麒麟の護符師と冷徹将校の十五年目の初恋

 春の訪れはまだ遠く、富士の裾野を覆う原生林は湿った冷気と濃厚な苔の匂いに沈んでいた。
 地を這う複雑な根は血管のように脈打ち、黒々とした溶岩の岩肌はかつて山が吐き出した灼熱の記憶を秘めている。
 帝都の喧騒など届かぬ、ここは人ならざるモノたちが蠢く異界の入り口。
 ——のはずなのに。
 
「……誰?」
 人間界とあやかしの世界を隔てる古びた鳥居の前で、五歳になったばかりの凛子は首を傾げた。
 こんな場所であやかし以外に会うのは初めてだ。
 
「あらあら。森が騒がしいと思ったら」
「お母さん、この子まだ生きているよ」
 上質なウールの着物に袴を着た少年は、ゼイゼイと肩で呼吸しながら必死で生きようとしているように見えた。
 だが、少年はひどく痩せ細り、顔色は土色。
 凛子でさえ、この少年は長くは保たないとわかるほど衰弱していた。
 
「助けてあげられないの?」
「私たちは人に関わってはいけないわ」
 母親は静かに首を振る。
 
「人もあやかしも、良い者ばかりではないの」
 麒麟の血を引く我々一族は、人間界の権力や争いに巻き込まれてはならない。
 存在自体、知られるわけにはいかないのだ。
 
 麒麟は古来より「吉兆を表す神獣」として崇められてきた。
 麒麟の血が持つ浄化・治癒の力を欲する人間は多く、一族はどんどん捕らえられ、数百年前にようやく住処としてたどり着いたのがこの地、富士の樹海だ。
 だが、一族は衰退の一途を辿るのみ。
 そしてとうとう母と凛子の二人だけになってしまった。
 
 鳥居の向こう、風穴の奥から獣の唸り声が響く。
「凛子、行きましょう。あやかしが来るわ」
「でも」
 この子を置いて行ったら、この子があやかしにやられてしまう。
 
「……に、げろ」
 少年は意識を失いかけているというのに、うわごとのように凛子に早く逃げろと呟く。
 
「凛子、早く」
「ううん、待って」
 凛子は母親の手をすり抜け、倒れた少年のもとへ駆け寄った。
 少年は凛子の存在に気づくと、残された力を振り絞り、凛子を守ろうとするようなしぐさを見せる。
 
「だいじょうぶだよ、お兄ちゃん」
 凛子は迷わず、少年の冷え切った手に自分の小さな手を重ねた。 
 凛子の頭上の頭巾がふわりと解け落ちる。
 あらわになったのは、樹海にはあまりにも不釣り合いな眩いばかりの光を放つ髪。
 この国の神話に語られる神獣『麒麟』の血を引く者だけに与えられた、神聖なる純金の髪だった。
 
「ダメよ凛子、その力を使えば……!」
「このお兄ちゃん、凛子を守ろうとしてくれたもん。死んじゃいやだ!」 
 凛子の金の髪が、まるで太陽の破片のように眩い光を散らし始める。
 溢れ出た神聖な霊力は、押し寄せていたあやかしを一瞬で退散させ、風穴の闇を切り裂いた。
 少年の頬に血色が戻り、ゼイゼイとなる喉は穏やかな息へと変わっていく。
 
「お兄ちゃん、げんきでね」
 そのまま意識を失った少年に残った記憶は、眩しい金の髪だけ。
 名前も知らないまま、あの鳥居の記憶も曖昧なまま、十五年の歳月が流れた——。