フィボナッチ

 翌日、継原はいつも通り教室にいた。当然だ。いつものように友達とお喋りをして、笑顔を振りまいている。

 ただ、俺とは一度も話さなかった。

 正確には、俺が話しかけられなかった。

 昨日考えた事をそのまま言えばいい筈なのに、いざ継原の横を通ると、どう話せばいいのか分からなくなって、尻込みしてしまう。

 結局、放課後になっても一言も話せないまま、継原は友達と教室を出ていった。

「・・・・・・情けな」

 誰に言うでもなく呟き、俺も帰る準備を始める。

 鞄を持って席を立ったところで、少し離れた机の下に黒いものが落ちているのが見えた。

 拾い上げると、定期入れだった。

「これ・・・・・・」

 机を見ると、さっきまでそこに座っていた男子は、もう教室にはいない。

 そのまま机の上に置いて帰ってもよかったが、駅まで行ってから気付いたら面倒だろう。

 俺は定期入れを持ったまま教室を出た。

 廊下にも姿はない。階段を下り、昇降口まで行くと、ちょうど靴を履き替えているところを見つけた。

「おーい」

「ん?」

 振り返ったそいつへ、定期入れを見せる。

「これ、お前の?」

「え?」

 一瞬ぽかんとしたあと、自分のポケットを確認して目を見開いた。

「うわ、俺のだ。どこにあった?」

「机の下」

「マジか。全然気付いてなかった」

 定期入れを渡すと、男子は安堵の表情を浮かべた。

「助かったぁ、ありがと」

「別に」

「いや、わざわざ持ってきてくれたんだろ?」

「まぁ、このまま帰ったら困るかなって」

「普通に困るわ。電車乗れんし」


 そいつは定期入れを鞄へしまうと、もう一度俺を見る。

「今度なんかあったら言って。その時は手貸すからさ」

 そう言って男子はニカリと笑う。

「・・・・・・」

 その言葉を聞いた瞬間、継原の声が頭に浮かんだ。

『もし返したいなら、今度誰か困ってる時に助けてあげればいいんじゃない?』

 あの時の俺は、なんでそれで返した事になるんだと思った。

 けれど今なら、少しだけ分かる気がする。

「別に。俺じゃなくてもいいよ。今度、誰か困ってたら、その時そっち助けてあげて」

「え、なんで? 俺がお前に助けてもらったのに?」

「うん」

 自分で言っておいて、妙な感じがした。

 少し前までの俺なら、たぶんこんな事は言わなかった。

「よく分かんないけど、まあ分かった」

「おう」

「じゃ、ありがとな」

 そいつは手を上げ、そのまま昇降口を出ていった。

 一人残され、しばらくその背中を眺める。

 別に俺がなにかを返してもらった訳じゃないのに、不思議と悪い感じはしなかった。

 継原が前に言っていた事を、ようやく少しだけ自分の言葉で言えた気がする。

 だったら。

 今度は本人にも、ちゃんと話さないといけない。


§


 翌朝。教室に入ると、継原はもう席に着いていた。

 友達と話している横顔を見ながら、自分の席に向かう。

 昨日と同じように、そのまま通り過ぎそうになって、

「継原」

 今度は呼び止めた。継原がこちらを見る。

「・・・・・・・・・・・・なに?」

「ちょっといい?」

「今?」

「出来れば」

 継原は少し迷うように俺を見たあと、友達に「ごめん、ちょっと行ってくる」と声を掛けて席を立った。

 すると近くにいた友達がニヤニヤしながら、「もしかして告白?」と小声で冷やかしてくる。

 そんな声を聞きながら廊下に出ると、継原が不服そうに唇を尖らせた。

「友達に誤解された、サイアク」

「悪い。でも大事な話だから」

 そう言うと、継原はそれ以上なにも言わずに後ろをついてくる。

 教室から少し離れたところまで移動し、改めて継原と向かい合った。

「・・・・・・・・・・・・」

「相原?」

「悪い、いざ目の前にすると言葉が出なくて」

「なにそれ。本当に告白?」

 呆れたような声だったけれど、昨日よりはいつもの継原に近かった。

 それだけで少し肩の力が抜ける。

「昨日は、ごめん」

「・・・・・・・・・・・・ん」

「ゼロって言ったやつ」

 継原は黙ったまま、続きを待っている。

「昨日の『貸し借りゼロ』って話さ、悪い意味で言ったつもりじゃなかったんだ」

 呼吸を整えてから二の句を継いだ。

「クラス新聞でお前に手伝ってもらっただろ。クリームパンとミルクティー渡しても、まだ足りない気がしてた」

「別に、私は満足してたけど」

「うん。でも俺の中では足りなかった」

「借りがある事が嫌だった?」

「それだけじゃない」

 俺が即答すると、継原は一瞬、目を見開いた。

「借りが残ってたのは確かだよ。でも、早く消したくて仕方なかったとか、そういうんじゃない」

「じゃあ、なに?」

「クラス新聞を手伝ってくれた事、本当に助かったし、嬉しかったんだよ。だから俺も、同じくらいお前の役に立ちたかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「昨日、最後まで手伝って、お前が助かったって言ってくれて。ちゃんと返せたって思ったら、俺も嬉しかった」

「嬉しかったの?」

「うん。だから借りを消したくて手伝ったんじゃなくて、お前にしてもらった分、俺もお前に返したかった」

「・・・・・・・・・・・・」

「その結果、前の分も返せた。だから『これでゼロだな』って思った」

 継原は少し俯いた。

「でも、昨日の言い方じゃ・・・・・・今までの事まで全部終わりみたいに聞こえた」

「うん。それは俺の言い方が悪かった」

「・・・・・・・・・・・・」

「俺が言ったゼロは、貸し借りが釣り合ったって意味だったんだ。お前との関係までリセットするとか、今までの事をなかった事にするとか、そういう意味じゃない。むしろ逆だよ。お前にしてもらった事をちゃんと覚えてたから、俺も返したいって思ったんだし」

 継原はしばらく黙っていた。

「じゃあ、昨日手伝ってくれたのも、クラス新聞のお返しが目的だった訳じゃないんだ」

「お前が困ってたから手伝った。終わってから、そういえばこれで前の分も返せたなって思っただけ」

「そっか」

 短い返事だったけれど、さっきより声が柔らかくなっていた。

「だったら最初からそう言ってよ」

「あの場でそこまで説明出来るかよ」

「『これでゼロな』よりはマシだったと思うけど」

「それは・・・・・・悪かった」

「うん」

「まだ怒ってる?」

「怒ってない」

「昨日と同じじゃん」

 継原が少しだけ笑う。

 その顔を見て、張っていた緊張がようやく少しほぐれた。

「それでさ。昨日、お前が帰ったあとに考えてたんだけど」

「なに?」

「この前、図書室でフィボナッチやっただろ」

「・・・・・・・・・・・・急に数学?」

「まあ聞けって。お前、あの時言ってただろ。前の数字が残ってるみたいだって」

「あぁ、言ったね」

「『前にあったものが、次の数字の中にも入ってる感じ』って。俺も同じだったんだよ」

「同じ?」

「傘も、休んだ日に送ってもらった写真も、クラス新聞も。俺はそのたびに返したつもりだった。でも、返したからってなくなってなかった」

 雨の日に一緒に歩いた事も、ミルクティーを嬉しそうに飲んでいた顔も、図書室での出来事も、全部覚えている。

「昨日、お前を手伝おうと思ったのだって、たぶんそういうのが俺の中に残ってたからだと思う」

 継原はなにも言わず、俺の話を聞いている。

「貸し借りはゼロになっても、そこまでの事までゼロになる訳じゃないんだな」

「うん」

「してもらった事は残るし、返した事も残る。そうやって次に続いてく」

「フィボナッチみたいに?」

「そういう事」

「相原も、数字に意味求めてるじゃん」

「お前にそういう見方があるって教えてもらったから、そう思えたんだと思う」

「そっか」

 そう言って継原は少しだけ満足気に笑った。

「それと俺、返す事自体はやめないから」

「え、そこは変わらないの?」

「してもらったら返したいし。返せたら嬉しい」

「うん」

「お前にしてもらった事なら、俺はお前に返したいと思う」

「・・・・・・・・・・・・」

「なんだよ」

「や、なんか告白みたいだなと思って」

「・・・・・・・・・・・・気のせいだろ」

「変な間があったけど?」

「気のせいだって」

「本当にー?」

 継原はニヤニヤ笑みを浮かべながら執拗に俺の顔を覗き込んでくる。俺はバツが悪くて顔を逸らす。

 やがて継原は追及をやめると、切り替えて言った。

「ねえ、相原」

「なに」

「今日、一緒に帰る?」

「・・・・・・帰る」

「ふふ。じゃあ、放課後待ってて」

 話を終えると、継原は教室へ戻っていく。

 俺もその後を追いながら、ふと図書室で見た数字を思い出した。

 1、1、2、3、5、8・・・・・・・・・・・・。

 貸し借りはゼロになっても、そこまでにあったものは残っている。

 前にあったものを抱えたまま、次へ続いていく。

 きっと、これからも。