風に羽根を預けて


颯の店から帰った夜、私はベッドに入るも、なかなか寝付けなかった。
脳が、軽く興奮状態だったのかもしれない。
颯のことを思い出す。
屈託のない笑い方、たまに見せる変顔、遠慮のない言葉。
どれも可笑しくて、思い出すと口元が緩んでしまう。
別れ際、颯は言った。

「今日のことは俺らだけの秘密な。友情に誓って言う。俺は美羽の秘密を洩らさない」

その変な「宣誓」をしたあと、颯は自転車を出すと、後ろに乗れ、と言った。
自宅まで送ってくれる、と言うのだった。
一度は断ったけれど、「若い娘が一人で夜道を歩いてはいかん」と、お父さんみたいな口ぶりで言うので、お言葉に甘えて乗せてもらうことにした。
颯は、ペダルを踏んで、ぐんぐんと前に進んだ。
羽根の使えない私を運ぶ、風のように。
夜の風は冷たかったけど、寒さは全く気にならなかった。
月のない紺色の空が、私たちの真上に広がっていた。
このまま時間が止まればいいのに、と心から思った。

目を閉じたが、なかなか眠れなくて、カーテンを開ける。
ベッドの脇にある窓からは夜空が良く見えるが、都心部に近いこの場所では、星ははっきりとは見えない。
けれど、点々と見える一等星を見上げ、私は心の中で祈った。
少しずつでいいから、変わっていけますように、と。

ふと、ピコン、とスマホが音を立てた。
Youtubeからの通知だった。

「今日は蠍座新月。あなたのこの先の運勢をライブで占います」

レジーナさんのタロットリーディング・ライブの通知だった。
眠りにつく前に、レジーナさんの優しい声が聞きたくて、私はYoutubeの画面を開けた。
レジーナさんが現れる。今日は赤いドレスを身に着けている。
蠍座のイメージなのだと言う。レジーナさんの佇まいはいつも神聖で美しい。
カードをシャッフルしながら、レジーナさんが言う。

「今日は蠍座の新月ですね。蠍座は、心の奥深くにある感情、自分が無意識に遠ざけて来た本音と向き合う星座です。今日は、あなたがずっと手放せずにいたものについて、考えるのに最適な日かもしれません」

――手放せずにいたもの?

私は、レジーナさんの声に耳を傾けた。

「それは、失った物や、誰かへの執着かもしれない。あるいは、自分を守るために続けた習慣みたいなものかもしれない。人は傷ついた経験から、何かを学びます。もう二度と傷つかないように、誰かを避けたり。大切なものを失わないように、最初から深くかかわらないことを選んだり。でも、それは、決して悪いことじゃない。あなたにとって必要なことだったのだから」

自分のことを言われているような気持になり、私は鳥肌が立つ思いがした。
レジーナさんの仮面は、いつもと変りない微笑みをたたえている。

「でもね、昔のあなたを守ってくれたものが、今のあなたにとっても必要なものとは限らないの」

レジーナさんはそう言うと、カードをシャッフルし始めた。

「すぐに変わらなくていい。今のあなたの素直な心に、ゆっくり耳を澄ませてみて。あなたがほしいものが何かを考えて、選択していけばいい。あなたが選んだものが、未来のあなたを作っていく」

カードがレジーナさんの手の中で滑る音を聞きながら、私はじっと画面を見つめていた。
レジーナさんのシャッフルは丁寧で、直感に従ってカードを切っている。
いつも、その指と所作の美しさに、目を奪われてきた。
でも、この時ばかりは違った。
わたしはこの人の指を知っている。
紺色のネイルに、パールのデコレーション。
ああ、そうだったのか。
私は微笑んで、目を閉じた。
この不思議な巡りあわせを奇跡と呼ばずに、何と呼ぶだろう。
レジーナさんは、私のためにメッセージを送ってくれたのかもしれない。

「では、今日これを聞いてくれているあなたのための、一枚引き」

レジーナさんが、直感で引いた一枚のカードが、画面に現れる。
そこには「Death」と書かれていた。

「死神のカードが出ました。でも、怖がらないでね」

レジーナさんは、優しい声で話し続けた。

「このカードは、終焉を表すだけでなく、新しい何かが始まる暗示でもあるの。何かが終わるからと言って、それまでのあなたの時間が無駄になるわけではないから安心してね。手放したあとにも、あなたに残るものがあるし‥‥‥。それに、何かを失わないでいようとすると、これから手に入れる大切な何かを取りこぼしてしまうこともある。だから、終わりと始まりを‥‥‥今そこにある変化を、恐れないで」

――今そこにある、変化‥‥‥。

「あなたがこのリーディングを聞いて、何か気づきがあれば、受け取ってくださいね」

レジーナさんの番組は、その後も続いた。
でも、私はその優しい声にうつらうつらとし、やがて眠りに落ちていった。