「一年生になったーら 一年生になったーら ともだち百人できるかなー」
下校途中、一人で信号待ちをしていると、手をつないで楽しそうに歌っている親子がすぐそばを通り過ぎて行った。
その歌は有名すぎるほどで、私自身も幼少期に歌った記憶がある。
懐かしさを覚えると同時に、ありえない、という言葉が口からこぼれた。
友達って、果たして何なのだろう。
友達と呼べる間柄の人たちは、いったいどんな話をし、どこまで内面をさらけ出しているのだろう。
ふと思い立って、スマホでSNSアプリを開くと、登録した友達の数は八人だった。
なんだ、私にも結構友達いるじゃん、と思ったが、日頃連絡したり、ご飯を食べに行ったりするような友達は皆無だ。
SNSアカウントは、文化祭の実行委員を任されたときに、同じ委員をやっていた女子たちに頼まれて作成した。
みんなは連絡ツールとして使っているようだったから、断れなかった。
どの子も、「フォローして」と頼まれて登録した相手ばかりだ。
SNSでの彼女たちの日常を覗き見てみたが、どれも似たり寄ったりだった。
新発売のスゥィーツ、ネイル、アクセサリー、推しているアイドルのグッズ。
流行っているもので溢れかえっているそれらの投稿は、私が見ている世界とはまるで違った。
楽しそうな一瞬を切り取ったものばかり。
そんな彼女たちの投稿に「いいね」を押したことは、今までに一度もない。
――この子たちは、友達とはきっと呼べない。
ずきん、と傷む奥歯に舌を当てながら、私は考える。
こんな風に、はっきりとした痛みを発してくれれば、まだ気づきようがあるものを。
私には友達がいない。——というか、自分から作らない。
一人でいることが寂しくないかと問われれば、少し違う。
寂しいとか、虚しいとか、言葉で表すのは難しい。
学校で一人のとき、心はどこかすうすうしている。
手を伸ばしても届かない果実を見上げているときみたいに。
たとえ手に入れたとしても、私にはその味がわからないのかもしれない。
だから、見て見ぬふりをする。
おそらく、周りの人たちから見れば、私はかわいそうな部類の人間だろう。
私のスマホの写真フォルダには、SNSに上げるような写真は見当たらない。
転勤族の家庭に生まれなければ、こんな人間にはならなかったのかもしれない――ふと、そんなことを考える。
今さら過去を振り返ったって、どうしようもないのに。
私の記憶の中にある初めての友達は、「ことちゃん」。
ニックネームしか思い出せないが、キューピーさんみたいな顔立ちで、ほんわかした雰囲気の女の子だった。
ことちゃんと私は同じ三月生まれで、誕生日が近かったので、一緒にバースデーパーティーも開いてもらった。
ケーキの上に載せられたおひな様の砂糖菓子を、二人で分けて食べた。私がお内裏様を、ことちゃんはおひな様を。
ひな人形を見るたびにわたしはあの日のことを思い出す。彼女と過ごした幼稚園での毎日は、本当に楽しかった。
しかし、小学校に上がる前に、ことちゃんと別れなくてはならなくなった。父が転勤になったのだった。
その後も、同じことが何度も繰り返された。ある程度仲良くなったかと思えば、すぐに転勤、の繰り返し。
親交を深めた友達と離れたくなくて、泣きじゃくった日もあった。
そんな私を見かねて、母は言った。
「美羽ちゃん、今は辛いかもしれないけど、お父さんは家族を守るために、お仕事をしているの。だから、私たちもついて行かなければいけないのよ」
家族を守るために、というその一言に、私は何も言えなくなった。
あなたを守るため――。それが確かな意味を持つ言葉だったとしても、幼かった私には耐えられなかった。
「どちらにせよ、小中で知り合ったお友達なんて、卒業したら遊ばなくなるんだから」
慰めにもならないようなことを口にした母の口元は、笑っていた。何が可笑しいのだ、と私は思った。
けれど、その心の声を胸の中に押し込んで、表には漏らさなかった。
そのうちに、私は友達を作ることを諦めるようになった。どうせ友達を作っても、すぐに離れることになる。
転校のたびに心の痛みを感じるくらいなら、最初から友達なんていないほうがいい。
そして、「ひとりでも大丈夫」と言い聞かせることで、次第に痛みは薄れていった。
しかし、そんな折に、転機が訪れた。
今まで嫌というほど付き合わされた引っ越しがなくなったのだ。
十七歳になったばかりの、春の日だった。
「高校に入った娘を連れて転勤するのは、アレだから」
会社から帰って来たばかりの父親が、ネクタイを外しながら言った。どうやら、次の転勤は単身赴任をすることにしたらしい。
ジュースを飲みながらリビングでくつろいでいた私は、その言葉に一瞬固まった。
「アレ、ってどういう意味」
ぶっきらぼうに返すと、父は私に深く頭を下げた。
「今まで、転勤に付き合わせてすまなかったな。でも、これからは美羽の人生を考える時期が来たんだ。大学にも行かなきゃ、だろ?来年大学受験する娘に迷惑はかけられない。今の高校を卒業して、その先どうするかを考えなさい」
持っていたグラスの氷が溶けて、手のひらの中で微かな音を立てた。
言葉が喉の奥に詰まって、苦しくなった。急に、突き放された気がした。
――私の人生?‥‥‥その先?
私は飲みかけのジュースをテーブルの上に残したまま、そっと席を立った。
イヤホンをし、スマホのボリュームを上げながら、夕日の眩しさに目を細める。
最近はずいぶん日が暮れるのが早くなった。ひんやりとした空気に、落ち葉の匂いが混じる。
バス停でバスに乗り、空いていた座席に座ると、Youtubeのアプリを操作した。
帰り道、動画を見ながら帰宅するのが私のルーティーンだ。
大好きなレジーナさんの番組が流れて来る。
レジーナさんは、Youtubeで人気の占い師で、タロット占いがよく当たるというので有名だ。
『風の時代が来ました』
耳の中に、レジーナさんの優しい声が溢れる。
『風の時代とは、個の時代です。いままで自分の中の声を押し殺してきた方は、ぜひ声をあげてみてください。風の時代になり、周りもあなたの個性に応えられるほどに成長してきています』
――風の時代?
心の中で復唱して、レジーナさんに訊く。
――それって、わたしにとっていい時代ですか?ひとりでいることも、個性だと言えますか?
風。
思えば、私は風に飛ばされるたんぽぽの綿毛のような人生を送って来た。
自分の意思で逆らえない風に乗り、色んな場所に行った。
けれど、たんぽぽのように地面に着地し、花を咲かせることは叶わなかった。
いつの間にか、私は十七歳。少し大人になり、ひとりでいることは嫌ではなくなっていた。
友達はいなくてもいいのか――ひとりでいることと、孤独であることは同じなのか。
幼い頃に感じたその問いは、誰にも答えてもらうことなく、今もこの胸の中にある。
『大人になるということは正しい距離感を覚えることよ』
考え事をしているうちに、いつの間にか恋愛相談のコーナーになっていた。
レジーナさんは登録者から質問を募集して、それに答えるための占いをしてくれる。
タロットをシャッフルする音とともに、レジーナさんの顔が画面に映し出される。
レジーナさんは、画面に映るときはいつも青い仮面をつけている。
ヴェネツィアで買ったというその仮面は、水晶が目の周りに縁どられていて、鼻筋は金色に光っている。
仮面の奥に見えるレジーナさんの表情は分からないが、その仮面は微笑んでいて神秘的だ。
レジーナさんはカードを展開しながら言った。
「‥‥‥相談者のNさんは、大好きな彼に毎日会いたいのよね。だけど、その恋人が、あなたのお友達だと思ってみて。ずっと一緒にいると、自分のことに集中したい、ってときに、邪魔になるかもしれないと想像できるでしょう?親しい仲でも、ときには遠慮が必要なときもあるから。お互い縛ることなく、尊重し合える――そんな関係を構築していってね」
私は、その言葉にしばらくのあいだぼうっとしていた。そして、動画画面を閉じると、すっと息を吐いた。
レジーナさんの言葉が、これほどまでに胸を刺したのは初めてだった。
誰にでも想像できること。――彼女はそれが出来ない人がこの世にいるとは思っていない。
友達がいるのはごく普通のことだと、言われているような気がした。
私はバスの中にいる人たちに視線を移した。
色んな人たちがバスに揺られていた。子連れのお母さん、女子高生のグループ、仲の良さそうな老夫婦。
私の心臓は、何かにおびえるように、うるさい音を立て始めていた。
――私だけ、異質なの?
私は無意識のうちに、バスの降車ブザーを押していた。
バスを降りてからは、遠回りして市民公園の中を通って帰ることにした。
その公園の中を通れば、私の家の近くの通りに出られる。
公園の歩道に植えられた銀杏が黄色く染まり、その枝の間から覗く赤い太陽が、一日の終わりを告げていた。
忙しく動くスニーカーのつま先を見つめながら、私は考えをめぐらせた。
――レジーナさんの言う大人に、私はなれたのだろうか、と。
大人になる前から人と距離を保ってきた私は、果たして大人だったと言えるだろうか。
・・・・・ううん。きっと、言えない。
人との関わりを避けてきただけで、誰かとの距離を近づけたり、遠ざけたりすることを自ら選べるわけではない。
人との接点を持たず、一人でやりきること——私は、それがベストな生き方で、自分が選んだ「自由」だと思っていた。
「全然、自由じゃない‥‥‥囚われの身だ」
ふいに、その言葉が口を衝いて出たときに、それは決定的になった。
一筋の涙が、頬を伝った。
私は、傷つかない方法を選んだつもりだったのに。あまりにも惨めすぎる。
今の私は、やり直しが効かない。
ずっと、人を遠ざけてきた私が、どうして今更それが出来るだろう。
これまでずっと、クラスの打ち上げも、個人的な誘いも、お昼を一緒に食べることさえも断ってきた。
彼女たちは最初、私が引っ込み思案の女の子だと思っていたようだ。
しかし、私が頑なに断り続けたことで、彼女たちは私に対して無関心になり、やがて無視するようにもなった。
「中井美羽って変わってる」とか、「ちょっと感じ悪い」と陰口を叩かれているのを耳にしたこともある。
自業自得だ、と分かってはいる。彼女たちが悪いのではない。
そう――、私は自分が望んだとおり、透明人間になったのだ。
涙を手の甲で拭い、傍にあったベンチに腰を下ろした。
自分が招いてしまったことなのに、どうしてこんなに辛い気持ちになってしまったんだろう。
家に帰る気持ちがすっかり薄れてしまった私は、虚ろな目で地面を見つめていた。
目の前を横切っていく人たちの足音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「ねえ! どういうつもり?」
ふいに、若い女の子の怒鳴り声が聞こえ、私は目線を上げた。
数メートルほど離れた場所で、二人の男女が向かいあっている。
よく見ると、うちの高校の制服だった。
二人はしばらく何か言い合っていたが、女の子は片手をふりかざした。
――かと思うと、その大きく開かれた手のひらは、思い切り相手の頬を打った。
「‥‥‥ってぇ。‥‥‥ちょっと待てよ!りりか」
りりか?
その少し珍しい名前に反応し、私は思わず目をこらした。
真っ赤な顔をして怒っているのは、同じクラスの森山凜々花だった。
学年で一、二を競うほどの可愛さで、目立つタイプの女の子。
いつも大人しそうな彼女が、ここまで怒る相手って誰なんだろう。
——そう思いながら、膝に置いていたリュックを持ち上げ、顔を隠した。
偶然とはいえ、立ち聞きしてしまったことがバレたら、女子グループに何を言われるかわからない。
しかし、凜々花は私に気が付くことなく、すぐに踵を返し、公園の奥のほうに消えて行った。
「いってぇな‥‥‥殴らなくっても」
彼はうらめしそうに呟くと、ゆっくりと振り向いた。
辺りは薄暗くなり始めていて、その表情までは窺えなかったが、彼の鋭い目が、一瞬のうちに私を捕らえた。
両手に持ったリュックの陰から顔をのぞかせている、明らかに挙動不審の私は、思わず息を呑んだ。
「げっ」
彼は眉をひそめてそう言い、私の座っているベンチまでつかつかと歩み寄った。
私は何も見ていなかったような顔をして、リュックを膝の上に下ろし、目線を上げた。
そして、わざとらしく夕焼けに染まった空を見つめた。そうだ、気が付かなかったふりをすればいいのだ。
彼は私の隣に座ったかと思うと、私の横顔をしげしげと見つめた。
どうすればいいか分からず、そのまま知らん顔をしていると、彼は言った。
「何だぁ、中井美羽か」
「え」
急にフルネームで呼ばれ、頭が真っ白になる。
学校で存在感ゼロの私の名前を知っている人がいるなんて。
彼の顔をよく見ると、同じクラスの香川颯だった。
いつもクラスのイベントを仕切ってくれる、ムードメーカー。
私は慌てて言葉をかえした。
「あ、あ、香川くん‥‥‥だったのか。ごめん、今気づいた」
少し目線を上げると、赤い太陽が彼の肩越しに落ちていくのが見えた。
前髪の間から覗く切れ長の目が、私の心の中を探るように見つめていた。
「なあ。中井」
「はい」
「さっきの、見てた?」
「‥‥‥え?な、なんのことっ、かな‥‥‥」
緊張のあまり、舌がもつれる。
「やっぱ、見てたんだろ。じゃなきゃ、そんなに慌てないだろ」
分かりやすいよなー、とぼやきながら、彼は足を組んだ。
私は「はい」とうなだれて、彼の次の言葉を待った。
しばらく沈黙が流れた。 さっきまで足を組んでいた彼が、ふいに視線を落とした。何かをためらっているようにも見えたが、それも一瞬のことだった。
「頼む。さっきの、誰にも言わないでくれる?」
下校途中、一人で信号待ちをしていると、手をつないで楽しそうに歌っている親子がすぐそばを通り過ぎて行った。
その歌は有名すぎるほどで、私自身も幼少期に歌った記憶がある。
懐かしさを覚えると同時に、ありえない、という言葉が口からこぼれた。
友達って、果たして何なのだろう。
友達と呼べる間柄の人たちは、いったいどんな話をし、どこまで内面をさらけ出しているのだろう。
ふと思い立って、スマホでSNSアプリを開くと、登録した友達の数は八人だった。
なんだ、私にも結構友達いるじゃん、と思ったが、日頃連絡したり、ご飯を食べに行ったりするような友達は皆無だ。
SNSアカウントは、文化祭の実行委員を任されたときに、同じ委員をやっていた女子たちに頼まれて作成した。
みんなは連絡ツールとして使っているようだったから、断れなかった。
どの子も、「フォローして」と頼まれて登録した相手ばかりだ。
SNSでの彼女たちの日常を覗き見てみたが、どれも似たり寄ったりだった。
新発売のスゥィーツ、ネイル、アクセサリー、推しているアイドルのグッズ。
流行っているもので溢れかえっているそれらの投稿は、私が見ている世界とはまるで違った。
楽しそうな一瞬を切り取ったものばかり。
そんな彼女たちの投稿に「いいね」を押したことは、今までに一度もない。
――この子たちは、友達とはきっと呼べない。
ずきん、と傷む奥歯に舌を当てながら、私は考える。
こんな風に、はっきりとした痛みを発してくれれば、まだ気づきようがあるものを。
私には友達がいない。——というか、自分から作らない。
一人でいることが寂しくないかと問われれば、少し違う。
寂しいとか、虚しいとか、言葉で表すのは難しい。
学校で一人のとき、心はどこかすうすうしている。
手を伸ばしても届かない果実を見上げているときみたいに。
たとえ手に入れたとしても、私にはその味がわからないのかもしれない。
だから、見て見ぬふりをする。
おそらく、周りの人たちから見れば、私はかわいそうな部類の人間だろう。
私のスマホの写真フォルダには、SNSに上げるような写真は見当たらない。
転勤族の家庭に生まれなければ、こんな人間にはならなかったのかもしれない――ふと、そんなことを考える。
今さら過去を振り返ったって、どうしようもないのに。
私の記憶の中にある初めての友達は、「ことちゃん」。
ニックネームしか思い出せないが、キューピーさんみたいな顔立ちで、ほんわかした雰囲気の女の子だった。
ことちゃんと私は同じ三月生まれで、誕生日が近かったので、一緒にバースデーパーティーも開いてもらった。
ケーキの上に載せられたおひな様の砂糖菓子を、二人で分けて食べた。私がお内裏様を、ことちゃんはおひな様を。
ひな人形を見るたびにわたしはあの日のことを思い出す。彼女と過ごした幼稚園での毎日は、本当に楽しかった。
しかし、小学校に上がる前に、ことちゃんと別れなくてはならなくなった。父が転勤になったのだった。
その後も、同じことが何度も繰り返された。ある程度仲良くなったかと思えば、すぐに転勤、の繰り返し。
親交を深めた友達と離れたくなくて、泣きじゃくった日もあった。
そんな私を見かねて、母は言った。
「美羽ちゃん、今は辛いかもしれないけど、お父さんは家族を守るために、お仕事をしているの。だから、私たちもついて行かなければいけないのよ」
家族を守るために、というその一言に、私は何も言えなくなった。
あなたを守るため――。それが確かな意味を持つ言葉だったとしても、幼かった私には耐えられなかった。
「どちらにせよ、小中で知り合ったお友達なんて、卒業したら遊ばなくなるんだから」
慰めにもならないようなことを口にした母の口元は、笑っていた。何が可笑しいのだ、と私は思った。
けれど、その心の声を胸の中に押し込んで、表には漏らさなかった。
そのうちに、私は友達を作ることを諦めるようになった。どうせ友達を作っても、すぐに離れることになる。
転校のたびに心の痛みを感じるくらいなら、最初から友達なんていないほうがいい。
そして、「ひとりでも大丈夫」と言い聞かせることで、次第に痛みは薄れていった。
しかし、そんな折に、転機が訪れた。
今まで嫌というほど付き合わされた引っ越しがなくなったのだ。
十七歳になったばかりの、春の日だった。
「高校に入った娘を連れて転勤するのは、アレだから」
会社から帰って来たばかりの父親が、ネクタイを外しながら言った。どうやら、次の転勤は単身赴任をすることにしたらしい。
ジュースを飲みながらリビングでくつろいでいた私は、その言葉に一瞬固まった。
「アレ、ってどういう意味」
ぶっきらぼうに返すと、父は私に深く頭を下げた。
「今まで、転勤に付き合わせてすまなかったな。でも、これからは美羽の人生を考える時期が来たんだ。大学にも行かなきゃ、だろ?来年大学受験する娘に迷惑はかけられない。今の高校を卒業して、その先どうするかを考えなさい」
持っていたグラスの氷が溶けて、手のひらの中で微かな音を立てた。
言葉が喉の奥に詰まって、苦しくなった。急に、突き放された気がした。
――私の人生?‥‥‥その先?
私は飲みかけのジュースをテーブルの上に残したまま、そっと席を立った。
イヤホンをし、スマホのボリュームを上げながら、夕日の眩しさに目を細める。
最近はずいぶん日が暮れるのが早くなった。ひんやりとした空気に、落ち葉の匂いが混じる。
バス停でバスに乗り、空いていた座席に座ると、Youtubeのアプリを操作した。
帰り道、動画を見ながら帰宅するのが私のルーティーンだ。
大好きなレジーナさんの番組が流れて来る。
レジーナさんは、Youtubeで人気の占い師で、タロット占いがよく当たるというので有名だ。
『風の時代が来ました』
耳の中に、レジーナさんの優しい声が溢れる。
『風の時代とは、個の時代です。いままで自分の中の声を押し殺してきた方は、ぜひ声をあげてみてください。風の時代になり、周りもあなたの個性に応えられるほどに成長してきています』
――風の時代?
心の中で復唱して、レジーナさんに訊く。
――それって、わたしにとっていい時代ですか?ひとりでいることも、個性だと言えますか?
風。
思えば、私は風に飛ばされるたんぽぽの綿毛のような人生を送って来た。
自分の意思で逆らえない風に乗り、色んな場所に行った。
けれど、たんぽぽのように地面に着地し、花を咲かせることは叶わなかった。
いつの間にか、私は十七歳。少し大人になり、ひとりでいることは嫌ではなくなっていた。
友達はいなくてもいいのか――ひとりでいることと、孤独であることは同じなのか。
幼い頃に感じたその問いは、誰にも答えてもらうことなく、今もこの胸の中にある。
『大人になるということは正しい距離感を覚えることよ』
考え事をしているうちに、いつの間にか恋愛相談のコーナーになっていた。
レジーナさんは登録者から質問を募集して、それに答えるための占いをしてくれる。
タロットをシャッフルする音とともに、レジーナさんの顔が画面に映し出される。
レジーナさんは、画面に映るときはいつも青い仮面をつけている。
ヴェネツィアで買ったというその仮面は、水晶が目の周りに縁どられていて、鼻筋は金色に光っている。
仮面の奥に見えるレジーナさんの表情は分からないが、その仮面は微笑んでいて神秘的だ。
レジーナさんはカードを展開しながら言った。
「‥‥‥相談者のNさんは、大好きな彼に毎日会いたいのよね。だけど、その恋人が、あなたのお友達だと思ってみて。ずっと一緒にいると、自分のことに集中したい、ってときに、邪魔になるかもしれないと想像できるでしょう?親しい仲でも、ときには遠慮が必要なときもあるから。お互い縛ることなく、尊重し合える――そんな関係を構築していってね」
私は、その言葉にしばらくのあいだぼうっとしていた。そして、動画画面を閉じると、すっと息を吐いた。
レジーナさんの言葉が、これほどまでに胸を刺したのは初めてだった。
誰にでも想像できること。――彼女はそれが出来ない人がこの世にいるとは思っていない。
友達がいるのはごく普通のことだと、言われているような気がした。
私はバスの中にいる人たちに視線を移した。
色んな人たちがバスに揺られていた。子連れのお母さん、女子高生のグループ、仲の良さそうな老夫婦。
私の心臓は、何かにおびえるように、うるさい音を立て始めていた。
――私だけ、異質なの?
私は無意識のうちに、バスの降車ブザーを押していた。
バスを降りてからは、遠回りして市民公園の中を通って帰ることにした。
その公園の中を通れば、私の家の近くの通りに出られる。
公園の歩道に植えられた銀杏が黄色く染まり、その枝の間から覗く赤い太陽が、一日の終わりを告げていた。
忙しく動くスニーカーのつま先を見つめながら、私は考えをめぐらせた。
――レジーナさんの言う大人に、私はなれたのだろうか、と。
大人になる前から人と距離を保ってきた私は、果たして大人だったと言えるだろうか。
・・・・・ううん。きっと、言えない。
人との関わりを避けてきただけで、誰かとの距離を近づけたり、遠ざけたりすることを自ら選べるわけではない。
人との接点を持たず、一人でやりきること——私は、それがベストな生き方で、自分が選んだ「自由」だと思っていた。
「全然、自由じゃない‥‥‥囚われの身だ」
ふいに、その言葉が口を衝いて出たときに、それは決定的になった。
一筋の涙が、頬を伝った。
私は、傷つかない方法を選んだつもりだったのに。あまりにも惨めすぎる。
今の私は、やり直しが効かない。
ずっと、人を遠ざけてきた私が、どうして今更それが出来るだろう。
これまでずっと、クラスの打ち上げも、個人的な誘いも、お昼を一緒に食べることさえも断ってきた。
彼女たちは最初、私が引っ込み思案の女の子だと思っていたようだ。
しかし、私が頑なに断り続けたことで、彼女たちは私に対して無関心になり、やがて無視するようにもなった。
「中井美羽って変わってる」とか、「ちょっと感じ悪い」と陰口を叩かれているのを耳にしたこともある。
自業自得だ、と分かってはいる。彼女たちが悪いのではない。
そう――、私は自分が望んだとおり、透明人間になったのだ。
涙を手の甲で拭い、傍にあったベンチに腰を下ろした。
自分が招いてしまったことなのに、どうしてこんなに辛い気持ちになってしまったんだろう。
家に帰る気持ちがすっかり薄れてしまった私は、虚ろな目で地面を見つめていた。
目の前を横切っていく人たちの足音が、やけに大きく聞こえる気がした。
「ねえ! どういうつもり?」
ふいに、若い女の子の怒鳴り声が聞こえ、私は目線を上げた。
数メートルほど離れた場所で、二人の男女が向かいあっている。
よく見ると、うちの高校の制服だった。
二人はしばらく何か言い合っていたが、女の子は片手をふりかざした。
――かと思うと、その大きく開かれた手のひらは、思い切り相手の頬を打った。
「‥‥‥ってぇ。‥‥‥ちょっと待てよ!りりか」
りりか?
その少し珍しい名前に反応し、私は思わず目をこらした。
真っ赤な顔をして怒っているのは、同じクラスの森山凜々花だった。
学年で一、二を競うほどの可愛さで、目立つタイプの女の子。
いつも大人しそうな彼女が、ここまで怒る相手って誰なんだろう。
——そう思いながら、膝に置いていたリュックを持ち上げ、顔を隠した。
偶然とはいえ、立ち聞きしてしまったことがバレたら、女子グループに何を言われるかわからない。
しかし、凜々花は私に気が付くことなく、すぐに踵を返し、公園の奥のほうに消えて行った。
「いってぇな‥‥‥殴らなくっても」
彼はうらめしそうに呟くと、ゆっくりと振り向いた。
辺りは薄暗くなり始めていて、その表情までは窺えなかったが、彼の鋭い目が、一瞬のうちに私を捕らえた。
両手に持ったリュックの陰から顔をのぞかせている、明らかに挙動不審の私は、思わず息を呑んだ。
「げっ」
彼は眉をひそめてそう言い、私の座っているベンチまでつかつかと歩み寄った。
私は何も見ていなかったような顔をして、リュックを膝の上に下ろし、目線を上げた。
そして、わざとらしく夕焼けに染まった空を見つめた。そうだ、気が付かなかったふりをすればいいのだ。
彼は私の隣に座ったかと思うと、私の横顔をしげしげと見つめた。
どうすればいいか分からず、そのまま知らん顔をしていると、彼は言った。
「何だぁ、中井美羽か」
「え」
急にフルネームで呼ばれ、頭が真っ白になる。
学校で存在感ゼロの私の名前を知っている人がいるなんて。
彼の顔をよく見ると、同じクラスの香川颯だった。
いつもクラスのイベントを仕切ってくれる、ムードメーカー。
私は慌てて言葉をかえした。
「あ、あ、香川くん‥‥‥だったのか。ごめん、今気づいた」
少し目線を上げると、赤い太陽が彼の肩越しに落ちていくのが見えた。
前髪の間から覗く切れ長の目が、私の心の中を探るように見つめていた。
「なあ。中井」
「はい」
「さっきの、見てた?」
「‥‥‥え?な、なんのことっ、かな‥‥‥」
緊張のあまり、舌がもつれる。
「やっぱ、見てたんだろ。じゃなきゃ、そんなに慌てないだろ」
分かりやすいよなー、とぼやきながら、彼は足を組んだ。
私は「はい」とうなだれて、彼の次の言葉を待った。
しばらく沈黙が流れた。 さっきまで足を組んでいた彼が、ふいに視線を落とした。何かをためらっているようにも見えたが、それも一瞬のことだった。
「頼む。さっきの、誰にも言わないでくれる?」

