§
「綾瀬」
放課後、帰り支度を終えて席を立とうとしていた彼女を呼び止めた。
「ん?」
「今日、一緒に帰らない?」
いつもならあっさり頷く。
そして今日もその筈だ。そう思っていた。
けれど綾瀬は、一瞬だけ困ったような顔をして、
「・・・・・・ごめん、今日は友達と帰る約束してるから」
「あぁ、そうなんだ・・・・・・」
「・・・・・・またね」
それだけ言って、綾瀬は教室を出て行った。
別に・・・・・・俺と違って綾瀬には友達が沢山いる。俺の誘いを断ったからと言って、綾瀬が俺を避けているとは限らない。
頭では分かっている、なのに胸には小さな棘みたいなものが残っていた。
つい最近まで俺に問題を訊ねてきたし、俺と一緒にいると楽だと言ってくれた。
でも、その言葉がまるで嘘みたいに綾瀬は俺から離れていった。
なんで?
考えながら、そんな事を思う自分が嫌になった。
なんだそれ。
いつから俺は、綾瀬が自分を選ぶのが当然だと思うようになったんだ。
綾瀬が誰と帰ろうと自由だし、誰を頼ろうと、誰と一緒にいようと、それは全部綾瀬が決める事だ。
それは分かってる。
分かってるけれど・・・・・・それと、納得出来る事はまた別だった。
そして数日後、その理由は、俺が想像していたものとはまるで違う形で明かされた。
§
「永瀬くん、今日ちょっと時間ある?」
放課後。綾瀬の方から珍しく真剣な顔で声を掛けてきた。
「あるけど」
「少し話したい」
断る理由がなかった。
俺たちは以前、二人で座った校舎裏のベンチに腰掛けた。
座ってから、すぐに綾瀬は喋らなかった。
だから、俺は待った。
するとおもむろに、綾瀬は重たそうに口を開いた。
「私さ、転校するんだ」
「え・・・・・・?」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「転校・・・・・・?」
「うん」
「いつ?」
「来月」
「来月って・・・・・・」
思っていたより、ずっと早い・・・・・・。
なにか言わなきゃ、と思ったのに、すぐに言葉が見つからなかった。
綾瀬は膝の上で指を絡め、視線をそこに落とした。
「お父さんの仕事の都合で、引っ越す事になって」
「それが、この前言ってた家の事?」
「うん」
「いつから知ったの?」
「・・・・・・少し前」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。
「永瀬くんと話すようになった頃には、可能性は聞いてた。決まったのはこの前」
「そう、だったんだ・・・・・・」
それしか言えなかった。
頭の中では、ここ最近の綾瀬の行動が次々浮かんだ。
急に距離を取った日。俺の誘いを断り、友達と帰った日。一人で校舎裏にいた日。いつもより妙に明るく喋っていた日。
それまでバラバラに見えていたものが、一つずつ繋がっていく。
「だから最近、変だったのか」
「・・・・・・気付いてた?」
「少しだけ」
「そっか・・・・・・」
そう言って、綾瀬は少し俯く。
俺は思わず訊ねた。
「なんで、言わなかったんだよ」
責めるつもりはなかった。でも自分でも思っていたより強い声が出た。
綾瀬が少しだけ目を伏せる。
「言ったら、終わりが見える気がしたから」
「終わり?」
「転校するって言ったらさ。それから毎日、後何日って数えちゃいそうで。一緒に帰ってても、これも後何回かなとか、休み時間に話してても、もうすぐこれも出来なくなるんだな、とか」
そこで一度、言葉が止まる。
「嫌だっただよね、それが」
俺はなにも言えなかった。
「だから普通にしてたかった。でも普通にしようとすると、今度は永瀬くんといるのが楽しくて」
「・・・・・・・・・・・・」
「もっと一緒にいたくなるし」
綾瀬は困ったように笑った。
「それで、ちょっと離れようとした」
――ようやく、分かった。
俺を嫌いになった訳じゃなかった。
近付くほどに辛くなる。だから自分から距離を取ろうとした。
でも本当は一緒にいたいから、また俺のところへ戻ってくる。
転校の事を言えば関係そのものが変わってしまう気がして、だから黙っていた。
一見すると、どれも違う選択に見える。
近付き、離れる。黙ったかと思えば、話しかけてくる。
矛盾してる。でもしてない。
その根っこは一つで繋がっている。
俺との関係を壊したくない。大切だからこそ、失うのが怖い。
綾瀬の行動はバラバラなんかじゃなかった。ちゃんと綾瀬なりの筋が通っていた。
「・・・・・・なんだ」
「・・・・・・え?」
「ちゃんと理由あるじゃん」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「最近の綾瀬、意味分かんなかったから。俺、嫌われたんだと思った」
「ごめん、そんな事ないよ」
「別に謝って欲しかった訳じゃない」
理由は分かった。
俺がずっと知りたかったもの。綾瀬の行動の奥にあった筋道。
それを知れば、きっと全部納得出来ると思っていたし、実際、矛盾して見える行動にもちゃんと理由があるという俺の考え自体は間違っていなかった。
でも、その先で俺は一つ勘違いしていた。
理由が分かれば次になにをするのか分かると、俺はどこかでそんな風に思っていた。
でも違う。
俺との関係を大切にしたい。
同じ気持ちから、綾瀬は転校を黙る事も出来たし、自分から離れる事も出来た。
逆に、もっと一緒にいたいと思って近付く事だって出来た。どっち付かずになる事もあるだろう。
根っこは同じだ。
でも、そこから選ばれる行動は一つじゃない。
心に筋が通っている事と、次の行動まで一本に決まっている事は同じじゃない。
円周率なら、3.14の次には必ず1が来る。
でも、綾瀬の次の行動は、円周率の次の数字みたいに一つには決まっていない。
綾瀬の中に変わらないものがあったとしても、それを抱えたまま次になにを選ぶかまでは俺には決められないし、分からない。
そう気付いた瞬間、今度は来月には綾瀬がいなくなるという現実が急に輪郭を持って迫ってきた。
転校した後、俺たちの関係はどうなる?
連絡を取り続けるのか、それとも疎遠になるのか。また会えるのか。
そして俺は、綾瀬がいなくなった後も、今日みたいにその姿を探して、明日も話したいと思って、もっと一緒にいたかったと何度も思い返すのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そこまで考えて、俺はようやく自分の気持ちにケジメを付けなければいけないと思う。
俺は、綾瀬と離れたくない。
これからも、話したいし、一緒に帰りたいし、もっと綾瀬の事を知りたい。笑っているところを見たい。
好奇心なんかじゃない。
それは、前から分かっていた事だ。
ただ、ずっと答えを出すのを避けていた。
俺は綾瀬の事が好きなんだ。
好奇心で知りたいんじゃない。好きだから知りたいんだ。
俺はずっとこの気持ちから目を背けていた。
内心、綾瀬みたいに明るくてクラスの中心にいるような奴が、俺みたいな奴を恋愛対象にする筈がないと思っていた。だからこれは友達関係だと言い聞かせていた。
それに今の関係が続くなら、ずっと一緒にいられると思った。
でも、好きだと告げて関係が壊れるより先に、まさか物理的に関係が崩れてしまうとは思わなかった。
家庭の事情を突きつけられて、ようやく好きだという気持ちを認めるなんて、自分の受け身具合が嫌になる。
でも改めて思う。
明日も当たり前のように同じ日が来るとは限らない。
唐突に日常が崩れる事はある。
「永瀬くん?」
黙り込んだ俺を、綾瀬が不思議そうに覗き込む。
「俺さ、綾瀬の事ずっと分かりたいと思ってた」
「私の事?」
「なんでこうするのかとか、なんでああ言うのかとか、そういうのを知っていけば、いつか綾瀬って人間が分かる気がして」
綾瀬は黙って聞いていた。
「でも、分かるって次を当てる事じゃないんだな」
「・・・・・・どういう事?」
「さっきの話。綾瀬が俺と離れたくないと思ってても、だから近付くとは限らないし、逆に距離を取る事だってある」
「うん」
「同じ気持ちでも、その時の気持ち次第で取る行動も変わる」
口にしながら、自分の気持ちを整理していく。
「俺は、綾瀬の事を知っていけば、その次の行動まで分かると思ってた。でも、違う」
「うん」
「分かるって、そういう事じゃない」
俺は綾瀬を見る。
「綾瀬がなにを選んで、なんでそうしたのかを、後から少しずつ知っていく事なんだと思う」
未来の選択なんて分かる筈なんてない。
人の気持ちは円周率みたいに確定していない。
俺は一呼吸置いてから、続ける。
「転校した後、俺たちがどうなるのかは分からない。けど、それでも俺はその先を綾瀬と知っていきたい」
すると綾瀬は息を吞む。
なんだか、告白みたいだ。
いや、これは告白だろう。
ただ、「好き」と言っていないだけで。
綾瀬はしばらく黙った後、困ったように笑う。
「永瀬くんがそういう事言うの、なんか意外」
「それ、今言う?」
「だって思ったんだもん」
言いながら綾瀬は照れ笑いを浮かべる。
直後、
「私さ」
と、小さな声が返った。
「永瀬くんといる時間、好きだよ」
今度は俺が息を吞む番だった。
胸も忙しなくなる。
その「好き」がどういう意味なのかは分からない。友達としてなのか、それとも俺と同じなのか。
答えは欲しい。
でも、それを聞いたとして綾瀬がその「好き」にどこまで名前を付けているのか、俺には分からなかった。
俺だって自分の気持ちに名前が付くまで、時間が掛かったのだから。
「・・・・・・そっか」
「うん」
「それなら、よかった」
「それだけ?」
「他になんて言えばいいんだよ」
「自分で考えてよ」
「考えても出てこなかったんだよ」
「なら仕方ない」
「なにそれ」
そう言った後、俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
こんな風に、なんでもないやりとりを綾瀬とするのは楽しかった。
「やっぱり、聞かないんだね」
「聞いて欲しいの?」
「ううん、今はいい」
「じゃあ聞かない」
「うん」
その日は二人で並んで帰った。
帰り道はいつもと同じで、どうでもいい話をして、笑い合う。
ただ違うのは、その時間に終わりがあると知ってしまった事だ。
そしてもう一つ、俺がなぜ綾瀬の続きを知りたいのか。
好きだから。
答えは驚くほど簡単だった。
でも、自分の気持ちが分かったからといって、綾瀬の事まで全部分かった訳じゃない。
綾瀬の中には、綾瀬なりに変わらないものがある。
俺との関係を大切にしたい気持ちも、傷付きたくない気持ちも綾瀬の中に積み重なっている。
それを抱えたまま、明日はまたその続きの綾瀬になる。
3.14に一つ数字が加わって3.141になるように。
それまでの数字を残したまま、綾瀬の中にまた一つ新しい気持ちや一面が加わっていく。
でも、その気持ちから次にどんな行動を選ぶのかまでは俺には分からない。なら俺に出来るのは、次の数字を当てる事じゃない。
綾瀬が選んだその続きを、そのたびにまた一つ知っていく事だけなのだろう。
そう思うと、不思議と気が楽になった。
先が分からない事は怖い。
それでも、まだ続いてる。
今は、それで十分だった。
§
綾瀬が転校するまでの時間は、思っていたより早く過ぎていった。
転校すると聞いた直後は、きっと毎日その事ばかり考えるようになると思っていたし、後何日、後何回一緒に帰れる、後何回、隣で話せるとか、綾瀬が嫌がっていたように全部をカウントダウンしてしまう気がした。
けれど実際はそうでもなかった。
「永瀬くん、ここ分かんない」
「昨日も似たようなのやっただろ」
「昨日の私と今日の私は違うので」
いつも通り数学を教えて、休み時間にはどうでもいい話をして、放課後になれば一緒に帰る。
勿論、転校の事を忘れていた訳じゃない。
ふとした瞬間に思い出すし、この席も、この帰り道も、隣を歩く綾瀬も、もうすぐ日常ではなくなるのだと考えれば、胸の奥が痛んだ。
それでも、俺たちは残り日数を数えなかった。
数えたところで一日が長くなる訳じゃないし、終わりを意識する為に使うくらいなら、今日を今日として過ごした方がいい。
綾瀬が転校の事を言いたくなかった理由も、今なら少し分かる気がした。
§
転校前、最後の登校日。
放課後になると、綾瀬の机の周りにはクラスメイトが集まり、写真を撮ったりプレゼントを渡したり、「絶対遊びに来てね」と何度も念を押したりしていた。
綾瀬はその一つひとつに笑って応えていた。
俺は隣の席でその様子を眺めていた。
タイミングを見て、最後に声でも掛けられたらと思ったが、綾瀬の別れを惜しむ友達は多かった。
俺が間に入って話せるタイミングはなさそうだ。
まぁ、俺だけが綾瀬を独占出来るなんて思ってない。
むしろ長く付き合っていた友達と過ごした方がいいだろ。
鞄を持って、教室を離れると、
「永瀬くん」
名前を呼ばれた。
振り返ると、綾瀬がいた。
「帰るの?」
「そのつもり」
「じゃあ一緒に帰ろ?」
そう言って引き留める。
でも、綾瀬の背後に複数のクラスメイトたちが視界に映った。
「いや、でも話してる途中だろ?」
「うん。だからちょっと待ってて。最後は永瀬くんと話したい」
「・・・・・・・・・・・・」
そんな風に言われて喜ばない奴はいない。
胸の奥にモヤモヤした気持ちが、晴れていくのが分かった。
「分かった。じゃあ話し終わるまで待ってる」
「うん、ありがと」
そう言って綾瀬ははにかんだ。
俺は適当に図書室で時間を潰していると、ややあって綾瀬が一人でやって来た。
「もういいのか?」
「うん、一杯話せたよ」
「そう。なら、帰るか」
「うん」
俺たちは二人で学校を後にした。
見慣れたコンビニがあって、その先には何度も通り過ぎた自販機があり、少し歩けばいつも信号待ちをする交差点がある。
いつもと景色は変わらない。
なのに今日は、その一つひとつが妙に目に付いた。
明日から綾瀬がこの道を歩かないと知っているだけで、見慣れた筈の景色に輪郭がついたような気がする。
「なんか不思議な感じ」
綾瀬が言った。
「なにが?」
「明日から、この道歩かないんだなって」
「そうだな」
「永瀬くんとも学校で会わないし」
「あぁ」
「寂しい?」
不意打ちだった。
振り返ると、上目遣いの綾瀬と目が合った。
俺は少しだけ考えて、
「あぁ・・・・・・寂しい」
俺がそう言うと、綾瀬は少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか、私も寂しい」
「そうは見えないけど?」
「寂しいよ。でも永瀬くんも同じ気持ちなのは嬉しい」
「なにそれ」
「ふふ、照れてる」
「うるさいなぁ」
そう言って俺は目を逸らすと、綾瀬はポツリと言った。
「こんなやりとりも、明日からは出来ないんだよね」
綾瀬は笑ったまま、でもその横顔は寂しげだった。
でも、俺は即答する。
「出来るだろ」
「え?」
「別に、面と向かって出来ないだけで。連絡はいつでも出来るだろ? それに会おうと思えば会える」
綾瀬は少し黙ってから、小さく笑った。
「そうだね」
綾瀬が笑っているのを見ると、俺も嬉しくなる。
でも同時に胸が苦しくなった。
確かに、連絡は出来る。会おうと思えば会える。
でも、いつもみたいに簡単には会えない。
綾瀬の笑顔が遠くなると考えたら、なんだかその笑顔が切なく見えた。
「・・・・・・永瀬くん」
「なに?」
「私も、会いたい」
その言葉がどういう意味なのか、どこまで俺と一緒なのか。
それを確かめようとは思わなかった。
ただ、俺も同じだという事だけは伝えたかった。
「俺も」
短く答えた。
それだけで十分だった。
いつもの別れ道に着く。
明日までなら、ここで「また明日」と言って別れていた。
でも明日、この町に綾瀬はいない。
「じゃあね」
綾瀬が片手を上げる。
「おう」
俺も軽く手を振り返す。
綾瀬は一歩進み、それからすぐに立ち止まった。
「永瀬くん」
「ん?」
「円周率ってさ、まだ好き?」
「急になに?」
「いいから」
「好きだけど」
「なんで?」
最初に話した時と、似たような質問だった。
俺は少し考える。
「終わらないところ」
「前と一緒だね」
「いや、ちょっと違う」
「どう違うの?」
俺は少し考える。
以前までなら、終わらないところが好きだった。
さらに言えば、無限に並ぶ数字にちゃんと理由があるのが好きだった。
でも今は、
「終わらない事自体が、ちょっといいなって思う」
「終わらないなら、まだ先があるから?」
あの日と同じ言葉だった。
「そう」
「じゃあ、私と一緒だね」
綾瀬が笑い、俺も釣られて笑った。
円周率はどこまで行っても終わらない。
3.14の次には1が来て、その次には5が来る。
数字の並びは最初から決まっていて、今の俺がその先を知らなくても、答えそのものはもう存在している。
でも、人間は違う。
同じ気持ちを抱えていても、同じ願いを持っていても、その時になれば違う選択をするかもしれないし、昨日まで想像もしていなかった方へ進む事だってある。
だから未来は分からない。
十七歳の俺には、自分がこの先どうなるのかも、綾瀬とこれからどうなるのかも、まだなに一つ分からない。
でも。
分からないからこそ、まだ決まっていないし、これから選べるという事でもある。
「じゃあ、またね」
綾瀬が言った。
明日でもなく、いつとも決めず。
ただ、また。
「あぁ、またな」
俺は頷く。
綾瀬は今度こそ歩き出した。
少しずつ遠ざかっていく背中をしばらく見送ってから、俺も自分の帰る方向へ歩き出す。
「綾瀬」
放課後、帰り支度を終えて席を立とうとしていた彼女を呼び止めた。
「ん?」
「今日、一緒に帰らない?」
いつもならあっさり頷く。
そして今日もその筈だ。そう思っていた。
けれど綾瀬は、一瞬だけ困ったような顔をして、
「・・・・・・ごめん、今日は友達と帰る約束してるから」
「あぁ、そうなんだ・・・・・・」
「・・・・・・またね」
それだけ言って、綾瀬は教室を出て行った。
別に・・・・・・俺と違って綾瀬には友達が沢山いる。俺の誘いを断ったからと言って、綾瀬が俺を避けているとは限らない。
頭では分かっている、なのに胸には小さな棘みたいなものが残っていた。
つい最近まで俺に問題を訊ねてきたし、俺と一緒にいると楽だと言ってくれた。
でも、その言葉がまるで嘘みたいに綾瀬は俺から離れていった。
なんで?
考えながら、そんな事を思う自分が嫌になった。
なんだそれ。
いつから俺は、綾瀬が自分を選ぶのが当然だと思うようになったんだ。
綾瀬が誰と帰ろうと自由だし、誰を頼ろうと、誰と一緒にいようと、それは全部綾瀬が決める事だ。
それは分かってる。
分かってるけれど・・・・・・それと、納得出来る事はまた別だった。
そして数日後、その理由は、俺が想像していたものとはまるで違う形で明かされた。
§
「永瀬くん、今日ちょっと時間ある?」
放課後。綾瀬の方から珍しく真剣な顔で声を掛けてきた。
「あるけど」
「少し話したい」
断る理由がなかった。
俺たちは以前、二人で座った校舎裏のベンチに腰掛けた。
座ってから、すぐに綾瀬は喋らなかった。
だから、俺は待った。
するとおもむろに、綾瀬は重たそうに口を開いた。
「私さ、転校するんだ」
「え・・・・・・?」
一瞬、言葉の意味が頭に入ってこなかった。
「転校・・・・・・?」
「うん」
「いつ?」
「来月」
「来月って・・・・・・」
思っていたより、ずっと早い・・・・・・。
なにか言わなきゃ、と思ったのに、すぐに言葉が見つからなかった。
綾瀬は膝の上で指を絡め、視線をそこに落とした。
「お父さんの仕事の都合で、引っ越す事になって」
「それが、この前言ってた家の事?」
「うん」
「いつから知ったの?」
「・・・・・・少し前」
その答えを聞いた瞬間、胸の奥がざらついた。
「永瀬くんと話すようになった頃には、可能性は聞いてた。決まったのはこの前」
「そう、だったんだ・・・・・・」
それしか言えなかった。
頭の中では、ここ最近の綾瀬の行動が次々浮かんだ。
急に距離を取った日。俺の誘いを断り、友達と帰った日。一人で校舎裏にいた日。いつもより妙に明るく喋っていた日。
それまでバラバラに見えていたものが、一つずつ繋がっていく。
「だから最近、変だったのか」
「・・・・・・気付いてた?」
「少しだけ」
「そっか・・・・・・」
そう言って、綾瀬は少し俯く。
俺は思わず訊ねた。
「なんで、言わなかったんだよ」
責めるつもりはなかった。でも自分でも思っていたより強い声が出た。
綾瀬が少しだけ目を伏せる。
「言ったら、終わりが見える気がしたから」
「終わり?」
「転校するって言ったらさ。それから毎日、後何日って数えちゃいそうで。一緒に帰ってても、これも後何回かなとか、休み時間に話してても、もうすぐこれも出来なくなるんだな、とか」
そこで一度、言葉が止まる。
「嫌だっただよね、それが」
俺はなにも言えなかった。
「だから普通にしてたかった。でも普通にしようとすると、今度は永瀬くんといるのが楽しくて」
「・・・・・・・・・・・・」
「もっと一緒にいたくなるし」
綾瀬は困ったように笑った。
「それで、ちょっと離れようとした」
――ようやく、分かった。
俺を嫌いになった訳じゃなかった。
近付くほどに辛くなる。だから自分から距離を取ろうとした。
でも本当は一緒にいたいから、また俺のところへ戻ってくる。
転校の事を言えば関係そのものが変わってしまう気がして、だから黙っていた。
一見すると、どれも違う選択に見える。
近付き、離れる。黙ったかと思えば、話しかけてくる。
矛盾してる。でもしてない。
その根っこは一つで繋がっている。
俺との関係を壊したくない。大切だからこそ、失うのが怖い。
綾瀬の行動はバラバラなんかじゃなかった。ちゃんと綾瀬なりの筋が通っていた。
「・・・・・・なんだ」
「・・・・・・え?」
「ちゃんと理由あるじゃん」
思わず、そんな言葉が漏れた。
「最近の綾瀬、意味分かんなかったから。俺、嫌われたんだと思った」
「ごめん、そんな事ないよ」
「別に謝って欲しかった訳じゃない」
理由は分かった。
俺がずっと知りたかったもの。綾瀬の行動の奥にあった筋道。
それを知れば、きっと全部納得出来ると思っていたし、実際、矛盾して見える行動にもちゃんと理由があるという俺の考え自体は間違っていなかった。
でも、その先で俺は一つ勘違いしていた。
理由が分かれば次になにをするのか分かると、俺はどこかでそんな風に思っていた。
でも違う。
俺との関係を大切にしたい。
同じ気持ちから、綾瀬は転校を黙る事も出来たし、自分から離れる事も出来た。
逆に、もっと一緒にいたいと思って近付く事だって出来た。どっち付かずになる事もあるだろう。
根っこは同じだ。
でも、そこから選ばれる行動は一つじゃない。
心に筋が通っている事と、次の行動まで一本に決まっている事は同じじゃない。
円周率なら、3.14の次には必ず1が来る。
でも、綾瀬の次の行動は、円周率の次の数字みたいに一つには決まっていない。
綾瀬の中に変わらないものがあったとしても、それを抱えたまま次になにを選ぶかまでは俺には決められないし、分からない。
そう気付いた瞬間、今度は来月には綾瀬がいなくなるという現実が急に輪郭を持って迫ってきた。
転校した後、俺たちの関係はどうなる?
連絡を取り続けるのか、それとも疎遠になるのか。また会えるのか。
そして俺は、綾瀬がいなくなった後も、今日みたいにその姿を探して、明日も話したいと思って、もっと一緒にいたかったと何度も思い返すのだろうか。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」
そこまで考えて、俺はようやく自分の気持ちにケジメを付けなければいけないと思う。
俺は、綾瀬と離れたくない。
これからも、話したいし、一緒に帰りたいし、もっと綾瀬の事を知りたい。笑っているところを見たい。
好奇心なんかじゃない。
それは、前から分かっていた事だ。
ただ、ずっと答えを出すのを避けていた。
俺は綾瀬の事が好きなんだ。
好奇心で知りたいんじゃない。好きだから知りたいんだ。
俺はずっとこの気持ちから目を背けていた。
内心、綾瀬みたいに明るくてクラスの中心にいるような奴が、俺みたいな奴を恋愛対象にする筈がないと思っていた。だからこれは友達関係だと言い聞かせていた。
それに今の関係が続くなら、ずっと一緒にいられると思った。
でも、好きだと告げて関係が壊れるより先に、まさか物理的に関係が崩れてしまうとは思わなかった。
家庭の事情を突きつけられて、ようやく好きだという気持ちを認めるなんて、自分の受け身具合が嫌になる。
でも改めて思う。
明日も当たり前のように同じ日が来るとは限らない。
唐突に日常が崩れる事はある。
「永瀬くん?」
黙り込んだ俺を、綾瀬が不思議そうに覗き込む。
「俺さ、綾瀬の事ずっと分かりたいと思ってた」
「私の事?」
「なんでこうするのかとか、なんでああ言うのかとか、そういうのを知っていけば、いつか綾瀬って人間が分かる気がして」
綾瀬は黙って聞いていた。
「でも、分かるって次を当てる事じゃないんだな」
「・・・・・・どういう事?」
「さっきの話。綾瀬が俺と離れたくないと思ってても、だから近付くとは限らないし、逆に距離を取る事だってある」
「うん」
「同じ気持ちでも、その時の気持ち次第で取る行動も変わる」
口にしながら、自分の気持ちを整理していく。
「俺は、綾瀬の事を知っていけば、その次の行動まで分かると思ってた。でも、違う」
「うん」
「分かるって、そういう事じゃない」
俺は綾瀬を見る。
「綾瀬がなにを選んで、なんでそうしたのかを、後から少しずつ知っていく事なんだと思う」
未来の選択なんて分かる筈なんてない。
人の気持ちは円周率みたいに確定していない。
俺は一呼吸置いてから、続ける。
「転校した後、俺たちがどうなるのかは分からない。けど、それでも俺はその先を綾瀬と知っていきたい」
すると綾瀬は息を吞む。
なんだか、告白みたいだ。
いや、これは告白だろう。
ただ、「好き」と言っていないだけで。
綾瀬はしばらく黙った後、困ったように笑う。
「永瀬くんがそういう事言うの、なんか意外」
「それ、今言う?」
「だって思ったんだもん」
言いながら綾瀬は照れ笑いを浮かべる。
直後、
「私さ」
と、小さな声が返った。
「永瀬くんといる時間、好きだよ」
今度は俺が息を吞む番だった。
胸も忙しなくなる。
その「好き」がどういう意味なのかは分からない。友達としてなのか、それとも俺と同じなのか。
答えは欲しい。
でも、それを聞いたとして綾瀬がその「好き」にどこまで名前を付けているのか、俺には分からなかった。
俺だって自分の気持ちに名前が付くまで、時間が掛かったのだから。
「・・・・・・そっか」
「うん」
「それなら、よかった」
「それだけ?」
「他になんて言えばいいんだよ」
「自分で考えてよ」
「考えても出てこなかったんだよ」
「なら仕方ない」
「なにそれ」
そう言った後、俺たちは顔を見合わせて笑い合った。
こんな風に、なんでもないやりとりを綾瀬とするのは楽しかった。
「やっぱり、聞かないんだね」
「聞いて欲しいの?」
「ううん、今はいい」
「じゃあ聞かない」
「うん」
その日は二人で並んで帰った。
帰り道はいつもと同じで、どうでもいい話をして、笑い合う。
ただ違うのは、その時間に終わりがあると知ってしまった事だ。
そしてもう一つ、俺がなぜ綾瀬の続きを知りたいのか。
好きだから。
答えは驚くほど簡単だった。
でも、自分の気持ちが分かったからといって、綾瀬の事まで全部分かった訳じゃない。
綾瀬の中には、綾瀬なりに変わらないものがある。
俺との関係を大切にしたい気持ちも、傷付きたくない気持ちも綾瀬の中に積み重なっている。
それを抱えたまま、明日はまたその続きの綾瀬になる。
3.14に一つ数字が加わって3.141になるように。
それまでの数字を残したまま、綾瀬の中にまた一つ新しい気持ちや一面が加わっていく。
でも、その気持ちから次にどんな行動を選ぶのかまでは俺には分からない。なら俺に出来るのは、次の数字を当てる事じゃない。
綾瀬が選んだその続きを、そのたびにまた一つ知っていく事だけなのだろう。
そう思うと、不思議と気が楽になった。
先が分からない事は怖い。
それでも、まだ続いてる。
今は、それで十分だった。
§
綾瀬が転校するまでの時間は、思っていたより早く過ぎていった。
転校すると聞いた直後は、きっと毎日その事ばかり考えるようになると思っていたし、後何日、後何回一緒に帰れる、後何回、隣で話せるとか、綾瀬が嫌がっていたように全部をカウントダウンしてしまう気がした。
けれど実際はそうでもなかった。
「永瀬くん、ここ分かんない」
「昨日も似たようなのやっただろ」
「昨日の私と今日の私は違うので」
いつも通り数学を教えて、休み時間にはどうでもいい話をして、放課後になれば一緒に帰る。
勿論、転校の事を忘れていた訳じゃない。
ふとした瞬間に思い出すし、この席も、この帰り道も、隣を歩く綾瀬も、もうすぐ日常ではなくなるのだと考えれば、胸の奥が痛んだ。
それでも、俺たちは残り日数を数えなかった。
数えたところで一日が長くなる訳じゃないし、終わりを意識する為に使うくらいなら、今日を今日として過ごした方がいい。
綾瀬が転校の事を言いたくなかった理由も、今なら少し分かる気がした。
§
転校前、最後の登校日。
放課後になると、綾瀬の机の周りにはクラスメイトが集まり、写真を撮ったりプレゼントを渡したり、「絶対遊びに来てね」と何度も念を押したりしていた。
綾瀬はその一つひとつに笑って応えていた。
俺は隣の席でその様子を眺めていた。
タイミングを見て、最後に声でも掛けられたらと思ったが、綾瀬の別れを惜しむ友達は多かった。
俺が間に入って話せるタイミングはなさそうだ。
まぁ、俺だけが綾瀬を独占出来るなんて思ってない。
むしろ長く付き合っていた友達と過ごした方がいいだろ。
鞄を持って、教室を離れると、
「永瀬くん」
名前を呼ばれた。
振り返ると、綾瀬がいた。
「帰るの?」
「そのつもり」
「じゃあ一緒に帰ろ?」
そう言って引き留める。
でも、綾瀬の背後に複数のクラスメイトたちが視界に映った。
「いや、でも話してる途中だろ?」
「うん。だからちょっと待ってて。最後は永瀬くんと話したい」
「・・・・・・・・・・・・」
そんな風に言われて喜ばない奴はいない。
胸の奥にモヤモヤした気持ちが、晴れていくのが分かった。
「分かった。じゃあ話し終わるまで待ってる」
「うん、ありがと」
そう言って綾瀬ははにかんだ。
俺は適当に図書室で時間を潰していると、ややあって綾瀬が一人でやって来た。
「もういいのか?」
「うん、一杯話せたよ」
「そう。なら、帰るか」
「うん」
俺たちは二人で学校を後にした。
見慣れたコンビニがあって、その先には何度も通り過ぎた自販機があり、少し歩けばいつも信号待ちをする交差点がある。
いつもと景色は変わらない。
なのに今日は、その一つひとつが妙に目に付いた。
明日から綾瀬がこの道を歩かないと知っているだけで、見慣れた筈の景色に輪郭がついたような気がする。
「なんか不思議な感じ」
綾瀬が言った。
「なにが?」
「明日から、この道歩かないんだなって」
「そうだな」
「永瀬くんとも学校で会わないし」
「あぁ」
「寂しい?」
不意打ちだった。
振り返ると、上目遣いの綾瀬と目が合った。
俺は少しだけ考えて、
「あぁ・・・・・・寂しい」
俺がそう言うと、綾瀬は少しだけ嬉しそうに笑った。
「そっか、私も寂しい」
「そうは見えないけど?」
「寂しいよ。でも永瀬くんも同じ気持ちなのは嬉しい」
「なにそれ」
「ふふ、照れてる」
「うるさいなぁ」
そう言って俺は目を逸らすと、綾瀬はポツリと言った。
「こんなやりとりも、明日からは出来ないんだよね」
綾瀬は笑ったまま、でもその横顔は寂しげだった。
でも、俺は即答する。
「出来るだろ」
「え?」
「別に、面と向かって出来ないだけで。連絡はいつでも出来るだろ? それに会おうと思えば会える」
綾瀬は少し黙ってから、小さく笑った。
「そうだね」
綾瀬が笑っているのを見ると、俺も嬉しくなる。
でも同時に胸が苦しくなった。
確かに、連絡は出来る。会おうと思えば会える。
でも、いつもみたいに簡単には会えない。
綾瀬の笑顔が遠くなると考えたら、なんだかその笑顔が切なく見えた。
「・・・・・・永瀬くん」
「なに?」
「私も、会いたい」
その言葉がどういう意味なのか、どこまで俺と一緒なのか。
それを確かめようとは思わなかった。
ただ、俺も同じだという事だけは伝えたかった。
「俺も」
短く答えた。
それだけで十分だった。
いつもの別れ道に着く。
明日までなら、ここで「また明日」と言って別れていた。
でも明日、この町に綾瀬はいない。
「じゃあね」
綾瀬が片手を上げる。
「おう」
俺も軽く手を振り返す。
綾瀬は一歩進み、それからすぐに立ち止まった。
「永瀬くん」
「ん?」
「円周率ってさ、まだ好き?」
「急になに?」
「いいから」
「好きだけど」
「なんで?」
最初に話した時と、似たような質問だった。
俺は少し考える。
「終わらないところ」
「前と一緒だね」
「いや、ちょっと違う」
「どう違うの?」
俺は少し考える。
以前までなら、終わらないところが好きだった。
さらに言えば、無限に並ぶ数字にちゃんと理由があるのが好きだった。
でも今は、
「終わらない事自体が、ちょっといいなって思う」
「終わらないなら、まだ先があるから?」
あの日と同じ言葉だった。
「そう」
「じゃあ、私と一緒だね」
綾瀬が笑い、俺も釣られて笑った。
円周率はどこまで行っても終わらない。
3.14の次には1が来て、その次には5が来る。
数字の並びは最初から決まっていて、今の俺がその先を知らなくても、答えそのものはもう存在している。
でも、人間は違う。
同じ気持ちを抱えていても、同じ願いを持っていても、その時になれば違う選択をするかもしれないし、昨日まで想像もしていなかった方へ進む事だってある。
だから未来は分からない。
十七歳の俺には、自分がこの先どうなるのかも、綾瀬とこれからどうなるのかも、まだなに一つ分からない。
でも。
分からないからこそ、まだ決まっていないし、これから選べるという事でもある。
「じゃあ、またね」
綾瀬が言った。
明日でもなく、いつとも決めず。
ただ、また。
「あぁ、またな」
俺は頷く。
綾瀬は今度こそ歩き出した。
少しずつ遠ざかっていく背中をしばらく見送ってから、俺も自分の帰る方向へ歩き出す。

