損は絶対したくない

 明くる月曜日。
 放課後、ちょいと物理の課題を処理してから帰るかとペンを走らせていると、保奈実が血相を変えて教室に飛び込んできた。
「助けて最高裁!」
「どうした高裁」
 私はテキストに目を落としつつ答える。人間関係の自治統制を得意とする保奈実がこの様子なのだからそれなりの緊急事態なのだろうが、あいにく私は今忙しい。
「高裁の私でも処理しきれない案件が発生したの。説明するのが大変だから、とにかく来て。そっちの方が話が早い」
「却下だ。まず状況説明とその上での高裁の判断が聞きたい。控訴するにも相応の手続きを踏みたまえ」
「あぁもう面倒くさいな! 移動しながら簡単に説明するから!」
 私は無理矢理腕を掴まれて席を立たされた。

 そろばんの珠がぶつかる音がした。
 高瀬直人が、二股をかけていたかもしれないというのだ。
 高瀬くんといえば、由希が先週の土曜日にお試しデートする予定だった男子ではないか。
「由希は?」
「いるよ。もう入廷してる」
 保奈実に案内されたのは、特別教室棟の端にある空き教室だった。
 扉を開けると、教室前方の椅子に三人の生徒が着座していた。
 中央に座る高瀬くんは顔面蒼白で、膝の上に置いた両手にじっと視線を落としている。
 左方に座る由希はうつむき、私が入ってきたのに気づいてもいつもの陽気さを見せない。
 そして、右方でハンカチを手にしくしく泣いていたのは隣のクラスの千香だった。真面目で几帳面な子だ。彼女の正確無比な板書ノートは欠席者にとって貴重な共有資源となっている。
 保奈実が私に耳打ちする。
「千香が昼休み、屋上手前の階段で座り込んで泣いてたの。あの人気のないところ。声をかけたら、土曜日に高瀬が由希ちゃんとデートしてるところを見たって。千香、高瀬くんと付き合ってたんだって。それで、私が昼休みと休憩時間、二人に事情を聞きに行ったんだけど……」
「収拾がつかなくなったと」
「そういうこと。千香の親友だっていう子が聞きつけて、いきなり高瀬と由希ちゃんに食ってかかったの。それからもう大騒ぎ」
 教室の後方を見やる。そこには傍聴席よろしく、男女問わず十人ほどの生徒が集まっていた。その中で一人、山内という女子が明らかに殺気立った気配を発散している。あれが千香の親友だろう。
「大体分かった。あとは任せてくれ」
 私は眼鏡を拭きながら教壇に上がる。途端、傍聴席が騒がしくなった。
「裁判長、厳正なる処罰を!」
「倉橋様ーっ!」
「今日が年貢の納め時だぜ高瀬! 可憐なる女性を二人もたぶらかしやがって!」
 私は物理のテキストを教壇に叩くように置いた。
「静粛に」
 教室内の喧噪がぴたりと収まる。
「まず確認するけど、私は裁判官でも検察官でもない。ここでできるのは、当事者の話を公平に聞いて事実を整理するだけです。私に処罰の権限はありません。また、ここで行う審理の内容は面白半分で周囲に言いふらさないこと。いたずらに当事者たちの名誉を毀損することになるからね。いいですか?」
 はい! と傍聴席から元気の良い返事が返ってくる。本当に分かってるのかよ。
 私は三人の当事者に目を移した。
「高瀬くん、由希、千香。嘘の証言はみんなの信用を失墜させますから、できるだけ正直な話を聞かせてください。いいですね?」
 三人とも一様に沈んだ表情で重たげにうなずいた。
「よろしい。それでは審理を始めます」
 私は眼鏡のブリッジをあげる。
「まず高瀬くん。千香と交際していたというのは事実?」
「……はい」
 高瀬くんはリスのごとく縮こまり、声はとんでもなく震えている。
「千香とはその、別れ話をしている最中で……」
「いつから?」
「先々週の水曜日あたりからだったと思います……」
「別れ話をしている最中ということでしたが、その話は決着していないと考えてよろしいですね? 由希は先週の金曜日、高瀬くんに告白されたと聞いています。千香とはまだ交際を継続している状態で、由希に告白をしたということですか?」
「……はい」
 千香がハンカチで顔を覆い、うわーんと泣き出した。「ひどい!」と傍聴席で山内が席を立つ。
「傍聴人は発言を控えてください。……それでは、千香に聞きます。高瀬くんと別れ話をしていたというのは事実ですか?」
「事実です……私のことが好きか分からなくなったって、急にLINEで言われて……私はまだ好きだったから、ちゃんと会って話がしたいって言ったんです」
 千香はハンカチから赤い目を上げながら答えた。
「高瀬くんはそれにどう答えた?」
「会う前に、考える時間がほしいって」
「現時点でも本格的な別れ話はしていない?」
「はい。証拠もあります。LINEのトーク画面ですけど」
 千香は鼻をすすりながら制服のポケットからスマホを取り出した。
「保奈実、それを受け取って」
 保奈実は千香に一礼してスマホを受け取る。私に画面を確認させると、一度咳払いし、私が指示した本文の一部を彼女は高らかに読み上げた。
「来月の第一土曜日にいつものカフェで改めて話し合おう、とここには書いてあります」
「確かに、別れ話は終わっていないようですね」
「それから先週の土曜日の履歴です。千香が『直人くん、どうして由希ちゃんと二人で歩いていたの? イオンで一緒にいたよね?』と尋ねています。これに対し高瀬は『たまたまそこで会ったんだよ。ちょっと立ち話してただけ』と答えています」
 高瀬くんは首が折れるんじゃないかってほど深く項垂れた。保奈実はまた一礼してスマホを千香に返却する。
「静粛にお願いします」
 騒がしくなりかけた教室を再度一喝し、私は発言する。
「このやり取りから確認できるのは、少なくとも土曜日の時点で二人の別れ話は決着していなかったこと。それから、高瀬くんが由希との外出を『偶然そこで出会った』と説明していること。この二点だね」
「裁判長、被告は嘘を吐いています!」と、再三注意したにも関わらず山内が声を上げた。
「今行っているのは事実認定であり、過去の嘘を私が追求するつもりはありません。私が許さないのはあくまで法廷上での嘘のみです。そして山内さん、これ以上勝手な発言をするようであれば退廷させますよ」
 彼女はぐっと唇を噛んで大人しく座り直した。
 そして私は最後に由希を見る。
「由希、君は高瀬くんと付き合うかどうかを判断するためにお試しデートをすると言っていたね。前提として、高瀬くんに恋人がいることは知らなかった、ということでいいかな?」
 由希はじっと視線を落としたまま押し黙っていた。
 非常に長い沈黙だった。教室全体どころか、質問した私自身が不安になるくらいに。
「由希?」
 半ば私は、祈るような思いで呼びかけていた。そうしてようやく、彼女は涙目で顔を上げたのだった。
「高瀬くんに恋人がいること、知ってました」
 教室中がどよめく。それは今日一番の動揺であった。もはや黙って場が静かになるのを待つ方が早いだろうと思い、私は由希と視線を絡めたまま口を結んでいた。
 やがて私はため息を堪えつつ口を開く。
「それはいつから知ってたの?」
「……告白されたときには、もう知ってた」
 やっぱり耐えきれずにため息が出てしまう。私に話したとき、そんなことは言ってなかったじゃないか。
「千香ちゃんとは、もう別れるつもりだからって、そういう風に言われて」
「それを聞いて、お試しデートに行くことにした?」
「うん」
「そのデート中、もう別れ話が済んだのかは、ちゃんと確認した?」
 由希は気まずそうに首を振った。
「デートがすごく楽しくて、夢中になってて、確認してませんでした」
「それは確認するのを忘れていたのか、あえて確認しなかったのか、どっちとも取れる発言だけど、どっち?」
「分かんない……とにかく夢中で」
 由希ならそういう風になるのは私ならうなずける。彼女は一度熱が入ると細かい確認を怠ってしまうのだ。ただ、千香や傍聴席(世論)はそれじゃ納得しないだろう。
「それで、デートした結果、告白の返事はどうしたの?」
 これはまだ私も聞いていない。
「じゃあ付き合おう、って返事した。……千香ちゃん、ごめんなさい」
 由希は床に涙を落としながら頭を下げた。千香はまたハンカチで顔を隠してしまった。
 私は厳しい目で高瀬くんを見る。
「高瀬くん、ここまでの証言に何か誤解はありますか」
「ありません……」
「それでは最後に、みんなに何か言いたいことがあれば発言してください」
 高瀬くんはおずおずと立ち上がり、教室を振り返った。
 ここからの高瀬くんの謝罪は長かったので割愛する。要するに、千香を傷つけるのが恐くて別れ話を先延ばしにし、嘘を重ねてしまったということだ。由希には、最初から二股をするつもりはなかったが、順番を間違えたと謝罪した。
 高瀬くんの発言が終わったのを確認し、私は教室全体を見回す。
「始めにも断ったとおり、この場の目的は処罰を下すことでも、三人の関係に決着をつけることでもなく、あくまで事実を認定するためのものです。それぞれの関係処理については、あとは当事者同士が話し合って決めるべきだと私は考えます。なお、当事者以外の者はこれ以上この件に立ち入らないように。ここで聞いたことを面白半分で広めた場合、その行為自体が新たな問題になります。何か異論があれば文書にしたため、後日私か保奈実に提出してください」
 私は保奈実に視線を送る。補足事項はないというように彼女はうなずいた。
「それでは閉廷します。他の生徒や近隣住民の迷惑になるので、騒ぐことなく静かに下校してください」

 一人一人と退出していく中、最後まで教室に残ったのは私と保奈実、そして床にうずくまって落ち込む高瀬くんだった。肩を叩いてやると、高瀬くんは十年は老けたような顔を上げた。
「まあなんだ、君にとって散々な一日だっただろうが、しかし高瀬くんはちょっと優柔不断すぎたな。その優柔不断さのせいで傷ついてしまう人もいるし、現実問題、そのために君は嘘まで吐いてしまったんだ。そのあたりの過失はちゃんと自覚してほしい。また今回のことを戒めに、今後はもっと誠実な行動を心がけてくれ」
「はい……この度はお手をわずらわせてすみませんでした、倉橋様……」
 彼とはほとんど喋ったことはなかったが、前は倉橋さんって呼んでなかったか。どうでもいいけど。
 保奈実と一緒に彼の背中をさすってやると、高瀬くんはぽつぽつと反省の涙を流した。