円周率

§


 その日の放課後、帰り支度をしていると綾瀬が俺の席までやって来た。

「今日はありがとね」

「別に、なにもしてないけど」

「それでもさ」

「あっそ」

「うん」

 綾瀬は少しだけ笑う。いつもの明るい笑顔とは違う、もっと静かで柔らかい顔だった。

 その表情を見た瞬間、胸の奥が妙にざわついた。
 昼休みに感じた安心とも、数学を教えた時の小さな喜びとも、少し違う。なにかが引っ掛かる。

 でも、その正体を知る前に綾瀬が口を開いた。

「永瀬くんって不思議だよね」

「なにが?」

「もっと冷めた人かと思ってた。でも違うんだよね。人と同じ温度でいてくれる」

「・・・・・・なにそれ」

「普段は素っ気ない態度だけど、困ってる時には近くにいてくれる」

「別に」

「あとツンデレ」

「からかってます?」

「あはは、バレたか」

 そう言って、今度はいつもの綾瀬の笑い方だった。俺は少し安心する。

「でも、私しか知らない顔を見せてくれるのは嬉しいよ」

 そう言って綾瀬は淡い笑みを浮かべる。
 妙に胸がざわついて、俺は思わず目を逸らした。

 今日、綾瀬の事をまた一つ知った。
 なにかを隠し、一人になりたがる時、でも本当に誰も必要としていない訳じゃない。理由を聞かれるのは嫌でも、誰かがいる事まで嫌な訳じゃない。

 3.14159。
 3.141592。
 3.1415926。

 昨日までの数字は消えない。その先に新しい数字が増えていく。

 俺が綾瀬円という人間を知っていく感覚は、やっぱりそれに似ていた。それまで知っていた綾瀬を残したまま、その先にまだ知らなかった彼女が現れる。

 それが嬉しい。
 もっと知りたい。

 俺の知らない新たな綾瀬を知りたいし、どんな事を考えているのか、俺の知らない綾瀬がどれくらいいるのか、その先を知りたい。

 そこで俺は、少しだけ認めた。
 これはもう、ただの好奇心ではないのかもしれない。

 ただ、それに代わる言葉を、俺はすぐには言えなかった。
 綾瀬は俺の胸中など知らず、いつもの調子に少し戻った声で笑う。

「じゃあ、また明日ね」

「あぁ、また明日」

 綾瀬が教室を出ていくのを見送りながら、俺はさっきの言葉を頭の中で繰り返した。

 また明日。
 明日も会える。
 明日も話せる。

 その次の日も、そのまた次の日も、さっきと同じように続きを重ねていける。
 俺はなんの根拠もなく、そんな未来を当たり前のように思い描いていた。

 この時の俺はまだ知らなかった。


 綾瀬円に続きがある事と。
 その続きを俺がずっと隣で見られる事は。
 同じではないという事を。


§


 翌日、綾瀬は学校を休んだ。

 朝のホームルームが始まって隣の席は空いたままで、担任は出席を確認しながら「綾瀬は家庭の都合で欠席」とだけ告げた。

 家庭の都合。

 その言葉を聞いた瞬間、昨日の昼休みに綾瀬が言っていた事を思い出す。

『家の事で、ちょっとね』

 どうやら無関係ではなさそうだ。
 けれど、本人が話したくない事をこっちから聞くつもりはなかったし、そのうち話したくなれば向こうから話すだろうと、昨日までの俺ならそれで終わらせられた筈だ。

 ただ、休み時間になるたびに無意識に隣の席に視線が向いてしまう。
 いつもなら勝手に俺のノートを覗き込んだり、どうでもいい話をしてきたりするのに。それがなくなると妙な静けさだけが残った。

「・・・・・・なんだかな」

 独り言を呟きながら、ノートの端にいつもの数字を書いていく。

 3.141592653589793238・・・・・・。

 途中まで書いたところで、手が止まった。

 昨日の別れ際、綾瀬は言った。
『じゃあ、また明日ね』

『あぁ、また明日』
 と返した。

 なのに、今日は綾瀬がいない。

 別に、たまたま家の都合で休んだだけかもしれないし、そういう事は少なくない。
 それでも俺は昨日、今日の綾瀬を勝手に想像していた。朝になれば隣に座って、休み時間になれば話しかけてきて、また数学の問題でも持ってくる。

 そんな一日をなんの根拠もないまま、続きを思い描いていた。

 円周率なら、3.14の次には必ず1が来る。
 そこは絶対だ。

 でも人間は違う。
 昨日までの綾瀬をどれだけ知っていたとしても、今日の綾瀬がなにを選ぶかまで分かる訳じゃない。

 そんな当たり前の事を、隣の空席一つで思い知らされた気がした。


§


 翌日、綾瀬は普通に登校してきた。

「おはよ」

 いつもと変わらない調子で席に着き、鞄を机の横に掛ける。

「おう」

「なんかよそよそしくない?」

「別に」

「ほらやっぱり」

「昨日、急に休むから」

「あぁ・・・・・・」

 すると綾瀬は笑顔は崩さずに、いつもの明るい顔から、しおらしいものに変える。

「ちょっと家の用事でね」

「まぁ、お陰で昨日は静かに過ごせたけど」

「とか言って寂しかったくせに」

「え、全然?」

「素で言うのやめてっ、傷付くよっ」

 またすぐにいつもの綾瀬に戻った。俺は少しだけホッとした。
 踏み込み過ぎた。一瞬だけ見せた綾瀬のしおらしい笑みが、なにか覗いてはいけないものまで見えそうな気がして、俺はすぐに目を逸らした。

 俺の考え過ぎだろうか。かもしれない。
 綾瀬を見ると、いつもと同じようにも見える。でも、ふと見る横顔にいつもの朗らかな綾瀬にはない翳が差したような表情が垣間見える時がある。

 そこに小さな引っかかりを覚える。

「ねぇ、昨日の数学の宿題教えてくれない?」

「いいけど」

「やったー」

 いつも通り。
 やっぱり、気のせいだろうか。

 俺は、いつも通り接する事にする。
 休み時間には問題集を二人で覗き込み、放課後はたまに一緒に帰る。

 綾瀬は昨日学校を休んだ分まで取り戻すみたいによく喋ったけれど、家の事については一度も触れなかったし、俺も聞かなかった。

 それでいい、少なくともその時はそう思っていた。

 けれど、それから数日の綾瀬は少しずつ俺の知っている動き方から外れていった。

 俺と一緒に帰った翌日は友達と帰り、昼休みに俺の席に来たかと思えば、次の日はほとんど話しかけてこない。
 数学の問題を持ってきた日はいつも通り笑っていたのに、その翌日には目が合ってもすぐに逸らされる。

 近付いたと思ったら離れる。
 離れたと思ったら、また近付く。

 今まで以上に法則が見えなかった。
 最初は気のせいだと思おうとしたけれど、一度意識してしまうと、どうしても理由を考えてしまう。

 俺がなにかしたのか、校舎裏まで行った事が、本当は嫌だったのか。一緒に帰る事に飽きたのか。それとも、そもそも俺が勝手に距離が近付いたと思い込んでいたのか。

「・・・・・・分からない」

 ノートの余白に円周率を書きながら、小さく呟く。

 3.1415926535・・・・・・。

 数字ならいい、分からなければその続きを調べればいいし、そこには必ず正しい答えがある。
 でも、綾瀬にはそれがない――いや。

 ない訳じゃない。綾瀬の中にはきっと綾瀬なりの筋道があって、俺にはまだそれが見えていないだけ。

 なら、知ればいい。
 でも、もしその理由が「俺から離れたい」だったら?

 そう考えた途端、今まで欲しいと思っていた答えが、急に怖くなった。
 そこで初めて気付く。

 俺はもう、綾瀬をただ理解したいだけじゃない。
 綾瀬に離れて欲しくないと思っている。