この村には、神様がいる。
子どもが生まれれば名前を報告し、病人が出れば治癒を願う。
雨が降らなければ酒を供え、作物が枯れれば白い団子を置く。
結婚。
受験。
出産。
葬式。
村で起きることは、何でも神様へ報告された。
山の中腹にある、小さな社。
鳥居は半分腐っていて、注連縄には何十年分もの紙垂が重なっている。
けれど、毎月一日だけは村人全員が山へ登った。
そして必ず。
社の前で頭を下げる。
誰一人として、中へは入らない。
祖母はこの村の神職だった。
子どもの頃。
私は何度も聞いた。
「お婆ちゃん、神様ってどんな顔?」
祖母はいつも同じ答えをした。
「見ちゃいけないよ」
「どうして?」
「神様はね」
そこで一度、言葉を止める。
「人間が見るための姿をしてないから」
私はてっきり。
角があるとか。
目が百個あるとか。
身体が光っているとか。
そんなものだと思っていた。
だから怖くはなかった。
むしろ、見てみたかった。
ただ。
祖母だけは。
神様の話をするとき、決して笑わなかった。
*
祖母が死んだのは、九十三歳の冬だった。
私は二十八歳になっていた。
大学進学を機に村を出て、そのまま都会で働いていた。
祖母の最期に間に合ったのは、偶然だった。
布団の中で。
祖母はもうほとんど声も出せなかった。
それでも。
私の手を握った。
「ミツキ」
「なに?」
「私が死んだら」
何度も息を整えて。
「社の奥を……開けて」
聞き間違いかと思った。
「奥?」
「祭壇の後ろ」
「入っちゃ駄目なんじゃなかったの?」
祖母の瞳が揺れた。
恐怖。
私は初めて。
九十三歳の祖母が、子どものように怯える顔を見た。
「もう」
掠れた声。
「もう、待たせたくない」
「誰を?」
答えなかった。
ただ。
「ごめんね」
と呟いた。
その三時間後。
祖母は死んだ。
*
葬儀の夜。
私は一人で山へ登った。
村人には言わなかった。
雪の残る石段。
枯れた木。
葉のない枝が風に擦れて、ぎい、ぎい、と鳴っている。
社へ近づくほど。
妙な音が聞こえ始めた。
最初は風だと思った。
違った。
ずる。
ずる。
何かを引きずる音。
社の下から聞こえる。
時々。
こん。
こん。
こん。
木を叩く音までした。
「……誰かいるの?」
返事はない。
こん。
こん。
こん。
三回。
止まる。
しばらくして。
また。
こん。
こん。
こん。
まるで。
中から扉を叩いている。
社へ入った。
祭壇には、今日供えられたばかりの団子と酒。
その奥。
幕を退ける。
小さな扉がある。
鍵はなかった。
開ける。
むわっ、と。
生温かい空気が顔へ触れた。
冬なのに。
地下へ続く階段。
そして。
匂い。
甘い。
花みたいで。
腐った果物みたいで。
その奥に。
鉄臭さがある。
階段を下りる。
一段。
二段。
三段。
途中から。
壁に何かが張りついていた。
木の根。
そう思った。
懐中電灯を近づける。
根ではなかった。
白い。
細い。
脈打っている。
人間の血管みたいなもの。
それが壁中を這っていた。
どくん。
一斉に膨らむ。
思わず後ろへ下がった。
その瞬間。
壁の中から。
「いたい」
子どもの声がした。
立ち止まる。
「……え?」
「いたい」
今度は反対側。
「さむい」
「かえりたい」
「おかあさん」
「おとうさん」
声が増える。
何人も。
壁の中から。
私は走った。
逃げようとしたわけじゃない。
階段の先へ。
確かめなければならないと思った。
そして。
地下へ着いた。
そこには。
神様がいた。
「……」
声が出なかった。
巨大だった。
天井へ頭が届きそうなほど。
人間に似ている。
でも。
人間ではない。
真っ白な身体。
腕が六本。
足はない。
腰から下は地面へ溶け、そのまま無数の肉の根になって地下室中へ伸びている。
胸。
腹。
背中。
そこに。
顔があった。
何十個も。
人間の顔。
老人。
女。
男。
子ども。
赤ん坊。
全員。
皮膚へ埋め込まれている。
目を閉じていた。
私は懐中電灯を向けた。
すると。
一番近くにあった女の顔が。
ぱち。
目を開けた。
「いや」
声が漏れた。
次。
男。
ぱち。
子ども。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
全部。
こちらを見た。
口が一斉に開く。
「トキ」
私は凍りついた。
祖母の名前。
化け物の一番上。
首の位置。
そこには。
十二歳くらいの男の子の顔があった。
古い写真で見た。
祖母の隣にいた少年。
「……ハク?」
四つの黒い目が。
ゆっくり。
私を見た。
「トキ?」
「違う」
「トキ?」
「私はミツキ」
「みつき」
「トキの孫」
化け物が。
笑った。
その瞬間。
胸に埋め込まれた何十人もの顔まで、一斉に笑った。
「トキ」
「トキ」
「トキ」
「トキ」
「トキ」
無数の声。
そして。
一番上の少年だけが。
小さく言った。
「やっと迎えに来た?」
その言葉で。
私は逃げられなくなった。
子どもが生まれれば名前を報告し、病人が出れば治癒を願う。
雨が降らなければ酒を供え、作物が枯れれば白い団子を置く。
結婚。
受験。
出産。
葬式。
村で起きることは、何でも神様へ報告された。
山の中腹にある、小さな社。
鳥居は半分腐っていて、注連縄には何十年分もの紙垂が重なっている。
けれど、毎月一日だけは村人全員が山へ登った。
そして必ず。
社の前で頭を下げる。
誰一人として、中へは入らない。
祖母はこの村の神職だった。
子どもの頃。
私は何度も聞いた。
「お婆ちゃん、神様ってどんな顔?」
祖母はいつも同じ答えをした。
「見ちゃいけないよ」
「どうして?」
「神様はね」
そこで一度、言葉を止める。
「人間が見るための姿をしてないから」
私はてっきり。
角があるとか。
目が百個あるとか。
身体が光っているとか。
そんなものだと思っていた。
だから怖くはなかった。
むしろ、見てみたかった。
ただ。
祖母だけは。
神様の話をするとき、決して笑わなかった。
*
祖母が死んだのは、九十三歳の冬だった。
私は二十八歳になっていた。
大学進学を機に村を出て、そのまま都会で働いていた。
祖母の最期に間に合ったのは、偶然だった。
布団の中で。
祖母はもうほとんど声も出せなかった。
それでも。
私の手を握った。
「ミツキ」
「なに?」
「私が死んだら」
何度も息を整えて。
「社の奥を……開けて」
聞き間違いかと思った。
「奥?」
「祭壇の後ろ」
「入っちゃ駄目なんじゃなかったの?」
祖母の瞳が揺れた。
恐怖。
私は初めて。
九十三歳の祖母が、子どものように怯える顔を見た。
「もう」
掠れた声。
「もう、待たせたくない」
「誰を?」
答えなかった。
ただ。
「ごめんね」
と呟いた。
その三時間後。
祖母は死んだ。
*
葬儀の夜。
私は一人で山へ登った。
村人には言わなかった。
雪の残る石段。
枯れた木。
葉のない枝が風に擦れて、ぎい、ぎい、と鳴っている。
社へ近づくほど。
妙な音が聞こえ始めた。
最初は風だと思った。
違った。
ずる。
ずる。
何かを引きずる音。
社の下から聞こえる。
時々。
こん。
こん。
こん。
木を叩く音までした。
「……誰かいるの?」
返事はない。
こん。
こん。
こん。
三回。
止まる。
しばらくして。
また。
こん。
こん。
こん。
まるで。
中から扉を叩いている。
社へ入った。
祭壇には、今日供えられたばかりの団子と酒。
その奥。
幕を退ける。
小さな扉がある。
鍵はなかった。
開ける。
むわっ、と。
生温かい空気が顔へ触れた。
冬なのに。
地下へ続く階段。
そして。
匂い。
甘い。
花みたいで。
腐った果物みたいで。
その奥に。
鉄臭さがある。
階段を下りる。
一段。
二段。
三段。
途中から。
壁に何かが張りついていた。
木の根。
そう思った。
懐中電灯を近づける。
根ではなかった。
白い。
細い。
脈打っている。
人間の血管みたいなもの。
それが壁中を這っていた。
どくん。
一斉に膨らむ。
思わず後ろへ下がった。
その瞬間。
壁の中から。
「いたい」
子どもの声がした。
立ち止まる。
「……え?」
「いたい」
今度は反対側。
「さむい」
「かえりたい」
「おかあさん」
「おとうさん」
声が増える。
何人も。
壁の中から。
私は走った。
逃げようとしたわけじゃない。
階段の先へ。
確かめなければならないと思った。
そして。
地下へ着いた。
そこには。
神様がいた。
「……」
声が出なかった。
巨大だった。
天井へ頭が届きそうなほど。
人間に似ている。
でも。
人間ではない。
真っ白な身体。
腕が六本。
足はない。
腰から下は地面へ溶け、そのまま無数の肉の根になって地下室中へ伸びている。
胸。
腹。
背中。
そこに。
顔があった。
何十個も。
人間の顔。
老人。
女。
男。
子ども。
赤ん坊。
全員。
皮膚へ埋め込まれている。
目を閉じていた。
私は懐中電灯を向けた。
すると。
一番近くにあった女の顔が。
ぱち。
目を開けた。
「いや」
声が漏れた。
次。
男。
ぱち。
子ども。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
全部。
こちらを見た。
口が一斉に開く。
「トキ」
私は凍りついた。
祖母の名前。
化け物の一番上。
首の位置。
そこには。
十二歳くらいの男の子の顔があった。
古い写真で見た。
祖母の隣にいた少年。
「……ハク?」
四つの黒い目が。
ゆっくり。
私を見た。
「トキ?」
「違う」
「トキ?」
「私はミツキ」
「みつき」
「トキの孫」
化け物が。
笑った。
その瞬間。
胸に埋め込まれた何十人もの顔まで、一斉に笑った。
「トキ」
「トキ」
「トキ」
「トキ」
「トキ」
無数の声。
そして。
一番上の少年だけが。
小さく言った。
「やっと迎えに来た?」
その言葉で。
私は逃げられなくなった。
