Green Love ~青と翠が混ざり合う場所~

十月。

街を彩っていた木々はすっかり色褪せ、赤や黄色に染まった落ち葉が、どこからか吹き付ける冷たい風に舞う季節になった。 あんなに力強く生い茂り、むせ返るような生命力を放っていた緑はすっかり影を潜め、季節は確実に、そして容赦なく、すべての命が眠りにつく冬へと向かって足を進めている。

学校は、一年に一度の祭典である文化祭の、異様なほどの活気と熱狂に包まれていた。

廊下にはカラフルな装飾が躍り、窓には各クラスが工夫を凝らしたステンドグラス風のセロハンが貼られ、秋の弱々しい日差しを鮮やかに変換して床に落としている。中庭からは模擬店の甘いクレープの匂いや、鉄板で焼きそばを焼くソースの香りが漂い、絶え間ない客引きの笑い声が交差する。体育館の方からは軽音部の演奏する重低音が、ズン、ズンと校舎の床を揺らすように響き渡っていた。

誰もが笑顔で、青春の真っ只中を全力で楽しんでいる。 友達同士で肩を組み、スマートフォンのカメラを向け合って、非日常の空間に酔いしれている。それが高校生としてのごく当たり前の、正しく美しい風景なのだと、頭ではわかっていた。

けれど、僕の心はどんよりとした分厚い灰色の雲に覆われたまま、周囲の熱狂から完全に切り離されていた。見えない透明な壁の中に一人だけ閉じ込められ、外の世界の騒ぎを無音の映画のように眺めている気分だった。

2年B組の僕の席の左隣だけは、あの日からずっと、ぽっかりと白い空間が空いたままだったからだ。

あの日以来、碧は一度も学校に戻ってきていない。

主のいない机の上には、誰かが気を利かせて置いた文化祭のパンフレットが寂しそうに乗っている。僕はその机を見るたびに、彼女がいたずらっぽく笑いかけてきた朝のことや、「私のこと、世界で一番綺麗に撮ってね」とウインクしてきた姿、そして、窓際の光を浴びて透き通るようだった彼女の横顔を思い出し、息が詰まりそうになった。教室にいるだけで狂いそうになる。

「……」

文化祭の喧騒から逃れるようにして、僕は薄暗い写真部の部室に一人でこもっていた。

冷たくなった一眼レフカメラを膝の上に置き、意味もなくクリーニングクロスで磨き続けている。 フィルムは入っていない。あの日、彼女が教室で倒れてから、僕は一度もシャッターを切っていなかった。ファインダーを覗き込んでも、そこに彼女の姿がないのなら、世界を切り取る意味なんて見出せなかった。

「蓮見! お前、こんなところで何してんだよ!」

突然、部室の錆びたドアが勢いよく開き、写真部の幽霊部員だった三年生の先輩が息を切らせて飛び込んできた。

普段は部室に顔を出すことすらない先輩の突然の登場に、僕は驚いてクロスを動かす手を止め、ぼんやりと顔を上げた。

「先輩……? 何が、ですか………………?」

「何がですか、じゃないよ! お前、掲示板見てないのか!? やったな!」

先輩は僕の肩をバシバシと乱暴に叩きながら、興奮した様子で捲し立てた。

「写真コンクールだよ! お前が夏休みの前に顧問に出したっていう一ノ瀬さんの写真、全国一の『金賞』に選ばれたってさ! 今、体育館の展示スペースで物凄い人だかりができてるぞ!」

先輩の言葉に、僕は一瞬、何のことだか理解できずに目を丸くした。夏休み明けに顧問の松田先生に「とりあえず何か一枚出せ」と急かされて提出した、あの写真。予選を通ったとは聞いていたけれど、まさかそんな大きな賞に選ばれるなんて思ってもみなかったのだ。

「ほら、主役がこんな埃っぽい部屋に引きこもってちゃダメだろ! 行くぞ!」

「あ、ちょっと、先輩……っ」

先輩に腕を掴まれ、背中を無理やり押されるようにして、僕は渋々体育館へと向かった。

体育館に近づくにつれ、人々のざわめきと熱気が肌にまとわりついてくる。特設された文化部の展示壁の前には、先輩の言葉通り、大勢の生徒や保護者が幾重にも人だかりを作って集まっていた。 普段は誰も見向きもしない写真部の地味な展示コーナーが、信じられないほどの熱気に包まれている。

「ほら、通してやって! 作者のお通りだ!」

先輩がおどけながら人をかき分けてくれ、僕は最前列へと押し出された。

すると、その中心に、僕が撮った一枚の写真が、特大のパネルになってこれ以上ないほど誇らしげに飾られていた。

タイトルは――『Green Love』。

提出する際、先生にタイトルを急かされて、とっさに思いついた言葉だった。僕の愛する「緑」と、その中心にいる彼女への、言葉にできない思い。それをごまかすように英語にしただけの、ありふれた、少し恥ずかしいタイトル。

それは、あの新緑の並木道で、白いワンピースを着た碧が、眩しそうに風に髪を揺らして笑っている瞬間を切り取ったものだった。 僕が初めて彼女を見つけ、そして初めて引き返せないほどの恋に落ちた、あの春の日の奇跡のような一枚。

周囲に生い茂る圧倒的な緑の生命力。そしてその中心で、世界の誰よりも輝くような向日葵の笑顔を見せる少女。

大きく引き伸ばされたその写真の中の碧は、今にもパネルから飛び出してきて「蓮見くん、見つけた!」と僕の名前を呼びそうなほど、瑞々しく、そしてどこか儚い、息を呑むような美しさを放っていた。

見つめているだけで、胸が締め付けられるほどに愛おしい。 そして、同じくらい残酷だった。写真の中の彼女はあんなにも生き生きと笑っているのに、現実の彼女は、冷たい病院のベッドの上で死の淵を彷徨っているのだから。

「うわあ、この子めちゃくちゃ可愛い………………。これ、本当にうちの学校の生徒?」

「たぶん、二年に転校してきた子じゃないかな。なんか、見てるだけで泣きそうになる写真だね」

「光の入り方が神がかってるよ。緑がキラキラしてて……モデルの子、本当に心から楽しそうに笑ってる。撮ってる人のこと、大好きなんだろうなっていうのが伝わってくるよ」

周囲の知らない生徒や大人たちから、ため息混じりのそんな声が次々と聞こえてくる。

僕が一人で抱え込み、僕だけのものにしたかった彼女の美しさが、こうして見ず知らずの多くの人々の心を激しく揺さぶっている。彼女が放っていた圧倒的な命の輝きは、フィルムという媒体を通して、確かに世界に刻み込まれていたのだ。

(『私ね、蓮見くんとここにいる時間が、一番好きなの。自分がすごく特別な、綺麗な世界の一部になれた気がするの』)

夏の温室で彼女が言った言葉が、脳裏に蘇る。彼女は、こうなることを望んでいたのだろうか。自分の命が長くないと知っていたからこそ、一番美しい瞬間を、僕のカメラを通してこの世界に遺したかったのだろうか。

僕は、周囲の喧騒を完全に忘れて、写真の中の碧をじっと見つめた。

(一ノ瀬さん・・・・・・僕は、君を綺麗に撮れたかな)

(君が望んだように、君がこの世界に確かに生きていたという証を、僕はちゃんと残せているかな)

心の中でそう問いかけた、その時だった。

ズズ、ズズズ……。

僕のズボンのポケットの中で、スマートフォンが短く、そしてひどく不吉な間隔で震えた。

嫌な予感がして、心臓が跳ね上がった。震える手でポケットからスマホを取り出し、画面を確認する。表示されていたのは、連絡先を交換していた碧のお母さんからのメッセージだった。

『碧の容態が急変しました。今、あなたに会いたがっています』

たった二行のその文字を見た瞬間、全身の血の気が一気に引いていくのがわかった。

周囲の雑音が一瞬にして遠のき、完全に無音の世界へと突き落とされる。明るかった体育館の照明が急に暗く冷たいものに感じられ、自分の狂ったような心臓の鼓動だけが、耳の奥でドクドクと暴れ狂う。

「 蓮見? おい、どうした? 顔面蒼白だぞ。気分でも悪いのか?」

隣にいた先輩の声が、まるで深い水底から聞こえてくるように遠くで響いた。

僕は先輩に返事をすることも忘れ、足元に置いていたカバンを引っ掴むと、振り返りもせずに走り出した。

「おい、蓮見!」

体育館の重い扉を力任せに押し開け、お祭り騒ぎの校庭を突き抜ける。 すれ違う生徒たちが驚いて道を譲り、何か声をかけてくるのも構わず、僕はただ正門の出口を目指した。

制服の上着を風にはためかせながら、僕はただ、がむしゃらに走った。

「一ノ瀬さん !碧 ! 」

声にならない悲痛な叫びが、喉の奥を突き破って溢れ出す。涙が次から次へと溢れ出して、視界がぐしゃぐしゃに滲む。 足がもつれそうになっても、絶対に立ち止まるわけにはいかなかった。

秋の冷たい風が、涙で濡れた僕の熱い頬を容赦なく叩き、街路樹の枯れ葉を宙高く巻き上げていく。

走り抜けながら見上げる空はどんよりと灰色で、かつて僕たちを優しく包み込み、あんなに鮮やかだったあの美しい『緑のトンネル』は、もう完全に消えてしまっていた。 代わりに、葉を落とした寒々しい冬の枝がむき出しになって、まるでひび割れた空を引っ掻くように広がっている。

現実の世界は、彼女の命の灯火が消えかかっていることに呼応するように、完全に色と温度を失っていた。

(お願いだ、神様。まだ連れて行かないでくれ。彼女の命を奪わないでくれ!)

肺が千切れそうに痛い。呼吸をするたびに、冷たい空気が喉を焼く。

(一生分の写真を撮るって、指切りして約束したじゃないか。まだ全然足りない。君の笑顔を、もっともっと僕の隣で残さなきゃいけないんだ!)

でも、どんなに季節が変わっても、どんなに世界が冷たくなっても、僕の心の中にある彼女の笑顔は、あの新緑のままだ。 あの写真の中で永遠に輝く、向日葵のような笑顔のままだ。

待っていてくれ。

今、行くから。

僕は首から下げたカメラが胸に激しくぶつかるのも構わず、その重たくて冷たい金属のボディを右手でぎゅっと握りしめ、彼女のいる病院へと死に物狂いで走り続けた。 涙で前が見えなくても、ただひたすらに、僕の愛する人が待つ場所へ。