百花に指摘されてから鼻が気になる。
朝起きて顔を洗う。洗面台の鏡に顔を寄せる。ちょこんと盛り上がった小鼻、なだらかな丘のような鼻先。十七年間、生まれてからずっとここにある私の一部。
アプリに投稿された写真を見る。鼻先はツンと上を向き、鼻筋はくっきり通っている。
美術室に置かれた石膏像みたいだ。アグリッパ、ブルータス、ミロのヴィーナス。私の鼻はデッサンには向かない。でも呼吸はしやすいし、内側にある毛は花粉や細菌から体を守ってくれる。
「言われるほど悪くないと思うんだけど……。あっ、いけない。時間だ」
手早く髪をまとめ、通学カバンを手に取る。
朝の電車は混み合っているが、夕方よりは気楽だ。
つり革をつかむと、私はまとまりのない集団の一部になる。有名私立の制服、サッカー強豪校のジャージ、二駅先の公立の話をする私服の生徒。服装もメイクも髪型もバラバラだから、みんな比べない。
夕方の電車は同じ制服が集まる。だから間違い探しをしたくなるのだろうか。
学校に着き教室に入ると、百花の友達に囲まれた。
「投稿見たよ。フロート食べたんだ」
「新作コスメも買ったんでしょ」
みんな笑っている。だから私も笑顔を作る。
「そうだよ。楽しかった」
「いいなー。私も遊びたい」
「声かければいいじゃん。あっ、百花来た!」
百花は登校するなり、私の腕をつかむと教室の隅へ向かった。
「昨日大丈夫だった?」
「まあ、ちょっと」
これ以上指摘されたくない。私は片手で顔の真ん中を覆った。しかし鼻のことではないらしい。百花は小首を傾げた。
「お腹だけど」
「ああ、うん。それは平気」
「そっか。生理なら言ってね。冷やすと良くないから」
「ありがと」
百花が席に座ると、あっという間にクラスメイトが集まってきた。相変わらずの人気者だ。
ぼんやり眺めていると百花に手招きされた。今日もグループに入れてもらえるらしい。ほっとした。
昼休みに入ると、弁当を手に三階へ上がる。廊下の突き当たりにある、建て付けの悪い扉を開けた。使用されていない空き教室。昼食はここで摂る。
空き教室で昼食を食べ始めたのは二学期に入ってからだ。一学期は百花達と教室で食べていた。
新学期が始まってすぐの頃。最初は五名くらいの、どこにでもありそうな女子の集まりだった。気温が上がるにつれて少しずつ人数が増え、いまでは他のクラスからも生徒が来る十名以上のグループになっている。
賑やかで楽しい。けれど思い思いに自由に口を開くから、誰が何の話をしているかわからなくなる。笑い声に合わせて口角を上げて、悩みごとの相談には箸を休める。ころころ変わるみんなの表情に注意しながらの食事だ。
私は話に耳を傾けている時間が長い。メンバーの中で浮いている自覚はあったが、おしゃべりを強要されないし、黙っていると適度に声をかけてもらえる。なにより太陽のように明るい百花のそばにいられるのならそれでよかった。
夏休みに入ると、一人で食事をする機会が増えた。両親は仕事で外出が多い。誰もいないリビングは穏やかで、のんびり過ごせた。
エアコンから送り出される風のささやき、窓の外からわずかに届くセミの合唱、ポットから注がれる湯の音。
ゆったりとして、どこか間の抜けたような優しい時間。口にしたカップラーメンは、地に足が着いた味がした。
穏やかな時間の流れを感じられる。なんて心地いいのだろう。
そのとき気づいてしまった。私は柔らかな影が伸びるリビングのような環境で昼食を摂りたいのだと。
二学期が始まると、教室で昼ご飯を食べられなくなった。
百花には「成績が落ちているから、別室で食事をしながら勉強をしたい」とうそをついた。疑われることなく、二つ返事で了承された。
「好きなところで食べなよ。気にしすぎ。そんなことできらいになったりしないよ」
百花の目元がふんわり緩む。上辺ではなく、本当に気にしていない顔だった。
だから私は今日も空き教室で食事が摂れる。
弁当箱の蓋を開けて箸を持つ。カチャカチャ、コツン。食事を運ぶ音がする。体の中に栄養が巡っていくのがわかる。
「ごちそうさまでした」
イスに深く座り直す。昼休みが終わるまであと十五分ある。
窓ガラスのすぐそばで、大きく育ちすぎたケヤキの葉が揺れている。陽光を受けて透ける葉脈は天然のレース模様みたい。とてもきれいで眠くなってきた。少し仮眠しようかと思ったとき、扉が開いた。
男子生徒だ。両手に山のようなパンを抱えている。
「悪い。ここで食べていい?」
「あっ、はい。どうぞ」
勢いに押されて頷いてしまった。
出入り口に一番近い机にパンを置くと、どっかり座る。よほどお腹が空いていたのだろう。袋をすぐに開けるとメロンパンを頬張った。ぱく、ぱく、もぐ、ごくん。四口ほどで食べ終わる。オキアミを食べるクジラみたいだ。次のたまごサンドもクリームパンもビッグ焼きそばパンも大きな口に吸い込まれていく。
気持ちのいい食べっぷりと、授業中に早弁する姿が重なる。
思い出した。同じクラスの豊山大壱だ。
「あー、満たされた。突然ごめんね。ありがとう、小嶋さん」
そして話したことがないのに私の名前を知っていた。
お腹を軽くさすりながら、満足そうな顔で水筒に口をつける。口元を袖で拭おうとして私の視線に気づき、ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出した。こわい人ではなさそうだ。
「私なにもしてないよ」
「場所貸してくれたじゃん」
空き教室は私の持ちものではない。たまたま誰も使っていなかったから私が借りているだけ。けれどいやな感じはしなかった。
「弁当忘れたんだ。購買から教室に戻ったら、席に女子が座ってた。楽しそうに話してたから、ほかのところで食べようと思って場所を探したけど、見つからなくて焦った」
「わかる。私も探した」
一人で昼食を食べると決めたとき、場所が決まらなくて困った。ほかのクラスは入りにくい。特別教室には先客がいる。講堂なら空席があるが「一人でお弁当とかわけあり?」なんて勘繰られるのは疲れる。
校舎の外、中庭や体育館裏も考えたが、雨が降ると使えない。夏は暑いし虫も気になる。校舎を歩き回り、やっと見つけたのがここだ。
大壱はにかっと笑った。
「明日も食べに来ていい? おれの席、誰か座ると思うから」
「うん。いいよ」
「じゃあ、ありがたく使わせてもらう」
翌日から大壱は空き教室へ来た。大きな弁当を広げて、頬を緩めながら食べる。大好物を出してもらった子どもみたいだ。
毎日のように顔を合わせると、じょじょに大壱という人物の輪郭が縁取られていく。
部活は野球部。じっと座っているのは苦手。食べることが得意。好物は揚げ物とイチゴがたくさん乗ったパフェ。わからないことは素直にわからないと言う。初めて聞く話でも知ったかぶりをしないし、話題を逸らさないので誠実でもある。
「じゃあ、豊山くんはいつもお昼は一人なんだ」
「友達は部活棟や学食に行くからな」
そういうものだと言わんばかりの口ぶりだ。羨ましい。一人で昼ご飯を食べても友達に気を遣わないし、遣われない。かといってきらわれているわけではなく、教室で見ていると友達は多いほうだと思う。
大壱の友達は流動的だ。体育でペアを組んだ男子と肩を組むほど仲良しなのに、授業が終わると別行動。休み時間は一人でぼうっとしていることもあれば、複数人の男女に囲まれて盛り上がっているときもある。
きっと彼は、電車に乗ってもスマホを見ないタイプだ。口元を緩ませて時間割りから解放された生徒をのんびり眺め、知っている制服と目が合ったら軽く手を挙げて応える。相手が友達と一緒ならむりに声はかけないし、誘われたら輪に入るかもしれない。
大壱は鳥のようだ。自由にどこへでも行けるのが、私にはまぶしい。
「やば。もうこんな時間か」
「次なんだっけ」
「ミヤ先の物理。遅刻すると当てられる」
「困る。わかんないもん」
軽口のリレーをしながら席を立つ。廊下に出たら別行動。階段を降りる大きな背中を見送る。
ほうっと柔らかな息を吐く。昼食は癒しだ。母が作ってくれたホットミルクを飲んだ後みたい。放課後が近づくと空き教室の魔法が切れてうつむきがちになるけれど、翌日の昼休みが心の中で一番星のように光るから、がんばろうって思える。
朝起きて顔を洗う。洗面台の鏡に顔を寄せる。ちょこんと盛り上がった小鼻、なだらかな丘のような鼻先。十七年間、生まれてからずっとここにある私の一部。
アプリに投稿された写真を見る。鼻先はツンと上を向き、鼻筋はくっきり通っている。
美術室に置かれた石膏像みたいだ。アグリッパ、ブルータス、ミロのヴィーナス。私の鼻はデッサンには向かない。でも呼吸はしやすいし、内側にある毛は花粉や細菌から体を守ってくれる。
「言われるほど悪くないと思うんだけど……。あっ、いけない。時間だ」
手早く髪をまとめ、通学カバンを手に取る。
朝の電車は混み合っているが、夕方よりは気楽だ。
つり革をつかむと、私はまとまりのない集団の一部になる。有名私立の制服、サッカー強豪校のジャージ、二駅先の公立の話をする私服の生徒。服装もメイクも髪型もバラバラだから、みんな比べない。
夕方の電車は同じ制服が集まる。だから間違い探しをしたくなるのだろうか。
学校に着き教室に入ると、百花の友達に囲まれた。
「投稿見たよ。フロート食べたんだ」
「新作コスメも買ったんでしょ」
みんな笑っている。だから私も笑顔を作る。
「そうだよ。楽しかった」
「いいなー。私も遊びたい」
「声かければいいじゃん。あっ、百花来た!」
百花は登校するなり、私の腕をつかむと教室の隅へ向かった。
「昨日大丈夫だった?」
「まあ、ちょっと」
これ以上指摘されたくない。私は片手で顔の真ん中を覆った。しかし鼻のことではないらしい。百花は小首を傾げた。
「お腹だけど」
「ああ、うん。それは平気」
「そっか。生理なら言ってね。冷やすと良くないから」
「ありがと」
百花が席に座ると、あっという間にクラスメイトが集まってきた。相変わらずの人気者だ。
ぼんやり眺めていると百花に手招きされた。今日もグループに入れてもらえるらしい。ほっとした。
昼休みに入ると、弁当を手に三階へ上がる。廊下の突き当たりにある、建て付けの悪い扉を開けた。使用されていない空き教室。昼食はここで摂る。
空き教室で昼食を食べ始めたのは二学期に入ってからだ。一学期は百花達と教室で食べていた。
新学期が始まってすぐの頃。最初は五名くらいの、どこにでもありそうな女子の集まりだった。気温が上がるにつれて少しずつ人数が増え、いまでは他のクラスからも生徒が来る十名以上のグループになっている。
賑やかで楽しい。けれど思い思いに自由に口を開くから、誰が何の話をしているかわからなくなる。笑い声に合わせて口角を上げて、悩みごとの相談には箸を休める。ころころ変わるみんなの表情に注意しながらの食事だ。
私は話に耳を傾けている時間が長い。メンバーの中で浮いている自覚はあったが、おしゃべりを強要されないし、黙っていると適度に声をかけてもらえる。なにより太陽のように明るい百花のそばにいられるのならそれでよかった。
夏休みに入ると、一人で食事をする機会が増えた。両親は仕事で外出が多い。誰もいないリビングは穏やかで、のんびり過ごせた。
エアコンから送り出される風のささやき、窓の外からわずかに届くセミの合唱、ポットから注がれる湯の音。
ゆったりとして、どこか間の抜けたような優しい時間。口にしたカップラーメンは、地に足が着いた味がした。
穏やかな時間の流れを感じられる。なんて心地いいのだろう。
そのとき気づいてしまった。私は柔らかな影が伸びるリビングのような環境で昼食を摂りたいのだと。
二学期が始まると、教室で昼ご飯を食べられなくなった。
百花には「成績が落ちているから、別室で食事をしながら勉強をしたい」とうそをついた。疑われることなく、二つ返事で了承された。
「好きなところで食べなよ。気にしすぎ。そんなことできらいになったりしないよ」
百花の目元がふんわり緩む。上辺ではなく、本当に気にしていない顔だった。
だから私は今日も空き教室で食事が摂れる。
弁当箱の蓋を開けて箸を持つ。カチャカチャ、コツン。食事を運ぶ音がする。体の中に栄養が巡っていくのがわかる。
「ごちそうさまでした」
イスに深く座り直す。昼休みが終わるまであと十五分ある。
窓ガラスのすぐそばで、大きく育ちすぎたケヤキの葉が揺れている。陽光を受けて透ける葉脈は天然のレース模様みたい。とてもきれいで眠くなってきた。少し仮眠しようかと思ったとき、扉が開いた。
男子生徒だ。両手に山のようなパンを抱えている。
「悪い。ここで食べていい?」
「あっ、はい。どうぞ」
勢いに押されて頷いてしまった。
出入り口に一番近い机にパンを置くと、どっかり座る。よほどお腹が空いていたのだろう。袋をすぐに開けるとメロンパンを頬張った。ぱく、ぱく、もぐ、ごくん。四口ほどで食べ終わる。オキアミを食べるクジラみたいだ。次のたまごサンドもクリームパンもビッグ焼きそばパンも大きな口に吸い込まれていく。
気持ちのいい食べっぷりと、授業中に早弁する姿が重なる。
思い出した。同じクラスの豊山大壱だ。
「あー、満たされた。突然ごめんね。ありがとう、小嶋さん」
そして話したことがないのに私の名前を知っていた。
お腹を軽くさすりながら、満足そうな顔で水筒に口をつける。口元を袖で拭おうとして私の視線に気づき、ポケットからしわくちゃのハンカチを取り出した。こわい人ではなさそうだ。
「私なにもしてないよ」
「場所貸してくれたじゃん」
空き教室は私の持ちものではない。たまたま誰も使っていなかったから私が借りているだけ。けれどいやな感じはしなかった。
「弁当忘れたんだ。購買から教室に戻ったら、席に女子が座ってた。楽しそうに話してたから、ほかのところで食べようと思って場所を探したけど、見つからなくて焦った」
「わかる。私も探した」
一人で昼食を食べると決めたとき、場所が決まらなくて困った。ほかのクラスは入りにくい。特別教室には先客がいる。講堂なら空席があるが「一人でお弁当とかわけあり?」なんて勘繰られるのは疲れる。
校舎の外、中庭や体育館裏も考えたが、雨が降ると使えない。夏は暑いし虫も気になる。校舎を歩き回り、やっと見つけたのがここだ。
大壱はにかっと笑った。
「明日も食べに来ていい? おれの席、誰か座ると思うから」
「うん。いいよ」
「じゃあ、ありがたく使わせてもらう」
翌日から大壱は空き教室へ来た。大きな弁当を広げて、頬を緩めながら食べる。大好物を出してもらった子どもみたいだ。
毎日のように顔を合わせると、じょじょに大壱という人物の輪郭が縁取られていく。
部活は野球部。じっと座っているのは苦手。食べることが得意。好物は揚げ物とイチゴがたくさん乗ったパフェ。わからないことは素直にわからないと言う。初めて聞く話でも知ったかぶりをしないし、話題を逸らさないので誠実でもある。
「じゃあ、豊山くんはいつもお昼は一人なんだ」
「友達は部活棟や学食に行くからな」
そういうものだと言わんばかりの口ぶりだ。羨ましい。一人で昼ご飯を食べても友達に気を遣わないし、遣われない。かといってきらわれているわけではなく、教室で見ていると友達は多いほうだと思う。
大壱の友達は流動的だ。体育でペアを組んだ男子と肩を組むほど仲良しなのに、授業が終わると別行動。休み時間は一人でぼうっとしていることもあれば、複数人の男女に囲まれて盛り上がっているときもある。
きっと彼は、電車に乗ってもスマホを見ないタイプだ。口元を緩ませて時間割りから解放された生徒をのんびり眺め、知っている制服と目が合ったら軽く手を挙げて応える。相手が友達と一緒ならむりに声はかけないし、誘われたら輪に入るかもしれない。
大壱は鳥のようだ。自由にどこへでも行けるのが、私にはまぶしい。
「やば。もうこんな時間か」
「次なんだっけ」
「ミヤ先の物理。遅刻すると当てられる」
「困る。わかんないもん」
軽口のリレーをしながら席を立つ。廊下に出たら別行動。階段を降りる大きな背中を見送る。
ほうっと柔らかな息を吐く。昼食は癒しだ。母が作ってくれたホットミルクを飲んだ後みたい。放課後が近づくと空き教室の魔法が切れてうつむきがちになるけれど、翌日の昼休みが心の中で一番星のように光るから、がんばろうって思える。

