――わたしが入る前、一条さんという看護師がいたそうだ。とても頑張り屋で、みんなが嫌がる仕事も、率先してこなしていたそうだ。その頑張り屋さんがある日、壊れた。原因は意地の悪いドクターに何かと目をつけられ、嫌がらせまで受けていたらしい。まわりの看護師も薄々それは気がついていたが、ドクターが怖くて何も言えなかったという。一条さんはそれまで真面目で優秀な人だったが、人が変わったようになった。そうしてついに、事件が起きた。患者さんの点滴に入れる薬の量を間違えたのだ。そして患者さんは死んだ。一条さんは自分に非がないことを訴えたが、それは誰にも届かなかった。
刑事事件にはならなかったが、民事訴訟を起こされ、そうして一条さんは苦しんだ。そうして一条さんは死を選んでしまった。死んだ患者さんは513号室の前園たかしくんといい、一条さんが死を選んだ場所も同じ513号室だという。そうして何時しか悪いうわさが流れ、513号室はいまは物置として使われている――
「だけど雨が真夜中から降りだす日に決まって、その513号室から、何か苦しそうな、何か訴えるようなうめき声が聞こえるのよ」
そう真顔で先輩が言いました。わたしは最初薄笑いしてたけど、最後は口元が引きつって、もう声にはならない声を出しちゃった。でも話のなかで、ちょっと違和感を感じたのです。
「あの、怖いからもう聞きたくないんですけど、その意地悪なドクターって誰です?いまもいるんですか?」
「はあ?そんなこと言えるわけないじゃないの」
「いるんですか?いまでも」
「知らないわよ」
先輩はもうそれ以上教えてくれませんでした。まあわたしも聞きたくなかったけど。でもすっごい不安。だってその意地悪ドクターが、いまもこの病院にいるとしたら、それ絶対嫌ですよね。
そんなことがあったのもすっかり忘れていたあの日、宿直で夜勤をやっていました。夜勤は大変なんです。まあほかの一般病棟じゃ、終夜ナースコールに悩まされますが、ここはそうじゃありません。なにしろみな子供です。いつ病状が急変するかわからないのです。わたしがひたすら今夜の看護日誌を書いていたときです。窓のほうからかすかに音がします。わたしが窓に目を凝らすと、小さな雨粒が当たっているのが見えました。
「なんだ、雨か…」
そうして背筋が凍りました。
「えと、いま真夜中だよね?雨降って来たよね?」
わたしは自分にそう聞きました。聞かれたわたしは何も言えませんでした。だって怖かったんです。あの話を思い出しちゃったんです。うわあ、ヤバい…わたしはそう思いました。なぜなら、いまから各病室に巡回に行かなくてはならないからです。でも怖くて、なかなかナースステーションから出られません。いっそほかの病棟の誰かを呼ぼうかとも考えましたが、それは絶対怒られると思います。
「仕方ない。行くか」
意を決したわたしは、それでもビクビクしながら病室を回りました。みななにごともないようで、ちょっと安心しました。雅子ちゃんの病室に来ると、その前で一度深呼吸をして、それから入ります。病気のくせに他人にすごく心配性な雅子ちゃんに、ちょっとでもおかしな顔は見せられないからです。みんな病気で苦しんでいながら、がんばって耐えているんです。そんななか、わたしが怖がっていては申し訳ありません。
「愛理ちゃん来てくれた」
可愛らしい、クリッとした目がわたしに向けられています。わたしはちょっとホッとしちゃったりして。でもいけませんね。
「まだ起きてたの?寝なきゃはやく治らないよ」
「だって雅子、治らないもん」
「そんなことないよ。ちゃんとお薬飲んで、先生の言うこと聞いて、いっぱい寝れば絶対治るよ」
「そんなことないもん。だってたかしくん、先生の言うことなんか嘘だって言ってたもん」
「嘘?」
嘘とはどういうことでしょう。でもたかしくんって、その名前…いったい誰がこの子に教えたんでしょうか?
「たかしくんは先生嫌いなのかな?」
「うん。嫌いだって」
「先生ぜんぶ?」
「ううん。安森って先生だけだって。意地悪ですごく嫌なやつなんだって」
安森ってここの院長じゃないか。いやマジで?ま、まあ子供の言うことだ。いろいろ話をつなげちゃってるのかもしれないよね。
「とにかく寝ましょう。はやく治るように」
「うん。わかった」
わたしはなにか嫌なものを聞いた気がしました。雅子ちゃんの話が頭から離れようとしません。わたしはそっと雅子ちゃんの病室から出たとき、廊下の隅に男の子が立っているのが見えました。
「きゃっ!」
思わずそう叫んじゃいました。でもよく見ると、それは男の子ではなく、ただの大きなぬいぐるみでした。
「なんだ、パンダかよ!」
ふざけんな、とわたしは思いました。まあ小児病棟だから仕方ないですけど、やっぱりこういう紛らわしいのはよくないと思いました。わたしはちょっと怒りながら、そのパンダを抱え、あの物置になっている病室にそれを放り込んじゃおうと思い、うんしょうんしょと運んじゃいます。病室までの長い廊下は、しんと静まり返っていてなんだか不気味です。ずるずると病室まで引きずって来ました。スライド式のドアを開けようとすると、なぜかピッタリ閉まっていて開きません。
「あれえ?おかしいわね。鍵かけちゃったのかな?」
わたしは思い切り力を入れ、ドアを開けようとしましたが、ビクともしませんでした。仕方ないので病室はあきらめ、じゃあ非常階段にでも放りだそうと思い、非常口のドアに手をかけました。
「ねえ、何してるの?」
そう声が聞こえました。びっくりしました。そして、恐る恐る振り向くと、そこに小さな男の子が、立っていました。
刑事事件にはならなかったが、民事訴訟を起こされ、そうして一条さんは苦しんだ。そうして一条さんは死を選んでしまった。死んだ患者さんは513号室の前園たかしくんといい、一条さんが死を選んだ場所も同じ513号室だという。そうして何時しか悪いうわさが流れ、513号室はいまは物置として使われている――
「だけど雨が真夜中から降りだす日に決まって、その513号室から、何か苦しそうな、何か訴えるようなうめき声が聞こえるのよ」
そう真顔で先輩が言いました。わたしは最初薄笑いしてたけど、最後は口元が引きつって、もう声にはならない声を出しちゃった。でも話のなかで、ちょっと違和感を感じたのです。
「あの、怖いからもう聞きたくないんですけど、その意地悪なドクターって誰です?いまもいるんですか?」
「はあ?そんなこと言えるわけないじゃないの」
「いるんですか?いまでも」
「知らないわよ」
先輩はもうそれ以上教えてくれませんでした。まあわたしも聞きたくなかったけど。でもすっごい不安。だってその意地悪ドクターが、いまもこの病院にいるとしたら、それ絶対嫌ですよね。
そんなことがあったのもすっかり忘れていたあの日、宿直で夜勤をやっていました。夜勤は大変なんです。まあほかの一般病棟じゃ、終夜ナースコールに悩まされますが、ここはそうじゃありません。なにしろみな子供です。いつ病状が急変するかわからないのです。わたしがひたすら今夜の看護日誌を書いていたときです。窓のほうからかすかに音がします。わたしが窓に目を凝らすと、小さな雨粒が当たっているのが見えました。
「なんだ、雨か…」
そうして背筋が凍りました。
「えと、いま真夜中だよね?雨降って来たよね?」
わたしは自分にそう聞きました。聞かれたわたしは何も言えませんでした。だって怖かったんです。あの話を思い出しちゃったんです。うわあ、ヤバい…わたしはそう思いました。なぜなら、いまから各病室に巡回に行かなくてはならないからです。でも怖くて、なかなかナースステーションから出られません。いっそほかの病棟の誰かを呼ぼうかとも考えましたが、それは絶対怒られると思います。
「仕方ない。行くか」
意を決したわたしは、それでもビクビクしながら病室を回りました。みななにごともないようで、ちょっと安心しました。雅子ちゃんの病室に来ると、その前で一度深呼吸をして、それから入ります。病気のくせに他人にすごく心配性な雅子ちゃんに、ちょっとでもおかしな顔は見せられないからです。みんな病気で苦しんでいながら、がんばって耐えているんです。そんななか、わたしが怖がっていては申し訳ありません。
「愛理ちゃん来てくれた」
可愛らしい、クリッとした目がわたしに向けられています。わたしはちょっとホッとしちゃったりして。でもいけませんね。
「まだ起きてたの?寝なきゃはやく治らないよ」
「だって雅子、治らないもん」
「そんなことないよ。ちゃんとお薬飲んで、先生の言うこと聞いて、いっぱい寝れば絶対治るよ」
「そんなことないもん。だってたかしくん、先生の言うことなんか嘘だって言ってたもん」
「嘘?」
嘘とはどういうことでしょう。でもたかしくんって、その名前…いったい誰がこの子に教えたんでしょうか?
「たかしくんは先生嫌いなのかな?」
「うん。嫌いだって」
「先生ぜんぶ?」
「ううん。安森って先生だけだって。意地悪ですごく嫌なやつなんだって」
安森ってここの院長じゃないか。いやマジで?ま、まあ子供の言うことだ。いろいろ話をつなげちゃってるのかもしれないよね。
「とにかく寝ましょう。はやく治るように」
「うん。わかった」
わたしはなにか嫌なものを聞いた気がしました。雅子ちゃんの話が頭から離れようとしません。わたしはそっと雅子ちゃんの病室から出たとき、廊下の隅に男の子が立っているのが見えました。
「きゃっ!」
思わずそう叫んじゃいました。でもよく見ると、それは男の子ではなく、ただの大きなぬいぐるみでした。
「なんだ、パンダかよ!」
ふざけんな、とわたしは思いました。まあ小児病棟だから仕方ないですけど、やっぱりこういう紛らわしいのはよくないと思いました。わたしはちょっと怒りながら、そのパンダを抱え、あの物置になっている病室にそれを放り込んじゃおうと思い、うんしょうんしょと運んじゃいます。病室までの長い廊下は、しんと静まり返っていてなんだか不気味です。ずるずると病室まで引きずって来ました。スライド式のドアを開けようとすると、なぜかピッタリ閉まっていて開きません。
「あれえ?おかしいわね。鍵かけちゃったのかな?」
わたしは思い切り力を入れ、ドアを開けようとしましたが、ビクともしませんでした。仕方ないので病室はあきらめ、じゃあ非常階段にでも放りだそうと思い、非常口のドアに手をかけました。
「ねえ、何してるの?」
そう声が聞こえました。びっくりしました。そして、恐る恐る振り向くと、そこに小さな男の子が、立っていました。
