Green Love ~青と翠が混ざり合う場所~

世界には、こんなにもたくさんの緑がある。

若草色、萌黄色、常盤色、深緑。 ひとくちに緑と言っても、そこに含まれる温度や匂い、光の反射の仕方は一つとして同じものはない。学校の裏手にある古びた温室の周りには、名前も知らない雑草や、手入れの行き届かない木々が、それぞれの意思を持つようにして青々と茂っていた。

高校二年生の春。

生徒たちの甲高い笑い声や、グラウンドから響くホイッスルの音から遠く離れたこの場所は、僕にとって唯一呼吸がしやすい、いわばサンクチュアリだった。僕――蓮見翠(はすみ みどり)は、父親から譲り受けた古い一眼レフカメラを首から下げ、ファインダーを覗いていた。

パシャリ、と静かなシャッター音が響く。

「・・・・・・うん、いい感じだ」

金属製の重たいボディと、指を押し込むたびに伝わる少し硬いシャッターの感触。そのわずかな反動が、僕をこの現実の世界に繋ぎ止めてくれる錨のように思えた。デジタルカメラのようにすぐその場で結果を確認することはできず、現像してみなければ本当の仕上がりはわからない。 それでも、ファインダーという小さな窓越しに切り取った世界は、いつもの退屈で息苦しい日常よりも、ほんの少しだけ特別で優しいものに見えた。

僕の所属する写真部は、部員が僕を含めて三人しかいない弱小部活だ。 他の二人は名前を貸しているだけの幽霊部員。 だから、放課後のこの時間はいつも僕の一人旅になる。

自分の名前に『翠』という漢字が入っているせいか、僕は気づけば緑色の景色ばかりを撮っていた。 クラスメイトたちが楽しそうに撮り合うような、色鮮やかな青春の風景には目もくれず、ただひたすらに静かな草木を追い求めている。他人が見れば、どれも同じような代わり映えのしない写真かもしれない。 けれど、僕にとっては一枚一枚、光の当たり方も、葉の揺れ方も違う、かけがえのない瞬間だった。

人間関係は複雑で、空気を読んだり、誰かに合わせて笑ったりするのはひどく疲れる。けれど、植物たちは何も求めてこない。誰とも深く関わらず、ひっそりとこの緑の世界に溶け込んで生きていけたら。そんな後ろ向きな願いを抱えながら、僕は今日も誰にも気づかれないように息をひそめ、シャッターを切っていた。

「よし、次は並木道の方に行ってみるか」

カメラを大切にバッグにしまい、僕は歩き出した。

校門を出てすぐのところにある緩やかな坂道。 そこは、道の両脇に立派な桜の木が並んでいる。 つい数週間前まではピンク色の花びらが舞い散る華やかな場所で、多くの生徒たちがスマートフォンを構えて群がっていた。けれど、今はすっかり葉桜になり、誰も見向きもしない生命力に満ちた鮮やかな「緑のトンネル」へと姿を変えていた。

祭りの後のような、この静けさが好きだった。花を散らした桜の木々が、誰に褒められることもなく必死に夏の準備を始めている、その不器用な逞しさがたまらなく愛おしい。

僕は歩道の中央に立ち、再びカメラを構える。 レンズの焦点を、少し遠くの、夕暮れ前の光が透過してきらきらと輝く葉の群れに合わせた。

その時だった。 息を止め、シャッターを押し込もうとしたファインダーの中に、予期せぬ『白』が飛び込んできた。

「あ………………」

僕は思わず、シャッターを切る指を止めた。

緑のトンネルの真ん中。 白いワンピースを着た一人の少女が、立ち止まって空を見上げていた。 圧倒的な緑に覆われた空間の中で、その白はあまりにも異質で、それでいてひどく鮮烈だった。

彼女はまるで、この世界の空気をほんの少しも取りこぼさないように深く深呼吸をして、頭上の葉桜を見つめている。その横顔は、どこか切実なものに飢えているようで、僕の目を強く惹きつけた。

風が強く吹いた。

彼女の長い黒髪が、新緑の葉と一緒にふわりと舞い上がる。 少女は眩しそうに目を細め、それから、いたずらが成功した子供のような、屈託のない笑顔を浮かべた。

ドクン、と胸の奥が大きく跳ねた。

完璧な構図だったから、というだけの理由じゃない。ただ、僕の狭く堅く閉ざされていた世界が、彼女のその笑顔によって強引にこじ開けられたような、そんな暴力的なまでの美しさがそこにあった。

脳が「撮ってはいけない」と理制するより先に、指が動いていた。 パシャリ。 金属的なシャッター音が、風の音に混ざって響く。

ハッとしてカメラから目を離したときには、少女はもう歩き出しており、こちらに背中を向けて坂道を下っていくところだった。

「 ・・・・・・綺麗な人だな」

僕はぽつりと呟き、自分の胸に手を当てた。 心臓が、さっきから妙にうるさい。

ただの通りすがりの人だ。 もう二度と会うこともないかもしれない。 僕の使う古いフィルムカメラにはデジタルカメラのような液晶画面なんてついていないけれど、脳裏には焼き付いたように彼女の笑顔が確かに残っている気がして、しばらくその場から動けずにいた。

それが、僕と彼女の、すべての始まりだった。

翌朝。

昨日の一件がどうしても頭から離れないまま、僕はいつものように重い足取りで2年B組の教室のドアを開けた。 教室はいつも以上に騒がしかった。 女子たちが色めき立ち、男子たちがそわそわと落ち着かない様子で廊下の方を気にしている。

「おい蓮見! 聞いたか?」

席に着くなり、前の席の佐藤が興奮気味に振り返ってきた。

「何が?」

「転校生だよ、転校生! しかも女子。噂によると、めちゃくちゃ美少女らしいぞ」

「へえ・・・・・・」

僕は興味なさげに返事をしながら、通学バッグからノートを取り出した。 この手の噂は大抵、尾ひれがついて大げさに言われているだけだと知っている。 それに、僕にとっては現実の騒がしい人間関係よりも、新緑の輝きや、昨日カメラに収めたあの白いワンピースの少女の残像の方が、よほど心を満たしてくれる大切なものだった。

やがて朝のホームルームのチャイムが鳴り、担任の松田先生が教室に入ってきた。

「よし、席につけー。静かに。・・・・・・お前たちの浮足立つ気持ちもわかるが、今日から我がクラスに新しい仲間が加わる。一ノ瀬、入ってきなさい」

ガラガラと音がして、前方のドアが開いた。 教室内が一瞬で静まり返る。 そして次の瞬間、小さな歓声とため息が漏れた。

「一ノ瀬碧(いちのせあお)です。前の学校からは遠く離れて、この街のことはまだ何もわかりませんが、早くみんなと仲良くなりたいです。よろしくお願いします」

鈴の鳴るような、透き通った声だった。 でも、僕が驚いたのはその声の響きのせいではない。

(あ・・・・・・)

僕は息を呑み、目を見開いた。

黒い髪、少し透き通るような白い肌、そして少しはにかむようにして浮かべた、あの向日葵のような笑顔。 昨日、新緑の並木道で、僕がファインダー越しにどうしようもなく惹かれてしまった――白いワンピースの少女だった。 今日は指定の制服を着ているけれど、間違いなく昨日の彼女だ。

「よし、一ノ瀬の席は・・・・・・あそこ、一番後ろの窓際、蓮見の隣だな」

先生の言葉に、ドクリ、と心臓が跳ね上がる。 彼女がこちらに向かってゆっくりと歩いてくる。 クラス中の男子たちの熱を帯びた視線が彼女を追い、そして必然的に、その隣に座っている地味な僕へと突き刺さるのがわかった。

まるでスローモーションのように、彼女の歩みだけが鮮明に見えた。近づいてくるたびに、春の風に混じる花のような、微かに甘い香りが漂ってくる。

碧さんは僕の隣の席まで来ると、荷物を机の上に置き、僕の方を向いた。

そして、いたずらっぽく目を細めて、誰にも聞こえないような小さな声で囁いた。

「・・・・・・見つけた」

「え?」

「さっきの、じゃなくて。昨日のカメラの男の子、だよね?」

「えっと……」

僕は声が裏返りそうになるのを必死に抑え、なんとか言葉を絞り出した。

「気付いて、たの?」

「うん。だって、すごく立派なカメラを持ってたから、目立ってたよ。それに……」

彼女は少しだけ身を乗り出し、声を一段と潜めた。その澄んだ瞳が、僕の目をまっすぐに射抜く。

「私の方に、一生懸命レンズ向けてたでしょ?」

心臓が止まるかと思った。勝手に盗撮したことを怒られるのだろうか。血の気が引き、言い訳を探して口ごもる僕を見て、彼女は小さく、けれどとても楽しそうに吹き出した。

「あはは、そんなに怯えないでよ。怒ってないから。むしろね、あんな風に誰かにカメラを向けられたの初めてだったから、どんな風に撮れたのか気になっちゃって」

「現像……まだしてないから。それに僕、人を撮るのは下手だから、うまく撮れてるかわからないけど」

「ふふっ。じゃあ、できあがったら一番に見せてね。約束だよ」

トクン、と心臓がひときわ大きな音を立てる。

彼女は僕のことを、確かに覚えていた。 そして、恐れることなく自分から、僕の頑なに閉ざされた狭い世界へと軽やかに踏み込んできてくれた。

新緑の季節。

僕の澱んで止まっていた世界が、彼女のそのたったひとつの言葉で、猛烈なスピードで動き始めた。