夢を見ていた。
僕の身体は自由落下に従って落ちていく。恐怖心はなくただ心地よくて、何も持たず何も背負わず真っ逆さまに落ちていくことがとても軽く感じていた。
ずっと抜け出したかった。
何から抜け出したいか判然としなかったけれど、とにかくこの現状から誰かにずっと連れ出して欲しかった。多少強引にでも、この世界を変えて欲しかった。
夢をみていた。
部屋の片隅に立てかけた1本のギター。
お小遣いを貯めて、一瞬だけバイトをして買ったEpiphoneのSG。
世間的に値段の高いギターとは言えないけれど、学生の僕にとっては安くもないギター。
都会の楽器屋に行って、ひとりで買った。
薄いギターケースを背負って帰った田舎道で、ギターを背負う人なんて僕しかいなくて、そんな僕を見た家族は何も言わなかったけれど、そのことがむしろ僕には窮屈だった。
始めたバイトは、ギターを買ったらすぐにやめた。
中途半端な夢を本当は今も見てる。
「絶対幸せになれる」
ふと隣から聞こえた。
「え?」
「帝国と同じ空間に居れる時だけは幸せになれる」
ふわりと左肩に重さが加わって、視線を左に向けたら愁が僕の肩に頭を預けていた。驚いて一瞬身体が固まったけれど、愁の制服のシャツから覗く薄い胸板に、鎖骨に開いたピアスと何度も排除されたらしい赤紫の痕を見つけて、力なく体重を僕に預ける愁に、少しだけ僕も体重を預けてみた。
ピアスなんてどこにも開いていないと思っていた。
電車に乗ってからも、愁の手は僕の手首を掴んだまま離さない。
ギターのネックを持っている時は大きく見える掌も、意外とそこまで大きくないんだと感じた。
僕は自由な方の手でスマホを操作して、片方のイヤホンを自分に、もう片方を愁に渡した。
音楽アプリを起動して、ワンタップで帝国の曲の続きを再生した。
左右でひとつの完成系になるイヤホンは、きっと僕が聞いているのと愁が聞いているのとでは聞こえる音が違うだろう。
でも、それでいいと思った。
「……この曲」
ぽつりと愁が口を開いた。
いつも独り言みたいに、でもはっきりとまっすぐ話す愁にしては、今度こそ独り言みたいだった。
「俺が大好きだった人が死んだ時に、ちょうどリリースされた曲」
ふと零した独り言にしては重すぎる言葉に、僕は反射的に愁を見た。
相変わらず愁の柔らかな髪のつむじしか見えなくて、それが余計に愁を小さく見せた。
何を言えばいいのか分からず、鯉のように口を開け閉めすることしかできない。情けない。こんな時晴哉なら。
こんな僕が嫌いだ。
「三月は?」
「……僕?」
「三月は、どの曲が好きなん?それ流してや。それだけでお前のこと理解できるから」
僕はスマホをもう一度開いて、数秒悩んだ末一曲選んだ。
それは初めて愁に出会った時に愁が弾いていた曲。
やっぱりイヤホンを左右分け合っていると変な感じがする。それでもひとりで聞くよりはるかに安心感を感じた。
お互い何も話さず、目的地まで電車に揺られた。
最寄りの駅で降りても僕は手を引かれるままに愁について行くしか無かった。
初めて降りる駅、初めて見る街、初めての匂いに、空気に、人に、音。
田舎に無いものばかりで、地面にはたくさんのたばこの吸い殻、壁にはペイント、ガタイのいい外国人に、奇抜なファッションの大人たち。
制服姿の僕たちの方が逆に目立つような場所を、愁は迷うことなく突き進んだ。
愁は、どこに住んでいてどんな景色を見て、何があってあんな田舎に越してきたんだろうか。
暫く歩くと、情報量の多い繁華街に埋もれるようにして地下にある小さなライブハウスに着いた。
帝国好きらしい人は道中見当たらなかった。
けれど愁は黒い階段を降りていき、僕もそれについて行くしかなかった。
カウンターで600円とドリンクチケットを交換して、そのままフロアに直行した。
1本踏み入れると、そこにはぎゅうぎゅうに人が密集していた。
みんな帝国のタオルを首から下げて、手首には大量のラバーバンド。
かなり昔のグッズやTシャツを着ている人もいるから、コアなファンしかいないようだった。
一体どこにそんな情報が出ていたんだろうか。僕自身もかなり追ってきた自負があっただけに少し凹む。
「前行こ」
人の隙間をすり抜けて、上手側の最前にふたりで並んだ。さっきから愁は全然顔が見えない。
目の前には黒いマイクスタンドと、重厚感のある大きなアンプ。初めての距離に不安で背筋が萎縮しそうになる。
怖い。
まだ繋がったままの愁の手が、いつ僕の手首から離れていくか、怖い。
好きなものを前にして、怖いだなんて、なんて情けないんだろう。
ガヤガヤと楽しそうな周りの声が鮮明に耳から入ってくる。音と音が混じって、濃い匂いと強い照明にクラクラする。僕は浅い呼吸を整えようと、そっと俯いて息を吸った。肺が動くだけでちっとも楽にならない。
すぐ背後に人の気配を感じる。最前なのだ。きっとここはライブが始まったら押し潰される。
僕は楽しめるのかな。
早く脈打つ鼓動に集中していると、そっと背中に優しく腕が回された。
「大丈夫」
後ろの圧から庇うようにして、愁が間に入ってくれた。
優しい体温と圧が、背中に伝う。
「愁……」
「緊張してる?」
「っ、いや……、その」
「怖いよな、最前。ごめんな、引っ張ってきちゃって」
「ちが……!」
「無理に楽しもうとか、ノリに乗ろうとか、しなくて大丈夫。三月が楽しめる方法で楽しんで」
肩から背中にかけて愁の手が摩ってくれた。張り詰めた上半身の筋肉が次第に楽になっていく。
なんて易しいことをしてくれる人なんだ。
僕が何かを返す前に照明が落ちて、フロアは歓声に包まれてしまった。
メンバーがいつものように順番にステージに立って楽器をかき鳴らすと、フロアのボルテージはどんどん上がっていく。僕の目の前には何度も憧れたリードギターが立っている。甘い香水の香りがわかるほどの距離感に、ほかのことなんて考える余裕は一瞬にして無くなった。
頭も胸もいっぱいいっぱいで、自然と涙が頬を伝った。
この世界がすべてだったらいいのにと、この空間ごと抱きしめる思いで拳を上に突き上げた。
僕の身体は自由落下に従って落ちていく。恐怖心はなくただ心地よくて、何も持たず何も背負わず真っ逆さまに落ちていくことがとても軽く感じていた。
ずっと抜け出したかった。
何から抜け出したいか判然としなかったけれど、とにかくこの現状から誰かにずっと連れ出して欲しかった。多少強引にでも、この世界を変えて欲しかった。
夢をみていた。
部屋の片隅に立てかけた1本のギター。
お小遣いを貯めて、一瞬だけバイトをして買ったEpiphoneのSG。
世間的に値段の高いギターとは言えないけれど、学生の僕にとっては安くもないギター。
都会の楽器屋に行って、ひとりで買った。
薄いギターケースを背負って帰った田舎道で、ギターを背負う人なんて僕しかいなくて、そんな僕を見た家族は何も言わなかったけれど、そのことがむしろ僕には窮屈だった。
始めたバイトは、ギターを買ったらすぐにやめた。
中途半端な夢を本当は今も見てる。
「絶対幸せになれる」
ふと隣から聞こえた。
「え?」
「帝国と同じ空間に居れる時だけは幸せになれる」
ふわりと左肩に重さが加わって、視線を左に向けたら愁が僕の肩に頭を預けていた。驚いて一瞬身体が固まったけれど、愁の制服のシャツから覗く薄い胸板に、鎖骨に開いたピアスと何度も排除されたらしい赤紫の痕を見つけて、力なく体重を僕に預ける愁に、少しだけ僕も体重を預けてみた。
ピアスなんてどこにも開いていないと思っていた。
電車に乗ってからも、愁の手は僕の手首を掴んだまま離さない。
ギターのネックを持っている時は大きく見える掌も、意外とそこまで大きくないんだと感じた。
僕は自由な方の手でスマホを操作して、片方のイヤホンを自分に、もう片方を愁に渡した。
音楽アプリを起動して、ワンタップで帝国の曲の続きを再生した。
左右でひとつの完成系になるイヤホンは、きっと僕が聞いているのと愁が聞いているのとでは聞こえる音が違うだろう。
でも、それでいいと思った。
「……この曲」
ぽつりと愁が口を開いた。
いつも独り言みたいに、でもはっきりとまっすぐ話す愁にしては、今度こそ独り言みたいだった。
「俺が大好きだった人が死んだ時に、ちょうどリリースされた曲」
ふと零した独り言にしては重すぎる言葉に、僕は反射的に愁を見た。
相変わらず愁の柔らかな髪のつむじしか見えなくて、それが余計に愁を小さく見せた。
何を言えばいいのか分からず、鯉のように口を開け閉めすることしかできない。情けない。こんな時晴哉なら。
こんな僕が嫌いだ。
「三月は?」
「……僕?」
「三月は、どの曲が好きなん?それ流してや。それだけでお前のこと理解できるから」
僕はスマホをもう一度開いて、数秒悩んだ末一曲選んだ。
それは初めて愁に出会った時に愁が弾いていた曲。
やっぱりイヤホンを左右分け合っていると変な感じがする。それでもひとりで聞くよりはるかに安心感を感じた。
お互い何も話さず、目的地まで電車に揺られた。
最寄りの駅で降りても僕は手を引かれるままに愁について行くしか無かった。
初めて降りる駅、初めて見る街、初めての匂いに、空気に、人に、音。
田舎に無いものばかりで、地面にはたくさんのたばこの吸い殻、壁にはペイント、ガタイのいい外国人に、奇抜なファッションの大人たち。
制服姿の僕たちの方が逆に目立つような場所を、愁は迷うことなく突き進んだ。
愁は、どこに住んでいてどんな景色を見て、何があってあんな田舎に越してきたんだろうか。
暫く歩くと、情報量の多い繁華街に埋もれるようにして地下にある小さなライブハウスに着いた。
帝国好きらしい人は道中見当たらなかった。
けれど愁は黒い階段を降りていき、僕もそれについて行くしかなかった。
カウンターで600円とドリンクチケットを交換して、そのままフロアに直行した。
1本踏み入れると、そこにはぎゅうぎゅうに人が密集していた。
みんな帝国のタオルを首から下げて、手首には大量のラバーバンド。
かなり昔のグッズやTシャツを着ている人もいるから、コアなファンしかいないようだった。
一体どこにそんな情報が出ていたんだろうか。僕自身もかなり追ってきた自負があっただけに少し凹む。
「前行こ」
人の隙間をすり抜けて、上手側の最前にふたりで並んだ。さっきから愁は全然顔が見えない。
目の前には黒いマイクスタンドと、重厚感のある大きなアンプ。初めての距離に不安で背筋が萎縮しそうになる。
怖い。
まだ繋がったままの愁の手が、いつ僕の手首から離れていくか、怖い。
好きなものを前にして、怖いだなんて、なんて情けないんだろう。
ガヤガヤと楽しそうな周りの声が鮮明に耳から入ってくる。音と音が混じって、濃い匂いと強い照明にクラクラする。僕は浅い呼吸を整えようと、そっと俯いて息を吸った。肺が動くだけでちっとも楽にならない。
すぐ背後に人の気配を感じる。最前なのだ。きっとここはライブが始まったら押し潰される。
僕は楽しめるのかな。
早く脈打つ鼓動に集中していると、そっと背中に優しく腕が回された。
「大丈夫」
後ろの圧から庇うようにして、愁が間に入ってくれた。
優しい体温と圧が、背中に伝う。
「愁……」
「緊張してる?」
「っ、いや……、その」
「怖いよな、最前。ごめんな、引っ張ってきちゃって」
「ちが……!」
「無理に楽しもうとか、ノリに乗ろうとか、しなくて大丈夫。三月が楽しめる方法で楽しんで」
肩から背中にかけて愁の手が摩ってくれた。張り詰めた上半身の筋肉が次第に楽になっていく。
なんて易しいことをしてくれる人なんだ。
僕が何かを返す前に照明が落ちて、フロアは歓声に包まれてしまった。
メンバーがいつものように順番にステージに立って楽器をかき鳴らすと、フロアのボルテージはどんどん上がっていく。僕の目の前には何度も憧れたリードギターが立っている。甘い香水の香りがわかるほどの距離感に、ほかのことなんて考える余裕は一瞬にして無くなった。
頭も胸もいっぱいいっぱいで、自然と涙が頬を伝った。
この世界がすべてだったらいいのにと、この空間ごと抱きしめる思いで拳を上に突き上げた。
