冷たい唇、その奥に

 自宅を出ようとしたときだった。
「どこに行くの?」
 貴利が玄関先まで出てきて訊いてきた。
「香と遊びに行く」
 わたしはそう答えた。
 思わず、嘘をついてしまった。
 なぜだろう。
 隠す必要なんてないのに。
 貴利は恋人でもないのに。
 わたしの恋人は立川先輩だ。
「そう」
 貴利はそれだけ言うと、自室に戻った。
 わたしは玄関のドアをそっと閉めた。
 自宅を出ると蝉の鳴き声が、激しく打ちつける雨のように一斉に降ってきた。
 立川先輩とは街一番のショッピングモールで待ち合わせた。
 土曜日だったので、街は学生や家族連れで賑わっていた。
 待ち合わせの十分前に着くと、先輩はもう来ていた。
「お待たせしました」
「ぜんぜん。それより、今日の髪型かわいいね」
 今日はいつもとは違う髪型にしてみた。
 立川先輩は、即答できない言葉を、恥ずかしげもなく言ってくれる。
 その辺りも、女子に人気がある理由だろう。
 それでいて、さらっと言うので嫌味な感じがしない。
「今日は約束通り、映画でいいよね?」
「はい」
「今日観る映画は、ずっと楽しみにしてたんだ」
「わたし、映画をあまり観たことがないんです。兄としか、行ったことありません」
「お兄さんいるんだ。どんな、お兄さん?」
「優しい兄です」
 行為のことは言わなかった。
 後ろめたい気持ちなんてないのに。
「そうなんだね。兄妹がいて羨ましいよ。俺は一人っ子だから」
 立川先輩は少し寂しそうな目をして言った。
 映画が始まると、すぐに現実から引き離された。
 ハリウッド映画の超大作らしい、わかりやすいストーリーだった。
 役者の演技よりも、映像の美しさに目を奪われた。
「いやー、期待していた通りだった。美咲ちゃんはどうだった?」
「楽しかったです。ただ、どうして主人公を最後に死なせたのかが納得できません」
 わたしは珍しく何かに対して意見した。
 立川先輩は少しだけ目を見開いた。
「美咲ちゃん。自分の意見が言えるんだね」
 立川先輩は感心したように何度も頷いてから言った。
 いつもの駅で電車から降りた。
「送っていくよ」
「大丈夫です。今日はありがとうございました」
 わたしはぺこりと頭を下げて言った。
 貴利に見られたくない。
 何かを言われる筋合いはない。
 わざわざ見せつけるものでもないような気がした。
 立川先輩とは駅で別れた。
 わたしは、一度だけ振り返った。
 立川先輩は、ずっとこちらを見ていたようで、手を振ってくれた。
 わたしは、胸元で小さく手を振り返した。
 それから、家路に着いた。