みんなと笑っていられたら

それから勉強したり律とゲームしたりユンくんのメイクの実験台になっていたら、あっという間に夕方になった。

「さてと、そろそろ片付け始めるかぁ」

​グラウンドでドッジボールをしていた悠先生が大きなあくびをしながらプレイルームに入ってきて伸びをした。

その声の合図で、それぞれゲームの手を止めたり、本を棚に戻したりし始める。

今日は数学が自分の力で三ページも進んだのでホクホク顔だ。

​「春奈ちゃん、帰り一緒に駅まで歩こうよ」

​六花がカバンを肩にかけながら、トントンと私の肩を叩いた。

​「うん!」

​玄関に向かうと、すでにみんなが靴を履いて待っていた。

​「じゃあな、お前ら。車に気をつけて帰れよー!」

​「無駄遣いしたらあかんで〜」

​「気をつけて帰るんだよ、また明日ね」

​悠先生、さかたん、時雨先生が揃って門前に出てきて手を振ってくれる。

一番後ろで校長先生が静かに微笑みながら見送ってくれていた。

​駅までの帰り道、律と藤和が今日食べたホットケーキのトッピングについて熱弁をふるっている。

​「やっぱイチゴと生のキウイの組み合わせが最強だな!甘酸っぱさが特に」

​「いやいや、男は黙って生クリームマシマシでチョコソースじゃ!」

​「いや、私女だし……」

​律の冷ややかな、けれど完璧な正論に、藤和が「ぐぬぬ……」と喉を鳴らしてぐっと唸った。

お、これはまた律の完全勝利になりそうだ。横で聞いていた六花とクスクス笑い合う。

こんなくだらないことで笑い合える時間が、すごく眩しかった。

「あ、そうだ。ショッピングモールいつ行く?」

「今週末とかどう?」

「「「賛成!」」」

みんなの声が綺麗に重なって、夕暮れ時の商店街に明るく響く。八百屋のおじさんもニコニコして大根を振っていた。

「あ、俺も行きたい」

「私も行くぞ」

「みんなで行くんじゃー」

「お前らも来るのかよ」

後ろを歩いていたユンくんが、驚いたように目を見開いて三人を見る。

「こやつ、ワシらをハブる気じゃ〜」と藤和が軽口を叩き、「ハブってねーよ、来るなら一言言えよ!」とユンくんが呆れ顔でツッコんだ。

ぞろぞろと大所帯になった帰り道に、自然と笑いがこぼれた。

✳✳✳

「ただいまー」

家に帰ると珍しくお母さんが帰ってきていた。うちは五歳の時にお父さんが死んで、それからお母さんは女手一つで育ててくれている。朝早くから夜遅くまで働き詰めで、いつも帰りは遅いのに。

「おかえり。今日は早かったんだね」

​キッチンからトントンと包丁を鳴らす心地よい音とともに、お母さんの優しい声が返ってきた。

​「うん、ちょっと課題が早く終わってさ……あ」

カバンを置こうと食卓に近づいた私の視界に、ぽつんと置かれた大きな茶封筒が飛び込んできた。

A4サイズの、少し角が折れた無機質な封筒。

「お母さん、これなーに?」

「学校からテスト範囲表と五科目プリント一週間分。さっき担任の先生が持ってきてくれたの」

「え、多いね」

テーブルの上にドサッと置かれた茶封筒から中身を引っ張り出すと紙の束が出てきた。

表面には太字で『定期テスト範囲表』と書かれていて、その下にはぎっしりと問題が詰まったプリントが入れられている。

(うっ……すごい量……)

​せっかく今日、数学が自分の力で三ページも進んでホクホク顔だった気分が、一気にしゅるしゅる〜っとしぼんでいく。

「……色紙?」

​プリントの束の隙間から色紙が覗いていた。

不思議に思って引き出してみると、そこには色鮮やかなペンでたくさんの文字が書かれていた。

​『春奈へ!早く戻ってこいよ〜!』

『テスト勉強大変だけど、一緒に頑張ろうね』

『待ってるよ!』

クラスみんなからの寄せ書きだった。

丁寧に可愛いシールや動物のイラストでデコレーションされた、一見すると温かさに満ちた色紙。

けれど右下の片隅に目が行った瞬間、私の全身の血がスーッと引いていく感覚がした。

―――麻里さんと、そのグループの女子達の名前。クラスで私を追い詰め、学校に行けなくした張本人達だ。

​整った、可愛らしい丸文字で書かれたメッセージ。

(早く戻ってこい……?待ってる……?)

​喉の奥から、乾いた笑いがこぼれそうになった。

冗談じゃない。私をあの地獄みたいな教室に追い詰めたのは誰?

教科書に落書きをされた日。影でコソコソと笑われ、殴られた日。

怖くて、辛くて、勇気を振り絞って担任の先生に泣きついた時のことだって忘れるわけがない。

担任の先生だってそうだ。助けてって言ったのに、あんなに泣いてすがったのに。

先生は困ったような、面倒くさそうな笑みを浮かべて言った。

​『宇野さんも、もう少し周りに歩み寄ろうか。思い込みかもしれないよ』

『みんな悪気があって言ってるんじゃないと思うよ。先生は忙しいから、そんなことで相談しないで』

​……結局、先生に相談したことが麻里さん達にバレて、「チクリやがった」と、いじめはさらに過激なものへとエスカレートした。

なのに今さら、こんな綺麗事の色紙を渡して『担任として良い仕事をした』と満足しているんだろうか。自分達の罪を忘れて優しいクラスメイトのフリをしている麻里さん達と一緒に。

指先がワナワナと震え、力任せに色紙を握りしめていた。ぐしゃり、と硬い紙が潰れる嫌な音を立てて、美しいデコレーションの上に大きなシワが寄る。

​(捨てたい。今すぐビリビリに破いて、ゴミ箱に放り投げたい……!)

​「春奈?どうしたの?」

​キッチンの包丁の音が止まり、お母さんが心配そうにこちらを覗き込んだ。

​「あ……ううん、なんでもない」

​咄嗟に声を作り、色紙をパタンと伏せて裏返した。

お母さんには、これ以上心配をかけたくない。私がいじめられていると知った時、お母さんが影で泣いていたのを知っているから。

​それに、他のクラスメイトの中には本当に純粋な気持ちで書いてくれた子もいるかもしれない。そう思うと、破り捨てることもできなかった。

涙で視界が歪む。悔しさと恐怖と怒りがごちゃ混ぜになって、胸が張り裂けそうだった。

「今日はね、春奈の好きなトンカツよ!お母さん奮発して大きいの買っちゃった」

「.....うん」

小さく返事をしてから自分の部屋に閉じこもる。

電気もつけずに布団をかぶると、トンカツの香ばしい匂いがかすかに部屋まで漂ってくる。

いつもなら嬉しくてすぐにお腹が鳴るはずなのに、今は喉の奥がぎゅっと縮こまって何も受け付けそうになかった。

​(……戻りたくない……)

​でも、その怒りのすぐ隣で冷たい罪悪感がぬめりと首筋を撫でた。

​色紙の端っこには、昔よく話していた大人しいクラスメイトの名前もあった。あの子はきっと、本当に私を心配して書いてくれたんだと思う。

それなのに、私はその温かい気持ちごと色紙をぐしゃりと握りつぶしてしまった。

(私は……結局、あの人達と同じくらい嫌な奴なんじゃないのかな……)

自分の中にあるドロドロとした黒い感情が恐ろしくて、情けなくて、ボロボロと涙がこぼれ落ちた。

✳✳✳

そんなことがあった翌日、私は和室の部屋で撃沈していた。

​六畳一間のこの和室は、いつも校長先生が日当たりの良い窓際でお茶を飲んでいるので、みんなから密かに『校長室』と呼ばれている。ちなみにこのセンスある発案者は藤和だ。

「校長先生〜、お饅頭(まんじゅう)もう一個ほしいです」

「どうぞ、たくさん食べて大きくなりなさい」

「大きくなります!それで、時雨先生を超えます!」

時雨先生は四捨五入したら190センチの188センチ。先生ズの中で一番身長が高い。そんな軽口を叩いて気を紛らわせようとしたけれど、やっぱりダメだった。

​目の前に差し出されたお皿から、あんこのお饅頭を一つ手に取る。

​「……校長先生」

​声がかすれて、うまく出ない。

「どうしましたか?」

​「昨日、学校から……プリントと一緒に、クラスのみんなからの色紙が届いたんです。『待ってるよ』とか『一緒に頑張ろうね』って書かれてて……」

「ほう」

「私をいじめてた人達の名前も書いてあって……『早く戻ってこい』とか、何事もなかったみたいに書いてあって。助けてくれなかった先生も一緒になって綺麗な言葉で飾ってて……すごく、悔しかったです」

声が小さくなって、座布団に顔をうずめる。

​「本当はビリビリに破き捨てたかった……。でも、昔話してた大人しい子の名前も見えて、その子の気持ちまでぐしゃぐしゃにしちゃった気がして……。許さないといけないのに、どうしても許せないんです」

校長先生は、湯呑みをそっと机の上に置くと、静かな声で言った。

「春奈さん、無理に許さなくてもいいんですよ」

​……え?

​あまりにも予想外だったその言葉に、私は思わず膝からゆっくりと顔を上げた。涙で滲んだ視界の中に、校長先生の穏やかなお顔が映る。

​「人間誰しも無理に許す必要なんてどこにもありません。悔しかったり、怒りを感じたりするのは当然のことです。それは、貴方が自分の心をちゃんと守ろうとしている証拠なんですから」

校長先生は優しくそう言い切ると、私の前に置いてあった湯呑みを引き寄せ、温かいお茶を注ぎ直してくれた。

​「今は無理に答えを出さなくていいんです。許せない自分を責めなくていい。その色紙も、処分したくなったら捨てればいいし、置いておきたければしまっておけばいいんです」

一拍置いてから校長先生は言う。

「自分の気持ちの準備ができるまで、まずは自分の一番の味方になってあげてくださいね」

​「……っ……ありがとうございます……!」

​私は涙を服の袖でゴシゴシと拭ってお茶を飲み干すと、すっと立ち上がった。

胸のつかえが取れて、少しだけ視界が明るくなった気がする。

「おや、もう良いんですか?」

「うん。みんなでショッピングモールに遊びに行く予定立てるんです!」

「それはそれは。楽しみですねぇ」

「うん!」

深く頷いて和室の敷居をまたぐと、隣のプレイルームから賑やかな話し声が聞こえてきた。

「ショッピングモール行くならゲーセンは絶対外せんぞ!」

「俺、服も見たいんだけど」

「私も服見たーい!」

「ボクは雑貨屋さんが良い……!」

「いや、全部まわれよ」

プレイルームで行われた臨時のテスト勉強会の最中。六花が息抜きと称して、派手なシールが貼られた『ココロの森・計画ノートNo.2』を机の上に広げて会議が始まっていたのだ。

その周りには、数学のノートやカラーペン、開きっぱなしの英語の教科書が散らばっている。

​「春奈ちゃん、校長室から生還?」

​ソファに腰掛けてノートを開いていた六花が、私に気づいてパッと顔を輝かせた。

​「うん!お饅頭、美味しかった」

​涙の痕を悟られないように、あえて明るい声を作って答える。だけど、目ざといユンくんがすかさず私の顔を覗き込んでくる。

​「……春奈、なんか目赤くない?校長先生に説教でも喰らった?」

​「ち、違う違う。ちょっとお茶が熱くて目に染みただけ!」

必死に手を振って誤魔化そうとすると、呆れたような二つの声が降ってきた。

​「「お茶が目に染みるってどんな状況だよ」」

​倫太郎くんと律の声が見事に重なった。