楽しかった夏休みは、まるで現像液の中でゆっくりと像を結び、やがて定着していく一枚の写真のように、鮮烈な記憶だけを残してあっという間に過ぎ去っていった。 毎日が特別で、毎日が新しくて、彼女と過ごす時間はいくらあっても足りないくらいだった。
八月の終わり。
夕方の風にほんの少しだけ秋の涼しさが混じり始めた頃、僕たちはあの『緑の秘密基地』にいた。
温室の中は、相変わらず生ぬるい空気に満ちていたけれど、心なしか植物たちの緑も、夏の終わりの寂しさを湛えているように見える。 むせ返るようだった土の匂いも少しだけ落ち着き、代わりに、どこからか入り込んだ乾いた風の匂いが漂っていた。
「ねえ、蓮見くん。これ、見て」
ガジュマルの木の根元のベンチに座っていた碧(あお)が、隣に立つ僕を呼んだ。
彼女の膝の上には、この夏、彼女がトイカメラで撮り溜めた写真の数々が並んでいた。 近所の写真屋で現像してもらったばかりだというその束を、彼女は宝物のように愛おしそうに広げている。
そこには、僕が予想していたような花や風景の写真は少なかった。そのほとんどが、ファインダーを覗き込んでいる僕の不意打ちの横顔や、温室の隙間から差し込む光の筋を見上げる僕の姿、そして、二人の足元が並んだ影の写真だった。
「これ……僕ばっかりじゃないか」
「ふふ。だって、私の好きなものを撮っていいって言ったのは蓮見くんだよ?」
僕が驚いて尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑った。写真に写る僕は、どれもひどく無防備で、そして驚くほど穏やかな顔をしていた。自分がこんな表情で世界を見つめていたなんて知らなかった。いや、違う。彼女がカメラを構えていたから、僕はこんなにも安心しきった顔をしていたのだ。
「一ノ瀬さん、すごく写真上手になったね。どれも、優しい光が綺麗に入ってる」
「ふふ、先生が良いからね」
碧は嬉しそうに目を細めた。
けれど、夕陽に照らされたその横顔は、夏の始まりに出会った頃よりもどこか痩せて、儚げに見えた。
白いワンピースから覗く腕は驚くほど細く、鎖骨のラインも以前より鋭く浮き出ている。肌の白さは、まるですりガラスのようだ。 透明で、少しの衝撃で粉々に砕け散ってしまいそうな危うさ。ただの夏バテだ、暑さで食欲が落ちているだけだ。僕は必死に自分にそう言い聞かせて、胸の奥で警鐘を鳴らす嫌な予感から目を背け続けていた。
「蓮見くん」
碧が、並べた写真を愛おしそうに撫でながら、ふいにぽつりと言った。 その声のトーンがいつもよりずっと低くて静かだったから、僕はビクッと肩を揺らした。
「もしもね。………………もしも、私が遠いところに行っちゃっても、この写真たちを見たら、私のこと思い出してくれる?」
胸の奥が、目に見えない冷たい手でぎゅっと掴まれたような気がした。 呼吸の仕方を忘れたように、一瞬だけ息が詰まる。
「遠いところって・・・・・・どこかへ引っ越しちゃうの?」
動揺を隠しきれない上ずった声が出た。彼女が僕の世界からいなくなるなんて、そんなこと想像もしたくなかった。
「んー、どうかな。でも、人間っていつどこに行っちゃうかわからないでしょ?だから、ね」
碧はいつものように、僕を安心させるように笑おうとした。
でも、その笑顔はどこか無理をしているように歪んでいて、僕の胸を激しく揺さぶった。 泣くのを必死に堪えているような、諦めと悲しみが入り混じった顔。そんな顔を、彼女にさせたくなかった。
「行かせないよ」
「 え………………?」
「どこにも行かせない。一ノ瀬さんがどこかに行くなら、僕もカメラを持ってついていく。だから、そんな寂しいこと言わないでよ」
気づけば、僕はベンチに座る碧の細い両肩を掴んでいた。 自分でも驚くほど強い声が出ていた。
人と深く関わることを避け、波風を立てずに生きてきた僕が、こんな風に誰かに縋り付き、声を荒げるなんて信じられなかった。でも、彼女を失うことへの恐怖が、僕の理性を完全に吹き飛ばしていた。
碧は驚いたように目を見開いたけれど、すぐにその澄んだ瞳にじわじわと涙を溜めて、ぽろぽろと零し始めた。
「蓮見くん ……………………。ごめんね、変なこと言って」
「ううん・・・・・・僕の方こそ、大きな声出してごめん。痛かったよね」
僕は自分の行動にはっと気付き、慌てて手を離そうとした。
けれど、碧はその前に、僕のシャツの胸元を両手できゅっと掴んできた。 そのまま、彼女の額が、僕の胸にトントンと優しく預けられる。
「ありがとう、蓮見くん・・・・・・大好きだよ」
ドクン、ドクンと鼓動が、痛いほどに跳ね上がる。
耳元で聞こえる彼女の「大好き」という震える言葉が、あまりにも切なくて、愛おしくて。 僕は迷うことなく彼女の小さな背中に手を回し、壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。
彼女の体は驚くほど軽くて、腕の中にすっぽりと収まってしまった。温室の濃い緑の匂いと、彼女自身の甘い香りが、僕の全身を包み込んでいく。 彼女の背中越しに伝わる体温はひどく低くて、僕の体温で少しでも温めてあげたかった。
「僕も・・・・・・僕も一ノ瀬さんのことが、世界で一番好きだ」
夕暮れの温室。
僕たちは、お互いの気持ちを確かめ合うように、静かに抱き合っていた。 不安も恐怖も、この瞬間だけはすべて溶けて消えていくような気がした。この幸せが、ずっと、ずっと続くのだと、僕は信じて疑わなかった。
◇
それから数日後。 九月になり、二学期が始まると、学校では秋の文化祭の準備が始まっていた。
教室には段ボールや絵の具が散乱し、放課後の校舎はお祭り前の独特な熱気と喧騒に包まれていた。
「蓮見! お前の出した写真、コンクールで予選通ったってよ!」
写真部の顧問の松田先生からそう告げられたのは、放課後のことだった。
僕が夏休みに撮った、あの並木道での碧の笑顔の写真。 僕の心をこじ開けた、あの一枚。それが、地域の学生写真コンクールで高い評価を受けているらしい。 僕にとっては賞なんてどうでもよかったけれど、彼女の笑顔が世界に認められたことが、たまらなく誇らしくて嬉しかった。
「一ノ瀬さん! 聞いて、僕の写真が――」
この嬉しさを誰よりも一番に伝えたくて、僕は大急ぎで2年B組の教室へと戻った。
けれど、教室に近づくにつれて、僕の足取りは不自然に遅くなった。教室の前に、数人の生徒が集まって騒然としていたからだ。 ただの文化祭の話し合いとは違う、パニックを含んだ異様な空気。
「おい、救急車呼ばなきゃ!」
「一ノ瀬さん!?大丈夫!?」
中から聞こえてきた不穏な言葉に、心臓が凍りつく。
全身の血が逆流するような感覚に襲われ、僕は無我夢中で人込みをかき分けて教室に入った。するとそこには、床に倒れ込み、激しく胸を押さえて苦しそうに呼吸をする碧の姿があった。
「一ノ瀬さん・・・・・・! 一ノ瀬さん!」
僕は肩にかけていたカバンを放り出し、周囲の目も気にせずに彼女のそばに駆け寄って、その崩れ落ちた体を抱き起こした。
碧の顔は土気色に染まり、いつもあんなに赤かった唇は青白く震えている。 ひゅー、ひゅーという苦しげな呼吸音が、彼女の小さな体から漏れていた。
「はす、み・・・・・・・・・・・・」
碧は、かすかに開いた瞳で僕を見つめ、何かを言おうとした。 その手が一瞬だけ、僕の腕を掴もうとして空を切る。
けれど、そのまま力尽き、僕の腕の中でゆっくりと目を閉じてしまった。 その体からふっと力が抜け、糸が切れた操り人形のように重くなる。
「一ノ瀬さん! 目を開けてよ! 一ノ瀬さん!!」
夕方の教室に、僕の悲痛な叫び声が虚しく響き渡っていた。 誰かが電話をかける声、ざわめくクラスメイトたちの声、すべてが遠くのノイズのように聞こえた。
窓の外では、あんなに鮮やかだった夏の色が完全に消え去り、冷たい秋の風が、街の木々を激しく揺らし始めていた。 僕たちを包んでいた温かくて優しい時間は、この凍りついた九月の風と共に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
八月の終わり。
夕方の風にほんの少しだけ秋の涼しさが混じり始めた頃、僕たちはあの『緑の秘密基地』にいた。
温室の中は、相変わらず生ぬるい空気に満ちていたけれど、心なしか植物たちの緑も、夏の終わりの寂しさを湛えているように見える。 むせ返るようだった土の匂いも少しだけ落ち着き、代わりに、どこからか入り込んだ乾いた風の匂いが漂っていた。
「ねえ、蓮見くん。これ、見て」
ガジュマルの木の根元のベンチに座っていた碧(あお)が、隣に立つ僕を呼んだ。
彼女の膝の上には、この夏、彼女がトイカメラで撮り溜めた写真の数々が並んでいた。 近所の写真屋で現像してもらったばかりだというその束を、彼女は宝物のように愛おしそうに広げている。
そこには、僕が予想していたような花や風景の写真は少なかった。そのほとんどが、ファインダーを覗き込んでいる僕の不意打ちの横顔や、温室の隙間から差し込む光の筋を見上げる僕の姿、そして、二人の足元が並んだ影の写真だった。
「これ……僕ばっかりじゃないか」
「ふふ。だって、私の好きなものを撮っていいって言ったのは蓮見くんだよ?」
僕が驚いて尋ねると、彼女は悪戯っぽく笑った。写真に写る僕は、どれもひどく無防備で、そして驚くほど穏やかな顔をしていた。自分がこんな表情で世界を見つめていたなんて知らなかった。いや、違う。彼女がカメラを構えていたから、僕はこんなにも安心しきった顔をしていたのだ。
「一ノ瀬さん、すごく写真上手になったね。どれも、優しい光が綺麗に入ってる」
「ふふ、先生が良いからね」
碧は嬉しそうに目を細めた。
けれど、夕陽に照らされたその横顔は、夏の始まりに出会った頃よりもどこか痩せて、儚げに見えた。
白いワンピースから覗く腕は驚くほど細く、鎖骨のラインも以前より鋭く浮き出ている。肌の白さは、まるですりガラスのようだ。 透明で、少しの衝撃で粉々に砕け散ってしまいそうな危うさ。ただの夏バテだ、暑さで食欲が落ちているだけだ。僕は必死に自分にそう言い聞かせて、胸の奥で警鐘を鳴らす嫌な予感から目を背け続けていた。
「蓮見くん」
碧が、並べた写真を愛おしそうに撫でながら、ふいにぽつりと言った。 その声のトーンがいつもよりずっと低くて静かだったから、僕はビクッと肩を揺らした。
「もしもね。………………もしも、私が遠いところに行っちゃっても、この写真たちを見たら、私のこと思い出してくれる?」
胸の奥が、目に見えない冷たい手でぎゅっと掴まれたような気がした。 呼吸の仕方を忘れたように、一瞬だけ息が詰まる。
「遠いところって・・・・・・どこかへ引っ越しちゃうの?」
動揺を隠しきれない上ずった声が出た。彼女が僕の世界からいなくなるなんて、そんなこと想像もしたくなかった。
「んー、どうかな。でも、人間っていつどこに行っちゃうかわからないでしょ?だから、ね」
碧はいつものように、僕を安心させるように笑おうとした。
でも、その笑顔はどこか無理をしているように歪んでいて、僕の胸を激しく揺さぶった。 泣くのを必死に堪えているような、諦めと悲しみが入り混じった顔。そんな顔を、彼女にさせたくなかった。
「行かせないよ」
「 え………………?」
「どこにも行かせない。一ノ瀬さんがどこかに行くなら、僕もカメラを持ってついていく。だから、そんな寂しいこと言わないでよ」
気づけば、僕はベンチに座る碧の細い両肩を掴んでいた。 自分でも驚くほど強い声が出ていた。
人と深く関わることを避け、波風を立てずに生きてきた僕が、こんな風に誰かに縋り付き、声を荒げるなんて信じられなかった。でも、彼女を失うことへの恐怖が、僕の理性を完全に吹き飛ばしていた。
碧は驚いたように目を見開いたけれど、すぐにその澄んだ瞳にじわじわと涙を溜めて、ぽろぽろと零し始めた。
「蓮見くん ……………………。ごめんね、変なこと言って」
「ううん・・・・・・僕の方こそ、大きな声出してごめん。痛かったよね」
僕は自分の行動にはっと気付き、慌てて手を離そうとした。
けれど、碧はその前に、僕のシャツの胸元を両手できゅっと掴んできた。 そのまま、彼女の額が、僕の胸にトントンと優しく預けられる。
「ありがとう、蓮見くん・・・・・・大好きだよ」
ドクン、ドクンと鼓動が、痛いほどに跳ね上がる。
耳元で聞こえる彼女の「大好き」という震える言葉が、あまりにも切なくて、愛おしくて。 僕は迷うことなく彼女の小さな背中に手を回し、壊れ物を扱うように、そっと抱きしめた。
彼女の体は驚くほど軽くて、腕の中にすっぽりと収まってしまった。温室の濃い緑の匂いと、彼女自身の甘い香りが、僕の全身を包み込んでいく。 彼女の背中越しに伝わる体温はひどく低くて、僕の体温で少しでも温めてあげたかった。
「僕も・・・・・・僕も一ノ瀬さんのことが、世界で一番好きだ」
夕暮れの温室。
僕たちは、お互いの気持ちを確かめ合うように、静かに抱き合っていた。 不安も恐怖も、この瞬間だけはすべて溶けて消えていくような気がした。この幸せが、ずっと、ずっと続くのだと、僕は信じて疑わなかった。
◇
それから数日後。 九月になり、二学期が始まると、学校では秋の文化祭の準備が始まっていた。
教室には段ボールや絵の具が散乱し、放課後の校舎はお祭り前の独特な熱気と喧騒に包まれていた。
「蓮見! お前の出した写真、コンクールで予選通ったってよ!」
写真部の顧問の松田先生からそう告げられたのは、放課後のことだった。
僕が夏休みに撮った、あの並木道での碧の笑顔の写真。 僕の心をこじ開けた、あの一枚。それが、地域の学生写真コンクールで高い評価を受けているらしい。 僕にとっては賞なんてどうでもよかったけれど、彼女の笑顔が世界に認められたことが、たまらなく誇らしくて嬉しかった。
「一ノ瀬さん! 聞いて、僕の写真が――」
この嬉しさを誰よりも一番に伝えたくて、僕は大急ぎで2年B組の教室へと戻った。
けれど、教室に近づくにつれて、僕の足取りは不自然に遅くなった。教室の前に、数人の生徒が集まって騒然としていたからだ。 ただの文化祭の話し合いとは違う、パニックを含んだ異様な空気。
「おい、救急車呼ばなきゃ!」
「一ノ瀬さん!?大丈夫!?」
中から聞こえてきた不穏な言葉に、心臓が凍りつく。
全身の血が逆流するような感覚に襲われ、僕は無我夢中で人込みをかき分けて教室に入った。するとそこには、床に倒れ込み、激しく胸を押さえて苦しそうに呼吸をする碧の姿があった。
「一ノ瀬さん・・・・・・! 一ノ瀬さん!」
僕は肩にかけていたカバンを放り出し、周囲の目も気にせずに彼女のそばに駆け寄って、その崩れ落ちた体を抱き起こした。
碧の顔は土気色に染まり、いつもあんなに赤かった唇は青白く震えている。 ひゅー、ひゅーという苦しげな呼吸音が、彼女の小さな体から漏れていた。
「はす、み・・・・・・・・・・・・」
碧は、かすかに開いた瞳で僕を見つめ、何かを言おうとした。 その手が一瞬だけ、僕の腕を掴もうとして空を切る。
けれど、そのまま力尽き、僕の腕の中でゆっくりと目を閉じてしまった。 その体からふっと力が抜け、糸が切れた操り人形のように重くなる。
「一ノ瀬さん! 目を開けてよ! 一ノ瀬さん!!」
夕方の教室に、僕の悲痛な叫び声が虚しく響き渡っていた。 誰かが電話をかける声、ざわめくクラスメイトたちの声、すべてが遠くのノイズのように聞こえた。
窓の外では、あんなに鮮やかだった夏の色が完全に消え去り、冷たい秋の風が、街の木々を激しく揺らし始めていた。 僕たちを包んでいた温かくて優しい時間は、この凍りついた九月の風と共に、音を立てて崩れ去ろうとしていた。
