損は絶対したくない

「いいかい可菜子。人生、得をする必要はない。損さえしなければいいんだ」
 おじいちゃんはよく、そんなことを私に語った。

 小学五年生の秋、日曜日の午後だった。
 和室でおじいちゃんと向き合うとき、私の膝元には決まってそろばんが乗っかっていた。
 好々爺然と笑うおじいちゃんは、さて、といつものように計算問題を口にしていく。
「三千九百八十円の二割引は?」
 私は素早くそろばんを弾く。
「三千百八十四円」
 鷹揚なうなずきが返ってくる。
「では、一万二千円の商品を三割引で買ったとする。送料は六百円。また、割引後の商品には五パーセントのポイントが付与される。実質いくらだ?」
「八千五百八十円」
 問題を耳にしたのとほぼ同時、指はもう動いていた。
「時給千二百円の業務において、法定時間外二十五パーセント増しの場合、二十五分間の残業代は?」
「六百二十五円」
 簡単すぎる。
 優しい笑みをキープするおじいちゃんの瞳は、しかし鋭い。
「一株千二百四十円で三百株買った。ところがその後、千百八十円まで値下がった。含み損はいくらだ」
 私はもう、珠を弾く手を止めていた。そろばんから両手を離し、膝の上に揃える。
「一万八千円」
「じゃあ千三百十円まで値上がったら」
「二万一千円の含み益」
 おじいちゃんは、私の膝の上の小さな両手を静かに見下ろしていた。
「可菜子、そろばんは好きかい?」
 と、かなり唐突に問われる。
「ふつう」
「そろばん教室、もっと通いたいかい?」
「べつに」
「そうかあ」
 おじいちゃんは一層、笑いじわを深くした。
「可菜子にはもう、そろばんはいらんな」
 彼はそう言って和室を出て行った。直後、台所の方からおじいちゃんと母の話し声が聞こえてくる。母の泡を食ったような黄色い声がここまで飛んできた。
「はあ? もう珠算七段だって狙えるって先生おっしゃってたのに!」
 その日、私は五年間通い続けたそろばん教室を辞めたのだった。

 あれからずっと、私の頭の中にはそろばんがある。意識するまでもなく、計算が必要になれば自然と耳元で珠を弾く音が聞こえた。おじいちゃんが言うように、もはや私に実物のそろばんは必要なかった。
 そして、十七歳になった現在。
 友人の由希に制服の袖を引っ張られながら、脳内では珠と珠のぶつかる音がひっきりなしに鳴り響いていた。
「ねえ可菜子ー! いいから行こうってばーっ!」
「嫌だ、絶対損するに決まってる」
 私は眼鏡の位置を正しながら拒否を示す。
 私たちが押し問答しているのは、とある焼肉店の軒先だった。入り口の立て看板には『焼肉食べ放題 今だけ3,980円→2,980円!』と書かれている。
「ただでさえお得な食べ放題が、さらに一千円オフだよ! こんなチャンス滅多にないよ!?」
 由希の血走ったその目は、冬眠前に餌にありつけていない肉食獣さながらだった。私は至極冷静に、幼なじみの垂涎フェイスを睨みつける。
「ただでさえお得、の根拠はなんだ? たとえ一千円オフというバフがあったところで、食べ放題なんてものは元が取れるようには出来ていない。よっぽど大食いかつ早食いじゃない限りね。しかも私ら、どっちも小食じゃん」
「分かってない、分かってないよ可菜子はっ」
 私の腕を掴んだまま、由希はもどかしそうにもう片方の手をワキワキ動かしている。
「食べ放題メニューに書いてあるお肉、どれでも好きなだけ食べていいんだって状況がいいんだよ。しかも女二人で、しかもしかも、気を遣わない幼なじみ同士。あぁ、何一つ遠慮はいらない、いくら食べても構わないんだっていうその状況が、なんていうかもう……プライスレスなんだよ!」
 鼻で笑いたくなってしまう。
 プライスレス? この世で最も愚かしい言葉の一つだ。
「要は、もっと安く焼肉が食べられて、お腹いっぱいになれたらいいんだろ」
 ぱちん、と私は脳内でそろばんを弾いた。
「え? う、うん」
 由希はきょとんと大きな目をしばたかせた。

 数分後、私たちは大手牛丼チェーン店の一席に収まっていた。
 正面に座る由希は手もとの牛焼肉定食(七百九十円)を見下ろしながら、がっくりと肩を落としている。
「絶対、こういうんじゃないのに……」
 私は牛丼並盛と生卵を前に割り箸を割った。
「なぜだ? 肉が食べられて、お腹いっぱいになれて、しかも焼肉屋よりも圧倒的に安い。この牛丼なんて一杯四百二十円だよ? 生卵セットならちょうどワンコイン。こんなお得な品物がこの世にあるもんか」
 卵を溶いて丼に流し込む。店内の照明を受けてきらきらと輝く牛肉と卵とのコントラストを私はうっとりと眺めた。湯気が眼鏡のレンズを曇らせたが、そのホカホカ感さえ愛おしかった。
「そして驚くべきはこの牛丼、ほんの十数年前はなんと二百九十円で提供されていたというんだよ。今でも十分安いが、当時の価格破壊具合はもはや末恐ろしいというか……何か、身震いがしてこないか?」
 震えを抑えるように両腕をかき抱く私をよそに、由希はぐすんと鼻を鳴らして牛焼肉を一枚かじった。

 由希とは保育園で出会って以来、かれこれ十五年の付き合いになる。
 が、はっきり言って様々な項目において彼女とは価値観が合うとは言えなかった。それでも放課後や休日まで常に行動を共にしているのは、腐れ縁としか言いようがない。
 由希は短絡的な視点の持ち主である。世に蔓延する、購買意欲を掻き立てるためだけに設計された広告、ガワだけは整った男性アイドル、特に意味があるとは思えない一発屋芸人のリズムネタ、彼女が好むのはそういった類いのものだった。
 由希は森の妖精みたいに可憐な容姿をしている。もっとも、中身は妖精というより森を駆け回る野生動物のようで、非常なバイタリティと無鉄砲さを兼ね備えている。少しでも興味を引くものが目に入れば、すぐにそちらへと飛びついてしまうのだ。
 牛丼屋から駅までの通り道、煌々と光を放つクレーンゲーム専門店の魔力に、妖精はホイホイと吸い寄せられていく。
「このトラ丸のぬいぐるみ、可愛いっ」
 クレーンゲームを前にする由希が財布から百円玉三枚を取り出す動作には一切のためらいがない。
 三百円を投入すると、彼女は制服のカーディガンを腕まくりしてスタートボタンを叩く。私はスマホでトラ丸のぬいぐるみを検索した。
「このぬいぐるみ、定価は千五百円だね」
「じゃあ、千五百円以内に取れたらわたしの勝ちだね」
 本当にそうか? いや、クレーンゲームにおける勝ち負けについては、もっと厳密に考えるべきだろう。
 店側にも、景品の仕入れ値や筐体の電気代、家賃、人件費がかかる。千五百円以上使わせれば黒字になるとは限らない。
 だが、由希が気にしているのはそんなことじゃないだろう。定価以下でトラ丸を手に入れたいだけだ。
 となると、これは厳しい戦いとなるだろう。アームの力が極弱なのか、滑り止めがトラ丸の尻をガッチガチに捉えているのか。何かしらの細工があるに違いない。
「あーっ、惜しい!」
 四度目の失敗。五度目の挑戦に臨む由希の背中に、私は昔の自分を重ねていた。

 いつのことだったかも忘れてしまったけれど、とにかく私はほんの小さな子どもだった。
 クレーンゲームを楽しむ私を、おじいちゃんはいつものニコニコとした優しい笑みで見守っていた。
 三度目、四度目と挑戦して中々景品のぬいぐるみが取れない中、徐々に背後の気配が重たくなっていくのを感じた。
 およそ八度目の挑戦を終える。一度は宙に持ち上がったものの情けない握力でぽとりと景品を落としたクレーンを涙目で見上げていると、突如としておじいちゃんが、バン、と筐体のアクリル板を両手で叩いた。
「こいつぁ、鬼じゃ」
 その顔は般若のようであった。
「人のサンクコストにつけ込む、血も涙もない鬼じゃあ……」
 幼心にも、さすがにそれは言い過ぎでは、と思ったものだ。
 おじいちゃんは怒りのままに店員へクレームを申しつけようとした。さすがにそれだけは阻止せねばと、私は強引におじいちゃんを引っ張って店を出た。いくらか興奮が冷めた頃、「人生、損さえしなければいい」という、いつもの諭しがはじまる。
「得をしようと思うから駄目なんだ。利益に目が眩み、欲が先行して冷静な判断ができなくなり、いずれ必ず失敗する。目を向けるべきは損だ。損さえしなけりゃいいんだ」
 あの頃の私は、おじいちゃんの言っていることの半分も理解できていなかったかもしれない。だってその瞬間の私は、おじいちゃんのそんな諭しを聞き流しながら、いくらかかっても構わないからあのぬいぐるみが欲しかった、などと考えていたのだから。

 ガコン、という音と一緒に景品取り出し口にぬいぐるみが落ちた。
 悲鳴に近い歓声を上げながらトラ丸を拾い上げた由希は、その黄色い毛並みに愛おしげに頬ずりする。トラ丸を獲得できたのは七度目の挑戦で、投資金額は二千百円だった。
「六百円の赤字だね」
「うん。でもこのトラ丸、可愛いっ」
 もはや勝敗などどうでもいい様子である。
 私だったら六百円の損失が気になって、とても由希のように幸せそうに笑えないだろうなと思った。