フィボナッチ

 数日後の放課後。

 ホームルームが終わり、教室にいた生徒が次々と帰っていく中、継原だけは席を立つ様子がなかった。

 机の上いっぱいにプリントを広げ、その真ん中で何やら忙しそうにペンを走らせている。

 鞄を肩に掛けたところで気になり、継原の机に近づいた。

「なにしてんの?」

「ん? 委員会の資料」

 手元を覗き込む。

 なにかのアンケート用紙や集計表らしき紙が、机の上に何束も積まれていた。

「それ、今日やるの?」

「今日中にまとめないと駄目なんだよね」

「一人で?」

「一緒にやる子が今日休みでさ」

「うわ、面倒そう」

「他人事だと思ってー」

 そう言って笑いながらも、継原の手は止まらない。一枚確認しては、集計表に数字を書き込んでいく。

「どれくらい残ってんの?」

「これ全部」

「結構あるな」

「そうなんだよぉ。しかも今日、夜に予定あるからあんまり遅くまで残れなくて」

「じゃあ急がないと駄目じゃん」

「だから頑張っております」

 継原は再びプリントへ視線を落とす。

 俺は一瞬、そのまま帰ろうと思ったが、机の上に積まれた紙の束に目がいく。

「俺、手伝おうか?」

 口にしてから、自分でも少し意外だった。

 継原も同じだったらしく、ペンを止めて顔を上げる。

「え?」

「その顔なんだよ」

「いや、相原から言うんだと思って」

「別にいいだろ」

「いいけどさ。でも」

 継原はまだ少し不思議そうに俺を見る。

「相原の仕事じゃないよ?」

「知ってる」

「結構面倒だよ?」

「っぽいな」

「それでも手伝うの?」

「なに、手伝ってほしくないの?」

「そんなんじゃないって。でも本当にいいの?」

「いいよ。二人でやった方が早いだろ」

「それはそうだけど。じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 継原は机の上のプリントを二つに分けると、そのうち一束を俺へ差し出した。

「じゃあ、こっちのクラス分お願い。アンケートの答えを項目ごとに数えて、こっちの表に書いてくれればいいから」

「正の字で数える感じ?」

「そうそう」

「了解」

「数え間違えないでね」

「いきなりプレッシャーかけんなよ」

「後で全部やり直しになるの嫌だから」

「手伝ってもらう側の態度じゃないだろ」

「でも大事な事なので」

「へいへい」

「今ならまだ帰ってもいいよ?」

「もうやるって言ったからやる」

 近くの椅子を引き寄せ、継原の向かいに座る。

 継原は一瞬、呆気に取られながらも、やがてクスリと笑った。

「相原は優しいなぁ」

 俺は聞こえなかったフリをしながらアンケート用紙を一枚ずつ確認し、該当する項目へ正の字を足していく。

 単純な作業ではあるものの、量は多かった。

「ていうか、意外」

「なにが?」

 おもむろに継原が言うので、俺は一度手を止めて視線を向ける。

「前に私が友達の作業手伝ってた時、相原『それ、お前の仕事?』って言ってたのに、手伝ってくれるんだなって」

「それは、お前がこの後用事あるって言うから」

「言ってなかったらそのまま帰ってた?」

「・・・・・・・・・・・・」


 もし継原にこの後の予定がなかったとしても、あの紙の山を一人で片付けているところを見たら、たぶん俺は同じ事を言っていた気がする。

「なに、その間」

「うるさい。手動かせよ。時間ないんだろ?」

「誤魔化したね」

「数え間違えるぞ」

「へいへい」

 継原は意趣返しを決めて、どこか楽しそうに笑うと、再びアンケートへ視線を落とした。

 俺もそれ以上はなにも言わず、手元の紙に目を戻す。

 しばらく二人で黙って作業を続けていると、継原がこちらの集計表を覗き込んできた。

「相原、そこ一人多くない?」

「え?」

「この項目。合計三十二人になってる」

「クラス三十一人だろ?」

「だから一人増えてる」

「マジか」

 集計表とアンケート用紙を見比べる。

「ほら、ここ二回数えてる」

「ほんとだ」

「危なかったね」

「お前もちゃんと合ってるんだろうな」

「もちろん」

「怪しい」

「失礼な」

 そんなやり取りを挟みながら作業を進める。

 途中、俺が同じ紙を二度数えて継原に笑われたり、逆に継原の合計が一つ合わないのを俺が見つけたりしながら、それでも二人でやれば紙の束は思っていたより早く減っていった。

「これで最後。一応確認する」

 二人でもう一度集計表を見直し、各クラスの人数と合計が合っている事を確かめる。

「・・・・・・・・・・・・三十一、三十二、三十。全部合ってる」

「よし。じゃあ次」

「まだあるの?」

「当然です」

 終わったつもりで伸ばしかけた背中を戻す。

「今の数字を資料にまとめないと」

「それ、先に言えよ」


 継原が笑いながらノートパソコンを開き、集計した数字を表に入力していく。

 俺はその横で集計表を読み上げたり、数字に間違いがないか確認したりしながら、空いている部分の文章も一緒に見直した。

「ここの三十七パーって合ってる?」

「ちょっと待って。十二人だから・・・・・・」

「三十八じゃない?」

「ほんとだ」

「危な」

「相原、今日二回目だからね?」

「お互い様だろ」

「私はまだ一回ですー」


 入力を終える頃には、窓の向こうは夕日の色が随分濃くなっていた。

「これで完成?」

「一回印刷して、先生に見てもらう」

「まだ終わらないのかよ」

「もうちょっとだから」

「その台詞、信用ならないんだけど」

「大丈夫。多分」

 二人で資料を印刷し、そのまま職員室まで持っていく。

 担当の教師に確認を頼むと、数分後には赤ペンでいくつか印が付けられて戻ってきた。

「修正あるじゃん」

「あるねぇ」

「『もうちょっと』とは」

「想定外です」

 便利な言葉だ。

 教室へ戻り、指摘された箇所を直していく。

 一つ修正すると数字の位置がずれ、そこを直せば今度は文章の収まりが悪くなる。

「これ、一個直したら一個増えてない?」

「気のせい気のせい」

「絶対気のせいじゃない」

 イタチごっこのような作業に苦しめられつつ、ようやく全部直し終え、もう一度印刷する。

 再び職員室へ持っていき、今度こそ教師から了承をもらって教室へ戻った頃には、時計の針は六時を少し過ぎていた。

「終わったぁ・・・・・・」

 継原が机へ突っ伏す。

「お疲れ」

「ほんとに助かった。相原いなかったら絶対終わってない」

「だろうな」

「そこは謙遜するとこじゃない?」

「いやマジで自画自賛したいレベルで頑張ったもん俺」

「それは否定しない」


 そう言って継原が笑う。

 俺も椅子の背にもたれながら、完成した資料を眺めた。

 帰るつもりだったのに、アンケートを数えて、資料を作って、職員室まで何度も往復して、気付けばこんな時間まで残っている。

 慣れない作業に頭も体もクタクタだったが、でも不思議と心地よい疲れだった。

 完成した資料を眺めていると、さっきまで何度も書き直していた数字や文章が、ようやく一つの形になっている。

 これで継原も、夜の予定に遅れずに済むだろう。

 途中で面倒にならなかったと言えば嘘になるけれど、それ以上に、継原が困らずに済んだ事の方が大きかった。

 その時、ふとクラス新聞を作った日の事を思い出した。

 あの日は逆だった。

 一人で終わらせるつもりだった俺のところに、継原が勝手に椅子を持ってきて、一時間以上残って手伝ってくれた。

 翌日にクリームパンとミルクティーを渡したものの、あれだけ助けてもらった事を考えると、それでもまだ少し軽い気がしていた。

 けれど今日は、アンケートを数えて、資料をまとめて、職員室を何度も往復して、最後まで一緒に残った。

 継原も、あの時の俺と同じくらい助かったと言っている。

 だったら。

 胸の奥に残っていた小さな引っ掛かりが、ようやく取れたような気がした。

 俺も、ちゃんと返せた。

「継原」

「ん?」

 鞄へ資料をしまっていた継原が顔を上げる。

 俺は少しだけ笑った。

「これで貸し借りゼロな」

 言った瞬間、継原の手が止まった。

「・・・・・・え?」

「クラス新聞。長い事、手伝ってもらっただろ。クリームパンとミルクティーだけじゃ、まだちょっと軽いと思ってたんだけど、今日これだけ手伝ったなら、さすがに釣り合っただろ」

 ようやく返せた。今度は俺が継原の役に立てた。

 そう思っていたのに、継原はなにも言わなかった。

「継原?」

「・・・・・・そっか」

 小さく呟き、視線を落とす。

 さっきまで嬉しそうに笑っていた筈なのに、明らかに声の調子が違った。

「なに?」

「別に」

「いや、別にって顔じゃないだろ」

 継原は少し黙る。

「相原は、今日ずっとそのつもりだったの?」

「そのつもり?」

「私に借りを返す為に手伝ってたの?」

「いや、そんな事途中まで考えてなかったよ」

 そこは即答出来た。

 継原が困っていたから声を掛けた。一人で終わりそうになかったから手伝おうと思ったし、途中で帰るつもりもなかった。

「じゃあ、なんで今のがお返しになるの?」

「なんでって・・・・・・結果的に前の分も返せたなら、それでいいだろ」

 継原はしばらく黙っていたが、やがて鞄のファスナーを閉めた。

「・・・・・・なら、いいよ」

「え?」

「これでゼロ」

 その言い方が妙に引っ掛かった。

「・・・・・・なんで怒ってるんだよ」

「怒ってない」

「怒ってるだろ」

「怒ってないって」

 鞄を肩へ掛け、俺の横を通り過ぎようとする。

「継原」

 呼び止めると、足は止まった。

 けれど、こちらを振り返ろうとはしない。

「なにが嫌だったんだよ」

 少しの沈黙。

 やがて継原が、背中を向けたまま口を開いた。

「・・・・・・私、ゼロにしたかった訳じゃない」

「え?」

「傘も、休んだ日に送った写真も、クラス新聞も。相原に返してほしくてやったんじゃないよ」

「それは分かってるけど」

「分かってないよ」

 思っていたより強い声だった。

 継原が振り返る。

「相原が誰かになにかする時は、『俺が勝手にやっただけ』って言うじゃん」

「・・・・・・・・・・・・」

「なのに、私が相原にした事だけ、なんで全部借りになるの?」

 答えられなかった。

 少し前までなら、俺がしてもらった側だから、と迷わず言えたと思う。

 けれど今は、それだけではなにかが足りない気がした。

「今日だってそう。相原が手伝ってくれて、すごく嬉しかった」

 継原は一度言葉を止める。

「なのに最後に『これでゼロ』って言われたら、今日の事まで、今までの事を消す為にやったみたいじゃん」

「消すって・・・・・・そんなつもりじゃないんだけど」

「相原はそうじゃなくても、私はそう聞こえた」

 教室が静かになる。

 廊下の向こうから運動部の声が聞こえているのに、この場所だけが妙に遠く感じた。

「私は・・・・・・」

 継原がなにかを言いかけ、唇を閉じる。

 それから、寂しそうに言った。

「私は、返してほしくて一緒にいたんじゃないんだけどな」

 胸の奥に、その言葉が強く引っ掛かった。

「それって・・・・・・」

「もういい」

 継原は今度こそ鞄を持ち、教室を出ていった。

 追い掛けようとして、一歩だけ足を動かす。

 けれど、なにを言えばいいのか分からなくて、その場で止まった。

 返したかった。してもらった事を、そのままにしたくなかった。

 今日、継原の役に立てた事だって、ちゃんと嬉しかった。

 だからこそ、ようやく釣り合ったと思ったのに。

「・・・・・・なんでだよ」

 誰もいなくなった教室で呟く。

 これでゼロ。

 いつもなら、気持ちのいい言葉だった筈なのに。

 今はなぜか、なにかをなくしたような感覚だけが残っていた。