Green Love ~青と翠が混ざり合う場所~

「昨日のカメラの男の子、だよね?」

そう言って微笑む碧さんの瞳は、春の朝日に透かしたガラス玉のように、吸い込まれそうなほど澄んでいた。 僕の心臓が、まるで警鐘のように胸の奥でけたたましく鳴り始める。ホームルーム前の騒がしい教室、黒板の前に立つ松田先生の野太い声も、周囲でひそひそと交わされるクラスメイトたちのざわめきも、急に遠ざかっていくような錯覚に陥った。

転校生というだけでもクラス中の注目を集めている彼女が、よりによって一番地味で目立たない僕に、しかも名指しで、初対面のような顔をせずに話しかけてきたのだ。周囲の男子たちの視線が一斉に僕の背中に突き刺さるのを感じて、僕は居心地の悪さに身を縮めた。

僕は喉の奥が砂を噛んだようにカラカラに乾いていくのを感じながら、辛うじて首を縦に振った。

「あ………………うん。昨日はその、勝手に撮って、ごめん」

かすれた情けない声が出た。盗撮だと罵られてもおかしくない状況だ。彼女が少しでも不快な顔をしたら、すぐにカメラのフィルムを引き出して感光させ、すべてを無かったことにしよう。そう覚悟を決めていた僕の耳に届いたのは、予想に反して、銀の鈴を転がしたような軽やかな笑い声だった。

「ううん、怒ってないよ。むしろ、ちゃんと綺麗に撮れてたか気になっちゃって」

碧さんはそう言うと、ふわりと花が咲くように微笑み、満足そうに前を向いた。 その横顔には、警戒心や嫌悪感といったものは微塵も感じられなかった。

やがて一時間目の数学の授業が始まっても、僕の意識は完全に左隣の席に引っ張られていた。 黒板に書かれる数式なんて、一つも頭に入ってこない。

彼女が真新しい教科書をめくるかすかな紙の音、ノートにペンを走らせる時の微小な振動、そのすべてが僕の五感をひどく刺激する。 開け放たれた窓から吹き込む春の風が、彼女の髪を揺らし、そのたびにシャンプーか石鹸のような、微かに甘い香りを僕の席へと運んできた。

隣に誰かが座っているというだけで、こんなにも落ち着かなくなるなんて、これまでの高校生活では一度もなかったことだ。僕は自分の中のどうしようもない動揺を隠すために、ノートの端に意味のない幾何学模様の線を何度も何度も走らせて、必死にごまかすしかなかった。

(彼女は、どうしてあんなに普通に話しかけてくれたんだろう……)

そんな答えの出ない問いを頭の中で反芻しているうちに、いつの間にか放課後を告げるチャイムが鳴り響いていた。

◇

その日の放課後。

僕は逃げるように席を立ち、いつものようにカメラを持って学校の裏手にある古びた温室へと向かった。 教室にあのまま留まっていれば、クラスの男子たちから「お前、一ノ瀬と知り合いなのかよ」と問い詰められるのは火を見るより明らかだったからだ。

運動部が発する活気のある掛け声や、吹奏楽部の不揃いなチューニングの音が、校舎から離れるにつれて少しずつ遠のいていく。

ガラスの一部が割れ、壁面にはびっしりと蔦(つた)が絡まるその温室は、学校の敷地内でありながら誰も足を運ばない、僕だけの秘密の場所だった。 園芸部が廃部になって以来、数年間放置されているらしいその建物は、周囲の木々と同化するようにしてひっそりと佇んでいる。

錆びついて悲鳴を上げるような音を立てる鉄扉を押し開け、中に一歩足を踏み入れる。すると、外よりも少しだけ生ぬるい空気と、生命力を煮詰めたような濃い土の匂いが鼻をくすぐった。 放置された名もなき植物たちは、誰に見られることもなく、ただ自らの命を全うしようと青々と葉を広げている。

この場所に入ると、いつも張っていた肩の力がふっと抜けるのを感じる。僕はカメラのレンズキャップを外し、ファインダーを覗き込んだ。錆びついた天井の鉄骨の隙間から、夕暮れ前のオレンジ色がかった光の筋が差し込み、シダ植物の葉を美しく照らし出している。その完璧な明暗のコントラストを切り取ろうと、息を止め、シャッターに指をかけた、その時だった。

「やっぱり、ここにいた」

背後から、不意に鈴の鳴るような声がした。

ドクン、と心臓が跳ね上がり、驚いて振り返る。そこには、指定の制服のスカートをふわりと揺らした碧さんが立っていた。 両手で革のスクールカバンを体の前で持ち、少し息を切らせている。 走ってきたのだろうか、彼女の白い頬はほんのりと薄紅に染まっていた。

「一ノ瀬さん…………………? どうして、ここが分かったの」

絶対に誰も来ないはずの僕のサンクチュアリに、まさか今日転校してきたばかりの彼女が現れるなんて、夢にも思わなかった。

「クラスの人に『蓮見くんは放課後どこに行くの?』って聞いたら、いっつも裏の温室の方に歩いてくよって教えてくれたの」

碧さんはトコトコと足音を立てて僕のそばまで歩いてくると、物珍しそうに、そしてどこか感嘆したようなため息を漏らして温室の中を見回した。 クラスメイトが僕の行動を把握していたことにも驚いたが、それ以上に、彼女がわざわざ僕を探してくれたという事実が、僕の心を激しく揺さぶった。

「わあ、すごい・・・・・・。学校の中にこんなに緑がいっぱいの場所があるなんて、全然知らなかった。ねえ、いつもここで写真撮ってるの?」

「うん。人が来ないし、静かだから。僕みたいな人間には、ちょうどいい場所なんだ。・・・・・・でも、どうして僕を探してわざわざこんな所まで?」

卑屈になりそうな言葉を飲み込みながら尋ねると、彼女は振り返り、僕の目をまっすぐに見つめ返した。

「んー、お礼。昨日、素敵な写真のモデルに選んでくれたお礼、かな」

碧さんはそう言って、あの並木道で見せてくれたような、屈託のない明るい笑顔を見せた。 その笑顔があまりにも眩しくて、僕は自分がひどく場違いな存在に思え、思わず視線を彼女から外し、首から提げたカメラへと落とす。

「お礼なんて・・・・・・勝手にシャッター切ったのは僕の方だし。それに、僕のカメラはフィルムだから、まだ現像してないんだ。上手く撮れてるかどうかも、正直わからないよ」

「絶対に綺麗に撮れてるよ」

何の根拠もないはずなのに、彼女の声には揺るぎない確信がこもっていた。

「だって、蓮見くん、すっごく真剣な顔してカメラ構えてたもん。あんなに真剣な目で見つめられたら、風景だってきっとそれに応えてくれるよ」

彼女は僕の顔を覗き込むようにして、少し身を乗り出して言った。 顔の距離が、昼間の教室にいた時よりもずっと近い。 彼女の瞳の奥に、戸惑う僕の顔が小さく映っているのが見えた。

ドクン、と心臓が再び、痛いほど大きな音を立てる。 僕はその距離感と、彼女の真っ直ぐな言葉の熱に耐えきれず、慌てて一歩後ろへ下がった。

碧さんは僕の反応を少しおかしそうに見つめてから、今度は僕の首から下がったカメラに興味を移し、その金属のボディに指先でそっと触れた。

「ねえ、そのカメラ、見せてもらってもいい?」

「あ、うん。いいよ。落とさないように気をつけてね。ちょっと重いから」

僕はストラップを頭から外し、彼女の華奢な両手にカメラを委ねた。 手渡す瞬間、彼女の指先がかすかに僕の手に触れた。その肌の冷たさに一瞬ハッとしたが、彼女は気に留める様子もなく、カメラを受け取った。

碧さんは「わあ、本当だ。ずっしりしてる」と言いながら、宝物でも見つけたかのように嬉しそうにレンズを覗き込んだ。

「ねえ、これ、どうやって見るの? 画面がないよ?」

「右目を、ここの小さな窓に当てて。・・・・・・そう。で、左目は閉じるんだ」

「こう? ………………うわあ、すごい! 全然違う世界に見える!」

ファインダーを覗いた碧さんが、弾んだ歓声をあげる。 彼女がカメラを動かし、温室の様々な場所へピントを合わせようとするたびに、僕のすぐ隣でその小さな肩が揺れた。

「なんだか、世界を四角く切り取って、自分のものだけにできる魔法の箱みたいだね」

ファインダーから目を離さずに彼女が呟いた言葉は、僕がずっと写真に対して抱いていた感情そのものだった。どうして、出会ったばかりの彼女に、僕の心の奥底にある気持ちがこんなにも簡単に言語化されてしまうのだろう。

「ねえ、蓮見くん。これで私をもう一回撮ってよ。昨日は横顔だったから、今度はちゃんと、正面から」

碧さんはカメラを僕に返すと、温室の中心、ガラス屋根から木漏れ日が一番美しく降り注ぐ場所へと一歩踏み出し、くるりと振り返った。

逆光の中で、彼女のシルエットがふわりと白く輝く。 床に落ちた濃い影と、周囲の生い茂る圧倒的な緑が、まるで彼女という存在を引き立てるための額縁のように見えた。

「いくよ、はい、チーズ」

碧さんが両手でピースサインを作る。 高校生らしい、少しお茶目で、どこにでもあるありふれたポーズだ。

でも、その瞳の奥にある輝きは、言葉にできないほど神秘的で、この世界のどんな風景よりも強く僕を惹きつけた。 僕はもう、逃げることを諦めていた。

「……うん。動かないで」

僕は夢中でファインダーを覗き、息を止めてピントリングを回した。 ぼやけていた視界がクリアになり、レンズの向こうで微笑む彼女と、まっすぐに目が合う。

パシャリ。

静かな温室に、今日一番の心地よいシャッター音が響き渡った。

「ありがとう、蓮見くん」

碧さんははにかみながら、ピースサインを下ろして僕に歩み寄ってくる。

その瞬間、僕は確信していた。 僕の名前にある『翠』という文字。そして、他人との関わりを避け、僕が一人でただひたすらに覗き込んできた緑の世界は、今日、この瞬間から、一ノ瀬碧というたった一人の少女を映し出すためだけのものになったのだと。