から聞こえる。小さな芽衣。
芽衣がバレー部に入ってきたのは、私たちの入部時期から少し遅れた、1年生のゴールデンウィーク明けだった。同じクラスの実咲が連れてきたのだ。
「可愛い子、連れてきました。マネージャー希望なんです」
実咲がいたずらっぽく言うと、先輩たちがわっと取り囲んだ。
「バレーは未経験で――スポーツも全然ダメなんですけど。マネージャーとして、一生懸命勉強します……」
芽衣は、蚊のなくような声で最初の挨拶をした。先輩たちは
「可愛いー!」
「一緒に頑張ろうねー」
といっそう歓迎し、芽衣の手を取った。
初心者でも、やる気さえあれば大歓迎。このバレー部のいいところだった。
小さくて声も細くてスポーツなんか縁がなさそうな芽衣は、同じクラスにいても私とは仲良くならないようなタイプだった。最初はバレーのことを何も知らなかったから、バレーのことに関しては、私や実咲はもちろん他の部員にも、余計なことは何も言わなかった。
その代わり芽衣は、練習終わりの更衣室とか授業の移動で一緒になったときに、よく私に話しかけてきた。
「悠加って、推しとかいる?」
「悠加、化粧水って何使ってる?」
ほとんどがそんな、たわいのないこと。
私が「推し? いないなぁ」とか「化粧水は、ドラッグストアで買った500円のやつー」なんて短く答えると「そうなんだ」と言って、にわかに自分の推しのボーイズグループや、お気に入りのコスメについて語り出す。自分の話をする前にまず私のことを聞くあたりは、いかにも気配り上手の芽衣らしかったけど。
今までそんな「いかにも女子」な話をする友達がいなかった私も、芽衣が熱心にするそんな話を聞くのは、不思議と面白かった。新しい世界が広がるような気がした。
私はほっておくと、ずっとバレーのことばかりむずかしく、ぐるぐると考えてしまう。芽衣はそんな私を和ませて、いつも頭をやわらかくしてくれた。
練習のとき私が体育館に入ると、いつも芽衣がいた。下級生とネットを張りながら、ドリンクを用意しながらこちらに気づいて、いつも「悠加ー!」と手を振ってくれる。とびきりの笑顔で。
雑用は、誰よりも進んでこなした。いつの間にかスコアつけやテーピングまで独学で学んで、石川先生にも驚かれていた。誰にでも好かれていた芽衣。
――芽衣と洸平、つきあってるんだよね。
実咲の言葉が頭の奥によみがえる。
芽衣のことが私は一度だけ、嫌になったことがある。
2年生の頃、練習試合で遠征したときのことだった。
1年生で、マオという子がいた。ちょっとメンタルが弱くて、ちょっと注意するとすぐにへこんで、練習中でもいつでもすぐ無気力になる。同じ1年生でも相性の悪い子が何人かいて、そういう子と一緒にいるとすぐにいじけてしまう。実咲も私も、何度か1年生の子たちから相談を受けていた。
遠征は、珍しくバスだった。それまでは電車で行けるところがほとんどだったから、私たちが2年生になってから、バスで遠征したのははじめてだったかもしれない。
前の日、練習の休憩時間に芽衣はせっせと紙に何か書いては消していた。何してるの? と私が聞くと芽衣は小声で答えた。
「明日のバスの座席表作ってるの」
「えっ? バスの席なんて自由でいいじゃない」
大きな声で答えた私に芽衣は「しっ」とあわてて人差し指を立てた。
「席を自由にしたら……マオ、苦手な子の隣になっちゃうかもしれないじゃない」
芽衣は相変わらず小声で言った。こちらの会話に気づかずひとりでマイペースにストレッチをしているマオを見て、私はいまいましい気持ちになった。
「そうやって、いつまで気をつかってやらないといけないのかな」
芽衣は悲しそうに眉をひそめた。黒目がちの瞳が、かすかに揺れている。
「でも……」
その先はうまく言えずにいたみたいだった。私は投げやりに「いいよ」と言い放った。
「別にいいよ。芽衣にまかせるけど――そうやってわがままにつきあってばかりいても、あの子のためにならないと思う」
私はそう言い残して、コートに戻った。芽衣は困ったように私の方を見ていたけど、そっと目をこすって、また座席表づくりに戻ったようだった。
練習試合のバスは結局芽衣の決めた座席で行って、平和に終わった。だけどマオはそれから1、2か月後に、結局部活を辞めてしまった。
最後に短く挨拶したマオに、私は何も声をかけなかった。他のみんなも、冷ややかだった。
練習が終わった後、体育館の廊下で泣くマオを、芽衣がなだめているのを見かけた。
何日かたって、マオがSNSにこんな言葉をあげていると騒ぎになった。
「みんな大嫌いだった。いくらバレーがうまくたって、人間的に終わってたら意味ない。私の味方は、一人だけだった。Mさん、大好き。ありがとう」
人間的に終わってるだなんて。誰のことだろうか。まさか、私のことじゃないだろうか。
私は、マオと大きなかかわりを持ったわけじゃない。でもそんな考えが浮かぶと、そうとしか思えなくなってしまう。
不安な気持ちは、芽衣へと矛先が変わった。
芽衣はずるい。
優しくするだけでうまくいくなら、それが一番簡単じゃない。
あのときはっきり、そう思った。
なんで今、このことを思い出すんだろう。
左肩の下で芽衣が、体育が終わったらどうとか、話をしている。なぜか、声がどんどん遠くなる。
ふいに、目の前が暗くなった。立っていられなくなる。
――悠加、悠加! 大丈夫?
芽衣につかまりたくなくて、ふらふらと右の壁に歩みよって手をつき、しゃがみ込んだ。
いつもの貧血だ。
芽衣に介抱なんて、されたくない。私は肩に置かれた芽衣の手を振り払った。そしてふらふらと立ち上がって、一人で保健室へ歩く。
――無理しないで。危ないから、保健室一緒に行こう?
「ついて来ないで!」
力を振りしぼって叫んだ。びくっと体をこわばらせる芽衣が、ぼんやりと見えた。
保健室で、養護教諭の先生はあわてて私をすぐ寝かせてくれた。「お家の人にすぐ連絡するから」という言葉に安心して、私はすぐに眠り込んでしまった。
夢の中で私は、洸平と歩いていた。
――甘いって言われるかも、しれないけど……
洸平が悔しそうな、苦しそうな顔で言う。
次の瞬間、場面はバレーのコートに変わった。短い助走で洸平は、クイックを決める。ベンチでは芽衣が両手をあげ、飛びあがっている。
芽衣はずるい。
可愛くて優しくて、後輩に、みんなに好かれて。
私は、ぱちっと目を開けた。パンチ穴のあいた、保健室の白い天井が見える。
仕切りカーテンがゆれていて、そのすきまから、丸い椅子に座った芽衣の制服のスカートと、きちっと膝におかれた白い手が見えた。
「……生理だと思うんです」
芽衣の声が聞こえる。
「悠加、いつも無理しちゃうから……部活やってた頃からそれで、具合悪くなることもあって」
保健室の先生の、相づちを打つ声が聞こえた。
なんで、芽衣がいるの。
私を、よく知ってるみたいな顔をして。
本当は私と考えもやることも、全部正反対のくせに。本当は私の考えなんて間違ってて、自分が正しいって思っているくせに。マオのことだって。洸平のことだって。
本当は、私が嫌いなくせに。
先生が何か言って、席を外す。私はベッドの前にある仕切りのカーテンを開けた。
「あっ」
芽衣が気まずそうにこちらを見た。
「目、覚めた? ごめんね。心配で、様子を見に来たの」
「帰っていいよ」
何か言おうとする芽衣を、私はさえぎった。
「――ずるいよ。芽衣は」
そうやって、誰にでも好かれる。自分の意見をゆずれない私みたいなやつは、結局嫌われる。だけど芽衣は、そんな私すらも許して包み込むみたいにして、誰にでも優しくする。
それでみんな、芽衣を好きになっちゃうんだ。
洸平だって。
ずるい? 芽衣はふるえるような小さな声で聞き返した。
きっと私は、すごい目で芽衣を見ていたと思う。
ずるい。ずるい。
ずるいずるいずるいずるい。
声にはならなかった。
保健室の先生がドアを開け、戻って来た。私の表情を見て、あわてて芽衣の方へ歩みよる。
「……そろそろ、悠加さんのお母さん迎えに来るから。帰りなさい」
先生に追い出されるようにして、芽衣は保健室を出た。まるい瞳が、今にも泣き出しそうだった。私はいったい、どんな怖い顔をしていたんだろう。
