羊たちの箱庭

 あのひとたち、絶対に付き合ってる。

 ぬるくなったミルクティーをストローで啜りながら、私は黒板の前で談笑している男女を観察していた。
 女の子がセーターの袖から第一関節くらいまで出ている両方の指先をしきりに絡めている。耳のてっぺんを桃色に染めながら男のほうに話しかければ、男のほうも照れくさそうに目を逸らし、笑う。
「絶対に付き合ってるよね」
「だれとだれが」
 卵焼きを箸でつまんだ麻乃(あさの)が、私の視線の先を辿って「ああ」と頷いた。
「山城(やましろ)くんと高田(たかだ)さんね。文化祭のあとからいい雰囲気だよね」
「付き合いたてって感じのオーラが出てる。でも高田さんがああいうふうになってるの、初めて見たかも」
「茉莉奈(まりな)は同じ中学だったんだっけ?」
 うん、と鮭おにぎりの包装を破きながら首肯した。
 中学のときは同クラになったことがなかったし、向こうは美術部で私は帰宅部だったから特別な接点はなかったのだけど。
「あさちゃんは山城と同じ中学出身じゃなかった?」
「なんなら小学校も一緒だわ。親同士もふつうに知り合い」
 私はふうんと相槌を打ちながら、鮭おにぎりを頬張った。
 麻乃は山城と高田のことには興味がないのか、毎朝自分で作っているらしいお弁当を淡々と食べている。
「めっちゃ混んでた! 売店!」
 戻ってきたひろかが、机の上に白いビニール袋を置いた。緑色の校章が無駄にプリントされた安っぽい袋で、たしか一枚五円。
「ひとが多すぎて選ぶのに十分、並ぶのに十分以上かかったよー。ばかすぎ。パン一個といちご牛乳のために二十分超! うちも茉莉奈みたいにコンビニで買おうかなあ」
「コンビニ寄ってたらひろかは遅刻するじゃん」
 麻乃の冷静なツッコミに、ひろかが「それはそうだけどお」とおどけて席に着く。クリームパンの入った透明な袋をばりばりと破いて、大きな口でかぶりついているひろかが、ふと辺りを見回して目を丸くした。
「なんか男女でお昼食べてる子、多くない? こんなにカップルいたっけ。後夜祭の効果かね」
「べつにみんながみんな、カップルってわけじゃないんじゃない」
「麻乃は相変わらず一ミリも興味ないよねえ」
 ひろかがしみじみと呟いた。麻乃は素知らぬ顔で黙々と手作り弁当を食べている。
 ふたりは保育園から一緒の幼なじみらしい。相手の反応を気にせずに言いたいことを言い合える間柄が、私にはほんの少しまぶしい。
「ていうかあれ山城じゃん。えええ、相手は高田さん?」
「ちょっとひろちゃん声」
「あごめん。ありがと茉莉奈」
 慌てて声をひそめたひろかが、机の上に無造作に置かれたままのビニール袋の隙間から、盗み見するように教室の前方を見ている。
「あんな黒板のまんまえでいちゃついてるんだよ? 見てくださいって言ってるようなものじゃんね」
「まだ周りが見えてないだけじゃないの」
「麻乃はこうやって言うけど、ねえ?」
 ひろかが私に目配せした。こういうとき、どんな反応をするのが私らしくて(・・・・・)正解なのかわからない。とりあえず肩をすくめてみせたら、ひろかは満足したようだった。
「意外だよねー。高田さんっておとなしそうなのに案外抜け目ない。それが山城と、ねえ」
「山城くんも派手ではなくない?」
 私の問いかけに、ひろかがやんわりと苦笑した。
「茉莉奈にはそう見えるんだ。あれは逆高校デビュー? っていうの? 山城って中学のとき結構荒れてたんだよ。内申が悪すぎて、それでここに入学したらしい」
「そうなんだ。ペーパーテスト重視で内申はほとんど見ないって噂だもんね、うちの高校」
「そうそう」
 私は空になったおにぎりの包装をつまみ、結び目を作るように小さく畳んだ。コンビニのビニール袋も細長く折り、くるくると丸めるように折り畳んで机の端に寄せる。
「茉莉奈、おにぎりとリプトンだけで足りるの?」
 プチトマトを口に運びながら、麻乃が気遣わしげに私を見てくる。どんなに食べてもスレンダーな体躯をキープしている麻乃は、昔から太れない体質だと以前溜め息まじりに言っていた。
「あは、ぶっちゃけ腹五分目くらい。でも今日は予備校があるから夕飯も買わないといけなくて。ここでもっと食べたら現金が足りなくなる」
「貸してもいいけど?」
「大丈夫! 金は貸しても借りるな、が家訓だから」
 不意に麻乃が珍しく笑顔を見せた。白い歯を少しだけ見せてほほえみ、完食したお弁当箱を丁寧に片付けている。
 するといちご牛乳を飲んでいたひろかが顔を上げて「予備校かあ。えらいねえ」と言う。
「うち下校したら疲れてぐったりだわ」
 だってもう高校二年生だし。来年には大学受験を控えているし。就職という選択肢は、ないし。
 それらは胸の内に留めておいて「学校の勉強に全然ついていけないから予備校っていうか塾、もはや補習、学校の補習だよ」とへらへら笑って返した。


 昼休みのあとの午後の授業は眠気との戦いで、私はあくびを噛み殺しながら机の下でスマホを操作していた。
 中学の仲良し五人組のグループラインが盛んに稼働している。
《ゆーちゃん彼氏できたの!? おめでとう!》
《いーなーいーなー。私は最近別れましたよっと》
《男なんぞいらん! K大法合格! 勉強に専念! って張り切ってたやん、わら》
《実際M高ならK大の法学部だって余裕でしょ》
《M高のえっちゃんとS高のまりーは我らの希望》
 私はくまがとぼけた顔をしているスタンプを押した。
 白シャツに赤と紺のチェックのスカートが可愛かったから、この高校を志望した。道ゆく学生の着こなしも洒落ていて、なんとなくリア充っぽさ(十歳上の姉の口癖でたぶん死語)が手に入ると思った。校則がゆるめの進学校で、中三の夏の時点で偏差値は届いていなかったけれど、見栄っ張りの私は諦めが悪かった。
 私が欲しかったのは充実した学生生活というよりは、それなりの高校に通っているステータスと、街を歩いていても恥ずかしくない外見だったのだから。
《スマホ見過ぎ》
 グループラインの画面の上部にべつの通知が届いた。右横を見ると、机に伏せて寝ていたはずの海野(うみの)と目が合った。
 海野は手元のポストイットを一枚剥がすと、私の机にぺたりと貼りつけた。
《だから成績上がらないんじゃね》
 くしゃくしゃに丸めて投げつけようかと思ったけれど、水色のフリクションで丁寧に《余計なお世話》と書いて返却してやった。
 海野は鼻で笑うと、新しいポストイットにボールペンを走らせる。
《スマホ見たり山城や高田の方を見たり挙動不審すぎ》
 え、と固まったら、海野がにやりと口の端を持ち上げた。
「それじゃあ隣のひとと二人一組になって百十四ページを音読してください。十分経ったら適当にあてますので、わからない単語などもお互いに擦り合わせておくように」
 英語教師の合図で教室内が一斉に騒がしくなった。私は百十一ページを開いたままだったテキストを慌ただしくめくって、教科書を抱えて海野と向き合った。
「なんであいつらのこと気にしてんの?」
「いや、だって付き合ってるっぽいし、ちょっと雰囲気がね」
「ふーん。てか付き合ってないよ」
 目を瞬かせる私を見て、海野がつまらなさそうに先を続ける。
「たぶん両片思いってやつ? 高田の気持ちは知らんけど。山城は高田推しだってさ。文化祭のときに言ってたわ」
「でも文化祭のあとの後夜祭、ふたりで回ってなかった?」
 後夜祭では校庭でキャンプファイヤーと打ち上げ花火をするのが毎年の恒例だった。雰囲気にあてられるのか、どさくさに紛れて告白する生徒が多く、後夜祭で異性を誘うイコール告白する、が暗黙の了解となっていた。
「ひよって告白できなかったらしい」
「そうだったんだ」
 机と机の間の通路を縫うように教師が近づいてきたので、私と海野は音読しているふりをした。
「まりー、気になる?」
 海野の色素の薄い瞳が私をまっすぐ見ている。それは私の苦手なまなざしだった。
「付き合ってるやつなんて何人もいるじゃん。あそこにいる田倉と霜山、葛西と西橋、中野と沖原も」
「えっ、沖原さんも?」
「なんだ、知らなかったの」
 海野は私から目線を外すと、左手で器用にペン回しを始めた。弧を描く黒いボールペンが、教室の蛍光灯の光を反射して鈍く光っている。
「沖原さんは恋愛とかしなさそうだと思ってた」
「恋愛ぃ?」
 海野のボールペンが止まり、何やら教科書に丸をつけている。
「べつに恋愛しなくたって付き合えるよ」
「はあ?」
「この単語なんて読むかわかる?」
「pupilだよ、生徒って意味。共テに出るよ」
「ありがと、まりー」
 恋愛しなくたって付き合える。
 困惑して海野を見れば、これで話はおしまいだと言わんばかりに「予備校でな」とシャッターを下ろされた。


 私をまりーと呼ぶのは同じ中学出身の同級生くらいだけど、海野は例外だった。だれかからあだ名を聞いて知っていたのか「あんたがまりーちゃん?」と予備校で声をかけられ、いつの間にか学校でもよく話すようになった。
 海野のことは入学式で見かけてから一方的に知っていた。なにせ目立つ容姿である。
「海野蒼って青っぽい色を連想させる名前だね」と私が言えば、「姉ちゃんは翠っていうんだよ」と海野は笑った。
 みどりとあお。
 姉は十二歳年上らしく、そんなところも親近感を覚えて話しやすかった。
「まりーお疲れ。次は国語?」
「ううん、休講らしい。だから閉館まで自習室にいようかと思って」
「奇遇だなー、俺も。その前にごはん行かん?」
「今日あんまりお金持ってきてない」
「じゃあ、ハトバ食堂に行こ」
 山盛りの生姜焼き定食が六百円で食べられるハトバ食堂は、予備校の近くにある大学の学生でいつも賑わっている。
 海野と肩を並べて灰色のビルを後にしたら、秋と冬の狭間のひんやりとした風が頬を撫でた。
「数学のクラスに山城がいるからあらためて聞いてみたら、やっぱり告白すらできていないって言ってたわ」
 へえ、と気のない返事をすれば、海野が横目で私を見た。
 赤信号で足が止まる。目の前を自動車やバイクが忙しなく行き交っていて、トラックが通るたびにアスファルトが揺れた。
「すればいいのに、告白」
「なー」
「さっきインスタ見てたら、みんなデートしただのそんな投稿ばっかりだった」
「それはさすがに偏見。付き合ってないやつの方が多そうだけど。まりーはさ、彼氏が欲しいの?」
 私? 私は。
「青だよ。まりー、行こ」
 はっと我に返り、赤と紺のチェックのスカートを翻して横断歩道を渡る。車のヘッドランプが海野の横顔を照らし、海野がそっと目を細めた。
 欲しいか欲しくないかでいえば、欲しい。やっぱり、欲しい。
 厳密には彼氏のいる状態でありたい。彼氏のいない女子高生の枠から抜け出したい。そういう焦りがずっとある。
 でもそれって彼氏という飾り物が欲しいだけ? その実態までは欲していないということ?
「そもそもだれかを好きになったことないし」
「一度も?」
 横断歩道を渡り終えた海野が「なるほどなあ」と言って、大きく口を開けて笑った。
「そんなに面白い?」
「ごめんごめん。恋愛感情未体験ってことでしょ? そんなのなくたって付き合えるのに、まりーはお堅いなーと思って」
 交差点の隅にひっそりと佇んでいるハトバ食堂のドアを開けたのは海野で、中を覗き込むと「お。今日は空いてる」と声を弾ませた。
「それ学校でも言ってたよね。好きじゃないけど付き合えるって意味でしょ? 不誠実すぎ」
「そお? 恋してるわけじゃなくても、このひといいなーと思ったらカップルになったっていいじゃん。一緒にいて楽しいなーとか」
 ふたりぶんの生姜焼き定食を注文し、セルフドリンクコーナーから戻ってきた海野に「それって友達となにが違うの?」と尋ねた。
 海野は水の入ったプラスチックコップを私の前に置くと、椅子に座って自分の水を飲んでいる。
「手を繋げる。ハグできる。キスができる。その先にも進める」
「海野に聞いた私が愚かだった」
 今日の海野はなにが楽しいのかよく笑う。
 水を飲むたびに上下する喉仏を、私はぼんやりと見ていた。
「そんなの付き合わなくてもやろうと思えばできるんじゃないの」
「おまえなあ、まじ言い方考えろ? そりゃやれるけど、俺は不特定多数と共有されるつながりよりも、一対一で固定化された関係の方がいいと思う。まりーの言葉を借りれば誠実、じゃん? そう見られた方が世間的にも得だし」
 わけがわからない。だいいち私たちは予備校に通いながらどんな会話をしているんだ、と呆れる。
「でも相手の子が海野に恋愛感情を抱いていたら?」
「そういうのは付き合う前に確認し合うの。俺もきみがすきだよ愛してる、って騙したりしないんです。嘘なんて即バレるし。それで付き合ってだめになったら別れたらいーじゃん。あくまで俺はだけど」
「ふうん。で、今の彼女は他校だっけ? その彼女に対しても恋愛感情はないと」
「そーそー。ひととしてめちゃ好き。ふつうに可愛いし」
 運ばれてきた生姜焼き定食を食べながら、私は溜め息を吐いた。来年には受験生なのに、なんて生産性のない話をしているんだろう。


「それって海野が男だからできることじゃん?」
 昨日の海野との会話をふと思い出し、昼休みの教室で麻乃とひろかに話してみたところ、ひろかは思い切り顔を顰めた。
「舐め腐ってる。誠実の皮を被った不誠実なやつ。勝手にやってろっつうの」
 売店のアップルパイにかぶりつきながら、ひろかが眉を吊り上げてそう吐き捨てた。
「だってさあ、女がおんなじことを男にやったらどんな目に遭うかわかったもんじゃないって。大体生物的に不利なんだから、こっちは。力で勝てやしないんだから」
「ひろかのそれは拡大解釈じゃないの」
「麻乃は海野派なわけ?」
 ブロッコリーを口に運びながら「そういうわけじゃないけど」と麻乃がすまして言う。
「あーあー彼氏欲しい! 海野とは対極の、親切で優しくてKPOPアイドルみたいな顔でうちだけを大切にしてくれるような! 記念日に薔薇の花束をくれるような! そんな男いないかなあ」
 今日も黒板の前で頬を赤らめながら会話している山城と高田を眺めながら、ひろかが恨めしげに言う。そして「あれはない」と嘲笑を口の端に乗せる。
「その辺にしときな、ひろか」
 その言葉の意味を私が理解する前に、麻乃がひろかにストップをかけた。ひろかは舌を出して笑い、ハンカチポーチを持って「トイレ!」と教室を出て行った。
「悪い子じゃないんだけど」
 麻乃が私の目を見て、慎重に言葉を選んだ。
「少しお調子者なところがある。保育園の頃からね。あれは性格だわ」
「うん」
 麻乃はひろかを庇っているのだ。
 私は苦笑いを浮かべながら「わかってるよ」と頷いてみせる。そうすることで麻乃が安堵するであろうことを見越して、この場に漂う微妙な空気には気がつかないふりをする。
 大丈夫、ちゃんとわかってる。
 それが女子同士の、最適解。


 偏差値40よりは偏差値60の高校に行った方がいい。
 ダサいジャンパースカートよりは、アイドルの衣装みたいな制服の方がいい。
 前髪が分厚いのはナンセンス。流行と真逆のヘアスタイルで許されるのは、文句のつけられない絶世の美女だけ。だから私は薄めの前髪をケープでキープするし、頭には天使の輪っかができるようにヘアケアだって怠らない。
 食べた分だけ太るから、財布はできるだけ軽くする。「高校生のうちは太るもんだから」と言う姉は未だにたくましい身幅だ。だから、姉の言葉は角の立たないよう笑って聞き流す。
 努力して努力してようやく人並み以上になれる。頑張って頑張ってようやく付き合う人間を選べる。選べない人生なんてまっぴらごめんだ。
 身なりの整っていない不潔、地味で陰気な根暗、病気以外の理由で太っている怠慢、そんなのは勝手にすればいいけど私が一緒にいるべきひとじゃない。男友だちの多い派手なひろかと、口数は少ないけど学年一うつくしい麻乃。釣り合いの取れた友人関係。私がいるべき居場所。でもそんなの誰にも言わない。誰も知らない。
 足りないのは彼氏の存在だ。なんで私は恋がよくわからないんだろう。だれかと付き合うことがこんなにも難しいだなんて知らなかった。
「まりーはなんでひろかと一緒にいんの?」
 予備校の自習室を出たところで鉢合わせした海野と、流れでハトバ食堂に行くことになった。お互いにいつもの生姜焼き定食を注文したところで、海野が心底不思議そうな顔をして、そう言った。
「なに。なんで、って」
「だってタイプ違うじゃん」
 間髪入れずに返され、私は喉元まで出そうになっていた言葉を飲み込んだ。
「タイプ違ったって仲良くしても良くない?」
「それは一理あるけど。でもなんか違うんだよ、決定的に相容れないものがあるというか」
「海野はひろちゃんのなにを知ってるわけ」
「なにも知らん」
「あほなの?」
 海野があほで良かった。
 私が計算高いまぬけで良かった。
「俺はおまえが無理してるんじゃないかとたまに思うんですけどね」
「そんなことないけど」
「まーそれならいい。いいわ。忘れて」
 運ばれてきた生姜焼き定食に視線を落とした。海野が「こっちライス小盛りだからまりーのだわ」と言う。
 その抑揚のない声色が恐ろしかった。


《まりー! 高田って彼氏できたの?》
《えまじで》
《なんか駅前で見たんだけど》
《なになになになに》
 退屈な古典の授業でスマホをいじっていたら、中学の仲良し五人組のグループラインが動き出した。
 右隣の海野はすやすや眠っている。
《いやみんな授業聞けし》
 くさくさくさ、と心の中で唱えながらWを大量に送りつける。
《まりー、それで結局のところどうなの?》
 ケッキョクノトコロドウナノ。
 一番前の席でまじめに授業を聞いている高田の背中を見つめているうちに、私と同じように彼女を見ている存在に気がついた。窓際の席に座る山城だった。私よりも熱心に見ていた。
《まだ付き合ってないって噂》
 一気に既読がつく。一、二、三、四、と増えていく数字を見ながら頭痛がしそうだった。
 くさくさくさくさ、くだらない。そう思うのに、それを表に出すのは私らしくない。全くもって私らしくない。だから。
 スマホを机の引き出しに放り込んで、俯く。まっさらなノートの輪郭がぼやけて見える。こめかみがずきずきと痛んで、私は指の腹で押さえつけた。
「あれはない」と嘲笑を浮かべたひろかと、中学の友人たちの甲高い笑い声がダブる。そのまま溶けて真っ黒に塗りつぶされる。
《具合悪いん?》
 淡い水色のポストイットが机の端にくっついている。寝ていたはずの海野が、澄んだ瞳で私のことを見ていた。
 私は首を左右に振り、授業に集中しているふりをする。前列で授業を聞いている高田の背中は、定規が入っているのかと思うくらいぴんと伸びている。その姿勢が、中学の廊下で背中を丸めて歩いている彼女の姿と、うっすら重なった。
 くさくさくさくさくさ、と頭の中にWが膨れ上がって破裂しそうになる。呑まれて消えてしまえばいいと思う。
 時折、自分の存在の虚ろさに胸を掻きむしりたくなる。


「彼氏? いらない」
 移動教室のタイミングで廊下を足早に進みながら、私は麻乃とふたりで話をしていた。
 遅刻ギリギリの時間に登校していたはずのひろかの姿は見当たらず、まあきっと屋上あたりでサボっているんだろうと思う。麻乃もひろかの不在をまるで気にしていない。
「高校三年間を恋愛に捧げるなんてコスパ悪い。このたった三年で人生が決まるかもしれないのに。恋愛なんて今は道端に落ちている石ころ並みの存在感しかない。つまり存在感ゼロ」
「あさちゃんらしいけど。モテるのに」
「まずそれが意味不明なの。見た目だけ見て寄ってきて好きだのなんだの言われると萎える」
 モデルみたいに長い手足に、マネキン並みの小顔とシャープな顎。涼しげな目元は同性の私でもどきっとするくらい魅力的だから、まして異性なんて一瞬で撃ち落とされるに違いない。
「あさちゃんは中学のときもそのスタンスを貫いていたの」
 前だけ見ていた麻乃は私を見下ろすと「そんなこともないけど」と温度のない声で言った。
「なんだ、ひろかから聞いてなかったんだ。そういう気の遣い方すんのね、あの子」
 長い付き合いだけど知らなかったわ、と独り言のように呟いて。
「あたし、山城くんと付き合ってたんだ」
「……え」
「中一のとき。たった一か月だけどね」

 
 高校からの帰り道で一緒になったひろかに麻乃と山城のことを尋ねてみれば、ひろかはあっさりと「そうだよ」と言った。
「茉莉奈に黙っていたわけじゃないんだけどね。でもなんとなく麻乃がいる前では話しづらいじゃん。今日みたいに麻乃が委員会でいないとかじゃない限り、茉莉奈とふたりで話す機会ってあんまりないし」
 小柄なひろかを見下ろしながら、私はなんと言っていいのかわからず黙って相槌を打った。
「一応言っておくと、麻乃から振ってるからね」
「そうだったんだ」
「だから未練はないと思うし、だいいち麻乃と山城が付き合っていたことを知らない人の方が多かったと思う。それくらい一瞬で別れた。ただ」
 ひろかはほんの少し迷い、そして歯切れが悪く先を続けた。
「告白したのは山城なんだけど、なんか男子五人くらいで賭けていたみたいで。山城が告白に成功したら一万円とかなんとか。だから山城も麻乃に恋して告ったわけではなかった」
「ひど」
「んね。山城からしたら、あわよくば学年一の美人と付き合えたらラッキー、みたいな。だからそんなやつが地っ味ーな高田さんに恋してんのも正直気色悪いし、何様って感じだし。そもそも今の自分がいけそうな女の子に狙いを定めているだけじゃん、と疑う気持ちもある」
 最寄駅に着いたひろかは「じゃね。また来週」とひらりと片手を挙げて改札の奥に消えた。つややかなポニーテールが振り子のように規則正しく揺れる様子を私はいつまでも見ていた。


 女子なんて嘘偽りばかりだと思って、そういうフィルターを通して人間関係を俯瞰して見てきた。
 本音でぶつかるなんて綺麗事。みんな自分の立ち位置を演じている。現状に不満があれば、自分を磨いてレベルアップしたふうに振る舞えばいい。本心で付き合っていたらいずればかを見る。傷ついて自分の評判を落とすだけ。
《高田のどこがいいんだろうね〜》
《ゆーちゃんの高田アレルギーが出てるよ》
《もう高田のことは良くない? 高校違うんだしさあ》
 スマホのロック画面に通知が並ぶ。何度も左にスワイプして消しても、簡単に増えていく。
 私は《高田アレルギーが出てるよ》も《もう高田のことは良くない?》も言えない。言ったらたぶん微妙な空気になる。
 それを言っても許されてしまうひとがいる。それを言っても嫌われないひとがいる。それはおそらくもともとそっち側にいたひとだ。
 たとえるなら生まれ持った陽キャと、つくりものの陽キャのちがい。
 でもなにも言わなかったら八方美人だと思われる。かといって下手に同調するとだれかを敵に回す。特にこの中学の友人四人は。じゃあ、ひろかは? このひとたちと同じようなタイプに見えた、高田を嘲笑しているように見えたひろかは?
「海野さ、私とひろちゃんはタイプが違うって言ってたじゃん」
「ああ」
 自習室に向かおうとしていた海野を呼び止めた。それがどうしたと言わんばかりに静かな瞳で見据えられる。
 私はなにかに焦っていた。
「それってひろちゃんがクラスの中心にいるような陽キャで、私がそうじゃないからってこと? 私がどちらかと言えばうじうじ考えがちというか、明るいのを装っているというか……」
「いやべつにそういうつもりで言ったわけじゃなかったんだけど」
 私は焦っていて、でもなにに対して焦りを感じているのか自分でもわからなかった。
「んー、そうだな、俺はひろかのことはよく知らんけど。でもひろかって裏のない性格じゃね? 好き嫌いがはっきりしてそーだし、発言も火力強めけど、良くも悪くも正直っていうか。タイプ違うけど麻乃と仲良いのもわかるなって感じする」
 違う、私は気づいていた。
 ひろかは高田を嘲笑したわけではなかった。ひろかもあの中学の四人と同じようなタイプだよなあと勝手にグルーピングして、「ひろちゃんはこうだよね」とレッテルを貼って、一方的に決めつけて、斜め上から観察しているつもりでいた。
 ひろかが守っていたのは自分自身ではなく、麻乃だった。保育園からの仲だという麻乃を心の底から大切に思っているだけだった。
「まりーは、なんというか」
「性格が悪いって言いたいんでしょ」
「否定はしないけどさあ。俺が言いたかったのはごっちゃごちゃ考えて立ち回って、打算で友だち選ぶのがまりーだよなあって感じ」
 じゃあ私はどうすれば良かったんだろう。
 私は高田のようになりたくなかった。中学のゆーちゃんみたいな派手めのひとたちに目をつけられて、どうしようもないことで因縁をつけられて、自分の行先を妨害されるような学校生活を送りたくなかった。
 かといって高田に同情もできなかった。悔しかったら努力すればいい。ひとりぼっちで過ごしたくなかったら自分を磨けばいい。勉強だけではなく見た目も、言動も、立ち振る舞いも、なにもかも足りていなくて全部微妙にズレているから集団生活で浮く。
 ばかだな、と思っていた。勉強はできても頭がわるいんだな、と見下していた。それはたぶん、今も。


 週明けに登校したら、山城と高田は別々に行動していた。授業中も高田の背中ばかり見つめていた山城は、不自然なくらい高田を見ない。
「破局したのかね」
 いちご牛乳をストローですすりながら頬杖をつくひろかに、水筒の蓋を閉めた麻乃が淡々と返す。「付き合う前に終わっただけじゃない?」
 それきりひろかと麻乃は山城と高田の話をしなかった。その話題を避けているわけでもなく、ただ単に本気でどうでもいいと思っているようだった。
「あ、茉莉奈ちゃーん!」
 突然クラス委員の沖原(おきはら)さんに呼ばれ、私は顔を上げた。
「食事中にごめんね。朝のホームルームで声かけた生物のノート、出してもらえる?」
「うわ、ごめんね、すっかり忘れてた!」
「そんなことだろうと思ったー」
 眼鏡の奥でにこにこと笑う沖原さんに、私は慌ててノートを差し出した。
「ごめんね、これからクラス分を届けに行くの?」
「うん、そうだよ」
「あの、遅くなったの私のせいだと思うし、もし良かったら手伝う」
 沖原さんは意外そうに眉を跳ね上げると、「嬉しー。じゃあお願いしちゃおうかな」とノートの束を半分持たせてくれた。
「でもお昼はいいの?」
「もうほとんど食べ終わってたから」
「そっかあ。ね、茉莉奈ちゃんって駅前北口のコンビニによくいる?」
 昼休み中の騒がしい廊下を歩きながら、沖原さんが気さくに声をかけてくる。
「うん、そこで毎朝お昼ご飯を買ってるよ。どうして?」
「あ、中野がね、しょっちゅう見かけるって言ってたから」
 私は納得して頷き、「ふたりって付き合ってるんだよね?」と聞けば、沖原さんは花が開くように笑った。
「中野がね、茉莉奈ちゃんって全然ご飯買わないんだって言っててさ。あんなんで腹膨れるのかな、だって。可愛い女の子のことそんなに観察してまじで気持ち悪いよって言っておいた」
「あはは、私は万年金欠で。でも中野くんには気づかなかったなあ。中野くんもそこでお昼を?」
「いや、隣のお弁当屋で買ってるみたい」
 たしかにコンビニの隣にはお弁当屋さんがある。昔からありそうな、値札もすべて手書きで、割烹着を来た恰幅のいい女性がレジ打ちをしている。決済方法は現金限定だ。
 いつも揚げ物のいい香りが漂っていて、なかなかにボリュームのあるお弁当がずらりと並んでいるのだ。
「仲良いんだね、中野くんと」
「そうかなあ、そうだといいんだけど」
「いつから付き合ってるの?」
 沖原さんは「後夜祭のときからだよ、ベタでしょ」と恥ずかしそうに頬を緩めた。丸みを帯びた頬がつやつやと血色良く光っている。
「茉莉奈ちゃんは海野くんと付き合っているわけではないの?」
「え、海野? ないない! それに海野って他校に彼女いるよ」
 沖原さんは「えー知らなかった!」と素っ頓狂な声をあげた。
「よく話してるから付き合ってるのかなって思ってた。そっか、他校かあ」
「海野ってしょっちゅう彼女が変わるの。そういうやつ、私は無理無理」
「海野くんって整った顔してるもんねえ」
 沖原さんはのんびりと笑う。
「運ぶの手伝ってくれてありがとうね」とはにかみ、ノートの束を抱えて職員室に消えていく沖原さんの背中を見ながら、彼女に彼氏ができて私にはできない理由がなんとなくわかった気がした。


 職員室で話し込んでいるのか、沖原さんはなかなか出てこない。もうすぐ昼休みが終わるし先に戻ろうか、と思っていたときに、引き戸が音を立てて開いた。
「沖原さ……あ」
 相手も私の姿を見て固まっている。
「えっと、出入口塞いでごめん、高田さん。どうぞ」
「あっ、うん……」
 同じクラスではあるけれどあまり話したことのない高田が立っていて、私は急いで場所をあけた。気まずい。
「……まりーちゃんって沖原ちゃんと仲良かったっけ」
 話しかけられたのは予想外だ。なんとなく目を逸らしながら「ええと、ノートを一緒に運んだの」と弁解のように続ける。
「私が生物のノートを出すのを忘れていて、迷惑かけちゃったから」
「そっか」
「あの、それじゃ」
「待って、まりーちゃん」
 立ち去ろうとした私の腕を高田の柔らかいてのひらが掴んだ。ふんわりしていて肉づきが良いのに、その手は驚くほど冷たい。
「私ね、山城と付き合ってないから」
「え? あ、うん」
「まりーちゃんだよね? ゆーちゃんたちに、私と山城のことを話したの」
 一瞬だけ呆けたものの、私はすぐに首を横に振った。ぶんぶんと音が鳴りそうなくらい振って「言ってない言ってない」と早口で返す。
 高田は「そうなの?」ときょとんとすると眉を八の字に下げた。
「てっきりまりーちゃんかと思ってた。ゆーちゃんと仲良かったから。でもよく考えたらうちの高校に同中の子ってあと三人くらいいるもんね、疑ってごめんね」
「あの……」
「なんかね、山城から言われたんだあ。『聞いたんだけど高田って中学のとき嫌われてたの?』って」
 胸に痛みが走った。その痛みを見て見ぬふりすることは、もうできなかった。
 高田は「失礼しちゃうよねえ」とわざとらしくかぶりを振り、私の腕を離した。
「でも私鈍いから。たしかにゆーちゃんにはめっちゃ嫌われていたし、えっちゃんにも疎まれていたと思うけど、いじめられてひとりぼっちだったという認識はないんだよね。話しかければだれかしら答えてくれたし。あの狭い学校内で、権力がある強烈な女の子たちに嫌がられてハブられたから、はたから見たらやっぱり私ってみんなに嫌われていたのかも? でもまさか高校生にもなって私の悪口を吹き込まれるとは思ってもみなかったなあ」
「……ちょっとごめんね、状況がよく理解できなくて」
「あっ、そうだよね。なんかねえ、理解不能なんだけど山城とゆーちゃんが友達になってた」
 あっはっはと笑う高田は、頭がおかしくなってしまったのかもしれない。呆然としている私に、高田が明るく話しかけてくる。
「その顔、まりーちゃんは本当になにも知らなかったんだね。まあわかるよ、まりーちゃんって中学のときも私に対してどうこうしてこなかったでしょ。ゆーちゃんたちとつるんでたけど、一緒になって危害を加えてくるようなことはなかったよね。というかそういうときはいつも居なかった気がする、まりーちゃんって。それがわかってたから、ゆーちゃんもまりーちゃんを経由しないで山城に近づいたのかな?」
「待って、それについては本当に知らないけど、私、ゆーちゃんに高田さんが付き合ってるか聞かれて、それで」
「きっと『わからない』って答えたんでしょ? 大丈夫、ちゃんとわかってるよ、私べつにまりーちゃんのことは嫌いじゃないんだ」
 違う。私はわからない、なんて答えていない。まだ付き合っていない、と回答したのだ。
 わからないと誤魔化していたら良かった。そうやって曖昧に伝えていれば、高田を庇っているようにも見えただろう。私はまだ付き合っていない、と言ったのだ。
 私は善人じゃない。むしろ私は冴えないあなたを見下していたのに。
 それなのに、本当のことが言えない。
「もしかして疑ってる? 私、まりーちゃんは嫌じゃないよ。ゆーちゃんとえっちゃんのことはまじ死ねって思ってるけど。ああ、友だちなのにごめんね。でもさ、私はなんであのふたりに嫌われたの? あの子たちの悪口を言った覚えもないし、色恋沙汰で揉めるようなこともなかったし、友人のタイプだって被らないのに、結局最後まで理解できなかったなあ」
 ゆーちゃんはおそらく、ただ気に食わなかっただけだ。思春期でむしゃくしゃしていて、ちょうどいいサンドバッグがそこにあった、という感覚だったのだと思う。あいつどんくさくてムカつく、が口癖だった。
「あー、でもえっちゃんはきっとあれかなあ、勉強かなあ。えっちゃんが毎回テストで学年一位をキープしてた数学で、一度私が一位の座を奪っちゃったとき大変だったもん」
「それは……そうかも」
「私より頭良いのに、なんで私のことなんて相手にするかね。そういえばまりーちゃんは、えっちゃんよりもテストの点を取ったことはなさそうだったね」
「あ、うん、私はそんなに頭良くないし……この高校も偏差値的にはギリギリだったから」
 そうなんだあ、と高田は楽しげに言う。
 高田はなんで私を責めないんだろう。おまえだって見て見ぬふりしてただろうと、どうして糾弾しないんだろう。ゆーちゃんたちの行いを否定していなかったくせにと、どうして怒鳴りつけないんだろう。
 ゆーちゃんが廊下でこれみよがしに「高田くさーい!」と笑ったとき。えっちゃんが高田の数学のテストをこっそりゴミ箱に捨てたとき。残りのふたりが掃除の際かたくなに高田の机を運ばなかったとき。
 私は同じクラスじゃないからって知らんぷりした。だって私は知らない、関わりがないからと見ないようにした。私には関係ないこと。
 もう耐えられなかった。
 良心の呵責ではなかった。私という人間の器が、その小さな器が、この状況を受け入れることを拒否していた。だれにも責められない状況に、気が狂いそうだった。
 だから「違うの、高田さん、そうじゃない、私だって高田さんのこと……」ばかにしていた、と続けようとしたときに私の唇をふくよかなてのひらが塞いだ。
「それ以上は言わないで」
 高田の笑みが、消えた。
「それを言われたら、私はなにか反応しないといけなくなる。まりーちゃんのそれがどんな内容であれ、私は聞きたくない。『気にしていないよ』あるいは『許さないよ』みたいなことを言わないといけなくなる」
「……」
「まりーちゃんのそれは、自分で抱えきれなくて吐き出すためのものでしょう。懺悔して自分だけが気持ちよくなっておしまい。そんなの受け入れられない」
「……わた、し」
「罪はひとりで抱えて生きていって」
 口を覆っていた冷たいてのひらがそっと離れた。
 笑顔の消えた高田がほんの一瞬さみしそうな表情を見せ、立ち尽くす私に背を向ける。
「でも私、まりーちゃんの気持ち、少しだけわかる気がするよ。だって私みたいになりたくないもんね。蹴落としてでも一軍でいたいよね。二軍ならまだしも、三軍以下なんて息もできないよね」


《なんで予備校来なかったん? 珍しいじゃん》
 午後九時頃にラインが送られてきた。海野蒼、の表示を見て溜め息が出そうになる。
《具合が悪かったから》
『嘘つけ』
 すぐに電話がかかってきた。出なくても良かったけど、急にだれかの声が聞きたくなった。相手が海野であることに安心もしていた。
『学校にいるときから様子がおかしかったよ、まりー』
「高田さんと話した」
『それで?』
 電話の向こうは静まり返っている。生活音すらせず、ただ海野の息遣いだけが聞こえる。
「山城くんと高田さん、うまくいかなかったらしい。私のせいだと思われてた。それは誤解だったけど、でも、結局は誤解でもなんでもないのかな」
『もっとわかるように話してくんない?』
「私、中学のとき、高田さんを表立って嫌ってる女の子のいるグループにいた。見て見ぬふりしてた。その女の子がなぜだか知らないけど山城くんと仲良くなっていて、高田さんのことをあれこれ吹き込んだみたい」
 うーわ陰湿、と電話の向こうで海野が漏らした。
『ていうか粘着質っていうの? そんなに高田に彼氏ができることを受け入れられなかったのかね。そこまでいくとおまえ病院行けって感じ』
「うん」
『自分よりしあわせになるのが許せないとか、その類なのかね』
 でもゆーちゃんは高校で彼氏ができたはずだった。ゆーちゃんは高田のなにが気に食わなかったのだろう。ゆーちゃんは幸せじゃなかったのだろうか。
「私、たぶん許されたかった。いや、厳密には違うな、吐き出すことで自分の抱えた罪を軽くしたかった。だから本当の意味で、ごめんねなんてまだ思えてないんだと思う。自分のことしか考えてない」
『うん』
「そりゃだれとも付き合えないよね。私がだれのことも信用してないんだもん。恋愛なんて自分を丸裸にするようなもので、そんなの耐えられない。そりゃ、そんな私をだれも信頼しないよね」
 海野は電話口で『重いなあ』と、でもまるで軽いことを話すみたいに笑いまじりに言った。
『まりーのことを肯定はできないけど、まりーにだってそうやって歪んだ原因がどこかにあるんじゃない。それといつか向き合えばなにか変わるっしょ。まあそんなおまえの事情は、高田含め他人からしたら知ったこっちゃないって話ですけど』
 うん、うん、と頷いていたら涙が出てきた。それなのに『俺と付き合ってみる?』って馬鹿みたいなことを聞いてきた海野に笑ってしまった。
「この流れでそれはない。彼女と別れたの? だとしてもない、ありえない」
『はは、そう、別れたの。でもまりーがありえないって一刀両断してくれてほっとしたわ』
「はあ?」
『これで付き合おうとか言われてたら、俺、信用できる女の子だれもいなくなっちゃうもん』
 女の子には事欠かないはずの海野にとって、信頼のおける女子が無様な私だけというのがなんとも哀れで、無性におかしかった。


 翌朝登校した私と海野はいつも通りだった。昨晩のことなんてなかったかのように、変わらない態度で接した。おはようと挨拶し、席に着けばふつうに会話する。
 高田とも話すことはない。高田と山城も話さない。ふたりが親密にしていたことなど、だれもが忘れてしまったかのようだった。
 ひろかも麻乃もなにも変わらない。打算だらけだと思っていた女の子の人間関係のなかで、このふたりだけは違うんじゃないかと、ちょっぴり見方が変わったくらいで。でもそこに私はいない。
 まるで狐に化かされ、騙されていたかのように、なにも変わらない。そう思っていたから「茉莉奈、最近どうしたの?」ひろかにそう声をかけられて喫驚した。
「様子が変だねって麻乃と話してて、ね」
 麻乃も真剣な顔をしている。
 どうしてだろう。このふたりは私のなにを心配しているんだろう。
「茉莉奈っていつもうちらに合わせてくれていて、言いたいこともあんまり言えてないでしょ」
「それは……」
「もし悩みでもあるなら話してほしいし、うちらがそう思ってることを茉莉奈にちゃんと伝えた方がいいよねって話になって。ね、麻乃」
 麻乃も慎重に頷き「友人のことでも、恋のことでも、勉強のことでも、なんでも聞くよ」と言う。
 このふたりは私の話を聞きたいらしい。
 話していいのだろうか? 正直に話したら引かれるかもしれない。ドン引きされて、もう友だちではいられなくなるかもしれない。
「うちら、どんな茉莉奈でも受け入れるし」
 嘘偽りだらけの人間関係で、このふたりや海野は違うんだって、思ってもいいの? そう思って、自分の閉じた殻をゆっくり開いて、中身を曝け出しても大丈夫?
 信用しても、大丈夫? 開示して、委ねて、やっぱりだめだったときに、私はそれを受け入れられる?
 ちゃんと立ち直れる?

『でも私、まりーちゃんの気持ち、少しだけわかる気がするよ。だって私みたいになりたくないもんね。蹴落としてでも一軍でいたいよね。二軍ならまだしも、三軍以下なんて息もできないよね』

 私はそういう人間だ。私は計算づくで生きている。この先もそうやって世の中を渡り歩いていくのかもしれない。
 わからない、わからないけど、話してみたい。ずっとだれにも言えなかったことを、話さなければならない気がする。
「あのね、私……」
 震える唇を開いた。
 その唇を塞いだつめたいてのひらの感覚が、少しずつ消えていった。