塾に通うことにした。
由希のような思いつきではなく、私はかねてより難関国立大学の経済学部を目標にしていた。
今の成績でも合格圏内だろうが、受験当日の不測の事態に備え、不安要素は減らしておきたかった。
通学圏内の進学塾を比較し、入塾試験のある選抜塾を選んだ。授業料は高いが、必要な講座を効率的に履修でき、学校からの移動も楽だ。
初回の授業は英語だった。
教室内は深閑としており、参考書をめくる音と、ペンの走る音だけが響いていた。学校の騒がしい雰囲気も悪くないが、ここの塾生たちからは目的に特化したストイックさを感じ取れ、私の内なる性分をくすぐってくれるのだった。
空いていた席に着くと、既に英文読解の問題プリントが置かれていた。五つの設問はどれも抽象的な概念を扱っている上、一文一文の構造も複雑だ。なるほど、学校で見る問題よりもずっと歯ごたえがありそうだ。
一通り解答を作り終えると、口ヒゲを生やした講師が入ってきた。自己紹介もそこそこに授業が始まる。
一問目から順に解説していくのかと思いきや、講師が指したのはいきなり三問目だった。
「ここ、解釈が分かれると思うんだけど、複数通り考えられた人、いる?」
私は挙手する。
「じゃあ、そこの眼鏡の女子」
席を立って二つの解釈を説明した。
一方は文法構造を素直に捉えたもので、もう一方は直前の文章との兼ね合いを重視したもの。どちらも成立はしているが、私は見解がブレにくい前者を採用すべきだと話した。
「いいね。他に意見ある人いる?」
私の隣に座る男子が手を挙げた。
黒縁の眼鏡を掛けた背の高い男子だった。精悍な顔立ちをした、高校生らしからぬ落ち着きを纏った人物である。
「前の段落で筆者は、個人の合理的判断が必ずしも全体の利益となるわけではない、と述べています。ここで前者を採用すると、前文の主張を撤回するような読み方にも見えてしまいます」
講師はヒゲを撫でながらうなずいている。
「もちろん、文章としては成立していますし、むしろ前者の方が全体的に綺麗にまとまって収まりがいい。ただ、この場合は後者の方が筆者の論理が一貫して見えると思います」
「うん、素晴らしいね。そこまで根拠を持って解答できるなら言うことはないよ」
心なしか、いや確実に、講師の反応は私のときより良かった。
私は横目に、嬉しそうな顔一つしない眼鏡男子の涼しげな顔を盗み見、心の中で舌打ちをした。
実に不愉快である。
今の彼の見解、悪い言い方をすればただの屁理屈だ。後者はどうしても読み手の解釈に左右されるものであり、テスト解答として汎用性が高いのはどう考えても前者だ。
そのはずが、この眼鏡男子のもっともらしい口車に、まんまと講師が丸め込まれたに過ぎないじゃないか。
なんだ、まさか新入塾生である私への当てつけか?
授業が終わってすぐ、私は眼鏡男子に話しかけることにした。
「さっきの三問目だけど」
参考書を小脇に席を立ちかけた彼は、意外そうな顔をしてこちらを見た。
「やっぱり、あの問題の正攻法は前者だと私は思うよ。冷静に見れば誰もがそう思うはず。それが、君みたいに口車に乗せる形で正答をねじ曲げたら、他の塾生を混乱させてしまうと思わないか?」
「ああ、そのことか」
彼は椅子に座り直し、切れ長な目をより細めた。
「僕があの意見を出したのには二つ理由がある。一つ目はそもそもあの問題、解答は前者でも後者でも、実はどっちでもいいんだ」
「どっちでもいい?」
私は少々面食らってしまう。
「そう。あの問題で大事なのは、どちらを選ぶかより、両方の解釈を検討できることだ。君はそれができていた。だから僕は、あえて別の方を推してみた」
「……何のために?」
「君がどう反論してくるか、ちょっと興味があってね」
そして二つ目、と彼は言う。
「もう一つの理由、それは君の解説があまりにも……機械みたいに正確なのが可笑しくてね。爪痕でも残してみようかと思って、ちょっと茶々を入れたのさ。面白い塾生がやってきたなとマークしていたんだが、まさか君の方から話しかけてくれるとはね」
そう彼は爽やかに微笑んだ。
やはり実に不愉快だ──というのが半分。残りの半分では、素直に感心している自分がいた。
問題の本質を見抜く力もそうだが、私を茶化したいという目的のために、あの高度な屁理屈を瞬時に構築したというのか。腹立たしいのには違いないが、その点に関しては純粋に賞賛すべきだと思った。
「僕は榊朔也。君は?」
「倉橋可菜子」
彼はにこやかに握手を求めてきた。
「これからよろしくね」
その手を見下ろし、少し迷う。だけど私のそろばんが勝手に許容の解を導き出すので、これは性分に従うべきだろうと、大人しくその手を握り返した。
榊くんと再会したのはその翌週、また英語の授業だった。
授業開始からずいぶん前に教室で予習をしていたところ、席はまだガラガラなのに榊くんはわざわざ私の隣の席に腰掛けてきた。
「久しぶり、可菜子ちゃん」
可菜子ちゃん。可菜子ちゃんだと?
同世代の男子に下の名前で呼ばれるのは、一体いつ以来だろうか。
女子からは変なあだ名で呼ばれることが多いのだが、男子は大抵私のことを『倉橋さん』か、たまに『倉橋様』なんて呼んでくるやつもいる。ていうか、みんな私のことをなんだと思ってるんだ。
「可菜子ちゃん?」
と、考え込むあまり彼を無視してしまっていた。
「ごめん、何の話だっけ」
「いや、可菜子ちゃんはどこの大学を目指してるのかなって」
ああ、と私はうなずいて、第一志望の某大学の経済学部を目指していると答えた。
経済学部なら自分の得意分野を活かせるし、大学卒業後の進路も幅広い、というのがおおまかな理由だった。
「つまり、具体的な将来の夢は決まってないってこと?」
当然、そういう疑問を持たれることは想定の範囲内だ。
「むしろ、将来の夢を十七歳の段階で確定させるのはリスクだと思っているよ。私は自分がまだ未熟で、視野も育ちきっていないことを自覚している。であれば、現時点での最適解は自分の可能性をなるべく広い範囲で確保しておくことだと思っている」
と、こんな感じのことをつい最近由希にも語ったのだが、「ほえ?」みたいな全然響いていなさそうな反応をされてしまった。
「さすが可菜子ちゃんだね。ちょっと耳が痛いな。僕は将来の道が確定しているようなものだから」
「差し支えなければ聞いてもいい?」
「僕は医学部志望なんだよ」
彼の優秀さを見ていると納得だった。
「まあ、うちはいわゆるそういう家系でね。昔から医学部を目指せって言われて、僕もこだわりないから納得してる。だから、可菜子ちゃんみたいに自分の頭で将来を考えたわけじゃないんだよ。お恥ずかしい話ね」
「いや、何も恥ずかしくはない。目標の内容も、それを決めた過程も、他人が否定すべきものじゃないよ。重要なのは──」
そこで、由希の顔が浮かぶ。
そうだ。私は別に、お花屋さんという夢を否定したかったわけじゃない。漫画がきっかけだったからって、それ自体も構わない。
「重要なのは、目標に向けて自分の可能性を最適化すること。この一点に尽きると思う」
すると、榊くんは額に手を当て、くつくつと笑い出した。
「本当に、可菜子ちゃんらしいよ」
それから、今度は楽しげに声を上げて笑い出した。静かな教室内ではやたらと目立つ。私はいたって真面目なのだが、何か可笑しいことでもあるのだろうか。
「ともかく、たとえ親の意向であっても医学部を目指すというのは上質な選択だと思うよ。なにより、期待値が高い」
「期待値ね」
まだ面白いというように榊くんは笑い涙をこすっている。
「でも、榊くんは医学部専門予備校じゃなくて、この選抜塾を選んだんだね」
「ああ、そこにはちゃんと理由はあるよ。僕が欲しかったのは医学部受験特化の情報じゃなくて、難関大向けの高度な授業だったからね。それから個別指導みたいな生活管理まで伴うような教育にも興味はない。可菜子ちゃんの言葉を借りるなら、僕は自分を最適化することには、ちょっと自信があるからね」
なにより、と榊くんは続ける。
「僕にとって一番価値があるのは、僕と同じくらいできる人たちと出会うことなんだ。そういう優秀な人たちと切磋琢磨してみるのも、たまには悪くないかなってさ」
「優秀な人たち?」
「可菜子ちゃんみたいな子のことさ」
トゥンク、という擬音がある。
由希から押しつけられるように読まされた漫画の中で、そういった表現が度々登場した。そのたびに私は正直、そこはドキンじゃいかんのか、と思ったものだった。
だけどこの心臓の鳴り方は、確かにドキンというより、トゥンクの方が適切に思えた。ドキンほど激しくはない、優しく脈動するような心音。
不整脈だろうか。そういえば最近、勉強のしすぎで疲労が蓄積している気がする。もしこれがドキンに変わるようであれば、医者にかかることを検討せねばなるまいと思った。
ヒゲの講師がやってきて授業が始まっても、やはり勉強疲れなのか、気分がずっとふわふわしてイマイチ集中できなかった。
由希のような思いつきではなく、私はかねてより難関国立大学の経済学部を目標にしていた。
今の成績でも合格圏内だろうが、受験当日の不測の事態に備え、不安要素は減らしておきたかった。
通学圏内の進学塾を比較し、入塾試験のある選抜塾を選んだ。授業料は高いが、必要な講座を効率的に履修でき、学校からの移動も楽だ。
初回の授業は英語だった。
教室内は深閑としており、参考書をめくる音と、ペンの走る音だけが響いていた。学校の騒がしい雰囲気も悪くないが、ここの塾生たちからは目的に特化したストイックさを感じ取れ、私の内なる性分をくすぐってくれるのだった。
空いていた席に着くと、既に英文読解の問題プリントが置かれていた。五つの設問はどれも抽象的な概念を扱っている上、一文一文の構造も複雑だ。なるほど、学校で見る問題よりもずっと歯ごたえがありそうだ。
一通り解答を作り終えると、口ヒゲを生やした講師が入ってきた。自己紹介もそこそこに授業が始まる。
一問目から順に解説していくのかと思いきや、講師が指したのはいきなり三問目だった。
「ここ、解釈が分かれると思うんだけど、複数通り考えられた人、いる?」
私は挙手する。
「じゃあ、そこの眼鏡の女子」
席を立って二つの解釈を説明した。
一方は文法構造を素直に捉えたもので、もう一方は直前の文章との兼ね合いを重視したもの。どちらも成立はしているが、私は見解がブレにくい前者を採用すべきだと話した。
「いいね。他に意見ある人いる?」
私の隣に座る男子が手を挙げた。
黒縁の眼鏡を掛けた背の高い男子だった。精悍な顔立ちをした、高校生らしからぬ落ち着きを纏った人物である。
「前の段落で筆者は、個人の合理的判断が必ずしも全体の利益となるわけではない、と述べています。ここで前者を採用すると、前文の主張を撤回するような読み方にも見えてしまいます」
講師はヒゲを撫でながらうなずいている。
「もちろん、文章としては成立していますし、むしろ前者の方が全体的に綺麗にまとまって収まりがいい。ただ、この場合は後者の方が筆者の論理が一貫して見えると思います」
「うん、素晴らしいね。そこまで根拠を持って解答できるなら言うことはないよ」
心なしか、いや確実に、講師の反応は私のときより良かった。
私は横目に、嬉しそうな顔一つしない眼鏡男子の涼しげな顔を盗み見、心の中で舌打ちをした。
実に不愉快である。
今の彼の見解、悪い言い方をすればただの屁理屈だ。後者はどうしても読み手の解釈に左右されるものであり、テスト解答として汎用性が高いのはどう考えても前者だ。
そのはずが、この眼鏡男子のもっともらしい口車に、まんまと講師が丸め込まれたに過ぎないじゃないか。
なんだ、まさか新入塾生である私への当てつけか?
授業が終わってすぐ、私は眼鏡男子に話しかけることにした。
「さっきの三問目だけど」
参考書を小脇に席を立ちかけた彼は、意外そうな顔をしてこちらを見た。
「やっぱり、あの問題の正攻法は前者だと私は思うよ。冷静に見れば誰もがそう思うはず。それが、君みたいに口車に乗せる形で正答をねじ曲げたら、他の塾生を混乱させてしまうと思わないか?」
「ああ、そのことか」
彼は椅子に座り直し、切れ長な目をより細めた。
「僕があの意見を出したのには二つ理由がある。一つ目はそもそもあの問題、解答は前者でも後者でも、実はどっちでもいいんだ」
「どっちでもいい?」
私は少々面食らってしまう。
「そう。あの問題で大事なのは、どちらを選ぶかより、両方の解釈を検討できることだ。君はそれができていた。だから僕は、あえて別の方を推してみた」
「……何のために?」
「君がどう反論してくるか、ちょっと興味があってね」
そして二つ目、と彼は言う。
「もう一つの理由、それは君の解説があまりにも……機械みたいに正確なのが可笑しくてね。爪痕でも残してみようかと思って、ちょっと茶々を入れたのさ。面白い塾生がやってきたなとマークしていたんだが、まさか君の方から話しかけてくれるとはね」
そう彼は爽やかに微笑んだ。
やはり実に不愉快だ──というのが半分。残りの半分では、素直に感心している自分がいた。
問題の本質を見抜く力もそうだが、私を茶化したいという目的のために、あの高度な屁理屈を瞬時に構築したというのか。腹立たしいのには違いないが、その点に関しては純粋に賞賛すべきだと思った。
「僕は榊朔也。君は?」
「倉橋可菜子」
彼はにこやかに握手を求めてきた。
「これからよろしくね」
その手を見下ろし、少し迷う。だけど私のそろばんが勝手に許容の解を導き出すので、これは性分に従うべきだろうと、大人しくその手を握り返した。
榊くんと再会したのはその翌週、また英語の授業だった。
授業開始からずいぶん前に教室で予習をしていたところ、席はまだガラガラなのに榊くんはわざわざ私の隣の席に腰掛けてきた。
「久しぶり、可菜子ちゃん」
可菜子ちゃん。可菜子ちゃんだと?
同世代の男子に下の名前で呼ばれるのは、一体いつ以来だろうか。
女子からは変なあだ名で呼ばれることが多いのだが、男子は大抵私のことを『倉橋さん』か、たまに『倉橋様』なんて呼んでくるやつもいる。ていうか、みんな私のことをなんだと思ってるんだ。
「可菜子ちゃん?」
と、考え込むあまり彼を無視してしまっていた。
「ごめん、何の話だっけ」
「いや、可菜子ちゃんはどこの大学を目指してるのかなって」
ああ、と私はうなずいて、第一志望の某大学の経済学部を目指していると答えた。
経済学部なら自分の得意分野を活かせるし、大学卒業後の進路も幅広い、というのがおおまかな理由だった。
「つまり、具体的な将来の夢は決まってないってこと?」
当然、そういう疑問を持たれることは想定の範囲内だ。
「むしろ、将来の夢を十七歳の段階で確定させるのはリスクだと思っているよ。私は自分がまだ未熟で、視野も育ちきっていないことを自覚している。であれば、現時点での最適解は自分の可能性をなるべく広い範囲で確保しておくことだと思っている」
と、こんな感じのことをつい最近由希にも語ったのだが、「ほえ?」みたいな全然響いていなさそうな反応をされてしまった。
「さすが可菜子ちゃんだね。ちょっと耳が痛いな。僕は将来の道が確定しているようなものだから」
「差し支えなければ聞いてもいい?」
「僕は医学部志望なんだよ」
彼の優秀さを見ていると納得だった。
「まあ、うちはいわゆるそういう家系でね。昔から医学部を目指せって言われて、僕もこだわりないから納得してる。だから、可菜子ちゃんみたいに自分の頭で将来を考えたわけじゃないんだよ。お恥ずかしい話ね」
「いや、何も恥ずかしくはない。目標の内容も、それを決めた過程も、他人が否定すべきものじゃないよ。重要なのは──」
そこで、由希の顔が浮かぶ。
そうだ。私は別に、お花屋さんという夢を否定したかったわけじゃない。漫画がきっかけだったからって、それ自体も構わない。
「重要なのは、目標に向けて自分の可能性を最適化すること。この一点に尽きると思う」
すると、榊くんは額に手を当て、くつくつと笑い出した。
「本当に、可菜子ちゃんらしいよ」
それから、今度は楽しげに声を上げて笑い出した。静かな教室内ではやたらと目立つ。私はいたって真面目なのだが、何か可笑しいことでもあるのだろうか。
「ともかく、たとえ親の意向であっても医学部を目指すというのは上質な選択だと思うよ。なにより、期待値が高い」
「期待値ね」
まだ面白いというように榊くんは笑い涙をこすっている。
「でも、榊くんは医学部専門予備校じゃなくて、この選抜塾を選んだんだね」
「ああ、そこにはちゃんと理由はあるよ。僕が欲しかったのは医学部受験特化の情報じゃなくて、難関大向けの高度な授業だったからね。それから個別指導みたいな生活管理まで伴うような教育にも興味はない。可菜子ちゃんの言葉を借りるなら、僕は自分を最適化することには、ちょっと自信があるからね」
なにより、と榊くんは続ける。
「僕にとって一番価値があるのは、僕と同じくらいできる人たちと出会うことなんだ。そういう優秀な人たちと切磋琢磨してみるのも、たまには悪くないかなってさ」
「優秀な人たち?」
「可菜子ちゃんみたいな子のことさ」
トゥンク、という擬音がある。
由希から押しつけられるように読まされた漫画の中で、そういった表現が度々登場した。そのたびに私は正直、そこはドキンじゃいかんのか、と思ったものだった。
だけどこの心臓の鳴り方は、確かにドキンというより、トゥンクの方が適切に思えた。ドキンほど激しくはない、優しく脈動するような心音。
不整脈だろうか。そういえば最近、勉強のしすぎで疲労が蓄積している気がする。もしこれがドキンに変わるようであれば、医者にかかることを検討せねばなるまいと思った。
ヒゲの講師がやってきて授業が始まっても、やはり勉強疲れなのか、気分がずっとふわふわしてイマイチ集中できなかった。
