風に羽根を預けて

初めて会話した相手と秘密を共有する。
そんな現実離れした出来事に、私は密かにドキドキしていた。
「言うも言わないも—―クラスで私を見たことあるなら分かるでしょ。私、友達一人もいないから、安心して」
「え、そうなの」
香川颯は、珍しい動物でも見つけたような顔をして、私の顔をまじまじと見た。
名前を知っているくせに、私の「生態」を知らないなんてどうかしている。
そう思いながら、私はベンチから腰を上げようとした。そのときだった。
「おもれーな。お前。‥‥‥ってか、俺尊敬するわ。そんなにマイペースに生きてる人間、なかなかいないよ」
「マイペース?」
「そう。女子ってだいたい群れてるだろ」
「‥‥‥まあ、そうだね。それにしても、何であんなにひっぱたかれたの?」
クラスでいつもニコニコしている凜々花があんなに怒ったのを見たのは初めてだった。
好奇心に抗えず、私は訊いた。
「私たち付き合ってるの?って訊かれた。それで、付き合ってない、って答えた」
「‥‥‥どういうこと?」
「あいつが映画行こうとか、飯食いに行こうとか、ぐいぐい誘ってきたわけ。まぁ、俺的には友達感覚で遊んでたんだけど。そしたら急に、今日ここに呼びだされて」
「‥‥‥で、怒らせちゃったんだ」
「あ、誤解しないように言っておくよ。あいつは中学も一緒で、よくグループで遊んでたんだ。そのノリだと思ってたし。それに、手を出したりしてないから」
「なるほどねぇ。乙女心に気づけなかったってことか」
「まぁ、知ってのとおり、俺って人からお願いされるとなかなか断れない性分なもんで」
私は、クラスの中にいる香川颯を思い出してみた。
クラスで何かもめ事があるとすぐに駆け付けるタイプだったし、困っている人を見過ごせないような、そんな優しさを持った人だというイメージがあった。
そして、何より、いつも彼はクラスの輪の中心にいた。
「だからさ、中井のこと、ちょっと羨ましいなって思ったことあったよ」
「えっ⁉何それ」
予期せぬ言葉に、思わず大きな声を上げてしまった。
私の慌てぶりが可笑しかったのか、香川颯の口元が少し緩んだ。
「ははは。だってさ、誘われても、簡単に断るじゃん。そして颯爽と去っていく。なんていうか、男前だよな」
「男前、って‥‥‥女の子に対する誉め言葉じゃないよね」
「いや、俺からすりゃ誉め言葉。さっすがソロは違うなー、って」
「‥‥‥ソロ?」
急に出た言葉に、私は首を傾げた。
その反応に、彼は「嘘だろ」と言って、私を見つめた。
「知らないの?みんなそう呼んでるよ。中井のニックネーム」
「えっっ?」
それはニックネームというより、「あだ名」だ。ひとりぼっちの私を、誰かが茶化してつけたのだ。
「でも、かっこいい呼び名だよ。ソロって。それはひとつの個性みたいで、誰にも真似できない強さだ」
「私のこと知らないくせに、知ったような口叩かないでくれる?」
私は口をとがらせて、彼から顔を背けた。その瞬間、体内で大きな音が振動し、辺りに音を響かせた。

ぐるぐるぐる‥‥‥。

何でこんなときに、と私は赤面した。
空腹で、お腹が悲鳴をあげたのだ。
しかし、香川颯は笑うことなく、私に言った。
「ねえ、俺んちの店来ない?公園出て、すぐそこなんだけど」
「え?店って?」
「喫茶店。秘密を守ってくれるお礼として、パンケーキ奢ってやるよ」
「えっ、いいよ。そんなことしなくても、誰にも話したりしないから」
「でも、お前の腹は食いたいと言ってるように聞こえたぞ」
「なっ‥‥‥」
やっぱり、聞こえていたんだ。穴が入ったら入りたい。
そう思っているうちに、彼はベンチから立ち上がると、私の抱えていたリュックを持った。
「俺んとこのパンケーキ美味いんだよ。姉ちゃんが作ってるんだ」
そう言って、先に進んで行く。
「ちょっと待って‥‥‥」
私もすぐに腰を上げ、彼の名前を呼んだ。

「‥‥‥香川くん!」

太陽が顔を隠し、ぽつり、ぽつりと街灯がともり始めていた。
群青に包まれた空に、月は見えなかった。——そうだ、今日は月齢の始まりの、新月の夜。
路上に落ちた黄金色の銀杏の葉が、迷子の私を導く長いカーペットのように映った。
薄闇の中に、追いかける背中がある。
不思議な感じがした。——私はこのひとを、前から知っている。
そんなデジャ・ヴのような感覚を胸に、私は彼のあとについていった。


薄暗い公園通りの中に、ひときわ温かい光を放つ喫茶店「Luna」があった。
店の木製のドアには、大きなリースが飾られている。
漆喰の壁に青や緑のタイルがところどころ埋め込まれていて、白い窓枠から漏れる光で幻想的に輝いている。
彼の話によると、その喫茶店の名前は、お姉さんの名前月菜(ルナ)に由来するらしい。
もう店は閉まる時間だから、私たちが行っても邪魔にはならないということだった。
ドアを開けると、ドアベルの音とともに、高い声が店内に響いた。

「おかえりーっ。あ、お客さん連れて来たの?いらっしゃーい」

月菜さんは微笑んで、私と彼を窓際の席まで案内してくれた。
背がすらりと高く、大人の女性の色香があるひとだと思った。
美しいパールのついた紺色のネイルが、印象的だった。

「で、颯。紹介してくれるんでしょ?カノジョ?」

エプロンを腰に巻きながら、月菜さんが訊く。
香川くんは「はぁ?」と声を上げて、すぐに否定した。
「違うって、クラスメイト。今そこで会ったの。んで、初めて話したっつーか」
「こいつ」呼ばわりするほどの仲ではないが、と心の中で思いながら、私は月菜さんに挨拶をした。
「中井美羽です。香川くんとは同じクラスで」
「なるほどね。じゃあ、お知り合いになったばっかりってことか」
そう言って、月菜さんはオレンジジュースを用意してくれた。
なぜだか、グラスは3つ。私と、香川くん、月菜さんのぶんらしい。

「美羽ちゃんとの『お友達記念日』に、かんぱーい!」

月菜さんの弾けるような高い声が、店内に響き渡った。
お友達記念日。そんな素敵な響きの言葉に、私の胸はドキン、と鼓動した。
愛の告白でも何でもない。そんな何気ない言葉が、こんなに私を揺さぶるなんて、思いもしなかった。

――そんなに簡単に「お友達」って成立するものなの?

口にこそしなかったが、私はぎこちなく微笑んで、自分のグラスを持った。
乾杯をする。チン、と三つのグラスの音が、テーブルの上に響く。
月菜さんはきっと魔法使いだ。私はそう思った。
私の心に絡まった糸を、するするとほどいていく。

「うい。じゃぁ、パンケーキね。友達スペシャルで、フルーツ多めで」
「了解。すぐに用意するね」
厨房に入って行く月菜さんを横目に、私は考えた。
月菜さんには、私が「友達」に映ったのだろう。でも、私にはそんな資格はない。
――ここで、いったいどんな話をすれば?
しかし、そんな不安をよそに、香川颯は話し始めた。
「姉ちゃん年上でびっくりしただろ?10こも上なんだよ」
「そうなんだ。綺麗なお姉さんだね」
「それ、本人に言ってやって。喜ぶから」
「このお店は、お姉さんのものなの?」
「‥‥‥いや。ほんとは母ちゃんの店で。病気の母ちゃんの代わりに働いてくれてるんだ。うち、母子家庭で」
香川くんは、眉根を寄せて言った。
「俺の高校の学費まで出してくれてさ。大学は奨学金で行くつもりだけど。まあ、姉ちゃんには迷惑かけてるんだよ」
「そうだったんだ‥‥‥なんかごめん。香川くんのこと、何も知らなくて」
途切れてしまった会話。お客もいない、BGMも流れていないこのお店は、静寂すぎる。
どうしようもなく、不安になる。この後、何て声をかけたらいいのか。
「中井が謝ることじゃないよ。‥‥‥ってゆうかさぁ」
「‥‥‥はい」
「俺のこと、颯でいいよ。クラスの野郎どもは俺のことを『ハヤ』、って呼んでるけど。どっちでも」
「え‥‥‥っ」
「その代わり、俺はお前を今から『美羽』と呼ぶ。いいな?『お前』って、何か乱暴だからな」
「は、はい」
他人を下の名前で呼んだことは、あるにはあるが、ずいぶん昔のことで慣れていない。
私は、おそるおそる、彼の名前を口にした。
「颯くん」
「『くん』は、いらねー」
「はやて」
「そうそう、その調子」
颯は、私の顔を見つめながらニヤニヤ笑っている。絶対に、何か面白がっている。
「まあ、ソロって名前はちょっとひどいよな。俺はもう、そんな風には呼ばないから」
「まぁ。どっちだっていいよ。‥‥‥で、凜々花の話に戻るけど‥‥‥。ああいう子はプライドが高いから、気を付けてね」
女の子に色々文句を言われてきた私に分かるアドバイスを、彼にしたつもりだった。
すると、颯は「ぶーっ」と噴き出して笑った。
「あはは。そう言われても、まあ、仕方ないな。だけどさ、美羽もそういうとこあるよ」
「え?」
「凜々花が言ってたよ。美羽を誘っても、いい顔しないし、不機嫌そうに断るし。ほんと、何考えてるかわかんない、って」

私は思い出した。クラスでひとりぼっちの私を、最初に誘ってくれたのは凜々花だった。
彼女みたいな華のあるタイプとは付き合えない、とも思ったし、どのみち友達を作る気持ちはなかったので、理由もなく誘いを断った。そのときの凜々花の寂しそうな顔が、脳裏に浮かんだ。

「どんなふうに伝えても、誤解は生まれるときは生まれるんだ」
「‥‥‥」
「美羽に悪気はなかったとしても、『どう伝わったか』がその人にとっての真実になるんだから」
「あ、あたし‥‥‥」
「美羽が悪い、って言ってるんじゃないよ。今日の俺のビンタも、俺がちゃんと凜々花に意思表示して、断っていれば起こらなかったんだ。俺も人のこと言えないから」
そう言って、颯はひっぱたかれた左頬を指さした。
颯も、凜々花も、お互いの意思疎通が足りなくて、痛みを感じたのだ。
胸の中が罪悪感でいっぱいになる。
自分の心の痛みを避けることを優先して、相手の心の痛みを想像することをしてこなかった。
自分が嫌になって、思わず立ち去りたくなった。
そのときだった。

「じゃーん。友達スペシャル出来上がったよ~」

月菜さんの明るい声とともに、パンケーキの甘い香りに包まれる。
それが運ばれてきたとき、私は思わず口を開いた。
皿の上には、チョコペンで「Thanks !My Friend, Miu」と書かれている。
ラズベリーやキウイ、無花果などのフルーツが添えられ、パンケーキの上には、細いろうそくが一本立っている。
それは私たちの友情を祝福するみたいに、パチパチと火花を上げている。
季節外れの、花火のように。
見えるはずのなかったものが、目の前にある。
そんな奇跡みたいな瞬間の連続に、私は息が出来なかった。

気が付けば、私は泣いていた。
ろうそくの火花が消えても、私はうつむいていた。
嬉しいのか、悲しいのか、後悔の涙なのか、自分でもよくわからなかった。
月菜さんは私のことを心配して、声をかけるかかけまいか迷った様子だった。
けれど、颯が制したので、月菜さんは厨房に帰って行った。

「何かあった?美羽が話したかったら、聞くよ」

颯はそう言って、私にフォークを持たせた。

「でも、まずはこれ食ってからだな。なあ、知ってるか?人間って食いながら泣けないんだ」