春燦々。

冷えた空気に肌寒さを感じて目が覚めた。視野のはっきりしない微睡みの中で、頭の中で誰かの曲が流れていることに少し遅れて気づく。同じフレーズが何度も繰り返し回って、聞き覚えのあるメロディなのに、意識が覚醒しないせいでなんの曲だか思い出せない。ゆっくりと流れる意識に反して脳内は忙しなく音を回す。

身を捩ると身体を覆う薄い布団が身体から滑り落ちて、全身が冷えた空気に晒された。
仕方なく体を起こし、数秒部屋の一点を見つめていると、窓が開いていることに気づいた。その瞬間昨夜のことを思い出して、不意にはあ、と口から息が漏れ、前傾姿勢になって僕の身体はだらしなく崩れた。
やけに重たい瞼は単なる浮腫みではないのだと、近くにあった鏡に自分の顔を映して納得する。
目が少し赤く、頬は乾いていて熱を持っている。
顔を洗おうと、僕はベッドから降りたところで、ずっと脳内をぐるぐると回っている音の羅列が、昨日死ぬほど聞いた好きなバンドの曲だということを認識してまたため息がひとつ、口から漏れた。

玄関のドアを開けると、久々に感じる朝の新鮮な空気に肺が冷えていく。
今日から、華の高校2年の生活が始まる。
その割には、まだ冬の気配の残る華やかさの欠けらも無いただの殺風景な田舎道をひとりで歩く。二階建ての家が等間隔に建ち並び、時折トタンでできた小屋が畑の中にポツンと寂しく建っていて、もはやこの光景に安心感まで覚え始めていた。
10分程度歩いた先にある小さな無人駅の、コンクリートの階段を上がると、近所に住んでいる同じ制服を身にまとった生徒が数人電車を待っていた。
何度も見ている顔と、ブレザーの丈が体に合っていない見慣れない顔に、胸が少し騒ついた。
ホームの端に立って、点字ブロックを見つめながら首から下げた白い有線のイヤホンを耳に挿しこもうとした瞬間、ポンっと誰かに肩を叩かれた。

「三月!」

振り向くと、幼馴染みの晴哉が早朝の気だるさを微塵も感じさせない笑顔で後ろに立っていた。

「……晴哉、おはよ」
「おはよ。今日一緒に行こうって昨日の夜連絡したのに、お前一生既読になんないから。なんかあった?」
「……ごめん、スマホ見てない」
「見てないって、お前はまた〜〜」

呆れ顔の晴哉は、ワイヤレスイヤホンをケースにしまいながら、僕の隣に立った。そのまま、さっきまで聞いていたらしい曲の続きを紡ぐように、ふんふんと鼻歌混じりに歌いながら僕と一緒に何も遮るものがない淡い空を見つめた。

制服姿の学生ばかりの電車に乗ると、流石に座席は空いていないので、ドア付近の端にもたれるようにして立った。

「俺らも今日から先輩か〜」

同じ車両に乗っている、初々しい生徒たちと、制服を気崩している先輩らしき生徒を交互に見やって晴哉がしみじみとこぼした。

「……そうだね」
「先輩って、歳そんなに変わらないのにすげえ大人に見えるのなんでなんだろうなー?俺はなれる気がしないわ〜」
「晴哉がそれ言うの? 十分でしょ」
「俺はまだガキだよ」

そう言って、晴哉は壁にもたれて眉を下げながら笑った。
第二ボタンまで開いたシャツの隙間からは、僕とは違って筋肉で厚い皮膚が覗いている。また身体が大きくなったように見える。
壁に預けた衝動で、甘い香りがふわりと香って広がった。
僕でも知っている、有名なブランド物の香水の香り。

「……」
「そういえば、お前さっき何聞こうとしてたん?」
「……え?」
「音楽聞こうとしてたじゃん。俺が声掛けて邪魔しちゃったけど。最近何聞いてんの?」

電車がガタンと大きく揺れて、僕の身体も晴哉の身体も揺らされた。咄嗟に近くにあったつり革を掴んで不意に下に視線を下げると、晴哉のカバンに見慣れないキーホルダーが付いていた。アーティスト名らしき英語の表記は最近SNSで話題になっている同世代のアーティストだった。
晴哉は僕と違って幅広い音楽を聴く。
周りに教えて貰って、一緒にライブに行くことも多い。だから晴哉の周りには人が集まる。

「ずっと好きだよな」
「……え?」
「それ、そのカバンについてるやつ。お前がずっと好きなバンドだろ?」

僕のカバンから重たく揺れているラバーバンドたちを指さして言った。どうやら晴哉も僕のを見ていたらしい。

「うん」
「なんてバンドだっけ?」
「『バニラ帝国』」
「すんげぇ甘そうなバンド名。どんな曲があんの?」

小さな声でバンド名を繰り返しながらスマホの検索画面を開いた晴哉の検索履歴にはたくさんのアーティスト名と曲名がずらりと並んでいた。そのジャンルの広さたるや、おそらく色々な人に教わったのだろう。
ギターやポスターだらけの僕の部屋に遊びに来ても、少しも興味を持たなかった晴哉が今は色んな音楽に触れているらしい。
晴哉が検索欄に「ば」と打ち込んだところで、僕は遮るように声をかけた。

「そういう晴哉は最近何聞いてるの?」
「ん、俺? 俺はね〜」

すぐに別の音楽アプリに切り替え、顎に手を当てて暫く探し始めると、あっと小さく声を上げて画面を見せてくれた。

「これ、最近ハマってるんだよな〜」

画面の中には男女4人組の宣材写真がでかでかと表示され、人気曲がずらりと並んでいる。どうやらカバンについているキーホルダーと同じアーティストらしい。

「先輩に教えて貰って、ライブに連れてってもらったらまんまとハマっちゃって。ほら、知ってる?」
「……うん、知ってる。いいよね」

嘘。知らない。
僕はこのすんげぇ甘そうなバンドの曲しか聞かない。だって、このバンドの世界が僕のすべてだからと言ってもなんら少しも間違いないぐらいだから。
晴哉の熱弁を聴きながらの登校時間はいつもより時間がゆっくりと感じて、少し前なら当たり前に思った何気ない数分間も今はお互いに違う時間を生きているような気がした。

「速やかに教室に戻るように〜!」

体育館内に飛び交う教師の指示に従って、生徒全員がぞろぞろと出口に向かって歩いていく。
その中を晴哉と並んでノソノソと上履きの踵を擦らせて進んだ。

「始業式ってなんであるんだろうな〜、教室でHRして終わりでいいじゃんね」
「そうだね」

外の渡り廊下に出ると、左の校舎に向かう2年と3年、右の校舎に向かう1年の二手に別れ、ぎゅうぎゅうに詰まっていた列も次第に疎らになっていった。
昇降口から校舎に入る寸前、ふと空を何気なく仰いだら、生徒たちの話し声に混じってどこからか音が鳴った気がして足を止めた。
優しい音の重なり。
ゆったりと強弱のあるリズムが微かに校舎の上の階から聞こえる。

「どうした?」

少し先を歩いたところで隣に僕がいないことに気づいた晴哉が戻ってきた。

「なんかあった?」
「いや……」
「音楽室になんかあんの?」

音楽室。
僕の視線を追って、晴哉も同じ方向を見ながらそう言った。
そういえばここから見るとちょうど音楽室の窓が見える。

「音……」
「音? 怖いこと言うなよ〜」

始業式は今終わったばかり。音楽室で音が鳴るのはおかしい。
行くぞ。そう言って晴哉に腕を引かれるまま僕は教室に戻った。

始業式だと言うのに午後からはいつも通り授業が始まって、みんなは数週間ぶりの授業に集中できていない様子だったが、それは僕も例に漏れず、でも僕はみんなとは違う意味で落ち着かなかった。
窓際の席の僕は左手にある窓をほんの少しだけ開けて授業を受けた。
隙間から細く入り込む春風が僕の左半分を冷やす。それでも、さっき聞いた『音』が頭から離れず気になって仕方なかった。
なぜならさっき聞いた音は、聞き馴染みのあるリズムを刻んでいたから。
ずっと窓の外ばかり見つめる僕を、晴哉が気にしていることを目の端で捉えていたけれど構わなかった。

HRが終わり、ぞろぞろとグループになって教室から生徒が消えたあと僕は自分の鞄を掴んで、3階にある音楽室への階段を小走りに駆け上がった。

昼間に聞いた音はそもそも気のせいで、その上今更音楽室に向かったところで誰もいないに決まっている。
そうわかっていても、行かずにはいられなかった。
若干息の上がった呼吸を整えながら、音楽室に向かう。
誰もいなくなった3階はしん、と静まり返っていて人のいなくなった校舎からは埃の匂いが際立つ。
緊張感すら感じる薄暗さの中に、今度はたしかにしっかりとしたリズムを刻むギターの音が響いていた。

僕が何度も聞いた、バニラ帝国の曲。
人気の曲は数曲あるけれど、聞こえてくるのはコアなもの。

足音のなるべく消して重厚な音楽室の扉の前に立つ。微かに扉は開いていて、ギターの音に加えて優しい歌声が聞こえてきた。帝国のボーカルよりは爽やかで優しい歌声だけれども、心が惹きつけられる特徴的な男声だった。

なにかにつっかえているらしい扉をそっと手前に引く。すると、室内にしては冷えた空気が漏れ出てきて、僕の身体はきゅっと反応した。
中を見ると窓が開いているのか白いカーテンが大きく揺れていて、網戸も何もない窓の格子に1人の男子生徒がアコースティックギターを抱えて体を揺らしながら腰掛けていた。
ここは3階。あまりに深く座っているものだから、僕はぎょっとして咄嗟に1歩踏み出した。
その瞬間、案の定彼はこちらに気づき、長い前髪の隙間から僕の方を見た。

黒髪の、顎のラインまである長い髪。
サラサラと艶があって、体の端々は細く猫背気味。こんな田舎ではそれだけで目立つような、雰囲気のある容姿。

間違いなく邪魔をした僕は一瞬体を萎縮させて固まった。
それでも彼は僕に構わずじっと目を見つめたまま睨むでも微笑むでもなく、ただ弾き語りを続けた。

「……」

ピックで弦を優しく弾く右手は撫でるように優しく、大切に壊さないように歌う歌声は初めて聞いたのにもう何度も聞いているかのように安心感がある。
彼は静かに音を止めると、僕の方を改めて見つめて口を開いた。

「おいでよ」

低い声だと思った。
あんなに綺麗な歌声なのに、地声は案外低いんだと。

「……いいの?」
「聞きたいんやろ」

背に向けた扉が今度こそばたんと閉まった音がした。背筋にサッとなにかが走って、痺れた。分からないけれど、分からないくせに何かを全て見透かされているみたいで。

「此処。こっち。遠いってそこは」

細い人差し指で彼の真ん前にある椅子に座るよう指定された。
おずおずと傍まで行くと、彼は前髪を横に流しながら微笑んで、僕を歓迎してくれた。

「同い年やん」
「……え?」
「上履き、同じ色」
「あ……」
「何組?」
「……7」
「俺は10組。って言っても、この春から転校してきたばっかりやけど」

訛りがあって、どことなく僕の返事なんてどうでも良さそうな、独り言みたいな喋り方。

「……邪魔しちゃった?」
「邪魔? 全然?」
「その……」

言葉が上手く紡げない僕に構うことなく、ギターの弦を適当に弾き続ける彼。

「名前なんて言うん?」
「え、み、三月」
「三月ね」
「君は?」
「俺? 愁」
「愁……」

後ろの机に付属しているタイプの椅子を下ろして、そっと腰かける。ここの椅子はギシギシとうるさい。

「好き?」
「え?」
「バニラ帝国。好きでしょ」

ギターから手を離した愁は丸いボディの側面に頬杖をついて僕を見下ろしている。本当に同い年か疑うほど、動作も表情も僕とは違って落ち着いていて大人っぽい。

「うん、好き。その……、愁も好き、だよね。さっきの曲、コアなファンしか知らないから」
「そうね」

じっ、と見つめられる。
こんなに長く人と目を合わせたことなんて人生で1回でもあっただろうかと思うぐらい。
僕が逸らしてきたのか、それとも愁が目を見るタイプなのか。
さっきからポツポツと広がりきらない短いやり取りといい、どうしていいか分からず、心拍数が上がって顔に熱が集まっていく。

「もう1回、やる?」
「へ?」
「なんか、聞きたそうな顔してるし」
「……っ」
「嘘。俺が弾きたいだけ。ちょっと特別やから。……わかるやろ?」

誰にも言っていない。晴哉だって知らない。
15時半に終わる学校。校舎から出ると急いで電車に乗って、都会にあるライブハウスに向かう。19時半開演のライブにはいつもギリギリで、なるべく前へ前へと人の間を抜けていく。前に行くのは勇気がいる。けれど、真っ暗なライブハウスの中で僕なんてステージに立つメンバーを前にすれば誰も気にとめない。叫ぼうが飛ぼうが、泣こうが笑おうが。僕は僕のままでいられる。

ライブハウスの中にいる人間なんて、正直ろくな奴はいない。みんなどこかしら壊れている。
あんな、死にたいだけの愛の歌なんて、好きだというほうが病気だ。
それでも、帝国の歌は、僕の世界のすべてだった。
そんなすべてを詰め込んだ、愛の歌が、さっきの曲。

外は徐々に日が落ちていく。
電気のひとつも付いていない音楽室も数分も経てば次第に暗くなる。
音楽室の独特な匂いも、この空気感のせいで、まるであの煙草と酒と、香水の混じった夜の特別な空間のように感じる。

すっと息を吸う気配を感じて、僕は視線を愁に向けた。
さっきよりも大切に、大切に、時間をかけて言葉を紡ぐ愁と日が暮れるまで過ごした。