Green Love ~青と翠が混ざり合う場所~

六月に入ると、街は重く湿った空気に包まれ、本格的な梅雨の季節を迎えた。

窓の外では、朝からしとしとと冷たい雨が降り続いている。 灰色の分厚い雲が空を覆い、教室の中までどんよりとした薄暗さが入り込んでいた。校庭の土はすっかり濡れて水たまりを作り、生徒たちの足跡を泥で滲ませている。 けれど、僕にとって雨の日は決して嫌なものではなかった。木々の緑は雨の水分をたっぷりと吸い込んで、晴れの日よりもずっと深く、濃い色をたたえていたからだ。 濡れた葉の表面が鈍く光を反射する様は、生命そのものが息づいているようで、見ているだけで心が落ち着いた。

「今日の放課後は、外での撮影は無理そうだね」

昼休み、お弁当を食べ終えて自分の席に座ったまま、僕は隣の碧(あお) に声をかけた。

碧は窓ガラスにぴったりと額をくっつけ、まるで外の世界に焦がれるような目で雨の景色を眺めていたが、僕の声にハッとしたように振り返った。

「ううん、そんなことないよ! 雨の日の部室って、なんだか秘密基地みたいでワクワクしない?」

そう言って笑う碧の顔はいつも通り明るく、向日葵のような笑顔だった。 彼女が笑うと、どんよりとした教室の空気までがパッと晴れるような気がする。けれど、今日ばかりは僕の気のせいか、彼女の肌が少しだけ白っぽく、いつもより不自然なほど透明に透き通っているように見えた。 陶器のようになめらかで美しい肌。それが今は、わずかな衝撃で砕けてしまいそうな危うさを孕んでいるように感じられ、僕は胸の奥がざわざわと波立つのを覚えながら、曖昧に頷くことしかできなかった。

◇

放課後。

僕たちは宣言通り、古い温室ではなく、写真部の部室に集まっていた。

部室といっても、校舎の隅の特別棟にある物置同然の狭い部屋だ。 歴代の部員たちが残していったガラクタや古い機材が山積みになり、薄暗い室内に、雨がトタン屋根を叩く規則正しい音だけが響いている。 湿気とともに現像用の薬品のツンとする匂いがかすかに漂う机の上で、僕はこれまでに撮り溜めたフィルムの整理をしていた。

碧はといえば、僕が家から持ち込んだ古い風景写真集を一頁ずつ、とても熱心にめくっている。 紙をめくる微かな音と、雨の音。それ以外は何もない静かな空間だったけれど、誰にも邪魔されないこの狭い部室は、確かに僕たちだけの秘密基地のようだった。

「ねえ、蓮見くん」

不意に、雨音に溶け込むような静かな声で呼ばれた。

「ん?」

「蓮見くんはさ、どうしてそんなに『緑』の写真ばかり撮るの?」

写真集から目を離さずに、碧がぽつりと言った。 その声には単なる好奇心だけでなく、もっと深いところにある何かを探ろうとするような響きがあった。

「どうして、か……………………」

僕は少し考えてから、フィルムを整理していた手を止め、自分の手元にある古いカメラを見つめた。

「僕の名前に『翠』って漢字が入ってるのもあるんだけど。・・・・・・緑ってさ、一番ホッとする色だから。春に新しく芽吹いて、夏に力強く生い茂る。どんなに周りの環境が変わっても、そこに根を張って真っ直ぐに生きている。 それを見てると、なんだか元気がもらえる気がするんだ。……人間と違って、裏切らないしね」

最後の一言は小さく呟いた。人付き合いが苦手で、ずっと一人で風景だけを追いかけてきた僕の、少し卑屈な本音だった。

「一ノ瀬さんは、緑、嫌い?」

恐る恐る尋ねると、碧は写真集をパタンと閉じ、僕の目をまっすぐに見つめた。

「ううん、大好き」

迷いのない、はっきりとした声だった。

「私の名前は『碧(あお)』でしょ? 青って、なんだか冷たくて、遠い空の色みたいで、時々寂しくなるの。 どこまでも広がっていて綺麗だけど、触れることができなくて、取り残されたみたいな気持ちになることがある。だからね、蓮見くんの撮る、あったかくて力強い緑の世界が・・・・・・私、本当に好きなんだ」

彼女の言葉が、雨の日の湿った空気を通して、僕の胸の奥にじんわりと染み込んでいく。 僕はこれまで、ただ自分が安心するためだけにファインダーを覗き、緑を撮ってきた。他人に見せるつもりなんてなかったし、誰かに理解してもらえるとも思っていなかった。

けれど、僕が撮っていた退屈な風景が、彼女にとって特別な意味を持っている。 彼女の寂しさを埋める温かさになっている。それだけで、僕のこれまでの一人の時間が肯定されたような、救われるような気持ちになった。

「 あ・・・・・・そうだ。一ノ瀬さん、ちょっとそれ持ってて」

僕は不意に思い立ち、部室の奥の棚をゴソゴソと探った。そして、箱に入ったまま一度も使っていなかった小さな「トイカメラ」を取り出した。 プラスチック製で軽く、おもちゃのような安っぽい作りのカメラだ。

「これ、一ノ瀬さんにあげる。いつも僕のモデルばかりじゃ退屈でしょ? これで、一ノ瀬さんの好きなもの、撮ってみてよ」

僕が一方的に彼女を撮るだけの関係じゃなくて、彼女が見ている世界を、彼女が綺麗だと感じるものを、僕も見てみたかった。

「えっ、本当に!? 嬉しい !」

碧は子供のように目を輝かせて、両手でトイカメラを大切そうに受け取った。 本物のカメラを手にした写真家のように、さっそく小さなファインダーを覗き込み、部室の中をきょろきょろと見回し始める。

「じゃあ・・・・・・私の最初の被写体は、蓮見くんに決定!」

「えっ?」

カシャ、と軽いプラスチックの音が響く。 フィルムを巻くチキチキという音が、妙に可愛らしく聞こえた。

「ちょっと、急に撮らないでよ。僕なんか撮っても面白くないって」

「ふふ、蓮見くん照れてる。・・・・・・あ、でもこれ、ピントとかどうやって合わせるの? 画面がぼやけてよく見えないよ?」

碧が首を傾げながら、カメラを構えたまま僕を振り返る。

「貸してみて。ここは、このレンズの横のリングを回すんだよ」

僕は椅子から立ち上がり、碧の隣に一歩寄り添い、彼女の手元に手を伸ばした。 僕の指先が、トイカメラをぎゅっと握る彼女の小さな手に触れ、無意識のうちに僕の手が重ね合わさる形になった。

「っ……」

その瞬間、僕は息を呑んだ。

碧の肌は、驚くほど冷たかった。 まるで氷水に浸していたかのような、あるいは精巧なガラス細工に触れたかのような冷たさに、一瞬ドキリとして手を引っこめそうになる。 夏を目前に控えた六月の部室で、こんなにも体温が低いなんておかしい。

けれどそれ以上に、密着して重なり合った手のひらから、彼女のドクドクという少し速い脈拍がダイレクトに伝わってきて、僕の心臓は爆発しそうになった。

ハッとして顔を上げると、すぐ目の前に、驚いたように僕を見つめる碧の横顔があった。 彼女の長い睫毛が、微かな動揺を示すように細かく震えている。

僕の手が重なった瞬間、碧の白い頬が、夕焼けのようにぽっと赤く染まったのが見えた。 その朱色は、彼女の透明すぎる肌の上でひどく鮮やかに映え、僕の理性を焼き切ってしまいそうだった。

「こうやって・・・・・・ゆっくり回すんだ」

これ以上近づいたら、僕の狂いそうな心臓の音が彼女に聞こえてしまう。かすれる声を必死に絞り出しながら、僕は彼女の冷たい手と一緒に、ゆっくりとレンズのリングを回した。

ファインダーの向こうの世界が、ゆっくりと鮮明になっていく。

「 ・・・・・・うん、合った。綺麗に見える」

碧の声が、吐息のように小さく震えていた。

彼女はピントが合ったはずなのに、カメラを下ろそうとせず、構えたまま僕と重ねた手を離そうとはしなかった。 僕もまた、魔法を解くのが怖くて、その小さな手を握ったまま動くことができなかった。

狭く薄暗い部室の中。屋根を叩く外の雨の音だけが、僕たちの狂いそうなほど速い心臓の音をかき消し、秘密の時間を守ってくれていた。

この時、僕はまだ何も知らなかった。

彼女の小さな手が、どうしてあんなにも氷のように冷たいのか。 そして、彼女がどうして、僕の撮る「生命力に満ちた緑」に対して、あんなにも祈るような、切ない視線を向けていたのかを――。