「行ってきまーす」その一言で今日も、同じ駅を何度も回る電車みたいに退屈な1日が始まった。改札を抜けて、決まったように歩いて決まったところに立つ。見慣れた車両が来て、見慣れた顔ぶれが乗り込んでいく。揺れにもアナウンスにも新しさはなく、窓の外の景色まで昨日の続きみたいだった。最寄り駅で降りてもその調子で、空気までもがくたびれ、今にも勘弁してくれと言ってきそうな気がした。制服の群れについて歩いて、校門をくぐる。昇降口の乾いた土と木の匂いでやっと、今日も学校に来ているんだなと自覚する。
教室に入るとみんな何かの賞でも取ったみたいに楽しそうに過ごしている。残念ながら私にはそんなふうにできる友達もいなければ性格でもないので空気みたいに自分の席で本を読む。でもそれでいい。私は本が大好きだ。自分の平凡な毎日をかき消してくれるような、誤魔化してくれるような薬。私は昔そうではなかった。いっぱい友達がいて、毎日学校で恋愛だの先生の特徴、転校生の噂だと、いろんな話をして楽しんでいた。でも今はこんなのだ。クラスメイト全員言ってと言われても言えない。喋ったことない人のほうが多い。喋ると言っても委員会一緒ですねよろしくお願いします。とかくらいしかない。毎日、ほんと嫌になってあきらめての繰り返し。あんなに自分の弱さに打ちひしがれなければ。そんなことを考えながら悲しいような楽しいような一人の本の世界を楽しんでいると、朝の会が始まって先生が言った。「今日は翠さんの誕生日です。おめでとう。」その言葉を聞いてハッとした。そうだ、私誕生日だ。すっかり忘れていた。今日で私は17才。自分がどうでも良すぎて、諦めすぎていて誕生日も忘れるとはさすがにびっくりする。もう高校も卒業か。
大人になるってどんなだろう。
放課後、真っ先に家に帰ると、かあさんが言った。厳密に言うと母の妹だが、そこはどうでもいい。私を育ててくれた、だいじな人だ。
「今日翠ちゃん誕生日でしょ?これ。お友達からかな?さっき郵便で来たの。」それは、Happy Birthdayと書いてある桜柄のクッキー缶だった。こんなのくれる友達いたっけ?と思いながらも部屋で開けみると、古くさい何かの列車の切符みたいなのと、手紙が入っていた。誰かわかるかもしれないと思い、手紙をあげてみると、―翠へ 久しぶり。そしてお誕生日おめでとう。貴方に、一度きり、死者に会える切符をあげます。使いたいときに、さくら公園の木の下で待っていてください。そして何より、会いたい人に会いなさい。正解なんてないのだから。 桜子より―声もでなかった。桜子は、私がまだ幼いときに亡くした本当の母親の名前だ。なんで?その言葉に尽きる。まずまず死者から贈り物が届くわけがないし、私には母について覚えていることもあまりない。でも一つだけ、覚えているおいたほうがいいなと、幼い私でも思った言葉があった。それは、ある日小説家だった母が、いつものように机にかじりついて小説を書いているため、なんでいつもなんか書いてるの?と言うと教えてくれたものだった。「小説ってね、ジェンガみたいなものなの。自分の頭のなかにある知識を一個ずつ引っ張り出してきて、それをきれいに並べていくのを何度も積み重ねる。人によって考え方はバラバラだけど、人の心を掴む、読んでもらう、という目的は同じ。その正解のない一つ一つの旅が面白いのよ。」と。今でも鮮明に覚えている。でも私は、正解のない問いがどうしても嫌いだった。人と違うと気を使われるもの。そんなもの正解とは言わない。だから私は誰に会うのがいいのか、正解探しの旅を始めることにした。
「会いたい人。ねぇ…」夜、ベッドの上で寝ることも忘れて考える。と言っても思い出したくない人がさっきから勝手に頭に浮かんでいる。私を置いていったのに、最期まで私のことを愛していたずるい人。忘れたいけど忘れられない人。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「おーい!!翠ー?おっはよー!!!」「おはよ」これがいつものルーティーン。超1軍で何でもできる優真と、軍の枠外で、ほぼ空気みたいで、もし死んでも誰も気づかないくらいちっぽけな人間。普通交わることのないはずの2人が、なぜかカップルになってしまっている。優真とは中学の時からずっとお付き合いさせてもらっていて、ほぼ家族みたい。肉親がおらず、ずっと気を使われ続けている私からしたらとっても嬉しい。そんなことを考えていると、いつものように私の顔を、初めて世界の色を知りました!みたいな顔で覗き込んでニヤッとして。
「あー!まーた何か考えてるでしょ!!翠っていつもなんか考えてるよなー。でもいっつもわかんなーい。ま、いっか、今日アイス食べよー!」その無邪気で純粋な顔元気をもらうけどそんなこと言えなくて、
「何でもない。」って言う。素直にならなきゃと思うのにできない。思っていたのに。ある日から、優真のいつもの元気がなくなっていく。聞いてみでも大丈夫の一点張り。そのうち優真は学校にも来なくなり、音信不通になってしまった。今思ればその時にどうにか会ってばよかった。ちゃんと聞いておけばよかった。でもその時の私はそれをしなかった。怒っていたのかもしれない。バカだったなぁと思うけど今思っても意味がないのが一番悲しくなる。別れは突然だった。ある日、優真の親から病院に来いと言われて行った。何となく想像もしたくない考えないようにしていたことが脳裏に浮かんだが、ドンピシャに当たってしまった。“優真が死んだ”泣きじゃくる家族の声、悲しみに暮れる医師の眼差し。その顔をよそに、私は涙の一粒も流れなかった。悲しいとか残念とかそんなものよりも先に、自分への諦めが表れた。その時初めて私は気づいたのだ。今まで何をやっていたのか。と。理由も聞かずに勝手に勘違い勝手に怒って。もう私はダメなんだなと思った。帰り際、優真からの最後の手紙を受け取った。家に帰って見てみると、それは優真なりの気持ちがしっかり書いてある悲しい手紙だった。―翠へ この手紙を読んでいるということは、僕はもう死んでるってことか。まず初めに本当のことを言わなくて勝手に離れてごめんなさい。僕は一ヶ月くらい前、余命宣告をされていました。本当はもっともっと先に言っておくべきだったと分かっているんだけどそれがいいのか悪いのかも分からず言えませんでした。このまま嫌いになってもらおうかなとか思ったけどそれも無理でした。わがまま言ってごめんなさい。でも僕は嫌いになったわけでもないし翠のせいでもないから自信を持ってこれから生きてください。こんな終わり方したくなかったけどごめんなさい。本当に大好き。今までありがとう。 優真。―大きな涙が何粒も何粒も溢れた。とにかく悲しい。今思い出しても涙が出る。だから私は決めた。明日優真に会いに行こう。そして私は目を瞑った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
暗い暗い森の中。綺麗な湖だけが光っていて、本の中みたいな、天国みたいな。私はその湖の真ん中に立っていた。少しすると、白くて人の形をした光がやってきて私に言った。「こんにちは。」雷に打たれるかのようにハッとした。優真だ。「…優真?」
「うん。久しぶり、翠。」
いつもと変わらない笑顔だった。
学校で私を見つけるたびに、まるで宝物でも見つけたかのように駆け寄ってきた、あの笑顔。何度も夢に見た。もう一度だけでいいから、その笑顔を見たいと願った。それなのに。「……なんで。」「ん?」
「なんで、そんな普通なの……?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「だって、私……ずっと……。」
言葉が出てこない。
ずっと会いたかった。ずっと謝りたかった。ずっと、ずっと、会えなくなったあの日から時間が止まったままだった。なのに、目の前の優真は、昨日も一緒に帰ったみたいな顔をしている。
「翠。」
優真が一歩、私に近づいた。
「ごめんね。」
その一言で、張り詰めていた何かが切れた。
「……謝んないでよ。」
「うん。」「私、優真のこと嫌いになんかなれなかったよ……。なのに、勝手に怒って、勝手に距離置いて……。最後に会ったときだって、ちゃんと話さなかった。私、最低だよ……。」
優真は何も言わずに聞いていた。
「私がもっとちゃんとしてたら、最後くらい……。」
「それは違うよ。」
優真の声は、思っていたよりもずっと優しかった。「何を言えば正しかったのか。どうすればよかったのか。あのとき、別のことをしていたらって。ずっと考えてる。」
「……だって。」
「うん。分かるよ。」
優真は少し困ったように笑った。
「でもさ、僕たちって、そんなに正解ばっかり選んで生きなきゃいけないのかな。」
「……え?」
「僕だって、正解なんて分からなかったよ。翠に病気のことを話すべきだったのか、黙っていたほうがよかったのか。最後までずっと迷ってた。」「でもね、翠と付き合ったことだけは、間違いだったなんて思ってないよ。」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「翠と出会えてよかった。一緒に帰ったことも、くだらない話をしたことも、翠が本を読んでる横で僕がちょっかい出したことも。全部、僕の宝物だから。」優真が笑う。
「だから、翠もさ。僕とのことを、後悔だけでいっぱいにしないでほしいんだ。」私は何も言えなかった。「僕がいなくなったことは、悲しいままでいいんだよ。無理に忘れなくていいし、無理に前を向かなくたっていい。でも、僕といた時間まで、間違いだったことにしないで。」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「……優真に、会いたかった。」
「うん。」
「ずっと、会いたかった……。」
「うん。僕もだよ。」
優真は、いつものように少しだけ首を傾けた。
「……ねえ、翠。」
「なに?」
「本当は、もう一人、会いたい人がいるんじゃない?」覚えていることは少ない。声も、顔も、もう曖昧になりかけている。それでも、あの時に聞いた言葉だけは、ずっと心の奥に残っていた。
――正解のない一つ一つの旅が面白いのよ。
「……でも、私お母さんのこと、ほとんど覚えてないんだよ。」
口にした途端、胸の奥にしまい込んでいた気持ちがあふれ出した。
「会いたいのかどうかだって、分からない。だって、優真のことは覚えてる。いっぱい思い出がある。でも、お母さんは……。会ったって、何を話せばいいのか分からないよ。それなのに、会いに行くのが正しいのかな……。」「正解なんて考えなくてもいいんじゃない?ただ純粋に会いたいと思った。それで十分だと思う。完璧なんてないんだよ。」優真の姿が、少しずつ光に溶け始める。
「翠!」
遠ざかっていく声に、私は顔を上げた。
「本、ちゃんと読むんだよ! それで、いつか僕のことも小説にしてよ!」
「……何それ!」
泣きながら笑った。
「優真のことなんて、書かない!」
「えー! ひどっ!」
最後まで、優真は優真だった。
光が消える直前、彼はもう一度だけ、私に向かって笑った。
「大好きだよ、翠。」そして、湖には再び静寂が訪れた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
悲しくないわけじゃない。
寂しくないわけでもない。
だけど、さっきまでのような、どうしようもない後悔だけが胸を埋め尽くす感覚は、少しだけ薄れていた。
私は空を見上げた。
会いたい人に会いなさい。
正解なんてないのだから。
「……お母さん。」
今度は、ちゃんと自分の気持ちで決めた。
「私、会いに行くね。」
そうつぶやくと、湖の向こうに、桜の花びらが一枚、ゆっくりと舞い降りた。
「夢?」朝起きて私は、夢に背中を押されながら、一歩一歩を踏み出していった。
何分くらい待っただろう。不思議な列車が現れた。見るからに古そうな、線路もないのに走る列車。私はそれに吸い込まれるように乗っていた。中には私以外に、夢に出てきた優真みたいな光の人がいっぱいいた。駅員さんも光みたいな人で、その人に古びたチケットも渡すと黙って通してくれた。とりあえず空いている席に座った。しばらくするとドアが開いて、みんな出ていったので私もそれについて行った。降りるとすぐに私の前に扉が2つ現れた。1つは優真。もう一つは桜子と書いてあった。私は迷わず、深呼吸を一つして扉を空けた。開けると昨日と夢みたいに神秘的な白い森が現れた。そこにピンク色の桜だけ色があって、とてもきれいに舞っていた。しばらくすると、一人の女性が座っていた。その人は、私みたいにちゃんと色があって、生きてるみたいだった。
「よく来たね。」私を見ていった。
「…お母さん?」
いざ会った瞬間、今まで考えていたことが一気にとんで、唯一絞り込んでいった言葉がそれだった。でもその緊張はなぜかすぐに消えて、安心した雰囲気になった。
「来てくれてありがとう。いつも見守ってたよ。」
「私、ずっと会いたかった。」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「うん。」
お母さんは優しくうなずいた。
「ずっと、ずっと会いたかったの。話したいことも、聞きたいことも、いっぱいあったのに……いざ会えたら、何も言えなくなっちゃった。」
笑おうとしたのに、声が震えた。
お母さんは少しだけ目を細めて、私の頭をそっとなでた。
「いいんだよ。会いに来てくれたことが、お母さん一番うれしい。大変だったねぇ今まで。」
「…え?」
「お母さんいつも気にかけてたからちょっとだけ知ってるの」
その言葉に、胸がじんわりとした。
本当は言いいことがたくさんあった。学校のこと、最近あったこと。あの人のこと。
「私ね、本当は最初、違う人に会ううつもりだったの。」
「そうだよね。ようここまで来たよ。“頑張ったね”」
私が言って欲しかった言葉。ずっと求めていた言葉。
誰かに頑張ったねって言ってほしかった。寂しかったねって、つらかったねって、抱きしめてほしかった。
だけど、そんなことを言ったら、弱い自分を認めてしまう気がして。だからずっと、平気なふりをしてきた。「……うん。」
やっとのことで返事をすると、お母さんは両腕を広げた。
「おいで、翠。」
私は心からの笑顔で、思いっきりとんで行った。
暖かかった。
もうないと思っていたものが、今たしかにここに存在していた。
「お母さん…っ」
声にならない声で言う。
「私寂しかったんだよ。」
「お母さんも。できることなら翠の中学校、高校、大学、そして大人になるまで全部見たかった。」
お母さんの声が、ほんの少しだけ震えた。
「こんなに大きくなってくれて。今日まで生きてきてくれて、本当にありがとう。」
その言葉を聞きながら、私はお母さんの服をぎゅっと握りしめた。
ずっと、この時間が続けばいいと思った。
話したいことは、まだたくさんある。聞きたいことだって、まだ残っている。
でも、ふと頭の片隅に浮かんだ。
この時間には、終わりがあるのだろうか。
もし、あるのなら。聞かないといけない。ずっと心の奥にしまい込んでいた、たったひとつの質問を。
「……ねえ、お母さん。」
私はゆっくりと顔を上げた。
「私、これからどうやって生きていけばいいの?」
お母さんは、すぐには答えなかった。
ただ私の頬に手を添えて、まっすぐに目を見つめた。
そして、あの日と同じ優しい笑顔で言った。
「翠。私がなんで、17才の誕生日に渡したのかわかる?」
黙っていると、お母さんが続けた。
「17才はね、大人になる前の最後の子供時代なの。大人は大変よ。自分の人生全部自分で決めて行く。翠の人生はこれから始まるんだよ。正解がない人生をあなたが1つずつ一文字ずつ描いていく。だからね翠思う存分生きなさい。」
その言葉は、思っていたよりもずっと優しかった。私はこんなに愛されているんだなと思った。
「お母さん?」私はかすかに、お母さんの手が透け始めているのに気がついた。お母さんもそれに気がついて言った。
「あぁ翠。私はもうすぐあなたにさよならしないといけないみたい。」
「やだよ。そんなのやだ。」本気で出そう思った。
もう二度と会えないから。
「大丈夫。私はあなたのことずっと応援している。この思い出が残り続ける限り、いつも私はその中にいる。」
「そっか。そうだよね。私頑張る。ちゃんと応援しててね。」お母さんは笑って私の両手を掴んだ。
「あなたの物語よ。精一杯楽しみなさい。お母さんのところに来てくれてありがとう。またいつか、きっと会えるわ。」
「うん。」私は静かに扉を開けた。最後に振り返って精一杯のハグをして。
扉から出るとそこは、いつもの公園の桜の木の下だった。
でもそれは、いつも見ているのに、なぜか綺麗で、美しかった。私はその桜に背中を押されるように踏み出していった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あれから、一年が経った。
桜の花びらが舞っていたあの日から、もう一年。あんなにも長く感じていた時間は、気づけば驚くほどあっという間に過ぎていた。
窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。カーテンの隙間から差し込む朝日が、机の上に置かれた一枚の写真を照らしていた。
そこには、幼い頃の私と、お母さんが写っている。
写真の中のお母さんは、今にも笑い声が聞こえてきそうなくらい、楽しそうに笑っていた。
「……おはよう。」
誰に向けるでもなく、私は小さくつぶやいた。
以前の私なら、こんな朝は来なかったと思う。
目を覚ますたびに、どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのだろうと考えていた。大切な人を失うことが、どれほど苦しいことなのか。どうして、会いたいと願う人に限って、もう会えなくなってしまうのか。
考えても答えなんて出ないのに、私は何度も同じことを考えていた。
お母さんがいなくなったときもそうだった。
そして、優真がいなくなったときも。
大好きな人がいなくなった世界は、私が知っている世界とはまるで違って見えた。昨日まで当たり前だった景色が、急に色を失ってしまったような気がした。
でも、あの日。
私はお母さんに会った。
ずっと会いたくて、ずっと話したくて、ずっと聞きたかったことを、ようやく伝えることができた。
本当は、もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。できることなら、もう一度だけでも抱きしめてほしかった。
けれど、どれだけ願っても、あの時間が永遠に続くわけではなかった。
別れ際、お母さんは私の手を優しく握って言った。
「翠。これから、あなたがどんな道を選んでも、お母さんはあなたのことを応援しているからね」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣いてしまった。
「……うん」
それしか言えなかった。
もっと気の利いた言葉を伝えたかったのに、結局、最後まで私はお母さんに甘えてばかりだった。
それでも、お母さんは笑っていた。
まるで、私が泣き虫なのも、強がりなところも、全部知っているみたいに。
そして、私の頭を優しくなでてくれた。
その温もりを、私は今でも覚えている。
あの日を境に、私は少しずつ変わり始めた。
もちろん、次の日から突然、何もかもが平気になったわけではない。
ふとした瞬間に、お母さんのことを思い出して泣きたくなる日もあった。街で親子が楽しそうに歩いているのを見て、うらやましくなることもあった。
優真のことだって、簡単に忘れられるはずがなかった。
駅のホームで似たような後ろ姿を見かけると、思わず目で追ってしまう。好きだった曲が流れてくれば、隣で笑っていた優真の顔が浮かんでくる。
もう隣にはいない。
その事実は、何度確かめても変わらなかった。
それでも私は、少しずつ気づき始めていた。
忘れることと、前に進むことは、同じではないのだと。
優真を忘れなくてもいい。お母さんを思い出して泣いたっていい。
大切な人たちとの思い出を抱えたまま、私は私の人生を歩いていけばいいのだ。
そう思えるようになっただけで、世界はほんの少し、明るくなった気がした。
そして今日。
私は十八歳の誕生日を迎えた。
机の上には、小さなケーキが置かれている。ろうそくは十八本。火をつけると、部屋の中に温かな光が広がった。
「十八歳か……」
自分で言ってみても、まだ実感が湧かない。
去年の今日、私は十七本目のろうそくを前にしていた。
あの頃の私は、これから自分がどうなってしまうのか、まるで分からなかった。
ただ、大切な人に会いたかった。
もう一度だけ声を聞きたかった。
伝えられなかった言葉を伝えたかった。
その願いをかなえるために、あのとき私はあの不思議な切符を手にした。
そして、たくさん悩んで、迷って、最後にはお母さんに会うことを選んだ。
あの選択が正しかったのか、今でも時々考える。
もし優真に会っていたら、私はどうなっていたのだろう。
後悔しなかっただろうか。
もっと違う未来があったのだろうか。
けれど、考えたところで答えは出ない。
お母さんが言っていたから。
正解はないのだから、と。
私は十八本のろうそくを見つめた。
一本一本の小さな炎が、揺れながら輝いている。
その光を見ていたら、なぜだか無性に、さくら公園へ行きたくなった。
あの日、私が最後の答えを選んだ場所。
お母さんと過ごした、忘れられない場所。
私は上着を羽織り、家を出た。
久しぶりに歩く道は、あの頃と何も変わっていなかった。
いつもの交差点。見慣れたコンビニ。通学路の途中にある、小さな花屋さん。
だけど、私の心の中は、あの頃とは少し違っていた。
以前は、どこへ行っても失ったものばかりを探していた。
お母さんがいたら、何と言ってくれただろう。
優真がいたら、隣でどんな顔をしていただろう。
そんなことばかり考えていた。
でも今は、目の前にある景色も、誰かの笑い声も、道端に咲く小さな花も、ちゃんと目に入るようになっていた。
私は、今ここにいる。
それだけのことが、少しだけうれしかった。
さくら公園に着くと、風が吹いた。
木々の枝には、淡いピンク色の花が咲いていた。地面には、風に運ばれた花びらが静かに積もっている。
私はゆっくりと歩き、ベンチに腰を下ろした。
あの日と同じ場所。
けれど、隣にお母さんはいない。
私は空を見上げた。
「お母さん。私、十八歳になったよ」
声に出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ちゃんとご飯も食べてるし、学校にも行ってる。たまに落ち込むこともあるけど……それでも、毎日頑張ってるよ」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出てきた。
まるで、すぐ隣にお母さんが座っていて、いつものように話を聞いてくれているみたいだった。
「それからね、優真のことも、まだ大好きだよ」
少しだけ、笑ってしまった。
「でもね、最近は思い出すたびに悲しくなるだけじゃなくなったんだ。優真と一緒にいた時間は、ちゃんと私の中に残ってるんだって、思えるようになったの」
風が吹き、花びらがひとひら、私の膝の上に落ちた。
私はそれをそっと手に取った。
「だから、もう少し頑張ってみるね」
言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。
悲しかったからなのか、うれしかったからなのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、涙を拭いながら、私は笑っていた。
お母さん。
私は今でも、あなたに会いたい。
優真にも、もう一度会いたい。
それは、きっとこれからも変わらない。
でも、会えないからといって、私の人生まで止めてしまう必要はないのだ。
大切な人がいたこと。
愛してくれる人がいたこと。
一緒に笑って、泣いて、過ごした時間があったこと。
それだけで、私はこれからも生きていける。
私は立ち上がり、もう一度だけ、公園を振り返った。
「行ってきます、お母さん」
今度は、ちゃんと前を向いて言えた。
返事はない。
それでも、風に揺れる桜の枝が、まるで優しく手を振ってくれているように見えた。
帰り道、私は空を見上げた。
空はどこまでも青く、明るかった。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
うまくいかないこともあるだろう。泣きたくなる夜も、きっとあるだろう。
それでも私は、歩いていく。
お母さんがくれた言葉を胸に。
優真と過ごした思い出を胸に。
そして、これから出会う人たちとの未来を信じて。
十七歳の私が選んだ道は、ここで終わりではない。
十八歳になった私の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
正解なんてないけれど。
教室に入るとみんな何かの賞でも取ったみたいに楽しそうに過ごしている。残念ながら私にはそんなふうにできる友達もいなければ性格でもないので空気みたいに自分の席で本を読む。でもそれでいい。私は本が大好きだ。自分の平凡な毎日をかき消してくれるような、誤魔化してくれるような薬。私は昔そうではなかった。いっぱい友達がいて、毎日学校で恋愛だの先生の特徴、転校生の噂だと、いろんな話をして楽しんでいた。でも今はこんなのだ。クラスメイト全員言ってと言われても言えない。喋ったことない人のほうが多い。喋ると言っても委員会一緒ですねよろしくお願いします。とかくらいしかない。毎日、ほんと嫌になってあきらめての繰り返し。あんなに自分の弱さに打ちひしがれなければ。そんなことを考えながら悲しいような楽しいような一人の本の世界を楽しんでいると、朝の会が始まって先生が言った。「今日は翠さんの誕生日です。おめでとう。」その言葉を聞いてハッとした。そうだ、私誕生日だ。すっかり忘れていた。今日で私は17才。自分がどうでも良すぎて、諦めすぎていて誕生日も忘れるとはさすがにびっくりする。もう高校も卒業か。
大人になるってどんなだろう。
放課後、真っ先に家に帰ると、かあさんが言った。厳密に言うと母の妹だが、そこはどうでもいい。私を育ててくれた、だいじな人だ。
「今日翠ちゃん誕生日でしょ?これ。お友達からかな?さっき郵便で来たの。」それは、Happy Birthdayと書いてある桜柄のクッキー缶だった。こんなのくれる友達いたっけ?と思いながらも部屋で開けみると、古くさい何かの列車の切符みたいなのと、手紙が入っていた。誰かわかるかもしれないと思い、手紙をあげてみると、―翠へ 久しぶり。そしてお誕生日おめでとう。貴方に、一度きり、死者に会える切符をあげます。使いたいときに、さくら公園の木の下で待っていてください。そして何より、会いたい人に会いなさい。正解なんてないのだから。 桜子より―声もでなかった。桜子は、私がまだ幼いときに亡くした本当の母親の名前だ。なんで?その言葉に尽きる。まずまず死者から贈り物が届くわけがないし、私には母について覚えていることもあまりない。でも一つだけ、覚えているおいたほうがいいなと、幼い私でも思った言葉があった。それは、ある日小説家だった母が、いつものように机にかじりついて小説を書いているため、なんでいつもなんか書いてるの?と言うと教えてくれたものだった。「小説ってね、ジェンガみたいなものなの。自分の頭のなかにある知識を一個ずつ引っ張り出してきて、それをきれいに並べていくのを何度も積み重ねる。人によって考え方はバラバラだけど、人の心を掴む、読んでもらう、という目的は同じ。その正解のない一つ一つの旅が面白いのよ。」と。今でも鮮明に覚えている。でも私は、正解のない問いがどうしても嫌いだった。人と違うと気を使われるもの。そんなもの正解とは言わない。だから私は誰に会うのがいいのか、正解探しの旅を始めることにした。
「会いたい人。ねぇ…」夜、ベッドの上で寝ることも忘れて考える。と言っても思い出したくない人がさっきから勝手に頭に浮かんでいる。私を置いていったのに、最期まで私のことを愛していたずるい人。忘れたいけど忘れられない人。
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「おーい!!翠ー?おっはよー!!!」「おはよ」これがいつものルーティーン。超1軍で何でもできる優真と、軍の枠外で、ほぼ空気みたいで、もし死んでも誰も気づかないくらいちっぽけな人間。普通交わることのないはずの2人が、なぜかカップルになってしまっている。優真とは中学の時からずっとお付き合いさせてもらっていて、ほぼ家族みたい。肉親がおらず、ずっと気を使われ続けている私からしたらとっても嬉しい。そんなことを考えていると、いつものように私の顔を、初めて世界の色を知りました!みたいな顔で覗き込んでニヤッとして。
「あー!まーた何か考えてるでしょ!!翠っていつもなんか考えてるよなー。でもいっつもわかんなーい。ま、いっか、今日アイス食べよー!」その無邪気で純粋な顔元気をもらうけどそんなこと言えなくて、
「何でもない。」って言う。素直にならなきゃと思うのにできない。思っていたのに。ある日から、優真のいつもの元気がなくなっていく。聞いてみでも大丈夫の一点張り。そのうち優真は学校にも来なくなり、音信不通になってしまった。今思ればその時にどうにか会ってばよかった。ちゃんと聞いておけばよかった。でもその時の私はそれをしなかった。怒っていたのかもしれない。バカだったなぁと思うけど今思っても意味がないのが一番悲しくなる。別れは突然だった。ある日、優真の親から病院に来いと言われて行った。何となく想像もしたくない考えないようにしていたことが脳裏に浮かんだが、ドンピシャに当たってしまった。“優真が死んだ”泣きじゃくる家族の声、悲しみに暮れる医師の眼差し。その顔をよそに、私は涙の一粒も流れなかった。悲しいとか残念とかそんなものよりも先に、自分への諦めが表れた。その時初めて私は気づいたのだ。今まで何をやっていたのか。と。理由も聞かずに勝手に勘違い勝手に怒って。もう私はダメなんだなと思った。帰り際、優真からの最後の手紙を受け取った。家に帰って見てみると、それは優真なりの気持ちがしっかり書いてある悲しい手紙だった。―翠へ この手紙を読んでいるということは、僕はもう死んでるってことか。まず初めに本当のことを言わなくて勝手に離れてごめんなさい。僕は一ヶ月くらい前、余命宣告をされていました。本当はもっともっと先に言っておくべきだったと分かっているんだけどそれがいいのか悪いのかも分からず言えませんでした。このまま嫌いになってもらおうかなとか思ったけどそれも無理でした。わがまま言ってごめんなさい。でも僕は嫌いになったわけでもないし翠のせいでもないから自信を持ってこれから生きてください。こんな終わり方したくなかったけどごめんなさい。本当に大好き。今までありがとう。 優真。―大きな涙が何粒も何粒も溢れた。とにかく悲しい。今思い出しても涙が出る。だから私は決めた。明日優真に会いに行こう。そして私は目を瞑った。
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暗い暗い森の中。綺麗な湖だけが光っていて、本の中みたいな、天国みたいな。私はその湖の真ん中に立っていた。少しすると、白くて人の形をした光がやってきて私に言った。「こんにちは。」雷に打たれるかのようにハッとした。優真だ。「…優真?」
「うん。久しぶり、翠。」
いつもと変わらない笑顔だった。
学校で私を見つけるたびに、まるで宝物でも見つけたかのように駆け寄ってきた、あの笑顔。何度も夢に見た。もう一度だけでいいから、その笑顔を見たいと願った。それなのに。「……なんで。」「ん?」
「なんで、そんな普通なの……?」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
「だって、私……ずっと……。」
言葉が出てこない。
ずっと会いたかった。ずっと謝りたかった。ずっと、ずっと、会えなくなったあの日から時間が止まったままだった。なのに、目の前の優真は、昨日も一緒に帰ったみたいな顔をしている。
「翠。」
優真が一歩、私に近づいた。
「ごめんね。」
その一言で、張り詰めていた何かが切れた。
「……謝んないでよ。」
「うん。」「私、優真のこと嫌いになんかなれなかったよ……。なのに、勝手に怒って、勝手に距離置いて……。最後に会ったときだって、ちゃんと話さなかった。私、最低だよ……。」
優真は何も言わずに聞いていた。
「私がもっとちゃんとしてたら、最後くらい……。」
「それは違うよ。」
優真の声は、思っていたよりもずっと優しかった。「何を言えば正しかったのか。どうすればよかったのか。あのとき、別のことをしていたらって。ずっと考えてる。」
「……だって。」
「うん。分かるよ。」
優真は少し困ったように笑った。
「でもさ、僕たちって、そんなに正解ばっかり選んで生きなきゃいけないのかな。」
「……え?」
「僕だって、正解なんて分からなかったよ。翠に病気のことを話すべきだったのか、黙っていたほうがよかったのか。最後までずっと迷ってた。」「でもね、翠と付き合ったことだけは、間違いだったなんて思ってないよ。」
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
「翠と出会えてよかった。一緒に帰ったことも、くだらない話をしたことも、翠が本を読んでる横で僕がちょっかい出したことも。全部、僕の宝物だから。」優真が笑う。
「だから、翠もさ。僕とのことを、後悔だけでいっぱいにしないでほしいんだ。」私は何も言えなかった。「僕がいなくなったことは、悲しいままでいいんだよ。無理に忘れなくていいし、無理に前を向かなくたっていい。でも、僕といた時間まで、間違いだったことにしないで。」
気づけば、涙が頬を伝っていた。
「……優真に、会いたかった。」
「うん。」
「ずっと、会いたかった……。」
「うん。僕もだよ。」
優真は、いつものように少しだけ首を傾けた。
「……ねえ、翠。」
「なに?」
「本当は、もう一人、会いたい人がいるんじゃない?」覚えていることは少ない。声も、顔も、もう曖昧になりかけている。それでも、あの時に聞いた言葉だけは、ずっと心の奥に残っていた。
――正解のない一つ一つの旅が面白いのよ。
「……でも、私お母さんのこと、ほとんど覚えてないんだよ。」
口にした途端、胸の奥にしまい込んでいた気持ちがあふれ出した。
「会いたいのかどうかだって、分からない。だって、優真のことは覚えてる。いっぱい思い出がある。でも、お母さんは……。会ったって、何を話せばいいのか分からないよ。それなのに、会いに行くのが正しいのかな……。」「正解なんて考えなくてもいいんじゃない?ただ純粋に会いたいと思った。それで十分だと思う。完璧なんてないんだよ。」優真の姿が、少しずつ光に溶け始める。
「翠!」
遠ざかっていく声に、私は顔を上げた。
「本、ちゃんと読むんだよ! それで、いつか僕のことも小説にしてよ!」
「……何それ!」
泣きながら笑った。
「優真のことなんて、書かない!」
「えー! ひどっ!」
最後まで、優真は優真だった。
光が消える直前、彼はもう一度だけ、私に向かって笑った。
「大好きだよ、翠。」そして、湖には再び静寂が訪れた。
私はしばらく、その場から動けなかった。
悲しくないわけじゃない。
寂しくないわけでもない。
だけど、さっきまでのような、どうしようもない後悔だけが胸を埋め尽くす感覚は、少しだけ薄れていた。
私は空を見上げた。
会いたい人に会いなさい。
正解なんてないのだから。
「……お母さん。」
今度は、ちゃんと自分の気持ちで決めた。
「私、会いに行くね。」
そうつぶやくと、湖の向こうに、桜の花びらが一枚、ゆっくりと舞い降りた。
「夢?」朝起きて私は、夢に背中を押されながら、一歩一歩を踏み出していった。
何分くらい待っただろう。不思議な列車が現れた。見るからに古そうな、線路もないのに走る列車。私はそれに吸い込まれるように乗っていた。中には私以外に、夢に出てきた優真みたいな光の人がいっぱいいた。駅員さんも光みたいな人で、その人に古びたチケットも渡すと黙って通してくれた。とりあえず空いている席に座った。しばらくするとドアが開いて、みんな出ていったので私もそれについて行った。降りるとすぐに私の前に扉が2つ現れた。1つは優真。もう一つは桜子と書いてあった。私は迷わず、深呼吸を一つして扉を空けた。開けると昨日と夢みたいに神秘的な白い森が現れた。そこにピンク色の桜だけ色があって、とてもきれいに舞っていた。しばらくすると、一人の女性が座っていた。その人は、私みたいにちゃんと色があって、生きてるみたいだった。
「よく来たね。」私を見ていった。
「…お母さん?」
いざ会った瞬間、今まで考えていたことが一気にとんで、唯一絞り込んでいった言葉がそれだった。でもその緊張はなぜかすぐに消えて、安心した雰囲気になった。
「来てくれてありがとう。いつも見守ってたよ。」
「私、ずっと会いたかった。」
気づけば、そんな言葉がこぼれていた。
「うん。」
お母さんは優しくうなずいた。
「ずっと、ずっと会いたかったの。話したいことも、聞きたいことも、いっぱいあったのに……いざ会えたら、何も言えなくなっちゃった。」
笑おうとしたのに、声が震えた。
お母さんは少しだけ目を細めて、私の頭をそっとなでた。
「いいんだよ。会いに来てくれたことが、お母さん一番うれしい。大変だったねぇ今まで。」
「…え?」
「お母さんいつも気にかけてたからちょっとだけ知ってるの」
その言葉に、胸がじんわりとした。
本当は言いいことがたくさんあった。学校のこと、最近あったこと。あの人のこと。
「私ね、本当は最初、違う人に会ううつもりだったの。」
「そうだよね。ようここまで来たよ。“頑張ったね”」
私が言って欲しかった言葉。ずっと求めていた言葉。
誰かに頑張ったねって言ってほしかった。寂しかったねって、つらかったねって、抱きしめてほしかった。
だけど、そんなことを言ったら、弱い自分を認めてしまう気がして。だからずっと、平気なふりをしてきた。「……うん。」
やっとのことで返事をすると、お母さんは両腕を広げた。
「おいで、翠。」
私は心からの笑顔で、思いっきりとんで行った。
暖かかった。
もうないと思っていたものが、今たしかにここに存在していた。
「お母さん…っ」
声にならない声で言う。
「私寂しかったんだよ。」
「お母さんも。できることなら翠の中学校、高校、大学、そして大人になるまで全部見たかった。」
お母さんの声が、ほんの少しだけ震えた。
「こんなに大きくなってくれて。今日まで生きてきてくれて、本当にありがとう。」
その言葉を聞きながら、私はお母さんの服をぎゅっと握りしめた。
ずっと、この時間が続けばいいと思った。
話したいことは、まだたくさんある。聞きたいことだって、まだ残っている。
でも、ふと頭の片隅に浮かんだ。
この時間には、終わりがあるのだろうか。
もし、あるのなら。聞かないといけない。ずっと心の奥にしまい込んでいた、たったひとつの質問を。
「……ねえ、お母さん。」
私はゆっくりと顔を上げた。
「私、これからどうやって生きていけばいいの?」
お母さんは、すぐには答えなかった。
ただ私の頬に手を添えて、まっすぐに目を見つめた。
そして、あの日と同じ優しい笑顔で言った。
「翠。私がなんで、17才の誕生日に渡したのかわかる?」
黙っていると、お母さんが続けた。
「17才はね、大人になる前の最後の子供時代なの。大人は大変よ。自分の人生全部自分で決めて行く。翠の人生はこれから始まるんだよ。正解がない人生をあなたが1つずつ一文字ずつ描いていく。だからね翠思う存分生きなさい。」
その言葉は、思っていたよりもずっと優しかった。私はこんなに愛されているんだなと思った。
「お母さん?」私はかすかに、お母さんの手が透け始めているのに気がついた。お母さんもそれに気がついて言った。
「あぁ翠。私はもうすぐあなたにさよならしないといけないみたい。」
「やだよ。そんなのやだ。」本気で出そう思った。
もう二度と会えないから。
「大丈夫。私はあなたのことずっと応援している。この思い出が残り続ける限り、いつも私はその中にいる。」
「そっか。そうだよね。私頑張る。ちゃんと応援しててね。」お母さんは笑って私の両手を掴んだ。
「あなたの物語よ。精一杯楽しみなさい。お母さんのところに来てくれてありがとう。またいつか、きっと会えるわ。」
「うん。」私は静かに扉を開けた。最後に振り返って精一杯のハグをして。
扉から出るとそこは、いつもの公園の桜の木の下だった。
でもそれは、いつも見ているのに、なぜか綺麗で、美しかった。私はその桜に背中を押されるように踏み出していった。
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あれから、一年が経った。
桜の花びらが舞っていたあの日から、もう一年。あんなにも長く感じていた時間は、気づけば驚くほどあっという間に過ぎていた。
窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてくる。カーテンの隙間から差し込む朝日が、机の上に置かれた一枚の写真を照らしていた。
そこには、幼い頃の私と、お母さんが写っている。
写真の中のお母さんは、今にも笑い声が聞こえてきそうなくらい、楽しそうに笑っていた。
「……おはよう。」
誰に向けるでもなく、私は小さくつぶやいた。
以前の私なら、こんな朝は来なかったと思う。
目を覚ますたびに、どうして自分だけがこんな思いをしなければならないのだろうと考えていた。大切な人を失うことが、どれほど苦しいことなのか。どうして、会いたいと願う人に限って、もう会えなくなってしまうのか。
考えても答えなんて出ないのに、私は何度も同じことを考えていた。
お母さんがいなくなったときもそうだった。
そして、優真がいなくなったときも。
大好きな人がいなくなった世界は、私が知っている世界とはまるで違って見えた。昨日まで当たり前だった景色が、急に色を失ってしまったような気がした。
でも、あの日。
私はお母さんに会った。
ずっと会いたくて、ずっと話したくて、ずっと聞きたかったことを、ようやく伝えることができた。
本当は、もっと話したかった。もっと一緒にいたかった。できることなら、もう一度だけでも抱きしめてほしかった。
けれど、どれだけ願っても、あの時間が永遠に続くわけではなかった。
別れ際、お母さんは私の手を優しく握って言った。
「翠。これから、あなたがどんな道を選んでも、お母さんはあなたのことを応援しているからね」
その言葉を聞いた瞬間、私は泣いてしまった。
「……うん」
それしか言えなかった。
もっと気の利いた言葉を伝えたかったのに、結局、最後まで私はお母さんに甘えてばかりだった。
それでも、お母さんは笑っていた。
まるで、私が泣き虫なのも、強がりなところも、全部知っているみたいに。
そして、私の頭を優しくなでてくれた。
その温もりを、私は今でも覚えている。
あの日を境に、私は少しずつ変わり始めた。
もちろん、次の日から突然、何もかもが平気になったわけではない。
ふとした瞬間に、お母さんのことを思い出して泣きたくなる日もあった。街で親子が楽しそうに歩いているのを見て、うらやましくなることもあった。
優真のことだって、簡単に忘れられるはずがなかった。
駅のホームで似たような後ろ姿を見かけると、思わず目で追ってしまう。好きだった曲が流れてくれば、隣で笑っていた優真の顔が浮かんでくる。
もう隣にはいない。
その事実は、何度確かめても変わらなかった。
それでも私は、少しずつ気づき始めていた。
忘れることと、前に進むことは、同じではないのだと。
優真を忘れなくてもいい。お母さんを思い出して泣いたっていい。
大切な人たちとの思い出を抱えたまま、私は私の人生を歩いていけばいいのだ。
そう思えるようになっただけで、世界はほんの少し、明るくなった気がした。
そして今日。
私は十八歳の誕生日を迎えた。
机の上には、小さなケーキが置かれている。ろうそくは十八本。火をつけると、部屋の中に温かな光が広がった。
「十八歳か……」
自分で言ってみても、まだ実感が湧かない。
去年の今日、私は十七本目のろうそくを前にしていた。
あの頃の私は、これから自分がどうなってしまうのか、まるで分からなかった。
ただ、大切な人に会いたかった。
もう一度だけ声を聞きたかった。
伝えられなかった言葉を伝えたかった。
その願いをかなえるために、あのとき私はあの不思議な切符を手にした。
そして、たくさん悩んで、迷って、最後にはお母さんに会うことを選んだ。
あの選択が正しかったのか、今でも時々考える。
もし優真に会っていたら、私はどうなっていたのだろう。
後悔しなかっただろうか。
もっと違う未来があったのだろうか。
けれど、考えたところで答えは出ない。
お母さんが言っていたから。
正解はないのだから、と。
私は十八本のろうそくを見つめた。
一本一本の小さな炎が、揺れながら輝いている。
その光を見ていたら、なぜだか無性に、さくら公園へ行きたくなった。
あの日、私が最後の答えを選んだ場所。
お母さんと過ごした、忘れられない場所。
私は上着を羽織り、家を出た。
久しぶりに歩く道は、あの頃と何も変わっていなかった。
いつもの交差点。見慣れたコンビニ。通学路の途中にある、小さな花屋さん。
だけど、私の心の中は、あの頃とは少し違っていた。
以前は、どこへ行っても失ったものばかりを探していた。
お母さんがいたら、何と言ってくれただろう。
優真がいたら、隣でどんな顔をしていただろう。
そんなことばかり考えていた。
でも今は、目の前にある景色も、誰かの笑い声も、道端に咲く小さな花も、ちゃんと目に入るようになっていた。
私は、今ここにいる。
それだけのことが、少しだけうれしかった。
さくら公園に着くと、風が吹いた。
木々の枝には、淡いピンク色の花が咲いていた。地面には、風に運ばれた花びらが静かに積もっている。
私はゆっくりと歩き、ベンチに腰を下ろした。
あの日と同じ場所。
けれど、隣にお母さんはいない。
私は空を見上げた。
「お母さん。私、十八歳になったよ」
声に出すと、胸の奥がじんわりと温かくなった。
「ちゃんとご飯も食べてるし、学校にも行ってる。たまに落ち込むこともあるけど……それでも、毎日頑張ってるよ」
自分でも驚くほど、自然に言葉が出てきた。
まるで、すぐ隣にお母さんが座っていて、いつものように話を聞いてくれているみたいだった。
「それからね、優真のことも、まだ大好きだよ」
少しだけ、笑ってしまった。
「でもね、最近は思い出すたびに悲しくなるだけじゃなくなったんだ。優真と一緒にいた時間は、ちゃんと私の中に残ってるんだって、思えるようになったの」
風が吹き、花びらがひとひら、私の膝の上に落ちた。
私はそれをそっと手に取った。
「だから、もう少し頑張ってみるね」
言葉にした瞬間、涙が頬を伝った。
悲しかったからなのか、うれしかったからなのか、自分でもよく分からなかった。
ただ、涙を拭いながら、私は笑っていた。
お母さん。
私は今でも、あなたに会いたい。
優真にも、もう一度会いたい。
それは、きっとこれからも変わらない。
でも、会えないからといって、私の人生まで止めてしまう必要はないのだ。
大切な人がいたこと。
愛してくれる人がいたこと。
一緒に笑って、泣いて、過ごした時間があったこと。
それだけで、私はこれからも生きていける。
私は立ち上がり、もう一度だけ、公園を振り返った。
「行ってきます、お母さん」
今度は、ちゃんと前を向いて言えた。
返事はない。
それでも、風に揺れる桜の枝が、まるで優しく手を振ってくれているように見えた。
帰り道、私は空を見上げた。
空はどこまでも青く、明るかった。
明日になれば、またいつもの日常が始まる。
うまくいかないこともあるだろう。泣きたくなる夜も、きっとあるだろう。
それでも私は、歩いていく。
お母さんがくれた言葉を胸に。
優真と過ごした思い出を胸に。
そして、これから出会う人たちとの未来を信じて。
十七歳の私が選んだ道は、ここで終わりではない。
十八歳になった私の物語は、まだ始まったばかりなのだから。
正解なんてないけれど。
