円周率が好きだ。
そう言うと、大抵の人は少し変な顔をする。まぁ、分からなくもない。
3.14159265358979323846・・・・・・という数字を眺めてなにが楽しいのか。それならヒツジを数える方が、目的がある分、有意義かもしれない。
ただ俺は、終わらないのに比率は完璧なところが好きだった。
円周率は円周を直径で割った数で、どれだけ計算を続けても割り切れる事はない。何億桁、何兆桁と求めたところで、最後の数字には辿り着かない。
それなのに、適当に並んでいる訳じゃない。円という形があれば、そこには必ず同じ比率がある。
見た目には複雑でも、一つひとつの数字は決してデタラメに並んでいる訳ではなく、一ミリの狂いもなく必然的に決まっている。
そういったところに、俺は心惹かれる。
「また書いてる」
休み時間、ノートの余白に数字を書き連ねていると、横から声が降ってきた。
ペンを止めて顔を上げると、隣の席の女子が、俺のノートを覗き込んでいた。
「なにを?」
「それ。3.1415・・・・・・ってやつ」
「あぁ、これは円周率だよ」
「それくらい知ってる」
みくびられたと見て、綾瀬は軽く抵抗するように言った。
綾瀬円。
同じクラスになって一ヶ月ほど経つが、まともに会話した記憶はない。
綾瀬は俺とは違い、明るい性格で友達も多く、いつも輪の中心にいるような女子だった。
別に用事もなく話しかけ合う間柄でもないのに、急になんで話しかけたのだろうと、俺は不思議に思っていたが、綾瀬はさっきよりもう少し前屈みになって俺のノートを覗き込む。
「なんで円周率を書いてるの?」
「え? あぁ、これは癖というか、書いてると落ち着くんだよ。いや、落ち着いてるから書いてるのか?」
「いや、聞かれても知らないよ。てかなにその癖、ちょっとキモいね」
「失礼だな」
「ごめん、口が滑った」
さらさらオブラートに包む気がなくて、かえって潔い。
「でもそういう綾瀬こそ、円周率に興味示してるじゃん」
「円周率じゃなくて、休み時間に一人、円周率を書いてるクラスメイトが気になったの」
その言い方だと、まるで俺が変な奴みたいじゃないか。全くその通りだけど。
「永瀬くんって円周率好きなの?」
「好きだよ」
「変なの」
「まぁ、それは否定しないけど」
「しないんだ」
「綾瀬は? 円周率好きじゃない?」
「勿論。だって円周率でしょ? テストで3.14使うくらいしか思い出ないし」
「全国の数学教師に謝った方がいいぞ」
「じゃあ永瀬くんは、なにが好きなの?」
俺の軽口を流して、綾瀬は訊ねた。
改めてノートに視線を向ける。
3.14159265358979。何度も見てきた数字だ。
「終わらないからかな」
「終わらない?」
「円周率って無限に続くだろ? どこまで計算しても終わりがない」
「それが楽しいの?」
「楽しいっていうか、ロマン感じない?」
「ロマン?」
「何千年も昔から人間が計算してるのに、まだ終わってないところがさ」
「それのどこがロマンなの?」
綾瀬は首を傾げた。
でも俺は、もう少し続ける。
「それにさ、円周率ってデタラメに数字が並んでる訳じゃないだろ。どんな大きさの円でも、円周と直径の比率は必ず同じになる。そこに並んでる数字にはちゃんと理由がある。それがなんか好きなんだよ」
「ふーん」
綾瀬は数字を眺めたまま、少し考えるように黙った。
まぁ、普通はこんな反応になるよな。理解してもらえないのは分かってる。円周率と違って俺のこの気持ちは割り切れる。
ところが、綾瀬はしばらくして首を傾げた。
「終わらないって事はさ」
「ん?」
「終わらないって事は、ずっと途中って事?」
「・・・・・・途中?」
「だって、最後がないんでしょ?」
「まぁ」
「だから、終わらないっていうより、ずっと続いてる感じじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・」
すぐには返事を出せなかった。すると綾瀬は続けて言った。
「なんかいいね、それ」
「なにが?」
「終わらないなら、まだ先があるって事でしょ?」
そう言って綾瀬はあっけらかんと笑った。
たぶん、本人にとっては大層な意味では言ってないと思う。
でも俺は、妙に綾瀬の言葉が頭に残った。
無限に続く円周率を、俺は「終わらない」と解釈していたけれど、綾瀬はその逆に「まだ先がある」と解釈した。意味としては近いのに、全然ニュアンスが違う。
やがて授業を告げるチャイムが鳴ると、綾瀬は正面に向き直り、机から教科書を取り出し始める。
俺はもう一度、ノートに視線を落とす。
3.14159265358979。
そこに並んでいる数字は、さっきまでとなにも変わっていない。それでも、なんとなく続きを書きたくなって、一桁だけ書き足した。
その日の授業中、気付けば俺は綾瀬の方に視線が向いていた。
綾瀬はこちらの視線に気付く様子もなく、頬杖をついて黒板を眺めている。
俺は少しだけ綾瀬の事が気になっていた。あんな風に考える人間が、普段なにを考えているのか。俺なら思いつかない見方を、他にも持っていたりするんだろうか。
そういうものを一つずつ知っていけば、少しは綾瀬円という人間が見えてくるのだろうか。
§
それからというもの、俺は綾瀬の事を妙に意識する事が増えた。
・・・・・・別に、恋愛的な意味はない。ただ、気になっただけだ。
綾瀬円という人間が、どういう法則で動いているのか。
なんて言うと、かえって言い訳っぽく聞こえるけれど、そうじゃない。あくまで気になったから見てる。それだけ。
休み時間、俺はなんとなく気になって綾瀬を見ていた。視界の端でよく笑う綾瀬が映る。友達に囲まれ、楽しそうに話をしていた。
誰かのくだらない話に肩を揺らして笑っていたかと思えば、別の友達に軽くちょっかいを掛けられて唇を尖らせる。
常に表情が変わり、忙しない。
そんな事をぼんやりと考えながら見ていると、ふと綾瀬がこちらを向いたので、俺は反射的に目を逸らした。
・・・・・・いや、なんで俺が気まずくなってるんだ。
別にやましい気持ちなんてない、そうだろ?
俺は自分に言い聞かせながら、気持ちを落ち着かせる。
そんな事がありつつ、しばらくの間綾瀬を見ていると、気付く事があった。
綾瀬はよく人と一緒にいる。なのに昼休みになると、時々一人で本を読んで過ごしている事がある。誰かに話しかけられれば普段通り笑うけれど、またすぐに読書を再開して友達の輪に入ろうとしない。
それから、困っている人間を見つけるとすぐに手を貸す。
先日もプリントを床にぶちまけた男子生徒を見つけるや否や、一番にしゃがみ込んで拾っていた。
そういう奴なのだと思う。人付き合いが上手くて、困ったら人に手を貸せる優しい人間。
少なくとも、その時の俺にはそう見えていた。
だが、ある日の放課後。
担任に頼まれたらしく、綾瀬が両手一杯にノートを抱えて廊下を歩いているのを見かけたので、俺はなんとなく声を掛けた。
「綾瀬、それ重くない?」
「重いよ」
綾瀬は即答した。
「じゃあ手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
「重いんだろ?」
「うん、でも平気」
「どっちだよ」
思わずツッコむと、綾瀬はおかしそうに笑った。
「持てないとは言ってないでしょ?」
「そういう問題?」
「そういう問題」
言いながら、抱え直した拍子に一番上のノートが少しズレるので、俺は慌てて押さえた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「永瀬くんが話しかけるから」
「俺のせい?」
「嘘。そんな事ないよ」
そう言って綾瀬は気遣う。
や、別に真に受けてないけど。
でも、こんな時でさえ俺を気遣うんだ。自分は頼らないのに。
どう見ても手を借りた方がいいと思うが、言っても聞かなさそうなので俺は潔く引く事にした。
すると綾瀬は少しキョトンとした顔をする。
「なに?」
「手伝ってくれないんだ」
「だって、断るから」
「それはそうなんだけど、でももう少し食い下がるのかと思って」
「なにそれ。やっぱり引き留めて欲しかったの? 手伝おうか?」
「いいって」
「いいんかい」
よく分からない・・・・・・。
結局、綾瀬は自分でノートを抱えたまま「じゃあね」と言って歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は綾瀬の事を考えていた。
人が困っている時はすぐに手を貸すのに、自分が困っている時には簡単に頼ろうとしない。
一見すると矛盾している。でも、俺がまだ知らないだけで綾瀬の中では筋が通っているのかもしれない。
そう考えると、さらに綾瀬の事が気になった。
§
数日後。
「ねぇ、これ分かる?」
休み時間、今度は向こうから俺の席を訪ねてくると、その手にある数学の問題集を机の上に置いた。
「人に頼らないんじゃないの?」
「なにそれ」
「いや、この前ノート持つの断ったから」
「あれは自分で持てたから。これは分からないから聞いてるの」
「ノートも自分で持つの大変そうだったけど」
「私基準ではあれは自力でいけたの」
「よく分かんない」
「私が分かればいいの」
どうやら綾瀬の中では一貫性があるらしい。
「てゆうか、なんで俺?」
「数学得意そうだから」
「他にもいるだろ」
「いるけど、」
否定はしなかった。けれど、
「永瀬くんだと聞きやすそうだったから」
すると綾瀬はなんでもない事のように言った。
「なにそれ」
俺は怪訝に思いつつも、俺を選んでくれた事に満更でもなかった。我ながら単純だ。
「ここ、複素数の計算どうやるの?」
「あぁ、虚数単位使うやつか」
「なんかよく分かんないけどそれ」
「適当に答えるなよ」
「だって数学苦手なんだもん。多分、一生分かり合えない運命なんだと思う」
「勝手に数学と縁切ろうとするな」
俺は問題集を自分の方に引き寄せ、式を書きながら順番に説明していく。
その横で綾瀬は普段友達と笑っている時とは違う真剣な顔をしていて、少し眉間に皺を寄せながら俺のシャーペンの動きを追い、分からないところがあると露骨に首を傾げた。
そして理解出来た瞬間には、「あ、分かった!」と、表情がフッと明るくなる。
それを見ると、なんだか俺まで嬉しくなる。
教え甲斐のある生徒だ。
「じゃあ、こっちは?」
「これはさっきと同じ」
「え、どこが?」
「分かってないじゃん」
「分かった気になってただけみたい」
「他人事みたいに言うなよ」
「先生、もう一回お願い」
「誰が先生だ」
綾瀬が楽しそうに笑い、その顔につられるように俺も笑みが溢れた。
こうして話してみると、思っていたよりもずっと話しやすい。クラスの中心にいるような奴だから、もっと遠い存在かと思っていたけれど、実際、話してみて距離は感じない。
普段あまり喋らない俺に対しても気さくだし、それに自分の気持ちに素直で、コロコロと表情を変えるのは、見ていて飽きなかった。
でも、ふと思う。
普段明るくて友達に囲まれているのに、たまに一人で時間を過ごす事もある。
そして人が困っていたら手を貸すのに、自分は簡単には頼ろうとしない。
かと思えば、分からない問題があれば訊ねてくる。しかも特別仲が良い訳でもない俺に。
俺の知らない綾瀬を知るたびに、これまでの綾瀬のイメージとのギャップが浮き彫りになる。
その時、俺は円周率を思い出した。
3.14159。
そこまで知らなかった数字に一桁増えて、
3.141592。
前までの数字が消える訳じゃない。それまでの数字を含んだまま、ほんの少しだけ先に進んでいく。
「なに?」
「え?」
「や、人の顔ボーッとして見てるから」
気付けば綾瀬が怪訝そうにこちらを見ていた。
「いや、別に」
「変なの」
「綾瀬に言われたくない」
「なんで? 私普通だよ?」
「普通のやつは円周率を見て『ずっと途中だからいい』なんて言わないから」
「あ、それまだ覚えてたんだ」
「まぁ」
そう答えると、綾瀬は一瞬だけキョトンとした後、少し嬉しそうにはにかんだ。
「ふーん」
「なんだよ」
「別にー」
「絶対なんかあるだろ」
「ないない」
そう言いながら、綾瀬は妙に機嫌がよさそうだった。
意味が分からない。
たった一言、覚えていただけでなにがそんなに嬉しいのか。
でも、悪い気はしなかった。むしろ綾瀬が嬉しそうにしていると、綾瀬を笑顔に出来た事実に、妙に嬉しかった。
でも、そんな自分に気付いて、少しだけ気まずい。
俺の中に相反する感情がある。それでも全部がバラバラな訳じゃない。
なら、数字を増やしていければ、いずれ分かるようになるんだろうか。綾瀬の事も、もっと知れば分かるようになるんだろうか。
そんな事を考えながら、ふと気付く。
以前なら人の考えている事なんて分からなくて別に困らなかったし、分からないものは分からないで仕方ないと思っていた。
なのに綾瀬の事になると、俺は続きが知りたくなった。
新たな一面を見るたびにギャップが出てくる。それを埋める為にさらに続きが知りたい。
別に、好きって訳じゃない。ただ、気になるのだ。
そんな事を考えながら問題集の次のページをめくった。
その時の俺はまだ知らなかった。
複雑なものには理由があり、法則を知ればもっと理解出来るという俺の考えは、別に間違っていなかった。
でも、綾瀬の全てを理解する事と、その続きを知り続ける事は同じではなかった。
そして、分からないからこそ知りたいと思う気持ちに、別の名前がつき始めていた事も。
そう言うと、大抵の人は少し変な顔をする。まぁ、分からなくもない。
3.14159265358979323846・・・・・・という数字を眺めてなにが楽しいのか。それならヒツジを数える方が、目的がある分、有意義かもしれない。
ただ俺は、終わらないのに比率は完璧なところが好きだった。
円周率は円周を直径で割った数で、どれだけ計算を続けても割り切れる事はない。何億桁、何兆桁と求めたところで、最後の数字には辿り着かない。
それなのに、適当に並んでいる訳じゃない。円という形があれば、そこには必ず同じ比率がある。
見た目には複雑でも、一つひとつの数字は決してデタラメに並んでいる訳ではなく、一ミリの狂いもなく必然的に決まっている。
そういったところに、俺は心惹かれる。
「また書いてる」
休み時間、ノートの余白に数字を書き連ねていると、横から声が降ってきた。
ペンを止めて顔を上げると、隣の席の女子が、俺のノートを覗き込んでいた。
「なにを?」
「それ。3.1415・・・・・・ってやつ」
「あぁ、これは円周率だよ」
「それくらい知ってる」
みくびられたと見て、綾瀬は軽く抵抗するように言った。
綾瀬円。
同じクラスになって一ヶ月ほど経つが、まともに会話した記憶はない。
綾瀬は俺とは違い、明るい性格で友達も多く、いつも輪の中心にいるような女子だった。
別に用事もなく話しかけ合う間柄でもないのに、急になんで話しかけたのだろうと、俺は不思議に思っていたが、綾瀬はさっきよりもう少し前屈みになって俺のノートを覗き込む。
「なんで円周率を書いてるの?」
「え? あぁ、これは癖というか、書いてると落ち着くんだよ。いや、落ち着いてるから書いてるのか?」
「いや、聞かれても知らないよ。てかなにその癖、ちょっとキモいね」
「失礼だな」
「ごめん、口が滑った」
さらさらオブラートに包む気がなくて、かえって潔い。
「でもそういう綾瀬こそ、円周率に興味示してるじゃん」
「円周率じゃなくて、休み時間に一人、円周率を書いてるクラスメイトが気になったの」
その言い方だと、まるで俺が変な奴みたいじゃないか。全くその通りだけど。
「永瀬くんって円周率好きなの?」
「好きだよ」
「変なの」
「まぁ、それは否定しないけど」
「しないんだ」
「綾瀬は? 円周率好きじゃない?」
「勿論。だって円周率でしょ? テストで3.14使うくらいしか思い出ないし」
「全国の数学教師に謝った方がいいぞ」
「じゃあ永瀬くんは、なにが好きなの?」
俺の軽口を流して、綾瀬は訊ねた。
改めてノートに視線を向ける。
3.14159265358979。何度も見てきた数字だ。
「終わらないからかな」
「終わらない?」
「円周率って無限に続くだろ? どこまで計算しても終わりがない」
「それが楽しいの?」
「楽しいっていうか、ロマン感じない?」
「ロマン?」
「何千年も昔から人間が計算してるのに、まだ終わってないところがさ」
「それのどこがロマンなの?」
綾瀬は首を傾げた。
でも俺は、もう少し続ける。
「それにさ、円周率ってデタラメに数字が並んでる訳じゃないだろ。どんな大きさの円でも、円周と直径の比率は必ず同じになる。そこに並んでる数字にはちゃんと理由がある。それがなんか好きなんだよ」
「ふーん」
綾瀬は数字を眺めたまま、少し考えるように黙った。
まぁ、普通はこんな反応になるよな。理解してもらえないのは分かってる。円周率と違って俺のこの気持ちは割り切れる。
ところが、綾瀬はしばらくして首を傾げた。
「終わらないって事はさ」
「ん?」
「終わらないって事は、ずっと途中って事?」
「・・・・・・途中?」
「だって、最後がないんでしょ?」
「まぁ」
「だから、終わらないっていうより、ずっと続いてる感じじゃない?」
「・・・・・・・・・・・・」
すぐには返事を出せなかった。すると綾瀬は続けて言った。
「なんかいいね、それ」
「なにが?」
「終わらないなら、まだ先があるって事でしょ?」
そう言って綾瀬はあっけらかんと笑った。
たぶん、本人にとっては大層な意味では言ってないと思う。
でも俺は、妙に綾瀬の言葉が頭に残った。
無限に続く円周率を、俺は「終わらない」と解釈していたけれど、綾瀬はその逆に「まだ先がある」と解釈した。意味としては近いのに、全然ニュアンスが違う。
やがて授業を告げるチャイムが鳴ると、綾瀬は正面に向き直り、机から教科書を取り出し始める。
俺はもう一度、ノートに視線を落とす。
3.14159265358979。
そこに並んでいる数字は、さっきまでとなにも変わっていない。それでも、なんとなく続きを書きたくなって、一桁だけ書き足した。
その日の授業中、気付けば俺は綾瀬の方に視線が向いていた。
綾瀬はこちらの視線に気付く様子もなく、頬杖をついて黒板を眺めている。
俺は少しだけ綾瀬の事が気になっていた。あんな風に考える人間が、普段なにを考えているのか。俺なら思いつかない見方を、他にも持っていたりするんだろうか。
そういうものを一つずつ知っていけば、少しは綾瀬円という人間が見えてくるのだろうか。
§
それからというもの、俺は綾瀬の事を妙に意識する事が増えた。
・・・・・・別に、恋愛的な意味はない。ただ、気になっただけだ。
綾瀬円という人間が、どういう法則で動いているのか。
なんて言うと、かえって言い訳っぽく聞こえるけれど、そうじゃない。あくまで気になったから見てる。それだけ。
休み時間、俺はなんとなく気になって綾瀬を見ていた。視界の端でよく笑う綾瀬が映る。友達に囲まれ、楽しそうに話をしていた。
誰かのくだらない話に肩を揺らして笑っていたかと思えば、別の友達に軽くちょっかいを掛けられて唇を尖らせる。
常に表情が変わり、忙しない。
そんな事をぼんやりと考えながら見ていると、ふと綾瀬がこちらを向いたので、俺は反射的に目を逸らした。
・・・・・・いや、なんで俺が気まずくなってるんだ。
別にやましい気持ちなんてない、そうだろ?
俺は自分に言い聞かせながら、気持ちを落ち着かせる。
そんな事がありつつ、しばらくの間綾瀬を見ていると、気付く事があった。
綾瀬はよく人と一緒にいる。なのに昼休みになると、時々一人で本を読んで過ごしている事がある。誰かに話しかけられれば普段通り笑うけれど、またすぐに読書を再開して友達の輪に入ろうとしない。
それから、困っている人間を見つけるとすぐに手を貸す。
先日もプリントを床にぶちまけた男子生徒を見つけるや否や、一番にしゃがみ込んで拾っていた。
そういう奴なのだと思う。人付き合いが上手くて、困ったら人に手を貸せる優しい人間。
少なくとも、その時の俺にはそう見えていた。
だが、ある日の放課後。
担任に頼まれたらしく、綾瀬が両手一杯にノートを抱えて廊下を歩いているのを見かけたので、俺はなんとなく声を掛けた。
「綾瀬、それ重くない?」
「重いよ」
綾瀬は即答した。
「じゃあ手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
「重いんだろ?」
「うん、でも平気」
「どっちだよ」
思わずツッコむと、綾瀬はおかしそうに笑った。
「持てないとは言ってないでしょ?」
「そういう問題?」
「そういう問題」
言いながら、抱え直した拍子に一番上のノートが少しズレるので、俺は慌てて押さえた。
「ほら、言わんこっちゃない」
「永瀬くんが話しかけるから」
「俺のせい?」
「嘘。そんな事ないよ」
そう言って綾瀬は気遣う。
や、別に真に受けてないけど。
でも、こんな時でさえ俺を気遣うんだ。自分は頼らないのに。
どう見ても手を借りた方がいいと思うが、言っても聞かなさそうなので俺は潔く引く事にした。
すると綾瀬は少しキョトンとした顔をする。
「なに?」
「手伝ってくれないんだ」
「だって、断るから」
「それはそうなんだけど、でももう少し食い下がるのかと思って」
「なにそれ。やっぱり引き留めて欲しかったの? 手伝おうか?」
「いいって」
「いいんかい」
よく分からない・・・・・・。
結局、綾瀬は自分でノートを抱えたまま「じゃあね」と言って歩き出した。
その背中を見送りながら、俺は綾瀬の事を考えていた。
人が困っている時はすぐに手を貸すのに、自分が困っている時には簡単に頼ろうとしない。
一見すると矛盾している。でも、俺がまだ知らないだけで綾瀬の中では筋が通っているのかもしれない。
そう考えると、さらに綾瀬の事が気になった。
§
数日後。
「ねぇ、これ分かる?」
休み時間、今度は向こうから俺の席を訪ねてくると、その手にある数学の問題集を机の上に置いた。
「人に頼らないんじゃないの?」
「なにそれ」
「いや、この前ノート持つの断ったから」
「あれは自分で持てたから。これは分からないから聞いてるの」
「ノートも自分で持つの大変そうだったけど」
「私基準ではあれは自力でいけたの」
「よく分かんない」
「私が分かればいいの」
どうやら綾瀬の中では一貫性があるらしい。
「てゆうか、なんで俺?」
「数学得意そうだから」
「他にもいるだろ」
「いるけど、」
否定はしなかった。けれど、
「永瀬くんだと聞きやすそうだったから」
すると綾瀬はなんでもない事のように言った。
「なにそれ」
俺は怪訝に思いつつも、俺を選んでくれた事に満更でもなかった。我ながら単純だ。
「ここ、複素数の計算どうやるの?」
「あぁ、虚数単位使うやつか」
「なんかよく分かんないけどそれ」
「適当に答えるなよ」
「だって数学苦手なんだもん。多分、一生分かり合えない運命なんだと思う」
「勝手に数学と縁切ろうとするな」
俺は問題集を自分の方に引き寄せ、式を書きながら順番に説明していく。
その横で綾瀬は普段友達と笑っている時とは違う真剣な顔をしていて、少し眉間に皺を寄せながら俺のシャーペンの動きを追い、分からないところがあると露骨に首を傾げた。
そして理解出来た瞬間には、「あ、分かった!」と、表情がフッと明るくなる。
それを見ると、なんだか俺まで嬉しくなる。
教え甲斐のある生徒だ。
「じゃあ、こっちは?」
「これはさっきと同じ」
「え、どこが?」
「分かってないじゃん」
「分かった気になってただけみたい」
「他人事みたいに言うなよ」
「先生、もう一回お願い」
「誰が先生だ」
綾瀬が楽しそうに笑い、その顔につられるように俺も笑みが溢れた。
こうして話してみると、思っていたよりもずっと話しやすい。クラスの中心にいるような奴だから、もっと遠い存在かと思っていたけれど、実際、話してみて距離は感じない。
普段あまり喋らない俺に対しても気さくだし、それに自分の気持ちに素直で、コロコロと表情を変えるのは、見ていて飽きなかった。
でも、ふと思う。
普段明るくて友達に囲まれているのに、たまに一人で時間を過ごす事もある。
そして人が困っていたら手を貸すのに、自分は簡単には頼ろうとしない。
かと思えば、分からない問題があれば訊ねてくる。しかも特別仲が良い訳でもない俺に。
俺の知らない綾瀬を知るたびに、これまでの綾瀬のイメージとのギャップが浮き彫りになる。
その時、俺は円周率を思い出した。
3.14159。
そこまで知らなかった数字に一桁増えて、
3.141592。
前までの数字が消える訳じゃない。それまでの数字を含んだまま、ほんの少しだけ先に進んでいく。
「なに?」
「え?」
「や、人の顔ボーッとして見てるから」
気付けば綾瀬が怪訝そうにこちらを見ていた。
「いや、別に」
「変なの」
「綾瀬に言われたくない」
「なんで? 私普通だよ?」
「普通のやつは円周率を見て『ずっと途中だからいい』なんて言わないから」
「あ、それまだ覚えてたんだ」
「まぁ」
そう答えると、綾瀬は一瞬だけキョトンとした後、少し嬉しそうにはにかんだ。
「ふーん」
「なんだよ」
「別にー」
「絶対なんかあるだろ」
「ないない」
そう言いながら、綾瀬は妙に機嫌がよさそうだった。
意味が分からない。
たった一言、覚えていただけでなにがそんなに嬉しいのか。
でも、悪い気はしなかった。むしろ綾瀬が嬉しそうにしていると、綾瀬を笑顔に出来た事実に、妙に嬉しかった。
でも、そんな自分に気付いて、少しだけ気まずい。
俺の中に相反する感情がある。それでも全部がバラバラな訳じゃない。
なら、数字を増やしていければ、いずれ分かるようになるんだろうか。綾瀬の事も、もっと知れば分かるようになるんだろうか。
そんな事を考えながら、ふと気付く。
以前なら人の考えている事なんて分からなくて別に困らなかったし、分からないものは分からないで仕方ないと思っていた。
なのに綾瀬の事になると、俺は続きが知りたくなった。
新たな一面を見るたびにギャップが出てくる。それを埋める為にさらに続きが知りたい。
別に、好きって訳じゃない。ただ、気になるのだ。
そんな事を考えながら問題集の次のページをめくった。
その時の俺はまだ知らなかった。
複雑なものには理由があり、法則を知ればもっと理解出来るという俺の考えは、別に間違っていなかった。
でも、綾瀬の全てを理解する事と、その続きを知り続ける事は同じではなかった。
そして、分からないからこそ知りたいと思う気持ちに、別の名前がつき始めていた事も。

