病院の長く無機質な白い廊下を、僕は息を切らせて走り抜けた。
「走らないでください」とすれ違う看護師が咎める声が聞こえたような気がしたが、僕の耳には意味のある言葉として届かなかった。肺が焼け焦げるように熱く、酸素を求めて喉がヒューヒューと情けない音を立てている。心臓が肋骨を突き破って破裂しそうに痛む。でも、そんな肉体的な痛みはどうでもよかった。
ただ一刻も早く、彼女の元へ。
彼女の命の灯火が消えてしまう前に、あの向日葵のような笑顔に追いつかなければならない。それだけが、僕の思考を占めるすべてであり、僕を前へと突き動かす唯一の理由だった。
「一ノ瀬さん…………………っ!」
勢いよく、すがるような祈りを込めて病室のドアを開けると、そこは強烈な西日の差し込む、ひどく静かな個室だった。
ピコ、ピコ、と規則的だったはずの無機質な電子音は、今はどこか不規則で、途切れ途切れの弱々しいリズムを刻んでいる。部屋の中には、あの土手で嗅いだクローバーの青臭い匂いも、温室のむせ返るような濃い緑の匂いもなく、ただ死を連想させる冷たい消毒液の匂いだけが充満していた。
ベッドの上に、碧(あお)はいた。
白い病院着に身を包んだ彼女は、夏に出会った頃よりもずっと、残酷なまでに痩せ細っていて、分厚いシーツに埋もれるその体は、まるで中身が空洞になってしまったかのように小さかった。 いつも透き通るようだった肌は、今は血の気を失い、ただの紙のように真っ白だった。 鼻には酸素を吸入するための小さなチューブがつけられ、細い腕にはいくつもの点滴の針が痛々しく刺さっている。
今すぐ駆け寄って抱きしめたいのに、あまりにも壊れやすそうなその姿に、僕の足はドアの前で目に見えない鎖に繋がれたように動かなくなってしまった。
けれど、僕の姿を見た瞬間、彼女はあの時と全く同じ、向日葵のような笑顔を浮かべたんだ。 痛みも苦しみもすべて隠して、僕のためだけに作ってくれた、完璧な笑顔。
「あ・・・・・・蓮見くん。本当に、来てくれた・・・・・・」
声はカサカサに枯れていて、息を吐き出すのさえ辛そうなくらい、小さかった。
それでも、僕の名前を呼んでくれたその響きは、僕の胸の奥の最も柔らかい部分を激しく震わせるには十分だった。 凍りついていた足が動き出す。僕はベッドの脇に転がるように駆け寄り、シーツの上に力なく投げ出されていた彼女の、驚くほど細くなってしまった右手を、祈るように両手でそっと握りしめた。
氷のように冷たかった。
夏の温室で触れた時よりも、さらに冷たく、命の熱が急速に彼女の体から逃げていっているのがわかった。僕は自分の体温を、自分の命をすべて分け与えるつもりで、その小さな手を強く、優しく包み込んだ。
「一ノ瀬さん、ごめん、遅くなってごめん・・・・・・! ずっと一人にさせて、本当にごめん!」
「ううん、待ってたよ。・・・・・・ねえ、蓮見くん。文化祭、どうだった?」
自分の命が今まさに尽きようとしているこの瞬間にすら、彼女は僕の日常を気にかけてくれていた。その優しさが痛くて、たまらなくて、涙が込み上げて視界がぐしゃぐしゃに滲んだ。
「金賞、獲ったよ。一ノ瀬さんの写真、みんなが『綺麗だ』って、たくさん褒めてくれたんだ」
必死に声の震えを抑え、少しでも明るい声を作って答えると、碧の瞳にパッと微かな光が灯った。
「本当………………? よかったあ・・・・・・。私、蓮見くんの最高の一枚になれたんだね」
「当たり前だよ。世界で一番綺麗だった。一ノ瀬さんが、あの写真に命を吹き込んでくれたんだ。君の笑顔があったから、あんなに素晴らしい写真になったんだよ」
僕の言葉に、碧は嬉しそうに、そしてどこか安心したように目を細めた。
それから、彼女はゆっくりと視線を動かし、ベッドの脇の小さなサイドテーブルに置かれていた、あのプラスチックのトイカメラを、点滴の繋がれた左手で愛おしそうに撫でた。 僕がプレゼントした、安っぽいカメラ。彼女はそれを、こんな無菌室のような病室にまで大切に持ち込んでくれていたのだ。
「ねえ、蓮見くん。お願いがあるの」
「何? 何でも言って」
碧はトイカメラから手を離し、僕の首から下がっている重たい一眼レフカメラをまっすぐに見つめた。
「そのカメラで・・・・・・今の私を、もう一回だけ、綺麗に撮ってほしいの」
「っ…………!」
僕は息を呑み、言葉を失った。
今の彼女は、たくさんの無機質な医療機器に囲まれ、病気の影響で髪も少し短くなって、お世辞にも「元気」とは言えない、残酷な現実を突きつける姿だ。 病に侵され、衰弱しきった自分の姿なんて、誰だって写真に残したくないはずだ。
それでも、彼女の瞳の奥にある輝きだけは、あの新緑の温室で僕をまっすぐに見つめていた時と、少しも変わっていなかった。 むしろ、最期を前にして、一切の迷いや恐怖がなくなったような、神々しいほどの澄んだ強さがあった。
「嫌だ・・・・・・、嫌だよ」
僕は力なく首を振った。 涙がボロボロと溢れて、握りしめた彼女の手を次々と濡らしていく。
「こんなの、最後の写真みたいじゃないか。僕は、一ノ瀬さんが元気になって、またあの並木道で、温室で、一生分の写真を撮るって約束したんだよ・・・・・・! こんな暗い病室でシャッターなんて切れない。君の写真は、もっと光が溢れる場所で、元気な笑顔で撮るんだ!」
まるで駄々をこねる子供のように、僕は泣きじゃくった。これを受け入れてしまえば、彼女の死を完全に認めることになってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
「蓮見くん」
碧は優しく僕の名前を呼び、僕の手を握り返そうとした。 かすかな、本当に微弱な、でも彼女の強い意志が込められた確かな力が伝わってくる。
「最後じゃないよ」
彼女の声は優しく、ひどく穏やかだった。
「蓮見くんが私を撮ってくれたらね、私はその写真の中で、ずっと、ずうっと生き続けられるの。 蓮見くんの大好きな、あの緑の世界の中で・・・・・・永遠に、笑っていられるの。 この体がなくなっても、蓮見くんがファインダー越しに見つめてくれた私は、絶対に消えない。だから、お願い」
彼女のまっすぐな強い眼差しに、僕の我儘な抵抗はゆっくりと溶かされていった。 彼女は自分の死を恐れているのではなく、僕の中に自分が残らないことを恐れていたのだ。僕が彼女を撮ることは、彼女に「永遠」を与えることなのだと、ようやく理解した。
僕は制服の袖で乱暴に涙を拭い、震える両手で首から下げた一眼レフカメラを構えた。
ファインダーを覗く。
視界が再び涙で滲んで、彼女の姿がぐしゃぐしゃにぼやけてしまう。 こんな不甲斐ない顔を彼女に見せたくない。何度も何度も瞬きをして涙を散らし、必死に彼女の姿を網膜に、そしてこの冷たいレンズの奥に焼き付けようとした。
碧は、鼻のチューブがついたままで、ベッドの上で少しだけ首を傾げ、この世の何よりも美しい最高の笑顔を作った。
あのクローバーの土手で見せてくれたような、お茶目で、世界の誰よりも美しい、愛おしい笑顔。 病魔に蝕まれた体など関係ない。そこには間違いなく、僕が愛した「一ノ瀬碧」がいた。
「いくよ、はい、チーズ」
碧の小さな声に合わせて、僕は震える指でシャッターを押し込んだ。
パシャリ。 静かな病室に、僕たちの永遠を切り取る、最後のシャッター音が優しく響いた。
「ありがとう、蓮見くん・・・・・・」
カメラを下ろした僕に向かって、碧は満足そうに微笑み、そして静かに目を閉じた。
「私ね、蓮見くんに出会えて、本当に幸せだったよ」
それが、碧が僕に遺した、最後の言葉になった。 その後、彼女が再び目を開けることは二度となかった。
◇
それから一週間後。
新緑の春を待たずに、碧は冷たい秋の空の向こう、遠い場所へと旅立ってしまった。
彼女のいなくなった世界は、すべての色が抜け落ちたようにモノクロームで、僕は自分がどうやって息をして、どうやって歩いているのかすらわからなかった。喪服を着て参列した葬儀の記憶も、まるで他人の夢を見ているように現実感がなかった。
葬儀が終わった後、参列者が帰り始めた斎場の隅で、僕は碧のお母さんに呼び止められ、一冊の小さなノートと、あの見覚えのあるトイカメラを渡された。
「あの子が、蓮見くんに渡してほしいって」
ノートは、碧が病院でつけていた日記だった。
家に帰り、誰にも邪魔されない自分の部屋で一人、僕はベッドに座り込んでそのノートを開いた。
そこには、僕と過ごした毎日の思い出が、彼女の丸っこい、優しい文字でぎゅっと詰め込まれていた。
『○月○日今日も蓮見くんと温室へ行った。蓮見くんのカメラを覗かせてもらった。レンズの向こうの世界は、いつも私が見ている世界よりも何倍もきらきらしていて、生きてるって感じがした。』
『○月○日部室で、蓮見くんに手を重ねられたとき、心臓が病気とは違う理由で、壊れちゃうくらいバクバクした。私の手、すごく冷たかったのに、蓮見くんの手はとっても暖かかった。恥ずかしかったけど、すごく嬉しかった。蓮見くんのことが、本当に、本当に大好き。』
ページをめくるごとに、日付が進むにつれて文字の筆圧が弱くなり、形も乱れていく。それが彼女の命が少しずつ削られていく過程を見ているようで、ページをめくる手が何度も止まりそうになった。それでも、そこには僕への思いと、僕と過ごした時間の喜びだけが綴られていた。
そして、最後のページには、少し大きな文字で、僕に宛てたメッセージが残されていた。
『蓮見くんへ。
これを読んでいるとき、私はもう隣の席にはいないかもしれないね。勝手にいなくなっちゃって、ごめんね。
私の名前は「碧(あお)」だけど、小さい頃から、自分の名前があまり好きじゃなかったの。 病院のベッドから見る空の色みたいで、冷たくて、一人ぼっちで、寂しい空の色みたいだから。
でもね、蓮見くんが「一ノ瀬さんのことが世界で一番好きだ」って言ってくれたとき、初めて自分の名前が好きになれたの。
だって、寂しい「青(あお)」と、蓮見くんのあったかい「翠(みどり)」が混ざり合ったら、世界で一番綺麗な、新緑の「Green」になるでしょ?
私の命は少し短かったけれど、蓮見くんのおかげで、一生分の、最高の恋ができました。
私のトイカメラのフィルム、まだ現像してないの。蓮見くんの手で、現像して、見てほしいな。
泣かないでね。私はずっと、蓮見くんの撮ってくれた写真の中で笑っているから。 たくさんの思い出を、温かい緑の世界を、本当にありがとう。
一ノ瀬碧より』
「う、あ 、あああああッ!!」
僕は日記を胸に強く抱きしめ、声を上げて慟哭した。 堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。
胸が引き裂かれそうに痛くて、息ができなかった。
どうして彼女だったんだ。
どうして、あんなに優しくて、誰よりも世界を美しく見つめることができた子が、こんなに早く消えなければならなかったんだ。 僕は青と翠を混ぜ合わせるように、彼女ともっとたくさんの未来を描きたかった。彼女ともっと、笑い合いたかった。一緒に大人になりたかった。
薄暗い部屋の机の上には、碧が遺したトイカメラが、主を失った悲しみを抱えるように静かに佇んでいた。
◇
それから、さらに数ヶ月が経ち、凍てつくように長かった冬が終わりを告げ、季節は巡って再び春が訪れた。
高校三年生になった僕は、地元の、あの桜が葉桜へと変わった並木道に立っていた。
頭上には、あの日と同じ、圧倒的な生命力を湛えた「緑のトンネル」が広がっている。 風が吹くたびに葉が擦れ合い、さやさやと心地よい音を立てる。去年の春、ここで白いワンピースを着た彼女に偶然出会い、ファインダー越しに恋に落ちた日のことが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
僕は、碧が遺したトイカメラのフィルムをようやく写真屋で現像し、出来上がった数枚の写真を手に持っていた。 それを見ると、彼女が本当にいなくなってしまったことを突きつけられるようで、ずっと現像できずにいたのだ。
そこには、温室で僕が気づかないうちに撮られていた不意打ちの顔や、足元の影に混ざって、最後の一枚――碧が病院のベッドの上から、僕に向けてシャッターを切った写真が入っていた。
写真の中の僕は、ボロボロとひどい顔で涙を流しながら、必死に一眼レフカメラを構えていた。 好きな女の子の最後を撮るには、あまりにも見堪えない、情けない泣き顔だった。
でも、その泣き顔を包み込むように、病室の窓からの西日が、まるであの温室の木漏れ日のような、温かく眩しい『緑の光』となって僕を照らしていたんだ。
トイカメラ特有のレンズのフレアが偶然緑色に光ったのか、それとも本当に何かの奇跡なのかはわからない。けれど、写真の中の僕は、確かに温かい緑の光に優しく守られていた。彼女は、僕が彼女を永遠に残そうとしたあの瞬間、彼女のレンズを通して、一人残される僕に「温かい世界」を与えてくれていたのだ。
「一ノ瀬さん・・・・・・見てる?」
僕は呟き、自分の古い一眼レフカメラを構え、新緑の空を見上げた。
ファインダーの向こうには、どこまでも広がる碧い空と、眩しい緑の葉が美しく混ざり合っている。 青と翠が混ざり合う、世界で一番綺麗な場所。彼女はいつも、この空から僕を見ていてくれるはずだ。
僕はもう、泣かない。
君が僕にくれたこの命の温かさを、この緑の光を、僕はこれからもずっと、君の代わりに切り取り続けていく。 それが、僕が君を愛した証明であり、君がこの世界に確かに生きたという証明だから。
「はい、チーズ」
パシャリ。
新緑の風が、心地よく吹き抜けた。
僕の切なくて、瑞々しい、永遠の初恋の音が、青空へと高く響き渡った。
【完】
「走らないでください」とすれ違う看護師が咎める声が聞こえたような気がしたが、僕の耳には意味のある言葉として届かなかった。肺が焼け焦げるように熱く、酸素を求めて喉がヒューヒューと情けない音を立てている。心臓が肋骨を突き破って破裂しそうに痛む。でも、そんな肉体的な痛みはどうでもよかった。
ただ一刻も早く、彼女の元へ。
彼女の命の灯火が消えてしまう前に、あの向日葵のような笑顔に追いつかなければならない。それだけが、僕の思考を占めるすべてであり、僕を前へと突き動かす唯一の理由だった。
「一ノ瀬さん…………………っ!」
勢いよく、すがるような祈りを込めて病室のドアを開けると、そこは強烈な西日の差し込む、ひどく静かな個室だった。
ピコ、ピコ、と規則的だったはずの無機質な電子音は、今はどこか不規則で、途切れ途切れの弱々しいリズムを刻んでいる。部屋の中には、あの土手で嗅いだクローバーの青臭い匂いも、温室のむせ返るような濃い緑の匂いもなく、ただ死を連想させる冷たい消毒液の匂いだけが充満していた。
ベッドの上に、碧(あお)はいた。
白い病院着に身を包んだ彼女は、夏に出会った頃よりもずっと、残酷なまでに痩せ細っていて、分厚いシーツに埋もれるその体は、まるで中身が空洞になってしまったかのように小さかった。 いつも透き通るようだった肌は、今は血の気を失い、ただの紙のように真っ白だった。 鼻には酸素を吸入するための小さなチューブがつけられ、細い腕にはいくつもの点滴の針が痛々しく刺さっている。
今すぐ駆け寄って抱きしめたいのに、あまりにも壊れやすそうなその姿に、僕の足はドアの前で目に見えない鎖に繋がれたように動かなくなってしまった。
けれど、僕の姿を見た瞬間、彼女はあの時と全く同じ、向日葵のような笑顔を浮かべたんだ。 痛みも苦しみもすべて隠して、僕のためだけに作ってくれた、完璧な笑顔。
「あ・・・・・・蓮見くん。本当に、来てくれた・・・・・・」
声はカサカサに枯れていて、息を吐き出すのさえ辛そうなくらい、小さかった。
それでも、僕の名前を呼んでくれたその響きは、僕の胸の奥の最も柔らかい部分を激しく震わせるには十分だった。 凍りついていた足が動き出す。僕はベッドの脇に転がるように駆け寄り、シーツの上に力なく投げ出されていた彼女の、驚くほど細くなってしまった右手を、祈るように両手でそっと握りしめた。
氷のように冷たかった。
夏の温室で触れた時よりも、さらに冷たく、命の熱が急速に彼女の体から逃げていっているのがわかった。僕は自分の体温を、自分の命をすべて分け与えるつもりで、その小さな手を強く、優しく包み込んだ。
「一ノ瀬さん、ごめん、遅くなってごめん・・・・・・! ずっと一人にさせて、本当にごめん!」
「ううん、待ってたよ。・・・・・・ねえ、蓮見くん。文化祭、どうだった?」
自分の命が今まさに尽きようとしているこの瞬間にすら、彼女は僕の日常を気にかけてくれていた。その優しさが痛くて、たまらなくて、涙が込み上げて視界がぐしゃぐしゃに滲んだ。
「金賞、獲ったよ。一ノ瀬さんの写真、みんなが『綺麗だ』って、たくさん褒めてくれたんだ」
必死に声の震えを抑え、少しでも明るい声を作って答えると、碧の瞳にパッと微かな光が灯った。
「本当………………? よかったあ・・・・・・。私、蓮見くんの最高の一枚になれたんだね」
「当たり前だよ。世界で一番綺麗だった。一ノ瀬さんが、あの写真に命を吹き込んでくれたんだ。君の笑顔があったから、あんなに素晴らしい写真になったんだよ」
僕の言葉に、碧は嬉しそうに、そしてどこか安心したように目を細めた。
それから、彼女はゆっくりと視線を動かし、ベッドの脇の小さなサイドテーブルに置かれていた、あのプラスチックのトイカメラを、点滴の繋がれた左手で愛おしそうに撫でた。 僕がプレゼントした、安っぽいカメラ。彼女はそれを、こんな無菌室のような病室にまで大切に持ち込んでくれていたのだ。
「ねえ、蓮見くん。お願いがあるの」
「何? 何でも言って」
碧はトイカメラから手を離し、僕の首から下がっている重たい一眼レフカメラをまっすぐに見つめた。
「そのカメラで・・・・・・今の私を、もう一回だけ、綺麗に撮ってほしいの」
「っ…………!」
僕は息を呑み、言葉を失った。
今の彼女は、たくさんの無機質な医療機器に囲まれ、病気の影響で髪も少し短くなって、お世辞にも「元気」とは言えない、残酷な現実を突きつける姿だ。 病に侵され、衰弱しきった自分の姿なんて、誰だって写真に残したくないはずだ。
それでも、彼女の瞳の奥にある輝きだけは、あの新緑の温室で僕をまっすぐに見つめていた時と、少しも変わっていなかった。 むしろ、最期を前にして、一切の迷いや恐怖がなくなったような、神々しいほどの澄んだ強さがあった。
「嫌だ・・・・・・、嫌だよ」
僕は力なく首を振った。 涙がボロボロと溢れて、握りしめた彼女の手を次々と濡らしていく。
「こんなの、最後の写真みたいじゃないか。僕は、一ノ瀬さんが元気になって、またあの並木道で、温室で、一生分の写真を撮るって約束したんだよ・・・・・・! こんな暗い病室でシャッターなんて切れない。君の写真は、もっと光が溢れる場所で、元気な笑顔で撮るんだ!」
まるで駄々をこねる子供のように、僕は泣きじゃくった。これを受け入れてしまえば、彼女の死を完全に認めることになってしまう。それだけは、絶対に嫌だった。
「蓮見くん」
碧は優しく僕の名前を呼び、僕の手を握り返そうとした。 かすかな、本当に微弱な、でも彼女の強い意志が込められた確かな力が伝わってくる。
「最後じゃないよ」
彼女の声は優しく、ひどく穏やかだった。
「蓮見くんが私を撮ってくれたらね、私はその写真の中で、ずっと、ずうっと生き続けられるの。 蓮見くんの大好きな、あの緑の世界の中で・・・・・・永遠に、笑っていられるの。 この体がなくなっても、蓮見くんがファインダー越しに見つめてくれた私は、絶対に消えない。だから、お願い」
彼女のまっすぐな強い眼差しに、僕の我儘な抵抗はゆっくりと溶かされていった。 彼女は自分の死を恐れているのではなく、僕の中に自分が残らないことを恐れていたのだ。僕が彼女を撮ることは、彼女に「永遠」を与えることなのだと、ようやく理解した。
僕は制服の袖で乱暴に涙を拭い、震える両手で首から下げた一眼レフカメラを構えた。
ファインダーを覗く。
視界が再び涙で滲んで、彼女の姿がぐしゃぐしゃにぼやけてしまう。 こんな不甲斐ない顔を彼女に見せたくない。何度も何度も瞬きをして涙を散らし、必死に彼女の姿を網膜に、そしてこの冷たいレンズの奥に焼き付けようとした。
碧は、鼻のチューブがついたままで、ベッドの上で少しだけ首を傾げ、この世の何よりも美しい最高の笑顔を作った。
あのクローバーの土手で見せてくれたような、お茶目で、世界の誰よりも美しい、愛おしい笑顔。 病魔に蝕まれた体など関係ない。そこには間違いなく、僕が愛した「一ノ瀬碧」がいた。
「いくよ、はい、チーズ」
碧の小さな声に合わせて、僕は震える指でシャッターを押し込んだ。
パシャリ。 静かな病室に、僕たちの永遠を切り取る、最後のシャッター音が優しく響いた。
「ありがとう、蓮見くん・・・・・・」
カメラを下ろした僕に向かって、碧は満足そうに微笑み、そして静かに目を閉じた。
「私ね、蓮見くんに出会えて、本当に幸せだったよ」
それが、碧が僕に遺した、最後の言葉になった。 その後、彼女が再び目を開けることは二度となかった。
◇
それから一週間後。
新緑の春を待たずに、碧は冷たい秋の空の向こう、遠い場所へと旅立ってしまった。
彼女のいなくなった世界は、すべての色が抜け落ちたようにモノクロームで、僕は自分がどうやって息をして、どうやって歩いているのかすらわからなかった。喪服を着て参列した葬儀の記憶も、まるで他人の夢を見ているように現実感がなかった。
葬儀が終わった後、参列者が帰り始めた斎場の隅で、僕は碧のお母さんに呼び止められ、一冊の小さなノートと、あの見覚えのあるトイカメラを渡された。
「あの子が、蓮見くんに渡してほしいって」
ノートは、碧が病院でつけていた日記だった。
家に帰り、誰にも邪魔されない自分の部屋で一人、僕はベッドに座り込んでそのノートを開いた。
そこには、僕と過ごした毎日の思い出が、彼女の丸っこい、優しい文字でぎゅっと詰め込まれていた。
『○月○日今日も蓮見くんと温室へ行った。蓮見くんのカメラを覗かせてもらった。レンズの向こうの世界は、いつも私が見ている世界よりも何倍もきらきらしていて、生きてるって感じがした。』
『○月○日部室で、蓮見くんに手を重ねられたとき、心臓が病気とは違う理由で、壊れちゃうくらいバクバクした。私の手、すごく冷たかったのに、蓮見くんの手はとっても暖かかった。恥ずかしかったけど、すごく嬉しかった。蓮見くんのことが、本当に、本当に大好き。』
ページをめくるごとに、日付が進むにつれて文字の筆圧が弱くなり、形も乱れていく。それが彼女の命が少しずつ削られていく過程を見ているようで、ページをめくる手が何度も止まりそうになった。それでも、そこには僕への思いと、僕と過ごした時間の喜びだけが綴られていた。
そして、最後のページには、少し大きな文字で、僕に宛てたメッセージが残されていた。
『蓮見くんへ。
これを読んでいるとき、私はもう隣の席にはいないかもしれないね。勝手にいなくなっちゃって、ごめんね。
私の名前は「碧(あお)」だけど、小さい頃から、自分の名前があまり好きじゃなかったの。 病院のベッドから見る空の色みたいで、冷たくて、一人ぼっちで、寂しい空の色みたいだから。
でもね、蓮見くんが「一ノ瀬さんのことが世界で一番好きだ」って言ってくれたとき、初めて自分の名前が好きになれたの。
だって、寂しい「青(あお)」と、蓮見くんのあったかい「翠(みどり)」が混ざり合ったら、世界で一番綺麗な、新緑の「Green」になるでしょ?
私の命は少し短かったけれど、蓮見くんのおかげで、一生分の、最高の恋ができました。
私のトイカメラのフィルム、まだ現像してないの。蓮見くんの手で、現像して、見てほしいな。
泣かないでね。私はずっと、蓮見くんの撮ってくれた写真の中で笑っているから。 たくさんの思い出を、温かい緑の世界を、本当にありがとう。
一ノ瀬碧より』
「う、あ 、あああああッ!!」
僕は日記を胸に強く抱きしめ、声を上げて慟哭した。 堰を切ったように涙が溢れて止まらなかった。
胸が引き裂かれそうに痛くて、息ができなかった。
どうして彼女だったんだ。
どうして、あんなに優しくて、誰よりも世界を美しく見つめることができた子が、こんなに早く消えなければならなかったんだ。 僕は青と翠を混ぜ合わせるように、彼女ともっとたくさんの未来を描きたかった。彼女ともっと、笑い合いたかった。一緒に大人になりたかった。
薄暗い部屋の机の上には、碧が遺したトイカメラが、主を失った悲しみを抱えるように静かに佇んでいた。
◇
それから、さらに数ヶ月が経ち、凍てつくように長かった冬が終わりを告げ、季節は巡って再び春が訪れた。
高校三年生になった僕は、地元の、あの桜が葉桜へと変わった並木道に立っていた。
頭上には、あの日と同じ、圧倒的な生命力を湛えた「緑のトンネル」が広がっている。 風が吹くたびに葉が擦れ合い、さやさやと心地よい音を立てる。去年の春、ここで白いワンピースを着た彼女に偶然出会い、ファインダー越しに恋に落ちた日のことが、まるで昨日のことのように鮮明に蘇る。
僕は、碧が遺したトイカメラのフィルムをようやく写真屋で現像し、出来上がった数枚の写真を手に持っていた。 それを見ると、彼女が本当にいなくなってしまったことを突きつけられるようで、ずっと現像できずにいたのだ。
そこには、温室で僕が気づかないうちに撮られていた不意打ちの顔や、足元の影に混ざって、最後の一枚――碧が病院のベッドの上から、僕に向けてシャッターを切った写真が入っていた。
写真の中の僕は、ボロボロとひどい顔で涙を流しながら、必死に一眼レフカメラを構えていた。 好きな女の子の最後を撮るには、あまりにも見堪えない、情けない泣き顔だった。
でも、その泣き顔を包み込むように、病室の窓からの西日が、まるであの温室の木漏れ日のような、温かく眩しい『緑の光』となって僕を照らしていたんだ。
トイカメラ特有のレンズのフレアが偶然緑色に光ったのか、それとも本当に何かの奇跡なのかはわからない。けれど、写真の中の僕は、確かに温かい緑の光に優しく守られていた。彼女は、僕が彼女を永遠に残そうとしたあの瞬間、彼女のレンズを通して、一人残される僕に「温かい世界」を与えてくれていたのだ。
「一ノ瀬さん・・・・・・見てる?」
僕は呟き、自分の古い一眼レフカメラを構え、新緑の空を見上げた。
ファインダーの向こうには、どこまでも広がる碧い空と、眩しい緑の葉が美しく混ざり合っている。 青と翠が混ざり合う、世界で一番綺麗な場所。彼女はいつも、この空から僕を見ていてくれるはずだ。
僕はもう、泣かない。
君が僕にくれたこの命の温かさを、この緑の光を、僕はこれからもずっと、君の代わりに切り取り続けていく。 それが、僕が君を愛した証明であり、君がこの世界に確かに生きたという証明だから。
「はい、チーズ」
パシャリ。
新緑の風が、心地よく吹き抜けた。
僕の切なくて、瑞々しい、永遠の初恋の音が、青空へと高く響き渡った。
【完】
