損は絶対したくない

 帰り際、校門の前では由希が待っていた。私はその肩を叩き、「お疲れ。ジュースおごってやる」と声をかけた。
「可菜子ぉ……」
 由希はぶわっと目に涙を浮かべた。
「ここから三十分歩くと一本八十円で売ってる自販機がある。そこへ行こう」
「遠いよぉ……でも、ありがとう……」
 私は由希を支えるようにして歩き出した。
 いつもの由希ならここで「近所のコンビニのジュースでいいじゃん!」と言い出していつものような押し問答が始まるのだが、今日ばかりは重傷なのだろう。そんな言い争いをする気力もないようだ。
 しばらく黙って歩いていると、由希がぽつりと言った。
「わたし、ひどいことしたよね」
「そうだね」
「即答するんだ」
 事実だからな、と言おうとして隣を見ると、思ったより暗い顔をしている由希に、これ以上は事実ハラスメントになるかと口をつぐんだ。
「千香ちゃん、泣いてた」
「うん」
「わたし、千香ちゃんがあんなに泣くところ、初めて見た。わたしのせいだよね」
「原因の一端ではあるな。ただし、責任範囲の大部分は高瀬くんにある。そこは混同しない方がいい」
 だめだ、やはり私は事実ベースでないと言うことが思いつかない。
 それでも少しは救われたのか、由希は一瞬だけ唇を緩めてみせた。
「今度、もう一度千香ちゃんにちゃんと謝っておくね」

 目的の自販機にたどり着く。思いがけずその自販機は一本百円に値上がりしていたのだが、私は舌打ち一発のみで昨今の物価上昇の現実を受け入れ、由希の好きなピーチジュースを奢ってやった。
「高瀬くんに、千香ちゃんと別れたかどうか聞かなかったの、実はちゃんと理由があったんだ」
 由希は缶のプルタブを開けながら言った。
「わたし、ほんとは聞くのが恐かったんだ。千香ちゃんと、ちゃんと別れたのかどうか。まだ別れてないって言われたら、せっかくの楽しいデートが終わっちゃう気がして……だから、聞かなかった」
「そんなことだろうと思ったよ」
 お茶のボタンを押したはずなのに落ちてきたコーンポタージュを私は睨んでいた。メーカーに返品交換を要求してもよかったが、恐らく労力に見合わないので諦めた。
「わたし、やっぱり高瀬くんとは別れる」
「そうした方がいいだろうね。こんな状況で、彼とまともな恋愛ができるとも思えないし」
「わたしってさ、コロコロ言うことが変わって、やることなすこと行き当たりばったりで、友達にも隠し事して、何もかも失敗ばっかりで、ほんと、ダメなやつだよね」
 またセンチメンタルな空気を感じ取り、私は由希の顔色を窺う。夕日に照らされ、その顔は涙と鼻水でひどい有様になっていた。
「可菜子、わたしと一緒にいると、イライラしない?」
「しょっちゅうする」
「もっとちゃんとしろよって、思う?」
「めっちゃ思う」
「もう友達辞めたいって、思う?」
 損切りしちゃえば。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、そろばんに伸ばしかけた指を、私は宙で止めた。
「それはあり得ないな。お前はグズグズのダメダメ女だが、それとこれとは別問題だ。というか、二度とそういうことを言うな。計算する必要もないし、脳のリソースがもったいない」
「可菜子ぉ……」
「待て、抱きつくな。ジュースがこぼれる」
 構わず由希は私の胸に顔を押しつけてくる。制服の肩口がピーチジュースで湿っていくが、この流れでクリーニング代を請求するほど私も鬼ではない。

 数日後。
 私は榊くんの勉強用マンションで数学の問題に向き合っていた。
「可菜子ちゃん、この式の変形、ちょっと見てもらえる?」
「うん、ここは置換した方が無難だね」
 ノートに途中式を書き込むと、彼は感心したように数式に目を落としていた。
「なるほど。やっぱり君はすごいな」
「大したことじゃない。それに、数学以外の分野は榊くんに頼りっぱなしだしね」
「いや、本当に。事実をストイックに追求できる君のことが、僕は好きだよ」
 ノートの紙面に押し当てていたシャープペンシルの芯が、ぽきりと折れた。
「問題の解き方に、好きも何もないと思うが」
「あるよ」
 榊くんはペンを置き、私の目を真っ直ぐに見た。
「可菜子ちゃん、僕と付き合ってくれないかな」
 それはいつもと変わらない穏やかな表情だった。
「初めから君のことが気になっていた。頭が良くて、常に冷静で、合理的で、なにより僕と考え方が似ている。きっといい関係を築けると思うんだ」
 私はそっと、自分の胸に手を添える。
 榊朔也。成績優秀、容姿端麗で、家庭環境も申し分ない。会話の水準も高くて尊敬に値するし、そして私自身も話していて心地が良く、かつお互いの苦手科目を補い合える関係だ。
 データ上、あらゆる面で優良物件、ハイスペックであることに疑いの余地はない。
 だけど私は、この胸の奥がやけに静かなことを、手のひらで感じ取っていた。
「ごめん榊くん。君とは付き合えない」
 予想もしていない返答だったのか、彼は驚いたように目を見開いていた。
 私はノートを閉じる。
「とはいえ君は何も悪くない。どころか、この上なく理知的で魅力的な男の子だと思う。あるいは、私にはもったいないほどにね」
「僕は君の計算には合わなかったかい?」
「いや、計算は合っていたんだ。今まではね」
 意図が掴みきれないといった彼の目を、私は見返す。
「ただ、もう計算式が変わったんだ」
 榊くんはそれ以上を問わず、顎に手を当ててしばらく考えていた。
 やがて、何かを飲み込むように小さく息を吐く。
「……なるほどね」
 そう、残念そうに笑った。

 マンションのエントランスまで見送られるとき、私は彼に言い忘れたことがあったのを思い出した。
「そういえば由希のことだけど」
 榊くんは一瞬考え、「ああ、あの幼なじみの子ね」と言った。
「どうやら私には、彼女を損切りするという決断には至れないみたいだ。上手く言語化はできないのだけれど、由希がいなくなると、私はひどく退屈になってしまう気がする。不思議だな、彼女の欠点なら山ほど思いつくのに」
 私は振り返って榊くんと正対する。
「直感でしかないが、もし言語化できたとしてもこの結論は変わらない気がする。だとすればこの件、もはや考える意味がない。現実逃避とも捉えられるかもしれないが、これが私にとっての『最適化』なんだ」
「そっか。可菜子ちゃんがそう判断するなら、僕はもう余計な口出しはしない。悪かったね、前回は失礼なことを言って」
 榊くんは微笑む。
「それから、迷惑じゃなければ、また君にアタックしてみてもいいかな?」
「なぜだ? 悪いけど、君の思いが成就する可能性はほとんどないと言っていいよ」
「僕も現実逃避がしてみたくなってね。理屈じゃなく、僕は感情的に君のことが好きになってしまったみたいだ」
「そうか」
 理屈じゃない。彼のような男からそういう言葉が出るのは少し面白かった。
「だったら、私も榊くんの判断を尊重するよ。また一緒に勉強しよう」
 私たちは声もなく笑い合い、軽く手を振って別れた。

 マンションを出ると、十二月目前の冷たい風が一帯に吹き付けていた。
 胸の鼓動は大人しくなってしまったが、今度は腹の方がやたらと騒がしい。
 私は駅へと向かいながらスマートフォンを取り出し、由希に電話をかけた。
『どしたのー』
 以前の憔悴はどこへやら、いつもの元気な声が聞こえてきた。
「焼肉を食べに行かないか」
『え?』
「この前、由希が言っていた焼肉食べ放題の店だよ。今から行こう」
『え、は? はああ!?』
「いや、そこまで驚かなくても」
 由希の仰天顔が目に浮かぶようだった。彼女は震えた声で二の句を継ぐ。
『ち、ちなみにあそこ、もう一千円オフキャンペーン終わって、3980円に戻ってるんだけど……』
「それでも問題ない。今ならイケる気がする」
『ねえ、どうしたの可菜子。熱でもある? 病院行った方がいいんじゃない? あれだけ損するから嫌だって言ってたじゃん』
 私はぐうぐうと五月蠅い腹部を撫でつけた。
「食べ放題の計算式を見直したんだ。今の私はとてつもなく腹が減っている。『空腹度』という変数を加えれば、今日なら元が取れる気がする」
 電話の向こうで、由希の気の抜けたような笑い声が聞こえた。
『もう、何それっ。可菜子ってば、いっつも変なことばっかり言って!』
 何も変じゃない。私はいつだって真面目なのだ。
「行くということでいいんだよな?」
『わかったわかった、ちょっと準備するから待ってて』
 そこで私はハッとした。通話を繋いだままインターネットブラウザを立ち上げ、検索窓に文字を打ち込む。
『どうしたの?』
「いや、あの焼肉屋にはクーポンがあった気がして……あ、やっぱりあった。クーポン利用には無料会員登録をしなければいけないらしい。おい由希、店に来るまでにお前も登録しておいてくれ」
『えー、面倒くさいなー』
「何を言ってるんだ、五百円引きだぞ! 絶対登録忘れるなよ!」
 はいはい、と由希は呆れたように笑った。

 〈了〉