Green Love ~青と翠が混ざり合う場所~

病院の廊下は、不自然なほど白く、そしてひどく静まり返っていた。

あんなにも鮮やかで、むせ返るような命の匂いに満ちていた僕たちの夏は、まるで最初から存在しなかったかのように、この無機質で冷たい空間によって完全に遮断されている。外界から切り離されたこの場所には、季節の移ろいも、風の音も届かない。

ツンとする消毒液の匂いが鼻を突き、奥の部屋から規則的に響く電子音だけが、ここが現実の世界であることを辛うじて教えてくれる。 ピッ、ピッ、という無機質なその音は、命のカウントダウンのように僕の鼓膜を冷たく、そして正確に叩き続けていた。

僕は学校の革カバンを膝の上で強く握りしめたまま、集中治療室の前の硬い長椅子に、ただじっと座っていた。 自分の指先が、小刻みに震えているのがわかる。 いつも重たい一眼レフカメラをブレずにしっかりと構えていたはずの僕の指は、今は自分の感情一つコントロールできず、みっともなく震え続けていた。

(どうして……どうしてこんなことに……)

頭の中では、数時間前の教室での光景が、何度も何度もフラッシュバックしては僕の心を切り裂いていた。床に崩れ落ち、胸を掻き毟るようにして苦しんでいた碧。土気色になった顔。酸素を求めてあえぐ小さな唇。僕の腕の中で、まるで糸が切れた操り人形のように力が抜けていった、あの絶望的な重み。

彼女はいつも僕の隣で笑っていた。クローバーを見つけてはしゃぎ、温室で光を浴びて輝いていた。そのすべてが、強烈な光を放つ幻だったのではないかと錯覚してしまうほど、今の現実は暗く、重かった。

「 蓮見翠くん、だよね」

どれくらいの時間が経っただろう。数十分かもしれないし、数時間かもしれない。 まるで永遠のような空白の時間に、不意に上から声をかけられ、僕は弾かれたように顔を上げた。

そこに立っていたのは、碧によく似た、優しげで、けれどひどく疲れ切った顔をした大人の女性――碧のお母さんだった。 碧がそのまま大人になったような美しい面影があるが、その目の下には濃い隈があり、背中を丸めて立っている姿からは、これまで一人で抱え込んできたであろう計り知れない疲労と心労が滲み出ていた。

「あ・・・・・・はい。一ノ瀬さんは、碧さんは大丈夫なんですか・・・ !?」

立ち上がり、すがるように、詰め寄るように聞いてしまった僕に、お母さんは悲しげに眉を下げ、ゆっくりと首を振った。

「今は処置が終わって、落ち着いて眠っているわ。・・・・・・驚かせてしまって、本当にごめんなさいね」

落ち着いて眠っている。その言葉にほんの少しだけ安堵しかけた僕だったが、お母さんの表情があまりにも暗く、深い絶望に彩られていることに気づき、心臓が嫌な音を立てて軋んだ。

「あの、碧さんは、運動音痴だから心臓がバクバクするって、前に言ってたんですけど・・・・・・」

僕は必死に、あの真夏の植物園で彼女が教えてくれた言葉を繰り返した。 そうだ、運動が苦手なだけだ。少し無理をしすぎたから、倒れてしまっただけだ。点滴でも打って、数日休めば、またあの向日葵みたいな笑顔で「蓮見くん!」と僕を呼んでくれるはずだ。そう信じなければ、立っていることすらできそうになかった。

けれど、僕のすがるような言葉に、お母さんは小さく息を吐き、僕の隣の椅子に静かに腰掛けた。 その目が、ひどく潤んでいる。

「碧、そんな風に言っていたのね・・・・・・。あの子、あなたには心配をかけたくなかったのよ」

お母さんは膝の上で両手をきゅっと握りしめ、ぽつり、ぽつりと、僕が知らなかった――いや、本当はどこかで気づいていたはずなのに、気づかないふりをしていた真実を語り始めた。

「碧はね、生まれつき重い心臓の病気を患っているの。これまで何度も手術を重ねてきたけれど・・・・・・もう、これ以上の治療は難しくて。 小さい頃から入退院の繰り返しで、学校行事にもまともに参加できたことがなかった。走ることも、友達と遠出することも、あの子にとっては命がけのことだったから」

お母さんの声が、微かに震える。僕の頭の中で、体育の授業をいつも寂しそうに見学していた彼女の姿や、夏の温室で少しはしゃいだだけで息を切らしていた彼女の姿が、残酷なほどの鮮明さで蘇ってくる。氷のように冷たかったあの手は、血の巡りが悪かったからなのだと、今更ながらに理解した。

「この街に引っ越してきたのは、あの子の強い希望だったのよ。 『最後の手術の前に、一度でいいから、普通の高校生として、普通の毎日を過ごしてみたい』って」

最後。その言葉が、僕の脳内で不気味に木霊(こだま)した。

「最後、って……………・・。手術をすれば、治るんですよね? また学校に、戻って来られますよね?」

僕の必死の問いかけに、お母さんは答える代わりに、ただ静かに涙を流した。 頬を伝うその涙が、僕のわずかな希望を無残に打ち砕いていく。

「成功確率は、とても低いの。お医者様からは、今年の冬を越せるかどうか・・・・・・そう言われているわ」

頭をハンマーで全力で殴られたような衝撃だった。

視界が急激に歪んでいく。 足元の白いリノリウムの床がぐにゃりと曲がり、自分の立っている場所がわからなくなる。息の吸い方がわからなくなり、喉の奥がヒューヒューと鳴った。

嘘だ、と思った。

だって、あんなに元気によく笑う子が。

僕の隣で、楽しそうにクローバーを探していた子が。 ファインダー越しに見る彼女は、あんなにも光に満ちていて、生命力に溢れていたじゃないか。

「大好き」と言って、僕の胸に顔を埋めてくれた、あの温かいあの子が。 夏の終わりに、僕の腕の中で「遠くに行っちゃうかもしれない」と震えていた小さな背中が。

もうすぐ、いなくなってしまうなんて。

すべてに合点がいってしまった。彼女はずっと、自分の命の期限を知りながら、僕の前で「普通の女の子」として必死に笑い続けていたのだ。恐怖や絶望を心の奥底に押し殺して、僕のカメラの前では、世界で一番幸せそうな笑顔を作り続けてくれていたのだ。

「碧ね、毎日家に帰ると、あなたの話ばかりしていたの」

お母さんは涙を拭いながら、愛おしそうに、そして少しだけ誇らしげに微笑んだ。

「『蓮見くんがね、私の写真を世界で一番綺麗だって言ってくれたの』 『蓮見くんの撮る緑の世界は、すっごくあったかいんだよ』って。 あの子、あなたに出会えて、本当に幸せそうだった。本当に ・・・・・・普通の女の子になれていたのよ。 病気のことなんてすっかり忘れたみたいに、毎朝鏡の前で髪を梳かして、嬉しそうに学校へ行っていたの。あなたが、あの子に青春をくれたのよ」

「……………っ」

喉の奥から、獣のような嗚咽が込み上げてきた。

僕は両手で顔を覆い、子供のように声を上げて泣いた。 病院の廊下だということも忘れ、ただ涙が溢れて止まらなかった。

碧が、僕の撮る「生命力に満ちた緑」をあれほど愛していた理由が、ようやく分かった。

彼女は、自分の中から確実に失われつつある命の輝きを、僕のカメラと、僕の探す緑の世界に、必死に繋ぎ止めようとしていたのだ。 自分がいなくなっても、この温かい緑の世界のどこかに、自分が確かに存在したという証を残したくて。僕の記憶の中に、病気の可哀想な女の子としてではなく、「綺麗な女の子」として残りたくて。

それなのに、僕は何も知らずに、ただ呑気に「一生分の写真を撮る」なんて約束をしてしまった。

僕にとっての「一生」は、これから先何十年も続く当たり前の未来だった。けれど、彼女にとっての「一生」は、もうあと数ヶ月、いや、数週間しか残されていない時間だったのだ。なんという残酷なすれ違いだろう。自分の鈍感さと愚かさが憎くてたまらなかった。どうしてあの時、もっと彼女の言葉の裏にある痛みに気づいてあげられなかったのか。どうして、あの冷たい手を、もっと強く、ずっと握りしめていてあげられなかったのか。

窓の外では、夕暮れの街が燃えるような赤に染まっていた。

病院の白い壁すらも赤く染め上げるその強烈な夕陽は、まるで血の色のように禍々しく、そして容赦なく一日の終わりを告げている。

あんなに瑞々しく僕たちを包んでいた新緑の季節は、もう、どこにも残っていなかった。 僕の心の中にだけあたたかい緑を残して、彼女のいない現実の世界には、ただ凍りつくような冷たい季節だけが、口を開けて僕を待っているようだった。