ハイライトとアイシャドウ

 明日の放課後、教室で会いたい。話したいことがあるの。
 スマホのメッセージアプリに打ち込んだ文面は、時が止まったように表示され続けた。画面が消えて真っ暗になると、まつげの先を震わせる自分の顔がぼんやりと映る。いたずらをして怒られた子どもが先生に声をかけられるのを怯えながら待っているような顔だ。
 おかしいな。呼び出すのは私のほうなのに。
 宿題の問題を解くたびにスマホを眺め、夕食後に送信しようと決めたのに、送れないまま就寝時間になった。
 最初の一歩が踏み出せない。いっそ眠ってしまおうか。軽く閉じたまぶたの裏に、大壱の顔がぼんやりと浮かぶ。このままじゃなにも始まらない。送らなきゃ。
 送信ボタンをポンとタッチする。返事はすぐに来た。「わかった!」の五文字を受け取ったスマホを枕元に伏せる。
「……言えるかな」
 伝えたい言葉がまとまらない。頭の中で暗い渦となり、掬おうとしても逃げられてしまう。そのうちに意識は眠りの淵に辿り着き、目覚めたら朝だった。
 登校すると、百花と「おはよう」をした。挨拶強化週間中に校門に立つ風紀委員のように、そうするのが決まりごとのように。
 授業は問題なく進み、昼休みになった。百花は昨日の私の発言を失言だと思っていないらしい。当たり前のように昼食に誘ってきた。
 ほかの子はよそよそしさがあるものの、百花がそういうのならばと手招きをする。中途半端に空気が抜けてしぼんだ風船みたいな集まり。百花と話し合わずに、こんな生ぬるい空気に身を置くのもありかもしれない、なんて思ってしまった。
 三城が現れた瞬間、空気は一変した。しぼんだ風船はあっという間にゴミ箱行きだ。生徒指導の先生が入って来たかのように、みんな唇を結ぶ。
 目があった。まるで氷の女王だ。ここにいたら冷気にあてられてランチどころではない。
「ごめん、用事を思い出した。別の場所で食べるね」
「そうなの? じゃあまた後でね!」 
 屈託のない笑顔に見送られる。マイペースな明るさに救われていたはずなのに、いまは周りの変化に気付かない百花に危うさを感じた。
 空き教室には大壱がいた。私達はSNSで話題の投稿の感想を語り合い、昼休みを終えた。カフェでの出来事を振り返ることも、百花との話し合いを相談することもない。
 隣同士に座って食事を摂る。それだけで少しだけ前を向ける気がした。
 あっという間に放課後だ。
 私はお手洗いにいた。教室に残っている人が帰るまでの時間稼ぎだ。みんな部活やアルバイトに忙しいようだから、そのうちいなくなるだろう。
 パールホワイトのアイシャドウを塗る。それだけで私が私らしくいられるような気がするから不思議だ。
「……よし」
 鏡の中の自分にエールを送る。緊張しなくても大丈夫。友達と話をするだけだ。
 お手洗いを出て教室へ向かう。扉を開けようとして、指先が止まった。
 話し声がする。百花と三城だ。
「謝ってよ」
 つららが落ちてくるような、キンと張りつめた謝罪要求。針を束ねたような苛立ちが伝わってくる。
「私の友達のリップが魔女みたいだって車内で悪口を言ったのは百花だよね。制服の着こなしに文句を言う生徒がいるって聞いたから、どんなやつだろうかと思ったらこれだもん。ねえ、なにか言ったらどう?」
「わ、私は……三城先輩の友達だって知らなかったから」
「知ってたら言わないの? そうじゃないよね? 一緒に帰ったときもぶちまけてたじゃん。百花のうちは厳しくて、メイクが禁止されてる。ヘアセットは毎朝母親にしてもらうんでしょ。私服も親が選ぶんだっけ。それが不満だからって、まわりに当たり散らしてるんじゃねーよ」
 ストンと腑に落ちた。ずっと持て余していた空っぽの箱に入れるものをようやく見つけた感じだ。電車内で着こなしを見定めるとき、百花は真夜中の海原から落とし物を探すような目をする。自身の置かれた境遇を受け入れるために、落としどころを見つけようとしていたのかもしれない。
「あとさ」
 迷いなく足音が近づいてくる。教室の扉が急かされたように開いた。
「整形の次は盗み聞きってわけ?」
 狼を前にした羊の気持ちがわかる。背丈はほとんど変わらないのに、三城は二回りほど大きく見えた。盗み聞きするつもりはなかったが、入るタイミングを逃して結果としてそうなってしまった。素直に話しても「言い訳」だと怒られそうだ。
 謝らなければ、足元の床が抜けるかもしれない。そんな恐怖。
「整形するつもりがないのに、整形を考えてるって言って、すみませんでした!」
 重圧に逆らえず頭を下げる。なぜか笑い声が降ってきた。
「なんだ、ちゃんと言えるんだ。百花の金魚の糞だと思ってたから、ちょっと見直したよ。ほら、入らないの? 約束があるんでしょ」
 三城は体を斜めにすると通り道を作った。私は警戒中の猫みたいに、一歩ずつ確かめながら入室する。
「うちの姉ちゃん、整形してるんだ」
 薄雲から雨粒が落ちるように、三城はぽつりと言った。
「彼氏に可愛くなって欲しいって言われたのがきっかけ。最初は目を二重に。次は唇にヒアルロン酸を打ってふっくらとさせて、糸リフトをして顔全体を引き上げた。本当にきれいだったんだよ、そのときは。姉ちゃんは整形にハマっちゃった。顔が変わりすぎて彼氏に逃げられ、整形代を消費者金融から借りたのが親にバレて、主治医から止められてもクリニックを変えてまだやってる」
 百花は親からはぐれた小鳥のように身を縮めている。整形の話は、なぜか私に対してではなく、百花へ言っているような気がした。
「だから世間話みたいに見た目をとやかく言われるのは好きじゃない。人生を変えることもあるんだからね。自分の言葉を相手がどう思うか、しっかり考えたほうがいいよ」
 三城はスクールバックをつかむと教室を出た。私と百花はその場から動けずにいた。
 静かだ。劇が終わった後のだだっ広いホールに取り残されたみたい。私達は立ち尽くしていたが、やがて百花が口を開いた。
「整形しないんだね」
「うん。ハイライトも買わない。私は自分の鼻を変えたいとは思えないから。いままでしっかり言えなくてごめん」
「そっか……」
 百花が小さく見えた。教室に顔を出すだけでたくさんの友達が駆け寄り、話題が豊富でいつも輪の中心にいる。雲の上の人だと思っていたのに、いまは見知らぬ街に取り残された子どものような頼りなさがある。
 もしかすると目の前にいる百花が本来の姿なのかもしれない。宝石のように輝いて見えたからこそ、百花にはアイドルのように明るくあって欲しいと思い込んでいた。
 完璧な人間はいない。いまなら百花とちゃんと話せると思った。
「写真の鼻を加工されるのも、電車の中で同じ学校の生徒のことをいろいろ言うのも、いやだった」
「うん」
「不満なんて言わずに、だまって聞いていれば良いと思っていたの。でもがまんできなかった」
「うん」
「でもね、私、百花ちゃんをきらいになれないの。百花ちゃんはクラス替えで一人ぼっちだった私に声をかけてくれた。友達になろうって言ってくれた。すごく嬉しかったの。だから……」
「……うん。私もしずくが好きだよ。でも、上手くいかないんだね」
 百花はイスを引くと、すべての気力を使い果たしたかのようにぺったりと座った。
「私ってば、迷惑をかけてばかりだったんだ。言いにくかったよね。ごめんね」
 頬は白く、瞳はいまにも涙がこぼれてしまいそうなほど赤い。寒さに耐える椿みたいだ。
「二人にこれだけ言われたのに、なにがいけないのかよくわからないの。うちは見た目を注意されるのが当たり前だから。髪型、服装、メイク用品。カバンにつけるキーホルダーにもお母さんの許可がいる。言う通りにしないと怒られる。お母さんがそうだから、見た目が気に入らないなら指摘していいと思ってた。でも、そうじゃないんだね」
「自分の好みじゃないってだけで指摘されたらいやだと思う。ちゃんとした理由があれば、アドバイスになると思うけど」
「指摘とアドバイスってなにが違うんだろ。いまの私には難しいや」
 百花は座ったまま動かない。「一人にして」と糸が切れたような細い声で告げると、わずかにうつむきだまりこむ。私は教室を出た。
 昇降口へ向かう途中、廊下の窓越しに校庭が見えた。野球部が練習試合をしている。高く上がったボールがきれいなアーチを描く。ボールは守備のグローブに当たって跳ねた。落とした謝罪なのだろう、選手が帽子を取って頭を下げた。大壱だ。仲間に肩を叩かれて励まされている。その背中は西日を受けてオレンジ色に輝いていた。
 私は大壱や百花のように眩しい人間にはなれない。それでも私は私らしくありたいと思った。