円周率

§


 それから綾瀬が俺の席に来る事は少しずつ増えていった。
 数学の問題を聞きに来る日もあれば、とくに用事もないくせに世間話をしに来る。

「永瀬くんって休み時間なにしてんの?」

「見て分からない?」

「数字書いてる」

「分かってるじゃん」

「いや、流石に数字書いてるだけじゃないでしょ?」

「まぁ、それは」

「友達と話するとかないの?」

「とも、だち・・・・・・?」

「ごめん、傷付けるつもりはなかったの・・・・・・」

「マジのトーンで言うのやめて? 別に一人でも寂しくないし」

「私の事は友達と思っていいからね?」

「だから、マジの励ましやめて?」

「でも友達の方は真に受けていいから」

「・・・・・・あっそ」

「あ、今嬉しそうな顔した!」

「してないし別に」

「うっそだぁー」

 俺の言葉に全く耳を傾けない綾瀬に、俺は不服を唱えるが馬耳東風。からかった時の表情は、いつものコロコロ笑う愛嬌にはない憎たらしさがあった。

 こんな風に、普通に会話する事の方が最近は多い。最初は、どうしてわざわざ俺に話しかけてくるのか理由を考えていたけれど、最近はいちいち考える事もしなくなった。

 綾瀬が話し掛けてくれば話すし、来なければ少し気になる。
 いつしか俺の気持ちは綾瀬に左右されるようになっていた。

「そういえばさ、永瀬くんって円周率、何桁まで言えるの?」

「三十桁くらい?」

「キモ」

「即答するなよ」

「だってキモいでしょ、覚えてなんになるの? それ」

「理由なんてないよ。ただ数字がそこにあるから覚えてるだけ」

「なにその登山家みたいな発言。そこに山があるからみたいな」

「実際そうだし」

「やっぱ永瀬くん変わってるね」

 綾瀬は笑いながら俺のノートを勝手に引き寄せると、暇つぶしに書いていた数字の列に目を落とした。

 3.14159265358979323846・・・・・・。

「これさ」

「ん?」

「次の数字も、全部決まってるんだよね?」

「まぁ」

「じゃあ、未来も同じなのかな」

 それまで軽かった会話の中に、不意につかわしくない言葉が落ちてきた。

「未来?」

「仮に、今がここだとするでしょ?」

 そう言いながら、綾瀬は数字の途中を指先で示す。

「ここまでは分かってる訳でしょ。で、次も決まってる」

「円周率ならな」

「だったら人生も、もう全部決まってたりして」

「運命論ってやつか」

「運命論? なにそれ」

「世界で起きる全ての出来事とか人間の行動はあらかじめ全部決まっていて、人間はただ敷かれたレールの上を走ってるだけって話」

「へぇ、そんなのあるんだ。でもそういう感じ」

 綾瀬は自分の仮説に名前が付いてる事に少し嬉しそうな顔をしてコクコクと頷く。

「でも、俺は嫌だな」

「え?」

「全部決まってたら、考える意味ないだろ」

「永瀬くん、そういう事言うんだ」

「どういう意味だよ」

「や、もっと分かってたい人なのかと思ってた。数学好きだし、曖昧な事とか嫌いそうと思って」

「分かりたいのと、全部決まってるのは違うだろ」

「そっか」

 綾瀬はそれだけ言って、もう一度ノートに目を落とした。数字を見ているというより、数字の向こう側に見える別のものを考えているようにも見えたけれど、俺はそれ以上聞かなかった。

 ――知りたい。とは思うけれど、最近は綾瀬が黙る時には黙りたい理由があるのだと少しだけ分かってきた。だから無理に聞こうとは思わなかった。それで知れなかったらそれまでだし、いつか話してくれる事もあるだろう。

 そして、綾瀬とのそういう無言のやりとりみたいなものも、案外嫌いではなかった。


§


 数日後の放課後、部活へ向かう生徒や友達と帰る生徒が次々と教室を出ていき、気付けば残っているのは俺と綾瀬を含めた数人だけになっていた。

「今日、一緒に帰らない?」

 帰り支度を終えた綾瀬が、俺の正面に立つと、当たり前のようにそう言った。

「どういう風の吹き回し?」

「なんとなく。ダメ?」

「ダメじゃないけど」

「やった。永瀬くんとデートだー」

「おい待て、それは話が変わるだろ」

 だが綾瀬は聞く耳を持たず、一足先に扉に向かうので、俺も急いで鞄を持って後を追った。

 なんとも雑な誘い方だったが、だからといって断る理由もない。俺たちは並んで学校を後にした。

 歩きながら綾瀬は、今日の授業が眠かったとか、担任のネクタイが絶望的にダサいとか、購買のメロンパンが売り切れていたとか、本当にどうでもいい話ばかりなのに、不思議と聞いていて退屈しなかった。

「永瀬くんってさ」

「今度はなに」

「人に興味なさそうだよね」

「え、俺退屈そうに聞いてた? ごめん、そんなつもりはなかった」

「違うちがう、そういう意味じゃなくて」

「じゃあ、どういう意味?」

「なんていうか、必要以上に踏み込んでこなさそうだよね」

 綾瀬は前を向いたまま、少し言葉を探すように続ける。

「前もそうだったじゃん。私がノート持つの断った時。普通なら遠慮しなくてもいいって言ったり、無理矢理手伝ってくれたりするけど」

「俺は薄情と」

「だからそうじゃなくて」

「じゃあなに?」

「親切の押し売りみたいになるとちょっと息苦しいというかさ。断った時点でこっちの気持ちを察してすんなり引いてくれるくらいが楽なんだよね」

「難しい注文だな」

「分かってる。だから手伝ってくれた人には言わないよそんな事」

「まぁ、その気持ちは分からなくもないけど」

「本当?」

「うん」

「そっか」

 すると綾瀬は少しだけホッとしたような笑みを浮かべた。

 俺の言葉で綾瀬が安心した。それが思っていたよりも嬉しく、俺の胸が少しだけくすぐったくなる。


§


 それから数日が経っても、綾瀬との関係は少しずつ形を変えながら続いていった。

 休み時間、綾瀬が世間話をしに来る。たまに数学を教えて欲しいと頼まれる。時々、一緒に帰る。

 俺の生活から、徐々に一人の時間が減っていく。綾瀬といる時間が増えていく。

 俺は次第に、綾瀬が教室にいないと無意識にその姿を探し、見つけると安心するようになっていた。

 綾瀬の事が気になるのは以前からだ。でも、今のこれも以前と同じ「気になる」なんだろうか?


 そんなある日の昼休み。

 綾瀬が友達に声を掛けられていた。だが綾瀬は「ごめん、ちょっと」と笑って一人で教室を出て行った。

 端から見ればなんて事ないやりとりだった。でも俺はなんとなく、綾瀬の様子がいつもと違って見えた。

 笑顔も声も普段と変わらない。なのに、どこか無理しているような。
 たぶん、俺の思い過ごしの可能性の方が高いだろう。

 俺はそのまま見過ごすべきか迷った。が、席を立ち教室を出る。

 丁度喉が渇いたので、自販機へと向かう。そう自分に言い訳をしてなんとなく綾瀬が歩いて行った方へと向かった。

 綾瀬は校舎裏のベンチに座っていた。一人で俯き、手にはスマホを持っていたが、画面を眺めているようで、指はほとんど動いていない。

「綾瀬」

「あ・・・・・・永瀬くん」

 声を掛けると、綾瀬は顔を上げて、少し驚いたような顔をした。

「こんなところでなにしてんの?」

「あー、うん。ちょっと休憩」

 要領を得ない返事だった。

 やっぱり追いかけるべきじゃなかったか。でもなんとなく放っておけなかった。
 綾瀬の性格は、これまで見てきて少し分かる。一人になりたい時はそっとしておいた方がいい。前に言っていた、親切の押し売りは苦手だと。

 これも、それに当たるかもしれない。でも、綾瀬の翳の差した表情を見ると心がモヤモヤとした。なんとなく放っておけない。これはたぶん、親切じゃない。

「隣、いい?」

 俺は逡巡してからそう言うと、少し間があってから「いいよ」と返ってきた。

 俺は少し間を空けてから隣に腰を下ろした。

 いつものような明るさがない事だけは分かったけれど、それがなにに由来するのかまでは分からなかった。
 しばらく沈黙が続き、遠くの校舎から放送部の流す音楽が薄らと聞こえてきた。

「・・・・・・・・・・・・」

 わざわざやって来たのだから、その口実になにか話した方がいいのかとも思った。

 けれど、口実作りの為だけに話をするのは俺の都合に綾瀬を付き合わせるだけだった。そしてそれが綾瀬の求める事じゃない事は、なんとなく分かった。

 すると、綾瀬がポツリと呟いた。

「用事があって来たんじゃないの?」

「・・・・・・うん、そうなんだけど」

「もしかして、心配して来てくれたの?」

「・・・・・・・・・・・・」

 俺は答えられなかった。単純に、見透かされて恥ずかしかった。

「はは」

 すると綾瀬が笑う。

「なに、おかしい?」

「ううん、嬉しい」

 なぜか、心配で来た筈の俺の方が気遣われてる。なんだこれ。

「てゆうか、聞かないんだね?」

「なにを?」

「なにかあったの? とか」

「・・・・・・聞いても、意味ないかと思って」

「意味ない?」

「答えたくないかもしれないと思ってさ」

「そっか」

「うん」

 また、沈黙が流れる。でもさっきの沈黙と違って不安はなかった。なんとなく、共有出来る静けさだった。

 するとおもむろに綾瀬は言った。

「やっぱ、永瀬くんといると楽だな」

「なにそれ」

 すると綾瀬は笑った。さっき教室で見せた作り笑いじゃない。でも、いつもの明るい笑顔でもない。しおらしい笑みだった。

 また、沈黙が流れる。俺はただ隣に座っているだけ。

 そして、しばらくして、綾瀬がまた口を開いた。

「家の事で、ちょっとね」

 端的に綾瀬はそう言った。

 家の事。短い言葉だけれど、言外に色々な事情を丸ごと包み込める大風呂敷でもあり、それで察して欲しいという防波堤のようでもあった。

「そっか」

 俺はそれだけ言うと、綾瀬は一瞬キョトンとした。

「それだけ?」

「それ以上言いたくないんだろ?」

「・・・・・・うん」

「なら別に」

 俺がそう答えると、綾瀬はほんの少し目を細めた。

「ありがと」

「別に、なにもしてないだろ」

「なにもしないでくれたから」

「それ、礼を言われる事かな」

「私にはね」

 綾瀬が胸の中になにかを抱えている事はなんとなく察せる。でも、それを一緒に背負いたいとか、そうした親切や思いやりみたいなものを差し出すのは、今は適切でないように思えた。

 無理に聞かない方がいい時もある。分からなくても、それを知っているだけでもいい。綾瀬に、俺が選択肢として居るだけでも示せたら、今はそれでいいんじゃないだろうか。

 それから昼休みが終わるまで、俺たちはほとんどなにも喋らず隣り合って座っていた。

 会話らしい会話もない妙な時間だったけれど、不思議と居心地は悪くなかった。