とにかく、由希というやつは話題に事欠かない女である。
放課後、いつもの飲食店論争に今回は私が勝利し、目当てのハワイアンスイーツ店でアサイーボウルを頬張っていたときのことだ(キャンペーン価格かつクーポン利用で、なんと750円なのだ!)。
店先のベンチに座り、アサイーを食べながら草花図鑑アプリを眺めていた由希が、ふっと晴れた夕焼け空を見上げた。
「可菜子、実はね……ついに春がきたの」
「今は十一月だが?」
由希は特にコメントせず、頬を朱に染めて妙に甘い吐息を吐く。
「高瀬くんに、告白されちゃった……」
「告白。何のカミングアウトだ? 実は生き別れの兄妹でしたとか?」
「ねえ、可菜子はわたしが今まで貸した少女漫画から一体何を学んできたの?」
さすがに冷めた目で見られてしまった。私なりの冗談のつもりだったのだが。
「分かってるよ。愛の告白の方でしょ」
「分かってるじゃん」
「高瀬くんってのは、二年B組の高瀬直人くんのことだね?」
「分かりまくってるじゃん」
「そりゃ高瀬って言ったらうちの学校には二人しかいないからね。もう一人の高瀬は一年D組の高瀬かほり。『くん』呼びとなると、まあ男子の高瀬くんだろうね」
「さすが可菜子、分かってる」
「高瀬直人。顔の造りは良いが、いたって普通の男子生徒だな。推定身長180cm前後。バレー部所属でポジションはミドルブロッカー。最近は一年の有望株が実力を伸ばしてきて補欠入りしがち。成績は下の上。数学はかなり弱いらしく、B組の数学赤点三銃士の一人に数えられている。血液型はAB型。MBTIはISFJ(擁護者型)。クラスではやや八方美人的な立ち位置。あだ名は『直売人』。彼の口癖が『それメルカリで売ろう』なのと、直人という名前をかけているみたいだね」
「ねえ待って、分かりすぎてて恐いんだけど」
「別に、何も分かってない。私が持ちうるデータベースを開示しただけだ」
私は軽く肩をすくめる。
「で、その高瀬くんに告白されて、由希はどうするつもりなの?」
「それはもちろん、お付き合いする方向で考えようかなって」
いや何がもちろん?
「……高瀬くんとは、もともと仲良かったんだっけ?」
「ううん、告白されたときに初めて喋ったよ。告白の言葉も『遠くから見てて、ずっと気になってました』って」
進路の話をしたときと全く同じ感覚だ。私の脳がシステムエラーを起こしかけている。
ただ、告白を即座にオーケーしていないだけマシなのかもしれない。
「彼、背高くてかっこいいし、優しそうだし、誠実そうだし……今度の土曜日ね、お試しデートに行こうって話になったんだ」
「それは構わないのだが、由希、付き合うかどうかは慎重になった方がいい」
「慎重になってるよ。だからお試しのデートなんじゃん」
私とて伊達に十五年、由希の友だちはやっていない。
今の彼女は完全にお花畑モードであり、フィルターがかかりまくってまともな判断はできない状態なのだ。名前だけ書けたら合格する系のゆるゆる入学試験みたいなものである。
「いいか由希、客観的事実を伝えるよ。その高瀬直人という男子、顔以外のスペックは特別良いとは言えない。対して由希、自分では分からないかもしれないが、お前は相当に市場価値が高い。頭は若干足りていないが、不思議と勉強はできるのだから壊滅的ではないのだろう。性格も良いと言えるな。明るいし、人の悪口とか言わないし、さっぱりしてて面倒くさくないし。なにより、お前は顔がいい。一部瑕疵ありの優良物件なんだよ。つまり、そんな由希と高瀬くんを比べるとだな──」
「やだもう、可菜子ったらお上手っ」
だめだこいつ、都合の良い言葉しか耳に入ってない。
由希はとろんとした目つきで草花図鑑アプリを眺めた。
「彼、花に例えるとビオラだと思うんだよね。花言葉は『誠実』と『信頼』。直人くんにぴったりの言葉……きゃっ、直人くんって呼んじゃった」
何もしていないのにずり落ちかけた眼鏡を慌てて正す。頭が痛くなってきた。
ふと、由希が我に返ったように私を見た。
「あ、そういえば可菜子の方はどうなの? あの榊くんって人とは」
榊くんについては一通り彼女には話していた。
「ふむ、彼はやはり非常に優秀な人物だよ。こんなに話していて実りのある男子は初めてかもしれないね。珍しく、私にも男友達と呼べる存在ができたみたいだ」
「ふーん、友達ね」
と、由希は意味深なにやけ笑いを浮かべた。
そう、私は男子とはいつも知り合い程度の関係にとどまっていて、男友達なんてまともにできた試しがない。
従って、今まで彼氏を作ったこともなかった。
というより、十七歳の今の自分に、彼氏は必要ないと思っている。
同世代の男子など不確定要素の塊だ。進学先も決まっていない、将来が安泰するかも分からない相手にリソースを割くなど、事業内容すら公表していない怪しい中小企業の株に投資するようなものだ。
かといって、有名大学の学生や大手企業の社会人と付き合うかといえば、これも当然ノーだ。女子高生に手を出そうとする大人など、倫理観の欠如した地雷でしかない。
上記の理由をもって、今の私に彼氏は必要ないと思っていた……はずだったが。
とある塾の帰り際、榊くんに声を掛けられた。
「このあと一緒に勉強しない?」
彼はそう、なんてことない風に誘ってくる。この塾には自習室のようなスペースもないし、一体どこで勉強しようというのかすぐには浮かばなかった。
「カフェとか、図書館とかで?」
榊くんは首を横に振った。
「僕の家で」
トゥンク、と例の心音が突発的に鳴った。
「それはいいが、大丈夫なの? ご両親が在宅してたらご迷惑かもしれないし」
「そこは気にしなくて大丈夫。家って言っても、仮住まいみたいな場所でね。勉強用にって、賃貸マンションを一部屋用意されてるんだよ。学校と塾が近いから平日は基本そこで寝泊まりしている」
薄々感付いてはいたが、やはり彼の家庭はかなり潤沢なのだろう。しかし高校生にマンションをあてがうとは、私の家庭ではまず想像も及ばない選択肢だろう。
どう返事したものかとまごついていると、やがて榊くんが苦笑しながら手を振った。
「そんなに構える必要はないよ。僕は可菜子ちゃんから数学を教わりたい。反対に、僕は等価交換として可菜子ちゃんに英語を教えてあげる。ただそれだけのことさ。何も意識することはない」
「も、もももちろんだ。何の支障もない」
それならいいんだけど、と彼は無邪気に笑った。
徒歩三分の道のりを並んで歩くダブル眼鏡。
周囲の人たちの目には、私たちはどう映っているのだろうかと益体のないことを考える。
勉強用のマンションとやらは、塾や学校だけでなく駅やスーパーからもほど近い、なるほど最高な立地にあった。加えて、エントランスに飾られた絵画や観葉植物にもいかにも金がかかっていそうで、一体管理費はいくらなのかと考えてしまった。
部屋にお邪魔させてもらう。
想像だにしない空間の広さに、思わず足が止まってしまった。
広いだけじゃない。とにかく、生活感がないのだ。
白い壁と木目の床にはホコリやシミの一つもなく、長い廊下を進んだ先のリビングには、二人がけのソファと小さなテーブルがあるだけだった。テレビやテレビ台はおろか、収納家具のようなものさえない。
ここで勉強しよう、と通された八畳ほどの洋間も同じく殺風景で、壁際に置かれた机と、椅子が二脚。反対の壁には背の低い本棚が一つ設置されているだけであり、その他、床の上には物どころかカーペットさえ敷かれていない。
なるほど。
「引っ越し直後か」
「いや、高校に進学してからだから、かれこれ一年半は住んでるよ?」
「では、家具の買い換えタイミング?」
「あはは。全部揃ってるってば」
私は改めて部屋を見回す。ここに強盗が入ったとして、盗めそうなものといったらあの机の上のノートパソコンくらいか。強盗にとっては費用対効果の悪い物件である。
「榊くん、ミニマリストなんだね」
「そうなるかな。あまり意識したことはないけど、気づいたらこうなっていたってだけだよ」
「最適化」
反射的に私はそう言った。確か、以前彼はそこに関しては自信があると言っていた。
「その通り。無駄の排除こそ、手っ取り早い最適化への近道だからね。例えばこれ」
榊くんは本棚から一冊の問題集を抜き取った。
「この問題集も、一度解いたら勉強記録を残して処分する」
「復習したくなったら?」
「記録を見ればいいし、必要なら買い直す。物の占有にも賃料が発生するからね。物が増えれば、それだけ広い部屋が必要になる」
「え……」
いや、物が少ないのにやたら広くて高そうな部屋に住んでいると思うが。
「だったら、こんなに物がないなら六畳一間で十分だろって思ったでしょ?」
私の考えを読むように榊くんは言った。
「僕はこの余白にお金を払いたいんだよ。何もない空間って落ち着くし、僕にとっては十分価値がある。といっても、払ってるのは現状両親だけどね。これは将来、恩返しするつもりではあるけれど」
私は感心した。
「そういうことなら、合理的だ」
「可菜子ちゃんにそう言われると嬉しいな」
榊くんは笑って椅子を勧めてくる。家具の質にはこだわっているのか、座り心地の申し分ないこれまた高そうな椅子であった。
「そういえばさ」
榊くんは冷蔵庫から出したペットボトルのミネラルウォーターを一本、私の手もとに置いた。この部屋にはコップの類はないのだという。
「可菜子ちゃんは、どうしてあの選抜塾にしたの?」
「どうしてって」
「他にも塾はたくさんあるし、なんなら、君なら独学でもかなりやれそうだよね」
「通学圏内の塾を比較して、授業の質、講座の自由度、移動時間、合格実績、受講料を総合的に精査した。その結果、あそこが一番期待値が高いと感じたからね」
「受講料は結構高いよね」
「うん、正直そこだけはネックだった」
我が家は決して貧乏ではなかったが、教育のために投資できる金額には限度があった。
「でも、おじいちゃんがお金を残してくれていてね。わたしが中学に上がる前に亡くなったんだけど、生前、私の教育資金や将来のためにって、まとまった金額の遺産を用意してくれていたんだ」
「おじいちゃん、可菜子ちゃんを可愛がっていたんだろうね」
「それは間違いない。溺愛されていたと言っていいだろう。ただ、彼が存命のころは素直にそう思えなかったよ」
「というと?」
「おじいちゃん、ちょっと執拗過ぎるところがあったというか」
特に、株の取引をするおじいちゃんはちょっと恐かった。あの人の人生の大部分は株価に支配されていたように思う。
朝食もそこそこに経済ニュースを食い入るように見、昼間は株の売買のためにチャートに張りつき、夕方にはその日の相場によって気分が浮いたり沈んだりしていた。
彼がチャートに向かい合うときの顔貌はトラウマものである。保有銘柄が長い陰線を描くたび、親の敵かってくらいに目を血走らせ、奥歯が破砕するのではと思うほどの歯ぎしりを鳴らしていた。
「数字を偽るとは何事だ! こっちがいくら緻密に計算したところで、元が嘘なら意味がない! この俺に大損させおって!」
とある大手電機メーカーの粉飾決算が発覚し株価が大暴落したときは大荒れだった。我を失いパソコンに喧嘩を売り出すおじいちゃんを、父が「お義父さん、落ち着いてください!」と必死に羽交い締めで止めていた。
「パワフルなおじいちゃんだったんだね」
榊くんは興味深そうに聞いている。
「普段はニコニコした優しい人だったんだ。私の前だと特に。だけど『とにかく損をするな』が口癖でね、一緒にクレーンゲームをしたときなんか、中々取れないでいると突然般若みたいな顔して、店員さんに食ってかかろうとしたんだ。あれは大変だったよ」
「ちょっと過激かもしれないけど、数字に徹底してるって意味では可菜子ちゃんっておじいちゃん似なのかもしれないね」
「そうかな? 自覚はないが」
私はミネラルウォーターを一口飲んだ。
「ただ、おじいちゃんが亡くなってから見方が変わった。おじいちゃんが残したお金のおかげで、うちはずいぶん助かったんだよ。母も以前ほど家計のことで悩まなくなったし、こうして私の教育資金も潤沢になったわけだしね」
榊くんはうなずきながら聞いている。
「自分がいなくなったあとのことまで、おじいちゃんは考えていたのかもしれない。私はまだまだ目先の数字しか追えない未熟者だけど、おじいちゃんはもっと広く、先の将来のことまで考えていたのかもしれないってね」
「素敵な話だね」
「もちろん、実際のところは分からないけどね。単純に株が趣味だったってだけかもしれないし」
榊くんは椅子の背にもたれて感慨深く天井をしばらく見上げ、それから少しだけ私の方に身を乗り出した。
「僕はおじいちゃんの考え方、結構好きだな。限られた資源を無駄なく使い、可能な限り損を避ける。そのためには管理力が必須だと僕は思うね。自分の把握範囲を限定し、管理を行き届かせる。損失回避には有効な手段だ」
「この部屋を見ていると説得力があるね」
「だろう? これって、人付き合いにも同じことが言えると思うんだ」
「というと?」
「付き合う人を限定するんだよ。実際、僕は自分が付き合いたいと思う人とだけ関わるようにしている。可菜子ちゃんもそうじゃないかい?」
私は深々と首肯した。
「似ているかもしれない。私も、君と一緒に勉強するのが有効だと判断して、この場にいるから」
「だろう」
「うむ。……しかしこの部屋、暖房を効かせ過ぎじゃないか? なぜだか顔が熱いのだが」
「そう?」
榊くんはエアコンの温度を下げた。
小一時間ほど微分法の問題を解き合い、休憩がてら榊くんが口を開く。
「ちなみに、可菜子ちゃんの一番長い付き合いの友人って、どんな人なの?」
「由希という子だね。保育園からだから、十五年ほどの付き合いになる」
「どんな子か聞いてもいい?」
私は由希について、プライバシーを損なわない範囲で客観的事実に基づいた情報を提供する──つもりだったのだが、気づけば私はかなり主観的な所感を話してしまっていたかもしれない。
遊びに行けばやたらコスパの悪い店に連れ回されること、時間にルーズなこと、進路や恋人の選び方が破天荒で計画性がないこと、容姿も性格も良いし勉強もできるのにもったいないと感じていること。榊くんが話しやすいから、という感情的な言い訳はしたくないが、口から出てしまったものは仕方がない。
「そっかぁ」
榊くんはにこやかに、頬杖をついて窓の外に目をやり、何やら考えている。
「なかなか自由な子だね」
「自由すぎて困るんだよ。いくら論理的に説明しても聞く耳を持たない。もはや人類に制御できる存在じゃないんだ。大自然に太古から住まう妖精みたいなものだよ」
すると、榊くんは私を流し見て、
「その子、損切りしちゃえば?」
と邪気なく笑って言った。
「十五年も付き合ってるからっていう理由で付き合い続けるなら、それこそサンクコスト効果じゃないかな。可菜子ちゃんも一度整理してみるといいのかもしれないね。自分にとって合理的な友人選別ってやつをさ」
サンクコスト。聞き慣れた言葉だった。
クレーンゲームの筐体を睨みつける般若のおじいちゃんが脳裏に浮かぶ。一千円投入して景品が獲得できなかったからといって、次の数百円で手に入る保証はどこにもない。しかし人は、既に投入してしまった一千円に執着してしまう。
由希が六百円の損失を出しながらゲットしたトラ丸のぬいぐるみは、いくら頭の中のそろばんを弾いても、トラ丸を入手するために六百円余計に支払った事実は変わらない。
だけど、それよりももっと私の脳に色濃く記憶されていたのは、それを幸せそうに抱く由希の笑顔だった。
「さて、次は英文読解をしようか」
はっとしてテキストを開く。私らしくもなくぼうっとしてしまって、榊くんの存在が意識から逸れてしまっていた。
放課後、いつもの飲食店論争に今回は私が勝利し、目当てのハワイアンスイーツ店でアサイーボウルを頬張っていたときのことだ(キャンペーン価格かつクーポン利用で、なんと750円なのだ!)。
店先のベンチに座り、アサイーを食べながら草花図鑑アプリを眺めていた由希が、ふっと晴れた夕焼け空を見上げた。
「可菜子、実はね……ついに春がきたの」
「今は十一月だが?」
由希は特にコメントせず、頬を朱に染めて妙に甘い吐息を吐く。
「高瀬くんに、告白されちゃった……」
「告白。何のカミングアウトだ? 実は生き別れの兄妹でしたとか?」
「ねえ、可菜子はわたしが今まで貸した少女漫画から一体何を学んできたの?」
さすがに冷めた目で見られてしまった。私なりの冗談のつもりだったのだが。
「分かってるよ。愛の告白の方でしょ」
「分かってるじゃん」
「高瀬くんってのは、二年B組の高瀬直人くんのことだね?」
「分かりまくってるじゃん」
「そりゃ高瀬って言ったらうちの学校には二人しかいないからね。もう一人の高瀬は一年D組の高瀬かほり。『くん』呼びとなると、まあ男子の高瀬くんだろうね」
「さすが可菜子、分かってる」
「高瀬直人。顔の造りは良いが、いたって普通の男子生徒だな。推定身長180cm前後。バレー部所属でポジションはミドルブロッカー。最近は一年の有望株が実力を伸ばしてきて補欠入りしがち。成績は下の上。数学はかなり弱いらしく、B組の数学赤点三銃士の一人に数えられている。血液型はAB型。MBTIはISFJ(擁護者型)。クラスではやや八方美人的な立ち位置。あだ名は『直売人』。彼の口癖が『それメルカリで売ろう』なのと、直人という名前をかけているみたいだね」
「ねえ待って、分かりすぎてて恐いんだけど」
「別に、何も分かってない。私が持ちうるデータベースを開示しただけだ」
私は軽く肩をすくめる。
「で、その高瀬くんに告白されて、由希はどうするつもりなの?」
「それはもちろん、お付き合いする方向で考えようかなって」
いや何がもちろん?
「……高瀬くんとは、もともと仲良かったんだっけ?」
「ううん、告白されたときに初めて喋ったよ。告白の言葉も『遠くから見てて、ずっと気になってました』って」
進路の話をしたときと全く同じ感覚だ。私の脳がシステムエラーを起こしかけている。
ただ、告白を即座にオーケーしていないだけマシなのかもしれない。
「彼、背高くてかっこいいし、優しそうだし、誠実そうだし……今度の土曜日ね、お試しデートに行こうって話になったんだ」
「それは構わないのだが、由希、付き合うかどうかは慎重になった方がいい」
「慎重になってるよ。だからお試しのデートなんじゃん」
私とて伊達に十五年、由希の友だちはやっていない。
今の彼女は完全にお花畑モードであり、フィルターがかかりまくってまともな判断はできない状態なのだ。名前だけ書けたら合格する系のゆるゆる入学試験みたいなものである。
「いいか由希、客観的事実を伝えるよ。その高瀬直人という男子、顔以外のスペックは特別良いとは言えない。対して由希、自分では分からないかもしれないが、お前は相当に市場価値が高い。頭は若干足りていないが、不思議と勉強はできるのだから壊滅的ではないのだろう。性格も良いと言えるな。明るいし、人の悪口とか言わないし、さっぱりしてて面倒くさくないし。なにより、お前は顔がいい。一部瑕疵ありの優良物件なんだよ。つまり、そんな由希と高瀬くんを比べるとだな──」
「やだもう、可菜子ったらお上手っ」
だめだこいつ、都合の良い言葉しか耳に入ってない。
由希はとろんとした目つきで草花図鑑アプリを眺めた。
「彼、花に例えるとビオラだと思うんだよね。花言葉は『誠実』と『信頼』。直人くんにぴったりの言葉……きゃっ、直人くんって呼んじゃった」
何もしていないのにずり落ちかけた眼鏡を慌てて正す。頭が痛くなってきた。
ふと、由希が我に返ったように私を見た。
「あ、そういえば可菜子の方はどうなの? あの榊くんって人とは」
榊くんについては一通り彼女には話していた。
「ふむ、彼はやはり非常に優秀な人物だよ。こんなに話していて実りのある男子は初めてかもしれないね。珍しく、私にも男友達と呼べる存在ができたみたいだ」
「ふーん、友達ね」
と、由希は意味深なにやけ笑いを浮かべた。
そう、私は男子とはいつも知り合い程度の関係にとどまっていて、男友達なんてまともにできた試しがない。
従って、今まで彼氏を作ったこともなかった。
というより、十七歳の今の自分に、彼氏は必要ないと思っている。
同世代の男子など不確定要素の塊だ。進学先も決まっていない、将来が安泰するかも分からない相手にリソースを割くなど、事業内容すら公表していない怪しい中小企業の株に投資するようなものだ。
かといって、有名大学の学生や大手企業の社会人と付き合うかといえば、これも当然ノーだ。女子高生に手を出そうとする大人など、倫理観の欠如した地雷でしかない。
上記の理由をもって、今の私に彼氏は必要ないと思っていた……はずだったが。
とある塾の帰り際、榊くんに声を掛けられた。
「このあと一緒に勉強しない?」
彼はそう、なんてことない風に誘ってくる。この塾には自習室のようなスペースもないし、一体どこで勉強しようというのかすぐには浮かばなかった。
「カフェとか、図書館とかで?」
榊くんは首を横に振った。
「僕の家で」
トゥンク、と例の心音が突発的に鳴った。
「それはいいが、大丈夫なの? ご両親が在宅してたらご迷惑かもしれないし」
「そこは気にしなくて大丈夫。家って言っても、仮住まいみたいな場所でね。勉強用にって、賃貸マンションを一部屋用意されてるんだよ。学校と塾が近いから平日は基本そこで寝泊まりしている」
薄々感付いてはいたが、やはり彼の家庭はかなり潤沢なのだろう。しかし高校生にマンションをあてがうとは、私の家庭ではまず想像も及ばない選択肢だろう。
どう返事したものかとまごついていると、やがて榊くんが苦笑しながら手を振った。
「そんなに構える必要はないよ。僕は可菜子ちゃんから数学を教わりたい。反対に、僕は等価交換として可菜子ちゃんに英語を教えてあげる。ただそれだけのことさ。何も意識することはない」
「も、もももちろんだ。何の支障もない」
それならいいんだけど、と彼は無邪気に笑った。
徒歩三分の道のりを並んで歩くダブル眼鏡。
周囲の人たちの目には、私たちはどう映っているのだろうかと益体のないことを考える。
勉強用のマンションとやらは、塾や学校だけでなく駅やスーパーからもほど近い、なるほど最高な立地にあった。加えて、エントランスに飾られた絵画や観葉植物にもいかにも金がかかっていそうで、一体管理費はいくらなのかと考えてしまった。
部屋にお邪魔させてもらう。
想像だにしない空間の広さに、思わず足が止まってしまった。
広いだけじゃない。とにかく、生活感がないのだ。
白い壁と木目の床にはホコリやシミの一つもなく、長い廊下を進んだ先のリビングには、二人がけのソファと小さなテーブルがあるだけだった。テレビやテレビ台はおろか、収納家具のようなものさえない。
ここで勉強しよう、と通された八畳ほどの洋間も同じく殺風景で、壁際に置かれた机と、椅子が二脚。反対の壁には背の低い本棚が一つ設置されているだけであり、その他、床の上には物どころかカーペットさえ敷かれていない。
なるほど。
「引っ越し直後か」
「いや、高校に進学してからだから、かれこれ一年半は住んでるよ?」
「では、家具の買い換えタイミング?」
「あはは。全部揃ってるってば」
私は改めて部屋を見回す。ここに強盗が入ったとして、盗めそうなものといったらあの机の上のノートパソコンくらいか。強盗にとっては費用対効果の悪い物件である。
「榊くん、ミニマリストなんだね」
「そうなるかな。あまり意識したことはないけど、気づいたらこうなっていたってだけだよ」
「最適化」
反射的に私はそう言った。確か、以前彼はそこに関しては自信があると言っていた。
「その通り。無駄の排除こそ、手っ取り早い最適化への近道だからね。例えばこれ」
榊くんは本棚から一冊の問題集を抜き取った。
「この問題集も、一度解いたら勉強記録を残して処分する」
「復習したくなったら?」
「記録を見ればいいし、必要なら買い直す。物の占有にも賃料が発生するからね。物が増えれば、それだけ広い部屋が必要になる」
「え……」
いや、物が少ないのにやたら広くて高そうな部屋に住んでいると思うが。
「だったら、こんなに物がないなら六畳一間で十分だろって思ったでしょ?」
私の考えを読むように榊くんは言った。
「僕はこの余白にお金を払いたいんだよ。何もない空間って落ち着くし、僕にとっては十分価値がある。といっても、払ってるのは現状両親だけどね。これは将来、恩返しするつもりではあるけれど」
私は感心した。
「そういうことなら、合理的だ」
「可菜子ちゃんにそう言われると嬉しいな」
榊くんは笑って椅子を勧めてくる。家具の質にはこだわっているのか、座り心地の申し分ないこれまた高そうな椅子であった。
「そういえばさ」
榊くんは冷蔵庫から出したペットボトルのミネラルウォーターを一本、私の手もとに置いた。この部屋にはコップの類はないのだという。
「可菜子ちゃんは、どうしてあの選抜塾にしたの?」
「どうしてって」
「他にも塾はたくさんあるし、なんなら、君なら独学でもかなりやれそうだよね」
「通学圏内の塾を比較して、授業の質、講座の自由度、移動時間、合格実績、受講料を総合的に精査した。その結果、あそこが一番期待値が高いと感じたからね」
「受講料は結構高いよね」
「うん、正直そこだけはネックだった」
我が家は決して貧乏ではなかったが、教育のために投資できる金額には限度があった。
「でも、おじいちゃんがお金を残してくれていてね。わたしが中学に上がる前に亡くなったんだけど、生前、私の教育資金や将来のためにって、まとまった金額の遺産を用意してくれていたんだ」
「おじいちゃん、可菜子ちゃんを可愛がっていたんだろうね」
「それは間違いない。溺愛されていたと言っていいだろう。ただ、彼が存命のころは素直にそう思えなかったよ」
「というと?」
「おじいちゃん、ちょっと執拗過ぎるところがあったというか」
特に、株の取引をするおじいちゃんはちょっと恐かった。あの人の人生の大部分は株価に支配されていたように思う。
朝食もそこそこに経済ニュースを食い入るように見、昼間は株の売買のためにチャートに張りつき、夕方にはその日の相場によって気分が浮いたり沈んだりしていた。
彼がチャートに向かい合うときの顔貌はトラウマものである。保有銘柄が長い陰線を描くたび、親の敵かってくらいに目を血走らせ、奥歯が破砕するのではと思うほどの歯ぎしりを鳴らしていた。
「数字を偽るとは何事だ! こっちがいくら緻密に計算したところで、元が嘘なら意味がない! この俺に大損させおって!」
とある大手電機メーカーの粉飾決算が発覚し株価が大暴落したときは大荒れだった。我を失いパソコンに喧嘩を売り出すおじいちゃんを、父が「お義父さん、落ち着いてください!」と必死に羽交い締めで止めていた。
「パワフルなおじいちゃんだったんだね」
榊くんは興味深そうに聞いている。
「普段はニコニコした優しい人だったんだ。私の前だと特に。だけど『とにかく損をするな』が口癖でね、一緒にクレーンゲームをしたときなんか、中々取れないでいると突然般若みたいな顔して、店員さんに食ってかかろうとしたんだ。あれは大変だったよ」
「ちょっと過激かもしれないけど、数字に徹底してるって意味では可菜子ちゃんっておじいちゃん似なのかもしれないね」
「そうかな? 自覚はないが」
私はミネラルウォーターを一口飲んだ。
「ただ、おじいちゃんが亡くなってから見方が変わった。おじいちゃんが残したお金のおかげで、うちはずいぶん助かったんだよ。母も以前ほど家計のことで悩まなくなったし、こうして私の教育資金も潤沢になったわけだしね」
榊くんはうなずきながら聞いている。
「自分がいなくなったあとのことまで、おじいちゃんは考えていたのかもしれない。私はまだまだ目先の数字しか追えない未熟者だけど、おじいちゃんはもっと広く、先の将来のことまで考えていたのかもしれないってね」
「素敵な話だね」
「もちろん、実際のところは分からないけどね。単純に株が趣味だったってだけかもしれないし」
榊くんは椅子の背にもたれて感慨深く天井をしばらく見上げ、それから少しだけ私の方に身を乗り出した。
「僕はおじいちゃんの考え方、結構好きだな。限られた資源を無駄なく使い、可能な限り損を避ける。そのためには管理力が必須だと僕は思うね。自分の把握範囲を限定し、管理を行き届かせる。損失回避には有効な手段だ」
「この部屋を見ていると説得力があるね」
「だろう? これって、人付き合いにも同じことが言えると思うんだ」
「というと?」
「付き合う人を限定するんだよ。実際、僕は自分が付き合いたいと思う人とだけ関わるようにしている。可菜子ちゃんもそうじゃないかい?」
私は深々と首肯した。
「似ているかもしれない。私も、君と一緒に勉強するのが有効だと判断して、この場にいるから」
「だろう」
「うむ。……しかしこの部屋、暖房を効かせ過ぎじゃないか? なぜだか顔が熱いのだが」
「そう?」
榊くんはエアコンの温度を下げた。
小一時間ほど微分法の問題を解き合い、休憩がてら榊くんが口を開く。
「ちなみに、可菜子ちゃんの一番長い付き合いの友人って、どんな人なの?」
「由希という子だね。保育園からだから、十五年ほどの付き合いになる」
「どんな子か聞いてもいい?」
私は由希について、プライバシーを損なわない範囲で客観的事実に基づいた情報を提供する──つもりだったのだが、気づけば私はかなり主観的な所感を話してしまっていたかもしれない。
遊びに行けばやたらコスパの悪い店に連れ回されること、時間にルーズなこと、進路や恋人の選び方が破天荒で計画性がないこと、容姿も性格も良いし勉強もできるのにもったいないと感じていること。榊くんが話しやすいから、という感情的な言い訳はしたくないが、口から出てしまったものは仕方がない。
「そっかぁ」
榊くんはにこやかに、頬杖をついて窓の外に目をやり、何やら考えている。
「なかなか自由な子だね」
「自由すぎて困るんだよ。いくら論理的に説明しても聞く耳を持たない。もはや人類に制御できる存在じゃないんだ。大自然に太古から住まう妖精みたいなものだよ」
すると、榊くんは私を流し見て、
「その子、損切りしちゃえば?」
と邪気なく笑って言った。
「十五年も付き合ってるからっていう理由で付き合い続けるなら、それこそサンクコスト効果じゃないかな。可菜子ちゃんも一度整理してみるといいのかもしれないね。自分にとって合理的な友人選別ってやつをさ」
サンクコスト。聞き慣れた言葉だった。
クレーンゲームの筐体を睨みつける般若のおじいちゃんが脳裏に浮かぶ。一千円投入して景品が獲得できなかったからといって、次の数百円で手に入る保証はどこにもない。しかし人は、既に投入してしまった一千円に執着してしまう。
由希が六百円の損失を出しながらゲットしたトラ丸のぬいぐるみは、いくら頭の中のそろばんを弾いても、トラ丸を入手するために六百円余計に支払った事実は変わらない。
だけど、それよりももっと私の脳に色濃く記憶されていたのは、それを幸せそうに抱く由希の笑顔だった。
「さて、次は英文読解をしようか」
はっとしてテキストを開く。私らしくもなくぼうっとしてしまって、榊くんの存在が意識から逸れてしまっていた。
